第12話 歌と踊りのなかりせば此の世に生きる価値はなし
川の流れはゆるやかで、舟もそれに従ってゆっくり進んで行く。
「川沿いに竜で走ったほうが速いよ」
ラカラカがあくびまじりに言うと、キダイはあいまいに笑って答える。
「たまには船旅もいいだろ?」
「まーねー、竜を売ちゃったんだから、しょうがないけどさあ」
船頭一人と漕ぎ手が一人、客が五人乗った舟は、水の中にたっぷりと腹を浸けている。キダイがラカラカをひざにのせていても、舟の中に隙はない。
ラカラカはこれみよがしに両手を上げて背中を伸ばす。
「ラカラカは、やめとけって言ったのにさあ」
「ごめん、すまん、申しわけない」
博打でスッたのである。
しかたがないので竜を売ったが、足りなかった。それなら銀の鞘に納まったキダイの大剣を置いていけと言われたので、逃げ出した。
舟は、ウーラ川とビンシャ川の合流点に差しかかって、縦に揺られ、押し戻されているような錯覚に陥る。二つの広い川は、両方ともラビュア滝から流れて来て、ここからビンシューラ川になる。
船頭と漕ぎ手が櫂を取り、岸に向けて川を横切って行く。桟橋では復路の客たちが額に手をかざして、なかなか近づかない舟を見ている。
ここノイ町は、二本の川の上流ミミラとバジャン、下流のキクシの三つの町をつなぐ交易の町だ。
ラカラカとキダイは、港の東に広がる市場をぬけてレンド・ノイ寺院広場へ出た。この町はレンド・ノイ寺院を中心に広がっている。本当は港から寺院まで全て寺院の敷地で、今でも港の使用には寺院の許可が必要だ。だが、最初は特例として認めていた市場も、いつのまにか把握できないほどの規模に膨れ上がり、なしくずしに門前の広場まで自由広場になってしまった。
二人はその広場をふらふらと歩く。あちこちから音楽や口上が聞こえ、見物人の喝采や笑い声がそれに重なる。
そして、中には悲鳴も。
濡れたような黒髪が薄い背中で踊っている。細長い褐色の手足が関節から抜け落ちそうな勢いで、人込みをかきわけて走ってくる。踊り子の衣装をつけ、年は十六、七だろうか。 「たすけて!あの男がっ!」
かすれ声で叫び、追ってくる男を振り返る。
必死の形相で追ってくる男は、豪奢に過ぎて悪趣味なだけのびらびらした重たい絹の裾につまずきそうだ。
何事かと振り返った人の輪の真ん中に走り出て、かすれ声はさらに訴える。
「誰か…!誰か、助けてください!」
「逃げても無駄だっ!」
びらびら男の、妙にすっきりと整った立派な顔だちは、衣装とよく似合っているがゆえに陳腐である。
とうとう細い腕が男につかまれる。
「いやああっ!」
男の手に、銀の鞘が叩きつけられた。
鞘に納めたままの大剣で、男の体をつき飛ばすと、キダイは片手で踊り子をかばい、腹を押さえた男に言う。
「骨は折れてないから、大丈夫だよ」
踊り子はキダイの腕にすがりつく。
男はなんとか立ち上がると、苦々しげに二人を睨む。
「私はその子の父親だぞ!」
「売られるのはいや!」
キダイを見上げる瞳は、長く密な睫に縁取られ、光彩の縁から暗い緑色がかすかに滲んで黒い。キダイは集まってきた人々の目を十分に意識して、にやりと笑い、片眉上げてびらびら男を見る。
「俺と勝負して葬式出すより、この子をあきらめたほうが安くあがるぜ?」
ラカラカがキダイの足もとから顔を出した。
「やっちゃえ、キダイ!」
踊り子は足もとに現れた少女をひょいと見下ろし、その大きな紫眼と目が合った瞬間、虚を突かれたように目を見張り、そして、突如、張りのあるテノールで叫んだ。
「ああっ!ラカラカっ!」
「え?」
ラカラカとキダイは同時に、踊り子の顔を見る。踊り子の表情には先程までの恐怖はなく、ただ驚きがあるばかり。ラカラカは不意に自分の名を呼ばれてぽかんとしている。
踊り子は、ラカラカの前にしゃがんで、早口でまくしたてる。
「覚えてないの?イセだよ。五年前ベルン滝で会ったじゃないか」
紫眼の少女がまだぽかんとしているので、イセと名乗った女装の少年は少し不安を覚える。
「…ラカラカだろ?」
「うん…。イセって、あの、踊ってたイセ?」
