第9話 旅路は御恵みに満ちて


     9  旅路は御恵みに満ちて



 ラカラカとキダイと給仕女の三人は、トクディ門から何食わぬ顔で町の外へ出た。天海を横切る二つの月のおかげで景色が見えるほどに荒野は明るい。

 ラカラカがキダイを見上げる。

「ベリン大道かマサリ滝に出るか、どうする?」

 キダイはうーんとうなって、何となく給仕女を見てみる。ラカラカもそれにならった。

「……名前は?」

 うなずいたのか、下を向いただけなのか分からないが、うつむいて答える。

「ウィディ」

「んで、あんたはどうしたい? メラーマンにいたいんなら、悪いけどここから歩いて戻ってもらうようになるな」

 ウィディは無表情に首を横に振る。

「ベリン大道をとるなら、アイムか……ジャエンフはやばいらしいから」

「ジャエンフ」

 黙っていたウィディが、ぽつりと言う。それにラカラカとキダイは声を揃えた。

「決まり」

 二頭の竜はベリン大道へと騎首を向ける。

 ラカラカが先になり、乾いた土と潅木しかない土地を行く。唯一の指標、左後方に燐光のろうとを立てたようなメラーマン滝が見える。やがてそれも地平線に消えるだろう。

 ベリンのルートには大道の名が付いてはいるが、荒野にかすかに残るわだちの跡くらいのものだ。水系を離れる道は皆その程度。沙漠を渡る旅は危険なものだ。時間がかかっても、水系まわりで旅をする者のほうが多い。安全な旅のためには案内人が必要だ。彼らは滝だけでなく、

 天海にも道があるのだという。沙漠の案内人たちは天海の流れを見極めて進む方向を見出すことができる。海流図と天海を見比べても、素人にはその流れを見極めることは難しいが。

 ラカラカは道のない荒野のただ中で正確にベリン大道を見つけ出した。旅慣れぬウィディなど、これがベリン大道だと言われてもすぐにはまわりの景色と見わけがつかない。

「今夜はメジに泊まれそうだね」

 メジはメラーマン水系のナナヤ川の果てるところだ。町とは言えないだろう。ベリン大道を行く者たちが足を止めるだけの中継所である。

「水と食い物を買わないとな」

「うん。……ウィディに竜が欲しいけどいないかなあ」

 一行は夜半すぎにメジに入った。

 ナナヤ川が最後に流れつく場所は小さなため池だ。ひとまたぎにできるほどの、石で固めた水路がナナヤ川で、夜の荒野で黒く墨を引いたように流れている。

 その池のまわりに火を囲んだ五人の男と、荷を降ろされた六頭のトカゲがうずくまっている。

 キダイが愛想良くあいさつする。

「どうも、こんばんは。となりに泊まらせてもらっていいですかね?」

 一人の若い男が立ち上がると、他の四人も慌てたように立ち上がった。若い男が両手を下げ手の平をキダイたちに向けて言う。

「こんばんは。この夜の安全と明日の平安を、明けき名のもとにあなた方が享受なされますことを」

 あまりに正式なあいさつを返されて、キダイは半ばあきれ、頭を掻いてどうもと答えた。

 白い顔で優しい瞼をした男が目礼して微笑む。

「どうぞ、火のほうへ」

 三人が開けてもらった場所に座ると、五人の男たちも若い男を真ん中にして座り直した。 若い男と、席を勧めた男、もう一人長身の男は厚い竜皮のブーツを履いている。もう一人、若い男の後ろで横を向いて座っている男は町を歩くような靴の上から脚絆を巻いている。

 最後の一人は、青く染めた草竜の皮で浅い靴。引っ被っている長い外套もまた青い。他の四人から少し離れて座っている。青い衣装はハイガ族のものだ。彼らは沙漠を渡る旅の優秀な案内人として知られる部族である。

 席を勧めた男が若い男の右手に座り、火に照らされた三人の顔を柔らかな睫の下から見つめている。微笑んでいるのは口元だけだ。ラカラカの紫眼が男の鋭い視線を、まっすぐに見返すと、男は今度は本当に、軽く笑って目をそらした。

 若い男は背筋を伸ばし、明るい声でキダイに話しかける。

「私の名はスランマルタ。商用でジャエンフまで行くのですが、あなた方はどちらまで?」

「同じジャエンフですけどね、でもあんた方、商売で? ジャエンフは戦場になって大変なことになってるってウワサでしょ?」

 スランマルタの顔が曇る。その後ろに座った男は息を飲んだ。

「そうでしたか」

 地面を見てため息をつき、顔を上げる。

「今、はじめて聞きました。どんな様子なのか、教えていただけませんか」

 真剣な表情だ。キダイは少々けおされて首をふる。

「あんまり詳しくはね。ウワサだけだから。なんかすんごいのが一発で町一つ吹っ飛ばしたってらしいんだけど」

 スランマルタは眉根を寄せ、左右の男を見、小声で二言三言交わす。キダイはうろ覚えに聞いた話を頭の中でひっくりかえす。

「えーと、おとといだ、確か。あんた方、それ聞くより前に出発しちゃったんだ?」

 席を勧めた男がキダイを見る。彼の表情は先程と変わらず薄く微笑っている。

「それで、あなた方はなぜジャエンフへ?」

 キダイとラカラカはウィディを見た。

「……そーいや、聞いてなかったっけ?」

 ウィディは火の方へ視線を向けたまま、小さくうわずった声で答えた。

「家族がいる……」

 キダイが男を見やって、というわけ、と言った。ラカラカはウィディの手を両手で握って顔をのぞく。

「だいじょぶだよ。会えるよ」

「うん」

 ウィディはラカラカにだけ笑いかけた。

 スランマルタがそれを見て、苦しい声をかける。

「行かない方がいい。あなた方自身のために」

 ラカラカが聞き返す。

「じゃあ、あんたたちは行かないの?」

「いや……、行かなければならない」

 スランマルタの答えは、ラカラカにというよりは、自分に向けられたもののようだった。 翌朝、二組の旅人は、共にジャエンフへ出発した。

 メジに余分な竜がいるわけもなく、ラカラカとウィディはまた一つの鞍にまたがった。そうして、歌を歌っている。ラカラカがジャエンフの歌を教えてくれとせがんだのだ。ウィディはいつもの呟くようなしゃべり方からは想像もつかぬ歌い手だった。身振りまで交えていくつもの古い歌を歌った。

