第2話 13年目のビール
これだから最近の子は。
看護師になって気づけば13年経っていた。
今日の夜勤で受け持っていた患者さんが転倒し、久しぶりに書いたインシデントレポートに経験年数を書く欄があった。
経験年数なんて普段数える機会がないため、それでようやく気付いたのだ。
嘘でしょ。そんなに経ってるの?という感覚が拭えない。
年下の看護師が増えてきたなとは思っていたが、まさかそんな年数になっていたとは。
夜勤明けで温泉に浸かっている若山は大きく天井を仰いだ。
今日は散々な夜勤だったのだ。
勤務が始まってすぐに心不全の患者さんの心拍数が突然上昇し、医師に報告、その対応をしている間にもセンサーマットが鳴りやまず、そうこうしている内に緊急入院がやってくる。
ろくに記録もできないまま深夜帯に突入した途端、今度は入院してきた患者さんが環境が変わったことによるせん妄状態となり、帰る帰ると騒ぎだした。
点滴を抜き、衣服を脱ぎ始め、看護師を殴る蹴るの大騒ぎ。
男性看護師がいなかったため他の病棟から男性のスタッフを借り、その間に他の病室でセンサーマットが鳴ったため飛んでいったところ、見事に転倒していたという結末。
幸い転倒した患者さんに骨折や外傷はない様子だったが、それもまた医師に報告し診察依頼、レントゲンを取って経過観察の指示受け。
ろくに働いていない頭でどうにかこうにか溜まっていた記録物を片づけ、転倒のインシデントレポートを書き上げた時にはもう正午近くなっていた。
こんな日は自宅に直行したいが、帰って寝るだけとはそれもまた腹立たしい。
せめて自分へのご褒美にと、普段はあまり足を延ばさない大きめの温泉施設へやってきたのだ。
ようやく手足を伸ばして熱いお湯に浸かっていると、昨夜のもやもやが一気に溢れてお湯に溶けていくようだ。
一気に流れていく思考に、一つだけ溶けずに残った言葉があった。
「なんで私たちだけいつもこんな思いしなきゃいけなんですか!」
襲い掛かる幾重ものアクシデントに、我慢の限界に達した2年目の冴島が言った言葉だ。
その言葉を皮切りに冴島はぶつぶつを文句とも愚痴とも、批判とも言える言葉を垂れ流していたのだった。
普段はそんな子ではない。
むしろ明るく積極的で、要領良く物事を片づけていくタイプの子だ。
さすがに見かねた同僚の那須に「まぁまぁ今それ言っても始まらないっしょ」とたしなめられていたのだが、若山にはぶつぶつと文句を言う冴島にいらいらしてしまった。
私たちだけ?
あんた何を知ってるの?
自分が2年目の頃は、厳しいではない、それこそ恐ろしい先輩が多くおり、文句を言うなどという行為は許されなかったのだ。
先輩についていく、教えを乞うため、自分にやる気があるということを見せるために、必死で日々の勉強に腐心していた記憶がある。
必死にならなければ教えを乞うことすら許されなかったのだ。
出来ない、やる気がないと判断されれば文字通り見捨てられて、死ぬ。
そういう感覚でやってきた。
最近の教育方針の基本は「叱らない」だが、それだけで良いのかと思う時がある。
この世界の先輩として、手本となれるよう、手本としてもらえるよう厳しく威厳を持って接しなければいけない時もあるのではないか。
友達感覚で愚痴を垂れ流して受け止めてもらえるなど、そんな距離感で良いのだろうかと。
尊敬を強いるわけでは決してないが、上の立場である、という意識自体が、手を離れ始めた新人たちにも引き続きアドバイスや教育が出来る要因になるのではないか。
この人に「それは間違いだ」と言われたらはっと立ち止まれるような存在。
手が離れてくればプライドが育つ。
プライドが育てば人からのアドバイスも届きにくくなる。
万が一間違った意識を持ってしまったその時必要なのが、尊敬できる、畏怖される先輩という立場なのではないか。
若山の目から見れば、冴島は要領がいいが故に非常に自由に育てられているように見える。
怖いものなど何もないというように。
先輩相手に業務中に愚痴を垂れ流せるというのがいい証拠だ・・・
寝不足と温泉の心地良さでとりとめもない思考がぐるぐると周り、それはいつしか冴島への批判となっていることに気づいて湯から上がる。
これではいけない。冴島が悪くなってしまう。
悪いのは冴島自身ではなく教育体制かもしれないのに。
こんな思考の端からも分かるように、若山は非常にストイックで、生真面目な性質なのである。
熱い風呂から上がり、髪を乾かした若山は荷物を持って施設の玄関から出ようとしたところを、1枚のポスターに呼び止められてしまった。
「生ビール1杯目は無料!」
おっと・・・
無類の辛党である若山は足を止めた。
運のいいことに、今日は豪勢にもタクシーでここまで来ている。
自宅は病院からそう遠くないために、普段は歩いて通勤しているのだ。
夜勤明けで風呂上りなんて、脱水になってもいけないしね。などという看護師らしからぬ言い訳を心の中でしながら、足を引き返し休憩処となっている座敷に荷物を置く。
