第33話 こんな世界が。


 全身革鎧の男を、バルザが縄で丁寧に縛った。


 次いで、男の身体を漁り始めたバルザは、首元から小さな金属音が鳴ったのを聞いて手を突っ込み、引き抜いた。

 自らの眼前に掲げたそれを見て、バルザの目が鋭く細まる。

 あれは、冒険者等級証か。色は青。ローザ達全員と同じ第八位の等級証だった。


 何故こいつが持っているんだ。

 この男は、元冒険者という事なのだろうか。

 俺は、酷い顔で気絶している二人の男へ目を向けた。


 既に武器は回収済みだ。

 冒険者風の男が持っていた短剣二つは鞘に納め雑嚢に入れた。興味を惹かれた弩も吊り紐ごと頂いてある。


 当然、罪悪感は全く無かった。貰える物は有難く貰っておく。

もうこいつらには必要の無い物だ。

 手入れはしてあるようで状態は良い様子。これからは俺が使ってやるよ。


「これで良い。二人共、こいつ等の荷物を開けろ」


 装備の確認をしていると、不意にバルザが振り向た。

 二人の捕縛が終わったらしい。

 彼が指差した先にあるのは、二人が持っていた麻袋だった。


「わかった」

「了解」


 アッシュと共に頷いて、すぐに行動へ移す。

 こちらも中身が気になっていた。

 すぐに麻袋へ近づき屈みこんで、持ち上げようとして見る。

 すると袋は相当重い事に気付いた。

 何が入っているのか知らないが、簡単に持ち上がりそうにない。

 上から触って感触を確かめてみる。

 どうやら、ゴツゴツとした物が幾つか入っているようだ。

 仕方がないので、袋の口を縛っている麻縄を解こうと手を掛けた時。


「ひっ! な……く……! な、何だい…これは……!」


 隣からアッシュの声がした。


「どうした?」


 酷く動揺した声に、手を止めて振り向く。

 途端。目に入ったのは、麻袋を見たまま目を見開き硬直している蜂蜜色の髪の青年。その視線を追って、麻袋を見る。

 開かれた口から出ていたのは、




 人間の手だった。



 麻袋の大きさから出てくるには、絶対にあり得ないもの。

 絶対に出て来てはいけないもの。

 だが、どう見てもそれは。人の手。腕、としか思えないものだった。


「うへぇっ!?」


 変な声が漏れ、目を見開き硬直した。

 激しい吐き気と動悸が始まり、かは、かはっと乾いた呼気が自然と漏れ始めた。


「……退け」


 凄まじい力でバルザに押し退けられる。

 堪らず尻餅をつき、呆然とする俺の目の前で、麻袋を軽々と持った彼は紐を解いてひっくり返し、中身をばら撒いた。

 どささっ、と落ちた、それは。


 バラバラにされた、肉塊。

 あまりに無惨な、人間の成れの果てだった。


 初めて見る、人間の死体。

 いや、二回目か。

 初めては、母さんだった。

 だけど母さんの死体は、ただ眠っている様にしか見えなかった。

 思わず見惚れてしまう位、綺麗な姿だった。


 こんな。

 あまりにも酷い。

 無惨な姿じゃ、なかった。


 バラバラに切り刻まれてなんて、いなかった!


「おぇぇぇぇ……っ!」


 そう考えた瞬間。必死に我慢していたものが決壊した。

 急激に込み上げて来た嘔吐感に身を任せ、蹲って吐く。

 酸っぱくて苦い味が、口内に広がる。

 鼻を突く、生臭い匂い。

 俯いたまま必死に目を瞑り、現実から目を背ける。

 だが、先程見たものが脳裏から離れない。


「退けっ!」


 またバルザの声が響いた。

 直ぐに、どささっと音がする。

 その音は、アッシュが調べていたもう一つの麻袋。

 それを同じようにひっくり返した音だと容易に想像出来た。

 見たくない、見たくない。

 何だ、これは。


 何が、どうなっている……?

 何故、何故だ?

 何で、こんな事になっているんだよ。

 勘弁してくれよ、本当に。


「ガル……ジオ?」


 震えた呟きが聞こえた。アッシュの声だ。

 彼が発したのは俺も良く知る名前で……一瞬で全身が悪寒に支配される。


「はぁ……はぁ。お、おい……今、なんて言った?」


 嘘だろ、おい。

 何で今、その名前が出て来る。

 どうして、今なんだ。

 何で今、ガルの名前が。

 あいつの名前が、出て来るんだよ。


 おかしいだろ。

 嘘、だよな?