少年は満面に笑みを浮かべ、大きく息を吸った。
「そうだよ!ああ…!ラカラカ、こんな所で会えるなんて」
イセはひしとばかりにラカラカを抱きしめる。
「五年間、おまえのことを思わない夜はなかったよ。夕暮れの天海が紫に染まるたびに、その瞳が微笑みかけてくれた時を思い出して、胸が苦しかった…。会えないままでいたら、いつか胸が張り裂けて、ぼくは死んでしまっただろう。もう二度と、おまえを行かせはしないよ、愛しいぼくの紫の瞳」
抱きしめられて身動きの取れないラカラカに、長い胴体を傾けたキダイが尋ねる。
「お知り合いですか?」
「私はこんな娘は知らないな」
いつのまにか、びらびら男がキダイに並んでいる。キダイはあわてて剣の柄に手をかけて牽制する。イセがラカラカから体を離さずに、男を見上げた。
「オヤジ、ボケが始まってんじゃねえのか?ベルンでやばかった時のこと、覚えてんだろ!ぜんぜん…」
イセは自分の言おうとしたセリフにはっとして、ラカラカの肩をつかみ、少し離してその顔をまじまじと見る。
「ラカラカ…、ぜんぜん、変わってないんだな。本当に年を取らないのか…」
「不老不死だって、言ったでしょ」
平然と言ってのけるラカラカに、イセは軽く肩をすくめた。
「鵜呑みにできるセリフじゃない」
話しこむ四人を見るのに退屈したやじ馬の一人が、どうした、と声をかける。
「決闘は、いつ始まるんだよう!」
「兄さん、抜け!」
「追っかけてた奴、抜け!」
びらびら男がその声に勢いを得て、イセに指を突きつける。
「きさま、実の親を金で売るとは、どういう了見だ!」
「はあ?」
キダイが気のぬけた声を出す。
イセはラカラカの胸に腕を回したまま立ち上がり、きらめく瞳を男に向ける。
「うるせえな。あのババアが、父親にいい暮らしさせてやりたくないかって言うから、はいって答えただけだぜ」
「お前は金を受け取ったろうが!」
「踊りの報酬もらって、何が悪い!」
「ほう?踊りの報酬ねえ?では、なぜ、私はこんな服を着せられて、あの屋敷に閉じ込められなきゃならなかったんだ?」
こんな服、というくだりで、ラカラカがふきだした。
「結局、逃げ出せたんだから、文句ねえだろっ」
「大ありだね。金の八割は私の働きに対する報酬だ」
「けっ。何が働きだよ、きれーな服もらって、うまい飯食って、挙句の果てにその恩も忘れて逃げ出しただけじゃねえか」
「お前は、踊りの分だけとればいいだろう」
「あんな、はした金、もう残ってないね」
「なにいっ!嘘を…」
「まあ、まあまあまあ」
キダイが二人の間に割って入り、人の好い笑顔で双方をなだめる。
「まあまあ。やじ馬の皆さんも解散しちまったことですし、ここは一つ、お茶でも飲みながら穏便に話し合いってことに、ね?」
ラカラカもイセの袖を引く。
「ねえ、ラカラカ、のどかわいた」
イセは、自分の胸元から見上げる女の子に視線を落とし、今までの表情とはうってかわって素晴らしい微笑を浮かべる。
「飲み物なんてみみっちいこと言わないで、おいしいもん食べて豪遊しよ。金なら、まかせて」
四人は広場を抜けて、町へ出た。適当な食堂に入って、つぶれたクッションが投げ出してある、低いテーブルを囲む。ほとんどあるだけ全部の料理を注文する。注文が終わったところで、びらびら男が言った。
「六四で手を打とう」
イセはラカラカの髪をさわりながら答える。
「いいよ。四割でいいなんて、殊勝じゃない」
男は端正な笑みを浮かべる。
「お前が、四割だ」
「はあああ?」
「…わかった、山分けだ」
「…ま、しょーがねーか…」
親子の間で話しがついたところで、キダイが身を乗り出した。
「なあ、あんたたち、何なの?」
イセがラカラカを抱き寄せる。
「ラカラカの婚約者」
キダイは目を剥いた。
「うそっ?」
「うそだよ」
ラカラカが橙色の液体のはいったグラスを両手で持って答えると、イセが少女のあごを撫で上げる。
「いいじゃん、ラカラカ、結婚しようよ」
ラカラカはくすぐったくて笑い、グラスの中身が揺れてこぼれた。
「そっちのおじさんは?」