実際、アルコール類は利尿作用があるため、脱水予防には効果がないということは重々承知の上で・・・
1杯目無料ってことは2杯目も飲んでいいってことよね・・・
もはや支離滅裂な思考で、欲望の化身と化した若山は、食券を購入し、多少の待ち時間の後提供されたビール、つまみ代わりに購入したソースカツと冷ややっこを盆に載せて席に戻る。
まずはビールを一口。
からからに乾いた喉にしゅわしゅわと弾ける苦い液体が染み込みながら流れていく。
深く大きな嘆息が口から遠慮なくこぼれ出た。
ビールを飲んだ後の礼儀である「っあー!」というアレだ。
ソースカツは揚げたてらしい衣に、甘目のソースをたっぷりと含み、一口かじればかりっじゅわっという感覚が口いっぱいに広がる。
そこへまたジョッキの冷たい生ビールを一気に流し込む。
今日頑張ってよかった。昼からこんないい思いが出来るんだから。
ぽっかり空いた穴が一気に満たされていくような感覚で夢見心地の若山の脳裏に、一つの記憶が蘇る。
「これだから最近の子は。」
そうだ。
あれは自分が2年目の年。
やはり散々な夜勤が明けた朝に、いてもたってもいられず近所のラーメン屋に飛び込んだ。
とにかく味の濃いものが食べたかった。
カロリーの高いそれをビールで洗い流したかった。
それが叶えば、緊急事態にろくに何もできなかった自分を許せる気がした。
せっかちにラーメンニンニク増量と生ビールをオーダーし、間髪いれず目の前に提供されたそれを一心不乱にかきこんでいる若山の耳に、その言葉が飛び込んできたのだ。
「昼から女一人でラーメンとビールかよ。恥ずかしくないのかね。これだから最近の子は。」
発したのは年配の男性だったような気がする。
正直それどころではなかった若山は、箸もジョッキを持つ手も止めることなく、最後の一滴まで飲み干し「ごちそうさまでしたー!」と元気良くで店主に告げる。
その時にちらりと横眼で男性を見た。
若山は控えめに言って美人だ。
その美人に、真っすぐ首元で切りそろえられたストレートヘアの間から、切れ長の冷たい視線を流されたことに男性は気づいたのだろうか。
男性はすっかり泡の消えたビールをちょびちょびと飲んでいた。
(あんたが飲んでるビールより、私が飲んだビールの方が100倍おいしいわよ!)
その時は謎の優越感が彼女を支配していたが、満腹になって満足してから、自分に投げ掛けられた言葉の意味を反芻する。
今でこそお一人様などごくごく普通だが、当時はまだ女性が一人でラーメン屋に入る光景などは珍しかったのだ。
最近の子って何よ?
子って女性のことよね?
最近の女性がみんな、クマ作ってラーメンとビールかきこんでるとでも思ってるの?
その単純な思考が恥ずかしいわ。
私は恥ずかしくなんかないわよ。だって私は頑張ったんだから。
だからあんたより美味いビールを飲めるのよ!
11年前の自分と同じようにごくごくと喉を鳴らしながらビールを流し込む。
今彼女が風呂上りの髪もそのままに、すっぴんで温泉施設の休憩処に一人、カツと冷ややっこをつまみにビールをお代わりしたところで、気にする人など一人もいない。
平日の昼のため人数は多くないが、ちらほらと数人の客がいる。
思い思いに横になったり、スマホをのぞき込んだり、中には顔にタオルをかけて熟睡している人もいるようだ。
もちろん女性もいる。
(そっか。そういうことなのね。)
なんだか素直に納得できた気がした。
自分が若い頃だって「最近の若い子は」と言われるのが嫌だった。
何故あんなに嫌だったのか。
「最近の」と一括りにされるのが嫌だったのだ。
自分は確固たる意志を持った一人の人間であり、思考があり、行動している。
自分で選択した行動を「最近の若い子」と括られるのは、自分の思考を否定されているような気がしたのだ。
でも同時に思う。
自分の価値観では理解できない、新しい若い感性を「最近の子」と括ることで安心していたいのだと。
未知は恐怖だ。
自分にとって知らない感性の結果とる行動に、名前を付けて見下すことで安心していたかったのだと。
あのおじさんはそのことに気づけただろうか。
おそらく気づけていないだろう。
気づけなかったとしたらさぞかし可哀そうなことね、あの人の世界は恐怖で満ちていく一方だったでしょう。
寝不足と軽い良いと満足感ですっかり重くなった足を引きずりながら帰途についた。
1日休んでまた夜勤で出勤すると、若山のロッカーに可愛らしい封筒で封された小さなメッセージカードが、チョコ菓子に添えて貼ってあった。
開いてみると冴島からで
「ワカさん、先日は大変な夜勤ありがとうございました!一緒に夜勤をしてくれたのがワカさんとナスさんで本当に良かったです!足りない後輩ですがこれからもよろしくお願いします!」
と書いてある。
こんな気軽にメッセージを送ってくるなんて。
若山はメッセージを封筒に戻し、大切そうにバッグのサイドポケットに入れてからほほ笑んだ。
これだから最近の若い子は。
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