第3話 17年目のメイク

鏡をのぞき込む。

そこには自分がいる。


最近夜勤が体に堪える。

自覚しはじめたのは最近だ。

20代のうちは夜勤明けでそのまま徹夜もできた。

30代になり生活リズムをコントロールすることを覚えた。

来年不惑の年を迎えるにあたり、休みは横になって時間を無駄にしてしまうと感じる日が増えていることに気づき始めた。

・・・つらい・・・

夜勤が続いて一日休んで、休み明けの日勤の朝が本当につらい。

つらいのは起きる時だけで、一度出勤してしまえば染みついた経験が勝手に体を動かしてくれる。

でもこの時間が本当につらい。

再起動を渋るような体をようやく持ち上げ、横澤は風呂場へ向かう。

熱いシャワーを浴びればなんとか頭がすっきりし始める。

鏡をのぞき込む。

そこには疲れた顔の自分がいた。

年齢よりずっと若いとよく言われる。

食べる物には気を使い、毎週通っているヨガだって欠かさない。

でも寝起きの顔を見れば、クマや目元の皺、靴元のほうれい線が目立つ。

肌だって若い頃より、くすみやシミがぐっと増えている。

特にここ最近は顔全体が重力に負け始めているような気がする。

寝起きですっぴんの顔は、中年という年齢に似つかわしいだろうか・・・

そのまま丁寧に化粧を始める。

まつ毛は定期的にエクステンションの植え込みを行っている。

ベースメイクをしっかりと行い強めのアイラインをひく。

自分でもメイクには人より時間をかけていると思う。

でもこのメイクで生きてきてしまった。

もう引き返せないのだ。

一度強めにひいたアイラインは変えられないし、人に強く指摘したミスは自分で犯すことはできない。

どんどん自分に完璧を求め続ける。

もっと強く、もっと高く。もっと完璧に。

弱音を吐く姿など見せられない。

強い私でいなければ負けてしまう。

そうして、気づけば、この年まで一人で生きてきてしまった。


出勤した横澤は更衣室で白衣に袖を通す。

一度着たら毎回必ず洗濯に出す横澤の白衣は、いつでも真っ白だ。

洗濯したての白衣を身につけると、体のどこかに淀むどんよりとした朝の気分がきれいに消えて、心がぱきっとする。

同僚の那須などは、よく胸元にミートソースやコーヒーの染みをつけている。

だらしなくて横澤には信じられない。

私は看護師。今から看護師として働く。

白衣はそんな意識の芯を、体に通してくれる。

再びロッカーに備え付けられた鏡でメイクを確認すると、朝見た疲れた顔の中年に差し掛かろうとする女性はそこにはいない。

しっかりと作り上げられた「きれいな看護師さん」がそこにはいる。

(よし、誰に見られても恥ずかしい自分じゃない)

何かに特化するのではなく、欠落を補い理想を目指す。

そうして作り出した強い自分を鎧として、自分を守る。

横澤とはそういう女性である。


「いくつになっても必死で夜勤やってるなんて、私は嫌だわーそんな人生」

日勤の最中、急ぎ足で通りかかった部屋の前でそんな言葉を聞いてしまった。


午前のケアの忙しい時間が終わり、病棟全体の雰囲気がひと段落した中で、ステーション内の備品の補充が十分でなかったり、患者さんのベッドサイドが乱れていたりするのをいちいち見つけては、ついつい指摘してしまう。