びらびら男は、堂々とした態度でキダイに会釈する。
「不肖の息子に悩まされる、賢明なる父、タファシだ。ところで、君は?本当なら君から先に名乗るのが、礼儀というものだが」
「あー、すいません。非常識な相棒に振り回される、真面目な旅人のキダイです」
互いの名前が知れわたり、その後、彼らの口はもっぱら食事に従事して、店を出た時には太陽の船が天海の縁にだいぶ近づいていた。
ラカラカとキダイは、イセたちと同じ宿に部屋をとった。タファシはイセから金を受け取ると、そうそうに服を買いにまた町へ出ていったまま、夜になっても、戻って来なかったが、イセは気にもとめない様子で、ラカラカたちがとった部屋に三人で眠った。
次の朝、イセが自室に戻って男の服装に着替えて出てくると、昨日、少女に見えたのが不思議なほど、まともな少年である。
キダイが素直にその旨を表明すると、イセはあごを上げて、両手を腰に当てて仁王立ち。 「ぼくは、天才だもん。踊りによって何にでもなれる」
キダイがイセのセリフに首をかしげると、イセは音を立てずに小さくステップを踏み、ゆっくりと手を上げた。肩から首をすうっとしならせて両手をキダイのほうに差し出し、明るい優しさをこめてほほえむ。
「…納得した」
キダイは半ばあきれてそう言った。
男の服を着ていても、美しい少女にしか見えなかった。だが、美少女は一瞬にして消え去り、不遜な笑いを溜めたイセが現れて、ばたりと腕を下ろした。
「美人をやるのは簡単。ぼく、もとが美形だから」
ラカラカがキダイを見上げて言う。
「イセの踊りはすごいよ。たぶん世界一だよ」
「自信過剰も世界一かも…」
キダイの言葉を聞く前に、イセはラカラカの手をにぎって歩き出している。キダイは長い胴体をやや前屈みにして、あとを追う。
通りの両側は、商店や住宅が混ざりあって立ち並ぶ。道は広く、竜車が難なくすれちがう。
キダイが刀剣商の前で立ち止まる。
「なあ、イセ。剣を一本買ってくれよ。ちゃんと、金は返すから」
イセはキダイを見上げる。
「いいけど。その背負ってるのは、飾りなの?」
キダイは店に半分体をつっこみながら答える。
「反対だよ。こいつを抜くと人殺ししなきゃならないから、商売にならない」
イセは、ラカラカを見下ろす。
「あいつ、まともなの?」
「ぜんぜん」
ラカラカの答えからは、質問に対する是非が判然としなかったが、イセはそれ以上気にしなかった。薄暗い店内に入ると、ありとあらゆる長さと用途の刃物が、壁の棚にずらりと並んでいる。 キダイは迷わず一本の長剣を手に取って抜き、手首で軽く振ってみる。それは鞘に納めて棚に戻し、別のもう一本を同じように試してみる。
「これ、いくら?」
店の親父に尋ねる。
「五万七千」
キダイは長い両手を高く上げる。
「ご主人、あんまりなめないで下さいよ。これだったら、二万までしか出せないぜ」
自分のほうこそあきれたというふうに親父は首を振る。
「二万だったら、刃渡りがその三分の一になるよ」
「長いのがいい。これが欲しい」
「五万五千」
「柄が四千五百、刃が一万二千てところでしょ?二万出すって言ってるんですぜ?」
キダイが言った内訳がほとんど図星だったらしい、親父は頬をぴくりとゆがめてキダイをにらむ。
「三万五千」
「三万」
親父は重々しくうなずいた。
三人は、店を出ると寺院前の広場へと向かう。広場の中で人の流れの脇に陣取って、商売のはじまりだ。まず、ラカラカが歌をうたう。このあたりで人気のある、ビンシューラ訛りのはやり歌だ。ぱらぱらと人が集まり、前に広げて置いた皮袋の中に、コインが投げこまれる。
そこで、ラカラカは歌を止めて頭を下げ、棒読みに口上を述べる。
「さあさあ、お集りのみなさま!これなる男がささげ持ったる、銀の鞘に入ったひとふりの剣!」
立ち上がったキダイが、シャド・ラグを両手で掲げて見せる。
「この宝剣が、銀貨二枚で手に入る!」
ラカラカは舌足らずの声で述べたてる。
「この男と剣の勝負をして、勝ったら、この宝剣と、お代の銀貨もお返しします!」
キダイはさっき買った剣を抜き、ラカラカの傍らでびゅんと振り回した。軽く型どうりの演舞をする。