 嘘だよな、アッシュ。嘘だと、言ってくれ……!


 返事は、どれ程待っても帰って来なかった。


「う……うぅ」


 渾身の力を込め、ゆっくりと顔を上げる。

 たったそれだけ。

 普段なら何の苦労も必要ない動作に、凄まじい労力が必要だった。


 顔を上げた俺は、現実を見る。


「嘘だろ……ガル」


 それは、見知った人物だった。見間違える筈が無かった。

 目の前にあるのは、間違いなく友人の顔だった。


 鬱血し酷く腫れ上がった顔。男らしく逞しかった顔は醜く歪んで居て、虚空を見つめる様な瞳は絶望の色に染まっていた。


 乾いた涙の跡が、頰に残っている。

 表情の変化に乏しくあまり笑わないガルは、俺の前で泣いた事なんて一度もなかった。

 それどころか、彼の涙を見たことなんて一度も無かった。

 それなのに……。


 ガルは。ガルジオは泣いていた。


 首から下を失った姿で、酷く腫れ上がった顔を晒し、泣いていた。

 物言わぬ屍として、バラバラにされた自らの肉体の上に無造作に転がされ、泣いていた。


 胸を締め付けられるような痛みがする。

 思考が、真っ白に染まっていく。


 誰が……誰が、こんな事をした。


 あいつが。

 ガルが、何をしたっていうんだ。

 なぁ、誰か。

 誰か、答えてみろよ。


 俺は四つん這いでゆっくりと近付いて、ガルの首を両手で拾い上げた。

 自分の吐瀉物で膝が汚れた事なんて、気にならなかった。

 触れたガルの首から滴る血が身体を濡らす事なんて、気にならなかった。


「ガル……ガル……っ!」


 ガルの首を胸に抱いて、衝動のままに叫んだ。


「ガル……ガルジオォォォォオオオ!!」


 ガルの名を。

 大切な友人の名を。

 俺に初めて出来た、男友達の名を。

 俺に、友達だと。仲間だと言ってくれた人の名を全力で叫んだ。


「……手間が省けたな」


 不意に低く、小さな声が耳に届いた。

 バルザの声だった。

 手間が省けた?

 何がだ。ガルがこんな姿にされているのを見て、何故そんな事が言える。

 なぁ、答えてみろ。答えろよ!


「何が、何がだ! バルザ……っ!」


 必死に感情を抑えるが、それでも激しい激情が声音に乗ったのが分かった。

 とても自分が発したものとは思えない。恐ろしく低く、震えた声だった。

 だがそんな事、気にならなかった。


 ゆっくりとバルザが俺を見下ろした。

 その瞳は、野獣の様な鋭く煌めいていた。


「……こいつらを叩き起こし、尋ねる手間が省けた。街へ連れ帰り憲兵に突き出してから、自分達は関係ない。いきなり襲われた等と騒がれ、黙秘されると面倒だ。憲兵に突き出した後は俺達の管轄外だ。手が出せなくなる」


 こんな状況でも、淡々とバルザは告げる。

 お前に感情は無いのか。そう疑ってしまう程、今のバルザは冷徹に見えた。


「だがこれは、これ以上ない証拠だ。言い逃れは出来ん。この男が殺された理由だが、恐らく。わざとこの男の遺体を発見させ、捜査を撹乱する為だろう。この二人がセリーヌへ向かっていたのにも、それで合点が行く」


 捜査を撹乱する為?


 皆を探すのをやめさせる為だってのか。

 そんな理由で、ガルジオはこんな姿にされたのか。

 そんな、巫山戯た理由で……。

 こいつを殺して、身体を切り裂いて、晒し者にしようとしたのか。


 湧き上がって来た黒い衝動に目を見開く。

 あぁ、駄目だ。今すぐ引き返してあの洞窟に押し入り、全員殺してやりたい。

 殺してやりたい。


 ガルジオが味わった苦痛と屈辱を、絶望を倍返しにしてやりたい。

 泣き叫ぶまで嬲って殺してやりたい。


 それが出来る力が、欲しい。

 欲しくて欲しくて、堪らない。


 誰でも良いから、寄越せよ。

 寄越せよ、女神エリナ……!