 キダイは気を取り直したらしいスランマルタと竜首を並べていた。

「いい竜だなあ。高かったんじゃないの?」

「ありがとう。でも値段はわかりません。これの親がわが家で産んだものなので」

「へええ。金持ちの家なんですねえ。牧場主かなんか?」

 キダイの好奇心に満ちた眼差しに、スランマルタは曖昧に答える。

「いえ。うん。そんなもの、でしょう」

 キダイの横に、席を勧めた男が草竜を進めてきた。

「あなたの剣こそ、すばらしいじゃないですか?」

「たいしたもんじゃないさ。大きいだけ」

 底光りする、男の瞳。

「私はスランマルタ様の護衛役でしてね。剣の善し悪しくらいは分かるつもりです。いくらなら売ってくれますか?」

「テイ、失礼だぞ」

 スランマルタがたしなめるが、キダイは笑った。

「抜いてもみないで剣の善し悪しがわかるもんかい。でも、いい勘してるよ。これは売れない。って、言わせたいんだろ? ほらやっぱり値打ちもんだ、ってあんたは言うんだ」

 テイと呼ばれた男は微笑った。

「やっぱり値打ちものなんですか?」

「俺には、な。育ての親の形見だから」

 天海を透かす日は中点に近くなり、ウィディとラカラカはまだ歌っていた。

 メジの小さなオアシスはもう振り返っても見えない。その池のまわりで、足跡の数を調べる八人の男たちの姿も。

「竜は八頭だな。一緒に発っている」

「仲間か?」

「子供の足跡が残ってる。ただの旅行者だろうよ」

「どうする」

「しばらく様子を見よう。別れてくれりゃいいが」

 八人は、砂よけの布を顔まで巻きつけ、ベリン大道をジャエンフの方へと辿りはじめた。竜が速度を上げぬよう気をつけながら。

 荒野を進んで五日もたつと、キダイとテイの腹の探り合いはネタが尽き、ラカラカはジャエンフの歌を三つ覚えた。

 スランマルタは少し疲れているようだ。騎上で居眠りをしている。首が前に倒れて、あごが胸に付きそうだというところで、体が横にかしいだ。その腕を伴走していた男がつかまえる。

 スランマルタは、うわ、と声をあげて目を覚ました。

「……ありがとう、ディン」

 ディンと呼ばれた男は、彫りの深い直線的な顔と体をしている。キダイと同じくらいの長身だが、もっと男前で真面目くさった表情をしている。

「気を付けてください。居眠りより危ないことがたくさんある」

「すまない」

 苦笑するスランマルタに、テイが霞のように笑って追い討ちをかける。

「ご自分で首の骨を折ってお亡くなりじゃあ、私たちには防ぎようもなければ、言い訳のしようもないですね。もうちょっと体裁つけてもらわないと」

 ディンが視線でテイを諌めるが、にやにや笑いがますます広がっただけだった。

 ハイガ族の案内人は自分の客たちの会話など聞きもせず、もう一組の旅人たちが騒ぐのを聞いていた。

 歌い騒ぐのを。

「誰が名付けたか、桃橙窟

 遊ぶ美童の忍ぶ場所」

 ウィディがここまで歌うと、ラカラカと、キダイまでが合いの手をいれる。

「桃橙窟に通い忍んで来た私

 出て来ておくれ、私と遊びに」

 合いの手。

 ハイガ族の歌とは節が違うが案内人は気に入っていた。歌はいい、と思う。言葉よりいい。たぶん風に似ているからだ。

 青い長衣が風の形を目に見えるようにしている。

 頭上を仰ぐと、金の光の船は青い天蓋の外側のだいぶ裾の方へと下りてきている。もう少しすると、荒野の全てが彼の衣と同じ天海の色に染まる。

 その時間になるとラカラカが言った。

「天海の中って、昼間もこんな色かなあ」

 案内人が振り返ると、ラカラカは彼にそう問うているのだった。

「ああ」

 答えてから、少女の顔がいつもと違う気がして考える。

 見つめられて、ラカラカはまじまじとハイガ族の目を見返す。青い目で見返されて、彼はその違和感が何であったのか了解した。光のせいで紫眼が青く見えるからだ。はじめは紫の目に凶兆を思ったものだが。

「ねえ、ハイガのひと?」

「ああ」

「なまえは?」

「ラダールだ」

「ふうん。四つの青だね」

 少女は彼の部族の言葉をトゥマライ語に訳してみせた。少女の目の中に紫の色が沈んでいる。

 キダイがラダールに声をかけた。

「野営どこでするんだ? 今日は早めに休んだほうがいいだろ」

「もう少し先に窪地がある」

「良く覚えてるなあ。さすがだねえ」

「お前たちはよく案内を付けずに旅に出たものだな」

 キダイは竜の上で長い上体をそらして笑う。

「いるじゃんよ! ちっちゃすぎて目に入んなかった?」

「あの子供か」

 幼い案内人というのもいるのだろう。ハイガ族は風の中のすべてをあるがままに認めることを美徳とする。

 例えば、寒さをだ。

 荒野の昼は暑く、夜は寒い。火をおこし外套を体に巻きつける。後方から寒さが迫るが、そのことを不満には思わない。不安にも思わない。

 食べ物は潤沢にあった。スランマルタ一行のものだが、道連れの三人組も一緒に食べている。両者の財力の差と旅における友情の意義を解くキダイに、スランマルタがあっさり言いくるめられたのだ。

