第4話 河野さんの話
生き様を見る。死に様を見る。
世に溢れるそれらは、決して一つの記号ではない。
河野さんは69歳。
胃がんの術後の患者さんだった。
痩せていて白髪で、口が悪い。
職人さん気質のようなところがあり、態度や言動がちょっと乱暴なため、若い看護師には敬遠されてしまうような人だった。
受け持ちの挨拶の後、腹部の観察を申し出る那須に河野さんは今日も愚痴る。
「人の腹ぁこんな管だらけにしやがって」
ぶつぶつ文句を言いながら服をめくる。
そんな河野さんが、那須は嫌いじゃなかった。
口調がぞんざいなのも、態度が乱暴なのも、多分自分の娘より若い女性に対する照れ隠しなのだ。
だから河野さんに対する時は遠慮をしないと決めていた。
他人行儀で敬語を使って対応すると、河野さんは本当のことを言ってくれない。
河野さんは他人に甘えたり、弱音を吐いたりすることができない
河野さんに本当のことを言ってもらうには、河野さんに認めてもらわなければいけない気がしていた。
その甲斐あってか、はたまた那須が「若い看護師」ではなかったからなのか、河野さんは那須が訪室する度に少しずつ雑談をしてくれるようになった。
「あの昨夜来たおばちゃんな、あいつぁいけねぇよな。隣のじいさんにこーんな目ぇ三角にして怒鳴るんだぜ。頭きたから俺ぁ今朝無視してやったぜ」
「もー、お腹の音聞いてる時にしゃべらないでって言ってるじゃん。何も聞こえないよ」
「聞きたきゃ何か食わせろって医者に言え。いくらでも聞かせてやるぞ」
にやっと笑う河野さんは、その時だけちょっと恰好いいのだった。
「全くよー、俺ぁがんで死にたいって言ってんのに、こんなにキレイに治してくれちゃってまぁ」
最後のドレーンが抜去された日、普段の軽口のついでなのか、河野さんがふいに口にしたその言葉にどきっとした。
「何それー。がんで死にたいなんて病院で言わないでよ」
笑いとばそうとすると河野さんはふと真面目な顔になった。
「いや那須さんよぉ。俺ぁ常々思ってるんだがね、がんで死ぬってのは悪いことなのかね。」
「病気に悪いことも何も・・・」
「いやいや、そういうことじゃなくてよ。俺の親父や周りのやつら、この年になりゃぁ色んな葬式を見てきたが、がんってなぁ結構いい死に方なんじゃねぇか?俺の親父なんかは若いうちに脳出血でぽっくり逝っちまって、周りのやつらは「一番いい死に方だ」なんて言うが、俺ぁ今でも時々思うんだよ。何か言い残したことがあるんじゃねぇかってね。何より家族に思いは残るわなぁ・・・あの時ああしてやればよかった、こうしてやればよかったってな」
言いながら顎をしゃくる。
「あのじいさんなんかは寝たきりなんだろ?何も言えずにじーっと寝てるっきりだ。
ああなりたくてなるやつはいないだろ。娘が一生懸命面倒みてるようだが、その娘にしたって、ああなって家族に面倒みてもらいたって言ったら多分そうじゃねぇだろ。」
遠慮のない言葉と、向いの山崎さんに聞こえてやしまいかとどきどきしてしまう。
「その点がんはいいよなぁ。「あなたの命、いついつまでですよ」って教えてもらってよぉ、会いたいやつに会って、言いたいこと言って、食いたいもの食って、死ぬ用意ができるってもんだ」
なるほど、とつい思ってしまった。
「最後は「じゃあ死んでくるわ」って言って死ねる。最高じゃねぇかなぁ」
今まで見てきた患者さんを想う。
痛みを取るため多量のモルヒネを投与されうつうつと亡くなっていった人、がんが腸管を食い破り、大量の下血で亡くなった人、痛み止めを使いながらご夫婦で映画を見に行った人もいたなぁ・・・
「まぁそううまいこともいかねぇだろうが、俺ぁそう思っちゃうんだな」
またにやっと笑う。
その日の会話はずっと胸にひっかかったままだった。
日に日に口数が多くなって、お腹からドレーンがなくなり、元気になって一部の看護師からは敬遠されながらも軽口を叩き、河野さんは退院して。
1年後、同じ病棟に戻ってきた。
元々河野さんのがんは胃から膵臓に転移が見つかっていた。
腹膜に細かく転移する腹膜播種も見つかっており、胃がんの手術は最後まで食事を摂ることができるようにという本人の希望があってのことだった。
手術してからの退院後、河野さんは化学療法を希望しなかった。
がんで死にたいという希望も医師に伝えていたようだった。
病院に帰ってきた河野さんは、全身黄色く、顔や手足は細く痩せ、なのに腹部だけは腹水でぱんぱんの状態だった。
痛み止めを使いながら自宅で最期を迎えたかったようだったが、ご家族がその様子を見るに見かねて病院に連れてきたということだった。
運ばれてきた河野さんを見て、那須は一瞬で判断した。
(これは・・・もう今夜までもたないかも・・・)
腹水のためか痛みのためか、呼吸が浅く、何より生気のない顔つきが全てを物語っている。
今までに何人も見送ってきた経験が、河野さんはもうあまり永くないということを告げる。
入院させた医師もそれを理解しており、今回は「お看取り方針で」とのことだった。
「ちょっとー!河野さん久しぶりじゃん。私のこと覚えてますか?」
ことさら大きな声で、必要以上に明るく声をかける。
虚ろだった目にぴたりと焦点が合い、乾いた唇から呼吸と一緒に「おう・・・」と言葉が出てきた。
なんとか声だけは聞こえているらしい。
最後まで、最後まで河野さんらしく過ごしてほしい。
そう思って体の様子を観察しながら懸命に色々と軽口を叩く。
血圧はもう低い。
不意に河野さんの細い手が上がり、ぽんぽん、と那須の腕を叩く。
ん?と思い河野さんを見ると、力のない様子で、それでも精一杯の力を込めて、
ぐっと親指を立てた。
乾いた唇ににやっ、という河野さんのちょっと恰好いい笑顔がある。
「久しぶりだな、元気か」なのか「ほらな、うまくいかねぇだろ。病院になんて連れてきやがって」なのか。
迷ったが河野さんには遠慮をしないと決めているのだ。
それは最後の瞬間でも。
那須も親指を立てにやっと笑った。
その日の夕方、河野さんは亡くなった。
次の日日勤で、後輩の相川が那須に声をかけてきた。
「那須さん前入院してた河野さん亡くなったんですね」
あーそうなんだよ、と話しながら自分の親指をぐっと前に立てる。
「・・・なんですかぁ?那須さん河野さんとよくしゃべってたじゃないですか」
「いやぁ、河野さんずっとがんで死にたいって言っててさぁ」
伝えたいことはちゃんと私に伝わったのだろうか。
残される人に、心が残らないために。
自分の親指をじっと見る。
「じゃあ、死んでくるわって、言ってたんだね」
「河野さんなら言いそうですねー」
「優しい人なんだよー」
生き様を見る、死に様を見る
それは看護師の特権なのかもしれない。
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