 初めて抱いた、憎悪だった。

 俺を捨てて勇者に恋した女にも、ここまでの感情は抱かなかったのに。

 今は、憎くて憎くて仕方なかった。


 バルザがそんな俺を見て、小さく嘆息した後。足元へ視線を向けた。


「この遺体、全てその男のもののようだが……左腕と右足の大腿部が無い。そして右腕と身体には、複数の歯型がある。随分巧妙に細工がしてあるな。この辺りは山犬が多い。一見。喰われたように見せかける算段だろう。依頼中行方不明になったパーティーの一人の遺体が見つかれば、ギルドは依頼を出し、暫く付近を捜索させた後。全員死亡と見なし捜索を断念する事が多い。これをやらせた奴はよく知っているな。恐らく、元冒険者か騎士だろう」


 バルザは相変わらず淡々とした口調で説明を始めた。

 だから何で、あんたはそんなに冷静で居られるんだ。

 人が殺されて、こんな姿にされてるんだぞ。

 あぁ、はは。そうか。流石は、銅等級冒険者。こんなのは、見慣れてるって訳か?

 そうだよな。あんたにとってこの光景は、今まで見てきた遺体の一つに過ぎないのかもしれない。

 そもそも、ガルジオはあんたの仲間どころか、友人ですら無いもんな。

 悔しくなくて、当然か。

 危険を冒してまで復讐しようなんて考えないよな。

 それにガルは以前、あんたの事悪く言ってたしな。

 もしかしてそれを知ってたのか?

 だから内心。良い気味だとか思ってるのか?


 そんな事を考えガルの首を強く抱き直した俺は、すぐに自分の愚かさに気付かされた。


「ふん……どちらにしろ、確かな事がある」


 見上げる俺の前で、バルザの瞳が二人の男を射抜いた。

 それは、今までで一番背筋が凍る程の殺意と、憎悪の篭った瞳だった。


「連中は、人の風上にも置けん。屑共だ」


 同時に、彼が発したのは怒りに震えた声だった。

 見れば、手が震えている。初めてこの男の感情を読み取れた気がした。

 高位冒険者で、高い戦闘力と豊富な知識。どんな時でも冷静な思考能力と的確な指示が出来る。到底、同じ人間には見えない男。

 だけど、それは只の杞憂に過ぎなかった。

 この人は、バルザは人間だった。

 その事に気付いて、俺は安堵した。


「すぅ……はぁ」


 深く息を吸って吐けば、胸の痛みが僅かに和らいだ。

 皆、無理矢理に冷静を取り繕っているのだ。

 俺だけが取り乱している訳にはいかない。

 そう考え、切り替えようとした時。


 もし、あの日。

 ティーラの誘いを受けていたら、俺も今頃……。

 断って良かった。


 一瞬脳裏を過ぎった最悪の思考を、慌てて頭を振って払う。

 今、俺は何を考えた。

 馬鹿か俺は……。


「ガルジオ……」


 慌てて再度思考を切り替え、震える身体でガルの首を締め付ける様に抱いて、腕の中の二度と共に笑えなくなった友を想う。


 同時に、決意した。

 女神のところで待っていろガルジオ。

 必ず仇は、取ってやる。


「……お前達は、街へ帰れ」


 強く念じ終わった時。バルザが膝を付きながら言った。

 見れば彼は手を伸ばして、死体を麻袋へ詰め片付けている。

 決して無造作ではない。丁寧にゆっくりと、詰めていた。


「この先、もう手伝いはいらん。後は俺がやる。お前達は先に街へ帰り、身体を休めて今日の事は忘れろ……俺への報酬は必要ない。街に帰ったら、ドルトンにだけ支払え」


「……は?」


 思わず、口から声が漏れた。

 ここからは、必要ない?

 手伝いは要らない?

 今日の事は、忘れろ?