 テイは柔らかな睫の陰からそのやり取りを見ていたが、スランマルタから意見を求められると言った。

「そのほうが、ジャエンフについた時、食料がそんなに余らなくて済むからいいんじゃないですか?」

 珍しくラダールが口をはさんだ。

「まったくだ」

 出発するときから装備の多さにあきれていたのだ。沙漠を渡るさいの通例では、緊急事態を除いて食料を共有することはまずないのだが。

 穀物の粉と塩バターを軽く煮、干した肉と果物をしがみ、ウル茶をすする。バターと干し肉は貴重品。

「うまい」

 キダイは幸せそうである。

 三人組はラカラカを真ん中にして抱き合って眠っている。一枚の外套を下に、二枚の外套を被って、三人分の体温を一つにして。

 熾が風に煽られて光をゆらめかせた。ラダールが半身を起こす。道の彼方を睨み、風を聞く。風ではない、竜の爪が砂を噛む音だ。

 ラカラカが跳ね起きてラダールを見た。

「静かにしろ」

 ラカラカは開きかけた口を、あむと閉じる。

 皆が起きだし、テイが眠ったようなくせに鋭い眼差しで聞く。

「どうした?」

「竜が来る。五頭以上だ。盗賊だと思ったほうがいい」

 テイは、微笑った。何かを蔑むような高慢な微笑。その表情のままスランマルタを見る。

「本当に来るんですから、笑ってしまいますね」

「すまない」

 眉根をよせたスランマルタ。ディンがげんこつをテイの頭にぶつけた。

「あいてっ」

「いじめて楽しんでいる場合か」

「スランマルタって、どんないじわる言っても思いどおりにはまるから面白くって」

 テイはにこにこしてスランマルタを見る。スランマルタもさすがにため息まじりに苦笑した。

 キダイが体を低くしたまま、うっそりと近づいてきた。

「……ほんとにそんな場合じゃござんせんでしょ。早く竜の陰にかくれて、武器の用意する」

 あちらから来るとラダールが言った方角に、熾を隔てて対峙する。キダイが油をかけた燃料を用意して熾のそばに控える。竜の前には、ラダール、テイ、ディンがうずくまり、スランマルタともう一人の男、ラカラカ、ウィディは、竜の後ろにうずくまる。

 突然蹴爪の音が聞こえる。 

 キダイが熾に燃料をぶちこみ、炎が立ち上がる。

 青黒い世界に、色のついた騎竜が現れた。

 そして、銃声。

 一ヵ所に集めて伏せさせた竜の一頭が跳ね上がって倒れた。足が空しく宙を蹴る。竜たちは金切り声をあげて四方に走り出し、スランマルタたちを庇うものは荷物の一山だけになった。

 身を低くして走りながら、キダイはスランマルタ一行が懐から短銃を引き出すのを見た。

「あっ、いいもん持ってんなあ」

 銃声の応酬。相手の竜が三頭倒れる。

 キダイがラカラカの隣に転げこむと、ラダールと鉢合わせ。

「何人いる?」

「八人だ。皆、銃を持っている」

「こっちは四丁か。分がわりいな、しょーがねえか」

 キダイは一人決めして、荷物の端から大剣をひっこぬく。

「いくらなんでも、テッポウに太刀打ちできるかねえ?」

 ラカラカのほうを向いて聞き、返事を待たずに銀の鞘をはらった。

 ラカラカは頭上を通り過ぎた輝きに言う。

「久しぶりのひとごろしね」

 烈風の反りをもった鍛鉄は、闇に開いた傷口のようにぬめった光を放つ。

 ラダールは反射的に身をひいた。斬られると、思った。しかし、次の瞬間には無性に触れたいと思った。なんとすばらしい刀かと。ハイガ族の男はすべからく戦士である。

 キダイは手の中で刀身の重さを計る。この重さは自分の腕の重さ。

 冷めていく。冴えた鉄の温度。

 月の白光、炎の赤光、全て跳ね返す。

 脳裏に開くのは、赤い花。乾きを癒す、熱い、赤い、花。

 一言も発せずに、熱のあるほうへ走る。

 銃弾に一瞬止まると、肩からマントをひきはがし前に広げて投げる。どの銃口からも死角になった刹那、間を詰め、竜の首を薙ぐ。投げ出された男は素早くひざをつき銃を構えるが、引き金を引く前に喉から血を吹いた。

 キダイの働きで相手の戦線が乱れる。男たちはまだ、銃を相手に切りこんできたキダイを解せないでいる。

 テイは器用に片方の眉だけしかめた。

「あいつ正気か。こっちの弾が当たっても知らない」

 背後で銃声と悲鳴。

 テイとディンは振り返りざま、立っていた男に向かって乱射。

 スランマルタ、仰向けに倒れた連れの男を抱きとめて目に涙を溜めている。

「マナクが……!」

 マナクという名が漸くあきらかになった男は、胸を赤く染めている。

 ラカラカがマナクの手から銃をもぎ取る。

「ウィディ!」

 ウィディの手を引いて目についた茂みへ走る。

 ラダールはマナクを殺した銃を取り、荷物越しに敵を狙う。

 テイはスランマルタの腕をつかんでマナクの死体の下から引きずり出し、別の茂みへ走る。スランマルタはされるがままに力がない。

「しっかりして。あなたのためなら何も惜しくはないんです、マナクもそう思ってる」  言いながら敵を牽制するテイの顔は見えない。スランマルタも意を決して参戦しようと銃を構えなおす。と、くるりと振り返ったテイに頭を抑え付けられた。

「何やってんです。危ないんだから伏せなさい」

 柔らかな睫が霞む瞼の上の眉は、あきれたように持ち上げられていた。

 すでに人の死体は五つ。竜の半数は死体になり、残りの姿はみえない。

 激しく舞っているかのようなキダイが、前のめりに倒れた。腕を庇って立ち上がろうとする。 

「キダイ! 後ろ!」

 ラカラカが叫んでキダイを狙った男を撃った。動かないキダイのもとにラカラカは走る。

 脇腹にも一発食らって気を失っている。ラカラカは片手に銃を持ったままキダイをひきずろうとするが、長身の青年はびくともしない。

 それを見て、ウィディは這うようにして茂みの陰を出た。途端に、後ろから首に腕を巻かれて引き上げられた。

 恐ろしく大きな声が胴喝する。

「王子が出てこなければこいつを殺る!」

「ウィディ!」

 ラカラカが叫ぶ。

 全員が、はたと動きを止めた。

 スランマルタが茂みを飛び出す。テイはそれを捕まえそこね、舌打ちして追う。ディンが示し合わせたように同時にスランマルタの元へ走る。二人は棒立ちのスランマルタと背中を合わせて銃を構える。