後ろに座って成り行きを眺めていたイセの顔が、まったく無表情になってキダイの動きを追っていた。
「さあさあ、どなたか、勝負をしようという方はいませんか!」
ラカラカは見物人の中の何人かに声をかけるが、うまくのって来ない。そのうち、見物人もまばらになり、歌をうたうところからやり直し。
三回目に、磨き上げられて黒光りする皮鞘の、湾曲した刀を下げた、身なりのいい若者が進み出た。
ラカラカはその勇気を誉め讃え、見物人に呼びかける。
「さあ、右手が挑戦者、左手がこの男だよ!率は、三対一!挑戦者が三!こちらが一ですよ!さあさあ、皆さん、どっちに賭けますか!」
ラカラカは見物人の間を回って賭け金を集めると、二人の間に立ち、両手を上げて、間を取らせる。
「では、はじめと言ったら、剣を抜いて勝負です!…はじめ!」
ラカラカは、ぱっと後ろに飛んで離れた。キダイと若者がじゃらりと剣を抜きはなつ。
若者が横なぎにキダイの胴をはらうのを、キダイが跳ね返す。若者は返す刀でキダイの肩を狙い、キダイはそれを剣の根元で受け止めた。若者が力任せに押しかかるのを、後ろに引いて離す。キダイは若者に手を出させては、危ないところで受け流し受け止める。
若者の息があがって一瞬動きが止まった剣を、キダイの剣が叩き落とした。
見物人たちが一斉に、おおと声を上げる。キダイは若者の剣を拾って渡し、肩を叩いて健闘を讃える。その手を取って共に見物人のほうへ頭を下げた。
「挑戦者の健闘に、どうぞ称賛を!」
ラカラカは、手を伸ばす見物人たちに賭の配当を渡してまわる。さらに三人と勝負をして、お開きにした。キダイが皮袋の中身を全部出して、足りない分は明日と言って、イセに差し出す。だが、イセは受け取らない。
「いらない。見物料に取っといて」
「相棒の婚約者から、取れませんて」
「キダイ。あんたの剣は、見るだけの価値があった。ぼくが言うんだから、自慢していい」
キダイは、イセの自信に気の抜けた笑いを浮かべ、手の上のコインをちゃりんと鳴らす。
「はあ、どうも。…じゃあ、飯おごるわ」
三人はラカラカを真ん中にして市場の屋台に並んで座った。イセはラカラカの肩に腕を回し、べったりくっついて言う。
「ラカラカ、どうして大きくならないのさ…」
「うん?年取らないからだよ」
「だからさ。十三才くらいになったら、ものすごい美人になるよ」
キダイが茶をすする。
「想像できん」
「今だってこんなに可愛いじゃん!」
イセは音を立ててラカラカの頬と額にくちづけて、突然、母になって言う。
「ちゃんと普通に育って欲しかったわ」
ラカラカはけらけらと笑う。
「普通だったら、もう骨も溶けちゃってるよ!」
「せめて初潮が来てればなあ。手ぇ出せるのに」
キダイがむせかえる。イセがくってかかる。
「何だよ、キダイ!あんただって、そう思ったことあるだろ?」
「…っねえよ!俺は、胸の大きい女っぽい女が好きなの。ガキに手を出す趣味はない」
「あんた、女を見る目が曇ってるな!」
言い返そうとしたキダイより先に、ラカラカがいじわるいっぱいにイセに言う。
「前にイセに会った時さあ、キダイ、だまされて結婚してたから、ラカラカと一緒にいなかったんだけどさ、金ぜんぶ取られて、捨てられたんだよ」
キダイは殉教者の顔つきで、天海を見上げた。
「いいんだ、あれはあれで。本当にいい女だったんだよ」
ラカラカは毎度のセリフを聞いて、上目使いにイセに同意を求め、二人は同時にキダイに言った。
「…ばか」
金の光の船は急ぎ足で水の天蓋を滑って行く。三人は暗くなるまで、広い市場の中をひやかして歩いた。遊び疲れてラウ茶を飲んでいると、キダイの隣に腰を下ろした中年の男が、キダイのひじをつつく。長身の青年はすでに習性になっている、人の好い笑顔を向けて、どうもとあいさつを返した。
男は、キダイを見ずに、横目でイセを見ている。
「な…、いくらだ?」
キダイは笑って手を振った。
「俺はポン引きじゃねえよ」