自分でも病棟のスタッフに恐れられている存在であるという自覚はある。

でも目について口に出してしまうのだ。

「お局さま」という言葉がよぎる。

きっと影ではそう呼ばれているだろう。

強めのメイクを施した横澤の表情は分かりづらい。

元々あまり感情を表に出す方ではないので、冷たい人だと言われることも多々ある。

感情が表に出ない分、新人などは横澤の一挙手一投足に戦々恐々としているだろう。

でもそれでいいのだ。

会話の中の共感作業や、少し優しい人と判断されると持ち込まれる、女子特有の多種多様な悩みの相談相手などが常々面倒だと感じている。

それらを避けるための防具なのだ。これは。

いつから始めたメイクだったか。

自分でも覚えていない。

人と距離をはかるためのメイク、無表情。

横澤なりに身につけた処世術だった。

それでいいと思っていた。

そして聞いてしまった。


「いくつになっても必死で夜勤やってるなんて、私は嫌だわーそんな人生」


しゃべっていたのは口さがない若い子たちだろう。

取り立てて横澤のことを話していたのではないと思う。

彼女はいずれ結婚して子供を産んで、夫の扶養となり必要になれば短時間パートで少し働く・・・そんな未来を想定した将来のことや、彼氏のことなどを話している中での何気ない一言なのだったと思う。

それでも頭を殴られたような衝撃があった。

今までの人生で、結婚を考えない相手がいなかったわけではない。

だが付き合っていた男性たちは異口同音に「お前といると疲れる」と自分の元を去っていった。

横澤からしたら、自分の元を去る男性の方にこそ原因があるように感じていた。

付き合っているうちはいいが、少し一緒に生活を始めると、生活や性格の綻びがあちらこちらに見え隠れしてくる。

脱いだ靴下を洗濯機に入れられない、食後の食器を片づけられない、旅行の計画を立てようとしても意思決定ができない・・・

小さな細々したことにいちいち腹が立つ。

口に出せば面倒がられ、煙たがられる。

黙っていれば溝が大きくなる。

その繰り返しに双方疲れ果てて、関係が破綻するのだ。

(まるで職場と一緒じゃない)

30代半ばから、なんとなくこのまま一人で生きていくことになるのかなという予感めいたものがあった。

自分が納得できていればそれでもいいかなと。

そうした中で聞いた若い子の一言は、衝撃だった。

(簡単だと思ってた。でもそんなに簡単なことじゃなかったのよ)

日勤が終わり、通っているヨガで汗を流しても、その一言は寝る直前まで頭の片隅にこびりついて剥がれることはなかった。


朝、遠くから目覚まし時計のアラームが聞こえて、思なんとかアラームを止める。

一段と重く感じる体を引きずり、シャワーを終えてのぞき込んだ鏡に映るのは、普段よりぐっと老け込んだように見える自分だった。

これからあとどれだけ日勤と夜勤を繰り返す生活が続くのだろう。

5年?10年?もっと?

年齢の割には少ないだろうが、文字通り身を削って貯めた貯えも少しはある。

だが現在の病院では夜勤をやらないと、とても今の生活は成り立たない。

今はまだいいが、この先体が動かなくなったら?夜勤ができなくなったら?