「何をしてる、銃を構えて!」

 スランマルタはテイの忠告を聞かない。頭を上げて立ち、ウィディのこめかみに銃を突きつけた男をまっすぐに見据えている。微塵も慌てず、はっきりとした声で男に命令する。

「その人を離しなさい。私はここだ」

 腕をだらりと下げ迷惑そうな表情をしたウィディのこめかみから、男は銃口を離し、スランマルタの眉間へ向ける。

 テイがスランマルタを突き飛ばし男を狙うが、その手を打ち抜かれて銃を取り落とす。ディンは地に伏したスランマルタを庇って背後の敵に乱射。

 ラカラカがウィディを捕らえた男の、銃を持つ手に飛びかかる。

「なんだ、このガキぁ!」

 一振りでふり飛ばされ、地面に叩きつけられる。その上から、男は子供の頭に銃口を向けた。かすかに眉根を寄せてそれを見たウィディが、やおら腕を伸ばしやみくもに銃を手元に抱え込む。男はウィディに巻いていた腕を解き、殴りつけようとふりかざし、ウィディの体は銃とともに横に振り回され、その拍子に、誰の指か、引き金が引かれた。

 爆発する。

 男は悲鳴をあげ、両手で顔をおおってのけぞる。銃を持っていた手には指がなく、血が滴る。

 ウィディは腕を胸元に引き寄せた姿のまま、祈りを捧げるようにその場にひざをつき、そして、仰のけにくずおれた。

 身を起こしたラカラカが紫眼をみはる。

 まなこも喉も張り裂けよとばかりに悲鳴をあげ、小さな手で倒れた肩を掴みその名を呼ぶ。


 野原に立っている。

 柔らかな草が、青々と広がる。

 風は水を含んで優しい。

 明るく光が満ちている。

 水の流れる音がする。

 目をこらす。

 野原の先に川面がきらきらと光る。

 輝きに誘われて川のほうへ歩く。

 後ろのほうで泣き声が、かすかに聞こえるような気がする。

 大きな川だ。

 とうとうと澄んだ流れ。

 舟が一艚、近づいてくる。

 ゆったりと目の前の岸につく。

 浅葱の長衣をまとった人が舟を下りる。

 川面に足を入れる水音で、後ろから聞こえるかすれ声は打ち消される。

 長衣の裾が水に濡れる。

 銀色の長い髪。

 うす水色の瞳が微笑みかける。

 長衣を広げて手をさしのべる。

「……まいりましょう」

 差し出された手を見つめる。

「どこへ……?」

 そっと手をとられる。

「あちらへ」

 向こう岸を指す。

 さやかな風に乗って、すすり泣く声が聞こえる。

 声を探して振り返る。

 背たけほどにも伸びた叢が、あちらこちらで風にそよいでいる。

 首をめぐらすと、どこかからすすり泣きが聞こえる。

 うす水色の瞳を見やると、また他から声が届く。

「泣いてるよ」

 今度ははっきりと、声が届く。

「ウィディ、て、だれ?」

 銀の髪に縁取られた微笑みは悲しげに、首を横に振る。

 今や泣きながらウィディと呼ぶ声が野に満ちている。

 柔らかな、くさはら。

 緑の光。

 首を傾げて浅葱の衣をまとった人に尋ねる。

「……あたしのことなの……?」

 その人はそっと一度まばたきをする。

「|はい」

 世界を震わすような、子供の泣き声。

 優しい風の流れ。

「あなたは、ゆかねばなりません」

 舟へとうながす。

「あっちへ……?」

 向こう岸をのぞむ。

「でも、あたしを呼んで、泣いてるのは……だれ?」

 銀色の髪がさらりと流れる。

「あなたが、あの御子のところへゆくことは、できないのです」

 声が、力をもって、全身を引く。

 浅葱の衣が包むように抱き留める。

 うす水色の瞳が、その目には映らぬ声の主に、静かに訴える。

「おやめください、此岸の御子よ。この御子の居所は、もうそちらにはございません」

 穏やかに明るい野原。

 嵐のような声。

 抱き留められたまま、引かれる。

 吹き荒れる声。

 浅葱の衣が、うしろへ引き裂かれる。

 銀の髪が乱れる。

 ゆるやかな風にそよぐ草の葉。

 荒れ狂う声。

 声に引かれる体を、腕の中に留める。

 懇願する。

「もう、お呼びなさいますな……!」

 腕をひきはがそうとする、悲しみの声。

 銀色の頭を横に振る。

 うす水色の瞳には涙がたまる。

「もう、お苦しめなさいますな!」

 轟々たる声は、いやだと返せと離せと行くなと戻れといやだといやだといきかえれと言う。

 そして、ウィディ、と。

 あたたかな野原。

 ウィディと呼ぶ声。

 繰り返し繰り返しウィディと泣き叫び呼ばう。

「いけない!」

「シンジャダメダウィディ!」 

 川面まで跳ね飛ばされる。

 ウィディは声に攫われて地平の彼方へ消えた。

 水の中についた、両の手足。

 銀色の髪の裾までが、水に濡れる。

 涼しげな川の音。

 うなだれたうなじ。

 きつく閉じられた瞼。

 銀の睫が濡れる。

 川面を渡る風。

 目を開く。

 爪の先が、川底の砂を掴んでいる。

 うつむいたまま立ち上がる。

 裂けた衣のかかる肩が震える。

 漸くこうべを上げる。

 わななく唇で、一度大きく息を吐く。

「……つれもどしにまいります……」

 地平の彼方を目指して歩き出した。


 ラカラカが生き返ったウィディの顔の左半分が隠れるようにターバンを巻きつける。ウィディは立ち上がりながら呟くように尋ねる。

「ねえ、あたしのこと呼んでた?」

 少女は元気良く立ち上がって答えた。

「うん。ウィディ死んじゃったけど、呼んだら戻ってきたから、土で直した。ラカラカの声大きいから、聞こえたでしょ?」

 夢を見たはずだが、よく覚えていない。

 上着の裾をはたいてあたりを見回すと、頭に長い太刀が食いこんだ男が倒れていた。キダイが振り回していた刀だ。

 少し離れたところで、スランマルタが立てた膝に顔をうずめて座り込んでいる。傍らにはあさっての方角を向いたテイが風に靡くように立ち、ディンは荷物の山から何やら取り出そうとしている。荷物の側に広げられたマントの端からきゃしゃな靴に脚絆を巻いた足が覗いている。

