ぴんとこなーす

@purupuru44

第1話 3年目のため息

看護師3年目の相川は、はぁとため息を吐いた。


口からため息を吐けば、少し気持ちが軽くなる、と思えていたのは最初の頃だけで、今はなんだかため息を吐けば吐いただけ、体の深い部分に淀みのような重いものが溜まっていくような感覚がある。

だったらため息なんて悪い癖辞めてしまえばいいのに。

いつもため息を吐いてしまってからそう気づくのだ。

今のため息、誰かに聞かれてなかっただろうか、ため息を吐く時の顔を誰かに見られていなかっただろうか。

そう考えれば考える程、また胸の奥に重いものが溜まっていくようか気がして、ついはぁとため息を吐いてしまう。

吐いてから後悔する。

そんなことの繰り返しだ。


看護師の3年目というのは変化の連続だったりする。

全く何も分からず指導を受ける1年目、一人立ちしながらもまだまだ先輩に目をかけてもらっていた2年目とは違い、どうにかこうにか一人前と認められ、経験を積む意味で重症の患者さんをつけられたり、早ければ新人の指導やリーダー業務を任せられるようになる。

相川は決して盛大なミスをやらかしたりはしないが、かといって目立って優秀な訳でもない。

こういったタイプの新人は、運悪く同期が手がかかるタイプだったりするとひっそりと指導の手を離されてしまったりする。

「相川さんならもう大丈夫でしょ」という、嬉しいような悲しいような言葉と共に。

かといって本人は自分に全く自信がある訳ではない。

「もう大丈夫でしょ」なんて言われても、「大丈夫じゃないんです!」と必死に心の中で反論するくらいで、外に出るのは精々真っ赤になった顔くらいだろう。

それを「褒められたから照れちゃって」なんて解釈されていたとしても、冗談でも口に出せる程ノリがいい訳でもない。

先輩に相談しようにも万一「あれ?まだそんなこと言ってるの?」などと言われたらかろうじて形成しているかすかな自信は、根本から崩れてしまうだろう。

要するに、自分の気持ちを外に出すのが下手で、自分に自信もなく、ようやく育てた小さなプライドを守り続ける自分を、一番許せていないのが彼女なのである。


相川はまた小さくため息をついた。

時間は午前2時。

さっきまで廊下に響いていた302号室の湯川さんが家族を呼ぶ声もようやく静かになったところだ。

ところが、その湯川さんの声に刺激されてしまったのか、今度は相川が受け持っている301号室の杉山さんが深夜の睡眠から覚醒してしまったのだ。

杉山さんは82歳の男性で、胆管炎の保存加療目的で入院している、認知症のある患者さんだ。

認知症が進行しており、リスクが大きいため点滴も夜間は外している。

認知症はあるがベッド周囲くらいなら伝い歩きができるため、センサーマットというベッドサイドに敷いて、踏むとナースコールが鳴る機械を設置している。

そのセンサーマットが鳴ったため相川が訪室すると、せっせとベッドサイドに備え付けてあるロッカーを漁っている杉山さんがいた。

「どうしましたー?まだ夜だから寝ましょうねー」

深夜に動き出す患者さんにかける声がけとしては、もはや彼女の中で定型文となりつつある言葉をかけながら近づく。

杉山さんはロッカーを漁りながら

「いい!ほっといてくれ!」

とちょっと怒ったような口調で言い返す。

ほっといてくれと言われても本当にほっとくわけにはいかない。

これが原因で転倒でもされたら、全て自分の責任になってしまうのだ。

センサーマットのスイッチを切りながら、声をかけ続ける。

「杉山さん、まだ夜ですよ?何かするなら朝になったら私手伝いますから、今は寝ましょうよ」

相川の声が聞こえないかのように、杉山さんはロッカーから大きな袋を取り出し、ベッドサイドに腰掛けごそごそと何かを探す仕草を繰り返し、ようやく大きなセーターやら股引やらを取り出した。

「寒かったかなー?着替えるならお手伝いしますよ?」

「一人でできる!ほっといてくれ!」

・・・再びそう言われたが、ほっとくわけにはいかない相川は、かれこれ15分ほど杉山さんが着替える様子を立ってただ眺めているのだ。

病院から貸し出している寝衣を脱ぐ、ズボンも脱ぐ、シャツを着て股引を履く、シャツの上から更に長袖のシャツを着て、その上にシャツを着る。

さっき着たシャツを脱ぐ。

入院時に履いてきた厚手のズボンを履き、その上から病院の寝衣を履く。

またシャツを着る、セーターを着てカーディガンを羽織り、病院の寝衣を着る。

またそれを脱ぐ。

(こっちの頭がおかしくなりそう・・・)

そこではぁとため息が出てくるわけだ。

きっと今の自分はさぞかし嫌な顔をしているだろう。

記録も終わっていない相川としては、この15分は何も邪魔するもののないはずの貴重な15分でもあった。

やらなければいけないことが時間で追ってくるが、彼女は時間の使い方があまり上手くなく、後でできることは後で、とどんどん先送りにしているうちに思った以上の業務が溜まっているということがよくあった。

それが自分で理解できているのに同じことを何度も繰り返す、そんな自分に毎度愛想が尽きる。

今夜の夜勤のリーダーをしており、相川が新人だった頃に指導をよくしてくれた那須などは、とっとと記録を終わらせて「誰もいかないなら私から行くわ」と軽い感じで仮眠休憩に入ってしまった。