あらゆる相談事が持ち込まれる管理職には、元々興味がない。

対応できる自信も、やる気もない。

管理職の話を持ち込まれまれるようになったら、その病院は辞めると決めている。

今はまだそれで通用している。

その先の生活を思ってぞっとする。


「いくつになっても必死で夜勤やってるなんて、私は嫌だわーそんな人生」


ほんと、その通りよ。

今まで付き合ったいずれかの男性と結婚していれば違う未来もあったのだろうか。

自分のためだけではない誰かのために食事を作り、掃除をし、生活を整え、誰かの帰りを待つ。

誰かを許すことができていれば、そんな生活もあったのだろうか。

めっきり連絡をとらなくなった同期たちのことをふと思う。

20代後半から30代にかけて、次々と結婚し妊娠、出産の連絡をくれた同期たち。

子どもが生まれたと聞けば、いちいち集まり顔を見に行った。

最近では時々メッセージのやり取りをする程度で声も聴いていない。

同期たちはそんな生活に身を委ねて、今も必死に生きているのだろうか。

彼女らには彼女らの不安があるだろうが、自分の知らない不安を経験している横澤から見れば眩しくも映る。

いつか読んだ有名な文学の「ぼんやりとした不安」という言葉を思い出す。

ぼんやりとした未来への不安を打ち消すように、いつもより強く濃く、アイラインを引く。

もう引き返せないのだ。


日勤の合間に昼食をとっていると視線を感じた。

一緒に休憩を取っている同僚の那須だ。

横澤はいつも弁当を持ち込んでいる。それに大きなペットボトルの硬水ミネラルウォーター。

それをかきこむ様子を見られている感じがした。

「何?私がご飯食べてるの珍しい?」

那須はどうやら横澤が苦手だと思っていたのだが、食事中に無遠慮な視線を送ってくるとは。

何事か話しかけたいのかと思い、無駄な会話を避けるためにわざとつっけんどんな言い方をした。

ひゃー、と表情を変えて那須がおずおずと下から目線を送りながら言う。

「いやー、横澤さんが何か食べてる姿って、いつもかわいいなと思っておりまして、失礼とはわかっていながら実はついつい見てしまうのです・・・」

食べてる姿が?かわいい?

エクステンションで縁取られた目をぱちぱちさせる。

「いやー、横澤さんてメイクもいつも完璧だし、なのにちゃんとお弁当も持ってくるじゃないですか。仕事もきちっとしてて全然落ちがないし。私から見たらすパーフェクトウーマンなんですが・・・」

那須がいつも持ち歩いている保温ボトルに口をつけながら続ける。

「それとご飯食べている時の、口いっぱいにほおばる姿のギャップに勝手にキュンキュンしてしまうのですよ」

そういえば過去付き合っていた男性に指摘されたことがある。

お前その食い方やめろよ。

その男性からしたら、横澤の口いっぱいにほおばるその食べ方が気に入らなかったらしい。

その時は、あなたに迷惑かけてないでしょ。一緒に食事してて不愉快なんだよ。マナー違反だろ。なんて不毛なケンカをしてしまい、散々なデートだった記憶があるのだが。

「それ言われたことあるわ。分かっていても治せないものなのね。不愉快だったかしら?」

いやとんでもない、と那須は恐縮したように首をぶんぶんと振る。

「普段きちっとして隙がない横澤さんが、口いっぱいにあまりに美味しそうに食べるので、こちらとしては何故か安心するのですよー。失礼かもしれないですけど、すごく癒される光景なのでついつい見てしまって・・・」

あははと笑う。

「口いっぱに詰め込むっていうのは、マナー違反だったり、人によっては不愉快じゃないのかしら」

「いえいえ、私にはとても美味しそうに見えますよ。パーフェクトウーマンが美味しそうに食べるというのは溜まらないですね。私が美味しそうに食べていたところで、ただの食いしん坊ですから。普段の行いの結果ですねぇ」

それは横澤にはやはり欠点に思うのだが・・・

欠点や綻びは補ってきたつもりだった。

だが見落とした欠点は、見る人によっては癒しにもなるのか。

自分の欠点を一番許せていないのは自分だ。

自分が許せないラインを、他人にも強いることで段々と窮屈な自分に追い込んでいたのだろうか。

自分の欠点を愛してくれる人に出会えていたら、もっと自分を許せていたのだろうか。

いや、自分に人の欠点を愛することができれば、その人も自分の欠点を愛してくれていたのかもしれない。

洗濯を繰り返した横澤の白衣は今日も真っ白だが、よくよく見ればところどころがくたびれていた。


「那須さん」

弁当を片付けながら声をかける。

「胸元にコーヒーが飛んでるわ」

指摘され、あぁっ!と慌てて白衣の胸元を広げながら那須が流しに駆けていく。


鏡をのぞき込む。

そこには自分がいる。

午前の業務で業務で少しメイクが崩れ、そのせいか表情が柔らかくなった「完璧な看護師さん」がいた。
















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