 地に伏して髪や外套の裾を風にあおられるがまま、自ら動く気配がない者たちが八人。

 キダイは体を起こし、ラダールに腕を取られて顔をしかめている。包帯はハイガ族の上着を裂いたものだ。

「あだだだだ。やさしくしてー!」

 ラカラカ、キダイのとなりにしゃがみこむと包帯の巻かれた腹をつついた。

「ぎゃあっ……!」

「痛い?」

「何しやがんだ、このクソガキ!」

 ラダールが治療中の腕をがっちり掴んで離さないので、キダイは反対の手でラカラカに砂を投げる。

「何だよもう。助けてやんないよっ」

「誰が助けてもらったよ? 俺の勇敢な戦いのおかげでみんなの命が助かったんだろーが」

「ラカラカは不死身だもん! キダイなんかみんなも自分もケガして気絶じゃんか」

「俺のは名誉の負傷なの!」

 ラダールが包帯を巻き終わった腕を離さずに言う。

「取り込み中、すまないが」

 キダイが振り向く。間延びしたお人好しの笑顔。

「あ、終わった? どうもありがとう。悪いな、上着を使わせちまって。ラカラカのをひっぺがして、あんたにやりたいとこだけど小さすぎてだめだよなあ。俺のは血みどろ穴開きだし」

 ハイガ族は口の端を引き締めるようにして、どうやら笑ったらしい。

「上着は要らない。外套がある。それより自分の荷物を改めてくれ」

 ああと言って、キダイは手近にあったラカラカの頭に手をかけ支えにして、傷をかばいながら立つ。ラカラカは頭を押えつけられて尻もちをつき、腹いせにキダイのケツをひっぱたいた。

 紫眼の少女は地面に尻をつけた姿勢からいきなり走り出す。ウィディの手を握って、彼女の顔を振り仰ぎ甲高い声でしゃべりまくる。

 キダイはラダールと共に荷物のほうへ歩き出す。

「盗られたもんはねえよな。あいつら一人も逃がしてないだろ? あ、もともと物盗りじゃないんだったな」

「竜が一頭も残っていない。水がどれだけ残っているか分からない」

「こっからジャエンフまで何日だ?」

「十五日。メジまでならば十二日だ」

「どっちにしろ絶望的かねえ?」

 キダイは愉快に笑おうとして脇腹の傷に顔をしかめた。

 荷物は弾痕だらけだ。

「あーあー」

 ひどいと言いながら、キダイは荷物のまわりをうろうろして捜し物。地面から拾い上げたのは銀の鞘だ。逆さにするとざらりと砂が落ちる。

「中身はあっちか」

 キダイはまたうっそりと、もと来たほうへ戻っていく。

 長い刀身の先から三分の一あたりのところが、目のつぶれた男の側頭部に斜めに食い込んでいる。横倒れになった男の頭から柄を上にして斜めに立ち上がった刀。

「ラカラカ。これ入れて」

 少女はウィディの手を離して、銀の鞘を差し出すキダイに駆け寄る。倒れた男の肩を足で押さえ、両手で太刀を引っこ抜く。男の背中に汚れをなすりつけて、キダイが支える鞘に納めた。

 荷物の側に戻ってきたキダイに、ラダールが言う。

「手入れをしなくていいのか?」

「抜き身にしとくと怖いからあれは」

 昨夜、間近に見た刀身の輝きを思い出す。

「俺が撃たれたから、皆助かったんだぜー。痛えけど俺も助かった」

 キダイはのほほんとした声を出して、鞘に入った刀を脇に放る。

「危ねえ危ねえ」

 ディンがラダールに呼びかける。

「無事な水袋はあったか?」

「二つだ」

「こちらに一つある。それで終いか」

 ディンの言葉にキダイは、けっけっと笑い明るい声を上げる。

「絶望的ですねえ」

「ふざけるな!」

 ディンが一喝。キダイは肩をすくめた。

 水袋はもう一つ見つかり、計四つ。しかし、足りないことに変わりはない。

 テイが目を真っ赤に泣き腫らしたスランマルタを後ろから支えるようにしてやってくる。

「白い布はありませんでしたか?」

 マナクの弔いをするのだと言う。

 荷物の中から丈の長い上着を二つ見つけ出し、遺体を包もうとかけてあったマントをとると、茶色くなった胸の弾の跡から、紫に光る背中をした砂虫が三匹逃げ出して行った。 スランマルタは息を飲み、歯をくいしばり、耐えきれずにその場にひざをついて胃に残っていたものを全部吐き出した。

「あ、もったいない」

 思わず言って、見事に声が揃ってしまったテイとキダイは、互いに顔を見合わせた。キダイが両手を広げて言ってみる。

「兄弟」

「お断わり」

 提案は一蹴された。

 テイは無事なほうの手の袖でスランマルタの口を拭い、立ち上がらせる。

「葬式をするんでしょう?」

 スランマルタは無言で頷く。テイが巻いた布に血の染みた手をディンにさしあげて見せる。

「使い物にならないんだ。お前がマナクを運んでくれ」

 ディンを先頭に、ラカラカやウィディまで全員でぞろぞろと、やや小高いあたりへ弔いの行列。

 太陽が沈む方角へ頭を向けて、マナクを寝かせる。

 ラカラカがぺたりと白い包みの耳の横に座り、その頭の上に手をかざした。

「偉大なる御名よ、清けき風の流れに充ち満ちてあれ、昏き名を祓えよ、明き名を顕せよ」

 続けてラカラカは葬送のウトゥーを唱えはじめる。古代の雅語で謡われる神歌は、その意味よりも響きが胸を打つ。

 謡い終わると、ラカラカはスランマルタを振り返る。

「終わりだよ」

「ありがとう……」

 感謝の言葉といっしょに嗚咽がこみあげ、涙が止まらない。テイが器用に片眉だけしかめて言った。

「また泣く。水がもったいな……」

 スランマルタは泣きながら、テイに食ってかかる。

「泣いてはいけないか! どうせ私はマナクの命を失わせるほどの無能なのだ! 誇るものもなく泰然としていられるものか! 私は」

「無能な人間に仕えるほど、私は無能ではありませんよ、スランマルタ」

 スランマルタのせりふを遮ったテイは、冷たい表情で自分の主を見下ろし、続ける。

「マナクを、そんな馬鹿者に成り下がらせるつもりですか? ディンをも? あなたの臣下全てをですか?」

 スランマルタの表情から怒りがひく。それでも悲しいのはおさまらないらしい、ぐっと閉じた瞼からぼろぼろ涙がこぼれる。

「あなたは、本当に無能なんかじゃないですよ」

 目をしばたたきながらテイを見上げると、先程の冷たい眼差しではなく、いつもの意地悪を言うときの薄笑いだった。つま先に視線をそらすが間に合わない。

「単に泣き虫なだけです」

 下を向いたスランマルタの肩を逃さじとばかりに抱き、テイはそうでしょうと言って顔をそむける主の顔をのぞき込む。スランマルタはテイのあごに手をかけて押し退けると昂然と背を伸ばして言った。