受け持ち業務とリーダー業務に加えて、彼女は緊急入院も取っていたはずだ。

どうしてあんなに早く終わるのだろう、と常々疑問ではある。

直接聞いたことも何度もあるが

「早く終わらせようという気持ち」

というなんとも味気ない返答が返ってくるばかりだった。

気持ちだけで早く終わったら世話ないんですよ那須さん・・・

またはぁとため息を吐いた頃、ようやく着替えを終えたらしい杉山さんが動きを止めた。

何着も重ね着した上から薄手の病院寝衣を着ているので、全身ぱんぱんだ。

さぁここからだ。

どうせここから「家に帰る」とか言い出すに違いない。

そう言い出す前に相川が「終わりましたね、さぁ寝ましょう」と強引に口火を切ろうとすると、杉山さんがにっこり笑って言った。

「よし!寝る!」

満足したようにさっさと横になった杉山さんを信じられない気持ちで一瞥して、相川は黙って枕元の電気を消し、センサーマットのスイッチを入れてその場を離れた。

・・・私のこの時間は何だったんだ・・・

納得できない感情がどろどろと胸の中で渦巻いて、行き場をなくしたどろどろは口から今夜一番の大きなため息となって強く長く吐き出された。

なんだか涙も出てくる。

今ちょっとした刺激があったらわんわんと泣き喚いてしまいそうだ。

横になった杉山さんに声をかけなくて正解だったかもしれない。

きっとひどい言葉をかけるか、怒鳴りつけてしまっていただろう。

それはやってはいけない、という強い倫理観と一緒に、どこまで許さなければいけないのか、という気持ちが同時に湧き上がってきてまたはぁあ大きなとため息を吐く。

こんなことを繰り返していたらいつか倫理観の方が負けてしまいそうだ。

手をついて俯き、感情を押さえつけている彼女の後ろから声がかけられた。

「ちょっとアイちゃん、どうしたの?大丈夫?」

一緒に夜勤をやっている最後のメンバーの山辻だった。

山辻は結婚しており、家の都合で月2回程度しか夜勤に入らない。

いつもにこにこしており穏やかだが、ここ一番の一言には適格な毒が込められている、という相川したら尊敬、畏怖の対象とも言える女性だった。

山辻ならこんな時どう対処するのだろうか。

それともどんな患者さんに対しても常に穏やかで、決して声を荒げることなどない山辻なら、そもそもこんな感情自体を抱いたりしないのだろうか。

どうしたらそうなれるのだろうか。

感情と身振り手振りを交えて、今あったことを口下手ながら一生懸命説明する。

山辻は彼女を表すポーズでもある、左手を腹部辺りに置き、その左手の上に右手を置いて、右手の指で顔の右頬辺りに添え、少し顔を傾けながらにっこりとほほ笑んだ。

「あら、杉山さんそれで寝たのね。それが不満で最近眠れていなかったのかしら。

アイちゃんお手柄ね」

ぽかんとなった。

てっきり「そんなことでイライラしちゃダメよ」とたしなめられるか、「わかるわ、そういう時ってどうしようもないわよね」と同調してもらえるか、どちらかだと思っていたのだ。

「杉山さん、眠前薬は飲んでいるけどそれが切れる時間なのかいつもこの時間に薬を追加されるか、強引な人だと抑制されちゃったりしてるでしょ」

言われて気づいた。

そうだ、先日日勤で受け持った時、杉山さんは両上肢を縛られた状態で申し送られたのだ。

夜間眠れなかったせいなのか、日中はうとうとしていたため相川自身がその抑制を外したのだが、今夜抑制をしていなかったのは、入院生活が少し長くなって落ち着いてきたのだと思い込んでいた。

というか、自分が受け持ちでもない患者さんの情報をそこまで把握しているのか・・・

先輩方というのは化け物か・・・とつい思ってしまう。

と同時に「どうせ帰りたいに違いない」という狭い視野で杉山さんを見ていた自分をまた恥じる。

「それで満足して眠れているなら一番の特効薬よ。これで朝まで静かに眠ってくれるなら一番いいわよね。さぁ、そろそろ那須さんが休憩から出てくる時間だから、休憩に行けるようなら行ってちょうだいね」


結局杉山さんは朝まで起きなかった。

相川の休憩は溜まった記録物の整理で終わってしまったのだが、杉山さんの申し送りコメントに一言添えておいた。

「夜間起きだすことがありますが、本人が着替えが終わると満足して眠れると思います。」

たまたまかもしれない、今夜は着替えの気分だっただけかもしれない。

でもようやく記録が終わった相川のため息は、はぁではなくふぃーだった。

少し、何かが見えたかもしれないという満足感。

ふぃーというため息は、はぁのため息と違い胸の中に何かが溜まるのではなく、本来の目的である何かを軽くする作用があったような気がした。

本当につまらないこと、大したことない事ではあったが相川にとってはとても大きなことのような気がした。

気がしただけで、どうせ明日からはまた同じような感情を繰り返すのかもしれない。

そうだとしても、彼女にとっては「守るべき小さなプライド」の一つになったことは確かだった。

朝の申し送りが終わり、申し送りでちまちまと小さなことを指摘をされ、その処理をしている最中にもそそくさと帰る用意をしている那須と山辻に向かって相川は声をかけた。

「あの、お疲れ様でした。山辻さん今夜はありがとうございます。那須さん、今度業務をトレースさせてもらえませんか?」

山辻はにっこりと、那須はにやっと笑い

「いいよー、まずはその辛気臭い癖を治すところからな」

と言われた。


やはり見られていたのか・・・

顔が赤くなる。

看護師3年目の相川は、はぁとため息を吐いた。










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