「そんな事、出来るかよ」


「それは無理な相談だね」


 同じ気持ちらしく、アッシュと声があった。

 バルザは手を止め、鋭い瞳をこちらへ向けてくる。


「帰れ、と言っている。聞こえないのか?」


「だから、無理だって言ってる。そっちこそ、聞こえないのかな?」


 挑発する様に、アッシュが言った。

 全く茶化した様子の無い、真剣な顔だった。

 俺だって無理だ。ここまで来て、こんな物を見せられて忘れられる訳ない。

 ガルジオは、大切な友達だったんだ。

 必ず仇を取る。その後、葬儀をしてちゃんと供養してやらないと気が済まない。


 バルザが、小さく嘆息した。


「……お前達は良くやった。お陰で人殺しの罪人を割り出せ、捕虜を得られた。奴等は丸裸同然だ。これ以上お前達が何もしなくても、奴等は数日中に根絶やしにされるだろう。その時まで待て」


 確かにそうだ。

 捕虜を手に入れ、敵の情報を掴む算段が付いた。

はぐれだがなんだか知らないが、要は山賊と変わらない無法者集団。

 本来。大した脅威になる相手ではない筈だ。

 敵の存在と戦力等の情報が手に入れば、後は簡単な話だ。


 この二人を憲兵に突き出すだけで、数日以内に奴等は滅びるだろう。


「……早急に皆の事が知りたい。その為に、俺達は協力したんだ。こいつは他の仲間の所在を知っている様子だった。せめて、事情聴取に立ち会わせて欲しい」


「何か分かったら、連絡してやる。それまで待て。それに、事情聴取の立ち会いは不可能だ。先程も言っただろう。憲兵団に連れて行ってしまえば、冒険者の管轄外だ」


「それなら今叩き起こして吐かせよう」


「起こしてしまうと、また眠らせるのが手間だ。やめろ」


「そんなもの、また殴ってやれば良いだけだろう。俺がやる」


 寧ろやらせろ。

 手が届かなくなる前に殴ってやらなきゃ気が済まない。

 何なら、殴って起こすか?


 二人を睨みつけると、バルザに睨まれた。


「下手にやれば最悪殺す。お前の様な素人が加減も考えずにやれば、その危険性は更に高まるだろう。お前もこいつ等と同じ、人殺しになりたいか?」


「構わない。奴等はどんな手を使ってでも殺してやると決めた。やられたらやり返す。道理だろう?」


「僕も納得出来ないね、それは。一刻も早く情報が欲しいから、手伝ったんだよ?」


強く発言すると、アッシュも俺に同意した。


「……心配するな。俺はこいつらを憲兵に突き出すが、尋問が終われば情報を受け取れるように手配する。何か分かればすぐに連絡をすると約束しよう。この遺体は証拠として持って行くが……全て終わればお前達に返却する」


「そんな役が出来るなら、俺達も」


「貴様等では無理だ。駆け出しとひよっこが、余り喚くな。弁えろ」


 きっぱりと言われて、肩を落とす。

 言われなくても、理解していた。

 彼と俺等では、格が違い過ぎる。

 銅等級と白と青。憲兵団から得られる信用は比べ物にならないだろう。

 俺達では、情報を貰えない可能性が高いのだ。


「分かっていると思うが、一応釘を刺しておく。絶対に奴等に余計な手を出すな。いずれにせよ碌なことにならんのが目に見えている。後は、街から出ず憲兵団か騎士団に任せろ。放っておいても解決される。運が良ければ、女二人は助かるかもしれん」


 真剣な顔で、バルザが言った。

 ふん、女二人は助かるかもしれない?

 本当にそうか?

 もし仮に、運良く命が助かったとしても……二人は。


 ティーラとミーアは、全てを失った後だ。


 二人が泣きながら、男達に弄ばれている光景が脳裏に浮かんだ。

 お陰で一瞬で気持ち悪くなった。

 胸糞悪い、反吐がでる。

 そんな状態で助かったとしても、二人の心は、人生は……大きく狂ってしまった後。もう何もかも、手遅れなんだ。


 また、黒い感情が湧き出してきた。

 唇を噛む。


「お前達の力であの洞窟に突っ込み解決するのは、何がどう転んでも不可能だ。そんな事をしたところで、間違い無く死ぬ。それも、誰も救えないまま。完全な無駄死にだ」


 バルザは一つ目の麻袋の口を締め、紐を縛り始めた。


「お前達は出来る事をした。そして、他に出来る事はない。これは仕方の無い事であり、救えなかったからと言ってお前達が自分を責める必要はない。寧ろ、今日の功績は誇って良い事だ。辛いだろうが、諦めろ」