「おまえも確かに無能ではないな。ただ無礼なだけで!」

「私は下々の出ですから、礼儀には疎いのです。無礼を許し難しと思し召さば、私を放逐して無能な上級貴族を召喚なさい。いくらでも候補がいるでしょう、エゼーク卿、グラミア侯、ハルディン侯……」

 スランマルタは当然、テイの言葉など聞くまいと歩き出しているのだが、テイは後ろからついてくるのだからしようがない。

「……もういい、分かった、許す」

「これから私は無礼言い放題できるわけですか」

 ディンが言う。

「今までとどう違うと言うのだ」

「だいぶ違うさ。ずいぶん抑えてたんだから」

 一行が野営をした窪地に戻ると、うす青いぼろを着た男が突っ立っていた。

「誰だ!」

 ラダールが詰問する。

 ゆっくりと振り向けた顔を見ると、男か女か分からなくなった。異様な銀の髪。うす水色の瞳がウィディをとらえた。

「……お戻りください」

 ラカラカがウィディの手を握る手に力を込める。キダイがウィディを見ると、わずかに目をすがめて迷惑そうな表情。

「知り合いか?」

「違う。知らない」

 うす水色の目は、次にラカラカの紫眼をとらえた。

「あなたが……。手を、お離しください」

「いや!」

 ラカラカは言下に拒否するが、平気で手を放し、とことこと浅葱色のぼろに近づく。

「ラカラカには、触われもしないくせに!」

 少女がまっすぐにうす水色の目を見返し、その体に手を伸ばすと、銀の髪はゆらりとその手から逃げる。

「いけません。あなたの身に……ついてしまいます」

 キダイがラカラカに呼びかける。

「誰なんだ?」

「名前は聞けない。人間じゃない。これは何もできないから、だいじょうぶ」

 紫眼が内光を放つようだ。

「ふーん、大丈夫なのか」

 キダイはラダールとテイを半々に見て言う。

「大丈夫だって。さっさと残りの荷物をまとめましょうぜ」

「死にたくなければ、急げ」

 ラダールがそう言い置いて、荷物のほうへ下りていった。沙漠では案内人にならうのが最善の道である。

 銀の髪をした者は皆から少し離れて立ち、無表情に作業を見つめている。

 気にならないでもないが、まずは我が身の生き死にが気にかかる。水の量を考えるとぎりぎり七日は行けるだろう。だが、七日ではジャエンフへもメジへも行き着けない。

 テイが優しい瞼を閉じて言う。

「スランマルタとラダールを残して、皆殺してしまいましょうか、ねえディン? 最後は互いのこめかみを撃ち合う」

「私が許すと思うのか?」

 スランマルタに叱責されてテイは笑う。

「冗談ですよ。そんなことしたら、あなたが自殺してしまいますから」

 円陣を組んで皆が座った中でラカラカが立ち上がった。何事かと見上げる視線。

「ベリン大道を外れて、丸一日むだにすれば、四分六で水が手に入る」

 どういうことだと、ラダールが尋ねる。

「ハイガなら、この大道が真っ直ぐじゃない訳を知ってるでしょ?」

 ラダールは紫眼を見つめる。

「昔の話だ。場所は残っているが歌は失われた」

 ラカラカが答える。

「ラカラカが、歌を知ってる」

 考え込むラダール。他の者たちには何のことやら。キダイが紫眼をのぞきこんで聞く。「なに?」

 ラカラカは座り込んで、キダイに言う。

「運の良いことにこの近くに聖地があって、そこで滝降ろしの歌を歌うと、小さい滝が降りてくるんだよ。昔はよくやったの」

「はー。んで、成功率が六割か」

「そう」

 キダイはお気楽な調子でなるほどと言う。このまま行けば七日で死んで、滝降ろしがだめでも七日で死んで、滝降ろしがうまくいけば生き延びられるのだなと考える。ならば可能性があるのは一つだけ。

「それいこうぜ」

 テイが片眉しかめている。

「ちょっと……、受け入れ難いですね」

「銃なんか持ち歩いてる人間からすりゃあ、非科学的でございますかね?」

 キダイはテイの顔を伺う。キダイはもちろん、銃を持ってるなんて何様なのだと尋ねているわけだが、テイは動じない。

「そういうことです。私には、信じたくてもそうできないんですよ、感情的にね」

「じゃあ、信じさせてあげる」

 ラカラカは、少し離れたところに佇む銀髪の者を指さす。

「あれは、死神だよ」

 死神のそばまで行って直に尋ねる。

「そうでしょう?」

 銀の髪をざらりと垂らし、うす水色の目で紫眼を見下ろす。

「その名は、正しくない名です」

「あんたは、此の世の物に触われない」

「はい」

 ラカラカは浅葱色の破れ衣をその場に残して、捨て置かれた荷物から松明を取る。キダイに火を点けてもらう。

「火にだって触われない」

 浅葱に炎を近づける。それをよけようともしなかった。

 銀色の髪のほうへ炎を近づける。

 まっすぐに流れる髪に赤い炎が映る。松明の先で髪をすくっても炎は移らない。

「砂も触われないでしょ?」

 松明を捨てて手を伸ばすと、押されたように下がる。退いた足もとを指し示す。

「足あと、付いてない」

 浅葱色の長衣が砂の上を滑って行ったあとには、何も残っていない。銀の髪を植えた首の下には、果たして胴と足が繋がっているのだろうか。

 テイは柔らかな睫の影に表情を隠している。スランマルタは目を丸くしている。

 ディンが睨みつけるように見る。

「まぼろしなのか?」

「違うよ。触わってみる? 痛いと思うよ、きっと」

 テイの目はうす水色の瞳よりも、紫眼を追っている。

「どちらかというと、この女の子のほうが不可解ですね」

 ラダールが立ち上がり、宣言した。

「大道を外れる。ゼゲム海流の方向に八十沙里だ」

 十五日分の食料と四袋の水。そして、破れを繕った空の水袋を背負い、七人は出発した。 少し離れて銀の髪と浅葱の弊衣が風に吹かれ音もなくついて行く。

 ラダールは歩きながら明るく青い天海を見上げる。ゼゲム海流を確かめ、唯一の神たる明けき名を賛じた。

 彼にはラカラカたち三人のことが良く分からない。

 ラカラカは子供の姿をした魔物のようだ。あの子供こそ、人間ではないかもしれない。ラダールの部族でさえ失ってしまった歌をなぜ知っているのかということすら聞けなかった。戦士であるラダールが臆したのだ、ラカラカが答えてしまうことを。