男はその言葉を誤解して席を立つと、直接イセの肩に手をかけた。冷たい動作でその手を払いのけられるが、イセの耳に吹き込むように何か言う。
「馬鹿にするのも、いい加減にしやがれっ!金で体がどうにかなると思ってるような兵六玉が、調子こいてんじゃねえっ!」
椅子を蹴立ててまくしたてるイセに、男は首まで真っ赤になってつかみかかった。イセは、男の予想どうりの動きに対して、何の予備動作もなく、相手の金的を蹴り上げる。体を折った男のあごをひざで蹴り上げ、延髄をひじで打つ。
キダイは柄にかけていた手を離して、ぱちぱちと拍手した。
「派手なことやるねえ」
イセは眉を吊り上げて笑い、ラカラカを抱き上げて、逃げ出した。
宿に着くと、タファシが戻っていた。まとめてあったイセの荷物を、うむを言わさず持ち主に押しつける。
「おまえ、そっちの二人と一緒に泊めてもらいなさい」
「ちっ。また、女ひっかけたのかよ」
「素晴らしい踊り手だ」
化粧の濃い、キダイの好みにも合いそうな女だ。真っ赤に濡れた唇で、イセに笑いかける。
「可愛いわね」
「あんたよりね」
女は、可愛いという価値を無に帰するように、妖艶なしぐさで肩をすくめた。その動きがきまっていたので、イセは女と敵対するのをやめ、父親の世話を宜しく頼んだ。
ところで、食べることと眠ることが満たされていれば、人間はけっこう幸せに生きていける。
ただし、この二つの条件を満たすための困難というのはある。稼がなければならない。
さらにただし、これ以外の何らかの条件が満たされていないと生きていても幸せではない、という場合も、もちろん多々ある。
「踊りたい」
イセは踊れなかったら、死んでしまう。踊れないと稼げないということもあるが、そうではなく。
今日の衣装は、踊りのための色鮮やかな長衣である。 イセはラカラカと手をつないで広場へ向かう。キダイはその後ろをふらりとついて行く。
「ラカラカ、何か歌って」
「何でもいいの?」
「うん。合わせるから」
ラカラカは歌い始めた。川辺に咲き乱れた花を風が揺らして行く様を歌う。
イセは、花の真似も風の真似も、それを見る者の真似もしなかったが、歌と動きは一つだった。
しかし、突如イセは、イセではない美しい女になって花の姿を写し、凛々しい男になって風のふりをしながら、相手の見えない恋愛劇をくりひろげる。
そしてまた、人間を捨てて踊りだけになって、踊り終えた。
地面に両ひざをついて、天海をはるかにのぞんでぴたりと動かない。ラカラカも紫眼をふせ、大気の中に消え行く歌の残照をイセのまわりに投げかけている。
それは何秒にも満たない時間だったが、絶対に必要な一瞬だった。
イセはイセに戻ってひょいと立ち上がり、ラカラカに預けた小さな皮袋の中から手のひら大の青銅のシンバルを二枚取り出す。ラカラカの前にしゃがみ、短いリズムをくり返してみせる。
「これで歌える?」
「…ミリエオン」
「いいよ、やって」
ラカラカは二三回シンバルのリズムに合わせて、体を揺らすと、慎重にそれに合わせて歌い始める。イセも歌の速度に歩みよって、シンバルと歌が滑らかに流れ出すと、立ち上がって見物客の前に出て行った。さっきよりも調子のいい、見ているほうも足が動き出してしまいそうな踊りだ。天海を通ってきた透明な日光が、シンバルに反射して、小さな太陽が踊っているようだ。
短い休みを何度かはさんで、イセは何時間も一人で踊っていた。
幾日かそうやって、キダイの賭け勝負と、イセの踊りをくり返していると、寺院広場の一角に三人の場所がいつも空いているようになった。果物や菓子を売り歩く少年たちとも顔見知りになるし、市場の屋台のおばさんにも名前を覚えられる。
生薬の行商人はおまけの飴をラカラカにくれて旅立ち、イセがターバンを買った織物商はその日の船に乗ると言い、三人はまたここで会おうと言って、旅人を見送った。
タファシは、例の女といっしょに、とある金持ちに雇われているらしい。
それぞれが、この町で日課と居場所を手に入れて、結果、旅立ちあぐねていた。
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