「本当にそうかな?」


 唐突にアッシュが口を挟んだ。

 そちらを見れば、俯いた彼は顎に手を当て、唇を開く。



「勇者一行。女神様に選ばれ、力を与えられた最強の英雄達に頼めば、皆を助けられるかもしれない」


「っ……!」


 勇者一行。

 その言葉を聞き、俺は唇を強く噛んだ。

 何故ならそれは、俺が二度と聞きたくない言葉で。


 今日一日。彼等が居れば。

 俺に、彼等の様な力があれば。

 剣聖ユキナがこの場に居てくれれば、と何度も考えたからだった。


 どうやらそれは、アッシュも同じだったらしい。


「……確かに、奴等なら助けられるだろう」


 すぐにバルザは肯定した。

 肯定してしまった。

 並の人間では無い、高い戦闘能力を持つ男。

 俺から見れば、この人は充分凄い。人間離れしている。


 そんな彼でも助けられないが、勇者一行なら助けられる。

 助けられる力を、持っている。

 彼の言葉は何よりも重く、俺の胸を射抜いた。


「なら、助けを求めてみようよ」


 アッシュが言った言葉が、何処か遠くに聞こえた。

 助けを求める?

 誰が? 俺が、奴等に?

 気付けば、思い切り拳を握り締めていた。


「っ」


 勇者パーティー全員の顔が脳裏に浮かぶ。

 こんな時なのに、憎悪の対象が簡単に切り替わる。

 剣聖。

 あいつが馬すら降りずに挨拶してきた事。

 馬に乗ったまま、勇者と並んで去って行く背中。

 その二つが脳裏に浮かんで、唯でさえ酷いストレスに苛々している俺の心情を逆撫でにした。


「あ、あは。あはは」


 また、お前等か。


「はは……ははは」


 また、お前達なら手に入るのか。

 また、俺は駄目なのか。

 ただ女神に選ばれただけの人間が、そんなに凄いのか。

 俺の欲しいものは、勇者しか。

 英雄になれる力を持つ者にしか、手に入らないのか。


 何が女神だ。何が英雄だ。何が女神に選ばれた人類の切り札だ。

 お前だって、俺からは奪ったじゃないか。

 一番大切だった人を、連れて行ったじゃないか。

 また、俺から奪うのか。

 また俺に、こんな試練を与えるのか。


 答えろよ、女神エリナ……っ!


「シーナ? どうしたんだい?」


 まさかとは、思うがな。


 まさかと思うが、この状況。

 奪うだけじゃなく、助けを求めて懇願しろ。

 正しく振られ、泣き叫んで懇願し、勇者の踏み台にならなかった。

 それどころか、逆に剣聖を捨てたどころか無かったことにし、全てを捨て裏切って、自分を守った。

 未だに虚勢を張り続けるお前に、罰を与える。


「シーナ? 本当にどうしたのさ。 急にっ」


 剣聖ユキナがお前を裏切ったんじゃない。

 お前が、人類の英雄を裏切った。

 だから、村人シーナ。

 今度こそお前は、ただの村人として、正しく振る舞え。


 お前は。

 お前等は、俺にそう言ってるつもりか?


 女神エリナ。

 勇者シスル。

 剣聖、ユキナ。


 あいつは、ユキナは生まれた時から特別だった。

 最初から俺に釣り合わない女だと分かっていた。理解出来ていた。

 事実、彼女は女神からの寵愛を受けていた。当然だ。

 ただその力が発覚し、離れ離れになった。

 最初からその運命は変えられないものだった。

 俺はたまたま隣の家に生まれ、たまたま二人しか子供がいない村で他に遊び相手が居なかった。

 そして、たまたま異性だったから、興味を持たれた。

 お陰で、あの剣聖と数年も恋人で居られた幸運な男。たったそれだけの存在だ。


 だから諦めたんだ。忘れてやったんだ。捨ててやったんだ。

 それで、良いじゃないかよ。


「シーナ? おい、シーナ。しっかりしろっ!」


「……様子がおかしい。シーナ、しっかりしろ。自分を強く持て」


 それなのにまた、俺から奪うのか。

 関係ない人達を苦しめるのか。

 何もない俺に手を差し伸べてくれた女。知らない地で、生まれて初めて出来た友人達。

 また俺の大切なものを奪うのか。


 ……答えろよ、女神エリナ。


「嫌いだ。大っ嫌いだよ、本当に」


 今なら、言える。

 これだけは、はっきり言えるぞ。


『大人になったら、結婚しようね』


 母さんを、幼馴染を、仲間を。

 俺から大切なものを全て奪っていく。

 

 女神。勇者。剣聖。

 いや、俺は……俺は、この世界が。


「こんな世界、大っ嫌いだ……」

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