 キダイはその答えを既に聞いたのだろうか。あの子供と平気で話ができる。ウィディはラカラカとキダイに全て任せて、何を考えているのか分からない。

 こんな絶望的な状況はラダールにとっても初めてだ。

 なのに、誰も恐慌に陥らない。

 この状況で平静でいられることのほうがおかしい。

 皆が多くの疑問を棚上げにして、滝降ろしの成否だけを気遣うことにしてしまった。

 問い正したいことがたくさんある。銀髪のあれはいったい何だ。ウィディという娘は死んだのではなかったか。この状況を作り出した原因となった襲撃は何だったのだ。なぜ、スランマルタは王子と呼ばれ、襲われなければならなかった? 銃を持っていた訳は? 

 キダイはそれとなく探りを入れていた。

 それに比べて自分は何をしていた。疑問を棚上げにしているのは、自分自身だ。

 それで自分は、どうして平静でいられるのだ。

 おかしい、と思う。

 だが、生き延びるためには、平静でいることこそ正しい。

 ここで狂乱することは、正常だが、間違った道だ。

 それでいい。

「……明けき名よ、この風に満ち満ちてあれ……」

 ラダールは低く、しかし強く祈った。

 

 ベリン大道は、途中からゆるく曲がっている。

 メジのほうから大道を辿り、曲がりに沿わずにまっすぐに行くと、その場所がある。

 乾いた白い土と絡まりあった潅木、重たく突っ立った多肉植物ばかりの緩慢な起伏が続く荒野に、刃をつきつけ攻め込もうとする岩石の群れ。

 センフ沙漠の中で、ここだけに崩れた岩山がある。岩の一つ一つは大人の身長の倍程度が最大で、それほど大きなものではない。

 ばらばらと岩の散らばる野のほぼ中央に、八つの岩が円形に配置されている。大人の腰の高さの岩が、角を削られた滑らかな姿で正しく八方位を示している。

 太古の昔、明けき名の正しさを疑った巨人の一族の元へ、昼夜の長さが同じになる日に、神臣サグカが赴いた。サグカは、太陽が中天となる時刻に巨人の長をこの岩場へ連れて来て岩の円の中央に立ち、日が沈むのはどの岩の方向かと問う。巨人の長はその問いに難なく答え、一つの岩を指した。サグカは別の岩を指して、明けき名のもとにこの岩が正しいと言う。その日、日が沈んだとき、それはサグカの指した岩の方向であった。巨人の一族は、それから明けき名の正しさを疑うことはなく、この地で歌を献じた。サグカはそれを善しとし、明けき名のもとに、その歌に対して水を与えることを約束した。

 ハイガ族の祖はこの巨人の一族の一人である。


 一行がこの場所に着いた時には日が暮れていた。

 歌は明けき名に献じられるために、夜明けとともに歌い始めなければならないと伝えられている。七人は平らな所の少ない硬い地面で寝苦しい夜を過ごした。

 彼らの後について岩野に入った銀の髪の者は傍らに立ち尽くし、夜明け前に皆が目を覚ました時にもまだ、そのままに突っ立っていた。

 ラカラカは水だけ飲むと、何も言わずに環状列石の中心で東を向いて立つ。

 太陽の姿が見える前に、天海が輝き出す。

 ラカラカは、歌い始めた。

 しかし歌というより、呪文を叫ぶといった体だ。

 浅葱の衣はその声に押されるようにその場を離れた。もはや誰も気に止めなかったが。 響き渡るラカラカの声は、リズミカルだが単調だ。意味は分からないが、韻を踏んでいるのは分かる。ラダールの耳には慣れたリズム。ところどころ単語が聞き取れるが、どれも古風なものだ。

 太陽が完全に姿を現しても、ラカラカの歌がやむ気配はない。皆が固唾を飲んで見守る中、キダイが最初にあくびをして座り込んだ。手近な岩によりかかってウィディの裾を引く。

「時間がかかりそうだ。座ってな」

 ウィディは素直にキダイの横に座り、ターバンに隠されていない右目で、はるか彼方を見るような目付きでラカラカを見ている。ラカラカは唱え続ける。息継ぎもリズムに組み込まれていて途切れることがない。

 ラダールがキダイの隣に腰をおろす。結局、スランマルタたちも別の岩の影に座り込んで、ラカラカ一人が役目を果たしている。

 誰も一言も発せず、ラカラカの歌だけが大気を支配している。

 太陽だけがそれを意に介さず、水の天蓋の上を定めに従ってゆっくりと滑って行く。太陽が中天に達しないうちにラカラカは座り込んだ。なお歌い続ける。

 キダイはそれを見て腕組みをし、鼻から大きく息を吐いた。スランマルタが心配げな表情でキダイのほうを窺うと、眉を吊り上げにんまり笑う。

「心配しなさんな。うまくいくって」

 スランマルタは安心した様子もなかったが、またラカラカに目を戻した。

 しばらくすると立ち上がって角のない石の一つに寄りかかって座り直した。太陽に顔を向け、歌は続く。

 そのうち少し声がかすれ、息継ぎのときに小さく咳払いなどしているので、キダイがのんびりと声をかける。

「水、いるか?」

 少女は口を止めず、相棒のほうを見もせずに、要らないと手を振った。

「ああ。終わるまでダメなのか」

 キダイがラカラカに聞こえるように独りごちると、紫の目がきょろりと向いて口は歌いながら得意気に笑いかけた。

「分かったよ。すごいすごい」

 相棒はぱちぱち手を叩いて褒めてやった。

 太陽が中天に達しても歌は止まない。声はかすれたまま戻らなくなった。

 少女は紫眼を半眼にして何を見ているのか、背にした岩に頭を預けてただ歌だけを口から吐き出している。その声からだんだん覇気が失われていくように思える。時には呟くようだ。それでも途切れることだけはない。

 単調に続く歌は、先刻と今が違う時だということを納得させない。時が進んでいるのか、止まっているのか、はたまた溯っているのかさえ定かでない気がする。

 声が一瞬つかえ、そのひょうしに酷いガラガラ声に変わる。子供の声とは思えない声を出して、ラカラカはだるそうに顔をしかめた。

 スランマルタが咄嗟に立ち上がり、深刻な顔をして環状列石のほうへ歩み寄る。

「もういい。止めてくれ。君がまいってしまう、死んでしまうよ」

「死にやしねえよ」

 スランマルタを見上げたキダイの口振りはいたって平静だ。スランマルタは一瞬、昂然とキダイを睨みつけ、キダイは首を竦めた。

 ラカラカは何も聞こえないかのように歌を続ける。

「もういい。やめなさい」

 スランマルタは一種悲壮な表情でラカラカの肩に手をのばす。触れた瞬間、青い火花が散って後ろへ弾き飛ばされた。黙って見ていたテイとディンが剣を抜き放ち、ラカラカとスランマルタの間に入る。

 酷い声で歌を続ける。

 キダイが三人の後ろから、呆れた声でバカと言う。

 テイの瞳がその柔らかな睫に似つかわしくない鋭さでキダイを振り返る。

 見返すキダイの目も、声のおっとり加減に似つかわしくはない。それでもまだ口振りは飄然と。

「スランマルタさんだっけ? あんた、他人の苦痛によくよく弱いな」

 スランマルタは漸く立ち上がったが茫然としている。キダイに答えたのはテイだ。

「スランマルタ様を傷つけるなら、殺しますよ」

 キダイはいよいよ剣呑な目付きで立ち上がる。

「あのなあ、そいつぁ俺のせりふだっての」

 左手にシャド・ラグを掴んでいる。

「ラカラカに手ぇ出したら殺すぞ、おまえら」

「スランマルタ様はラカラカを気遣っているんじゃないですか。放っておいたら、あの少女は脱水で死んでしまうかもしれない」

「だけど、ぶっ飛ばされて、あんたはラカラカに剣を向けてる」

 テイは薄く笑う。

「今は、あなたにです」

「はあ、そうですかよ。とにかく、邪魔するんだったらあんたらだけで行っちまって下さいましですよ。からの水袋置いて。俺はラカラカが降ろした滝の水をたっぷり持って、助かるんだからさ」

 スランマルタが、怒りではなく、真っ直ぐにキダイを見る。

「いえ。今ある水を持って、あなた方が行って下さい。私のために命を落とすことはない」

 キダイは空気が抜けたようにぐんなりした。

「だーかーらー。ったく、分かんないお人だねえ。どうして、ラカラカが信じられないんだ? こいつが首尾良くやりゃあ、万事うまくいくんじゃねえか。みんな揃って助かるってんですよ?」

 テイが剣を鞘に納めた。そして、一動作でスランマルタのみぞおちに当て身をくらわせ、見事に気絶した主を抱きとめる。

「あらら……」

 キダイが間抜けな声をあげる。ディンがテイの腕からスランマルタを抱き上げると岩陰に横たえる。

 テイは満足そうに笑って、キダイを見る。

「すいませんね。うちの馬鹿な子がからんじゃって」

 キダイは今度は声だけでなく、本当に呆れかえっている。

「からんだのはあんたでしょーが。あんた本当にその坊やのこと大事に扱ってる?」

「ふふ。当然」

 キダイは、テイの、その艶やかさにうんざりした。

 そしてラカラカは、ただ歌い続けている。

 太陽は中天を過ぎ、これからは天蓋を滑り降りようとしている。滝が降りてくる気配は||――そんな気配が感じ取れるものなのかどうか分からないが||、ない。

 歌は日が落ちるまで終わらないだろうということに、そろそろ誰もが気づいている。それまではラカラカの声に耐えなければならない。かさついて、血の滲みそうな声に。

 太陽が天海と大地の縁に近づくと、ラカラカはよろよろ立ち上がった。石の輪の中心に立ち、ヤケクソ気味に声を張り上げる。

 光芒が消えると同時、ラカラカは歌い終え、その瞬間、青い火花が天海へ向けて走る。ラカラカの髪は逆立ち、ぎゃっと叫んでその場に倒れこんだ。

 キダイが駆け寄って抱き起こした。水を飲ませてやると咄嗟には受け付けず、ラカラカはむせた。ウィディが背中をさすってやる。

 やっと息が整い目を閉じたラカラカをキダイが抱き上げたとき、その肩に水が当たった。

 天海からまっすぐに降りてきた滝は、キダイの肩を強く打って弾ける。

 大男は無邪気に歓声を上げる。

 ラカラカを抱えてぐるぐる踊り、その頭に額をぐりぐりと擦りつけて、やったやったと笑う。ラカラカは呻いてキダイの顔をつねってひっぱっている。

 ウィディは源を探るように、腕ほどの太さもない滝を見上げている。滝は星々と上りかけた月の明かりを通してほんのり明るい一本の線となって天海のほうへ伸びている。

 ラダールとテイが素早く空いた水袋に滝の水を受けた。

 全ての水袋が一杯になっても、まだ滝は流れ落ちてくる。

「なんだか、もったいないですね」

 テイは言うと、スランマルタを抱えてきて、がっくり落ちた頭を滝に突っ込んだ。スランマルタは意識を取り戻し、水を飲んでむせかえった。そして、何が起こったのか分かると、息を呑んで絶句した。

 目が潤んでいるのは、水に濡れたせいかどうか。

 やっと、ラカラカを抱いたキダイを見て言う。

「すまなかった。私は、まさか……」

「いいってことよ!」

 キダイは上機嫌だ。

 夜闇の中、ラダールが明朝ジャエンフへ発つことを宣言して、七人は適当な場所に横になった。

 キダイはすぐには寝つけず起き出して月を眺めていると、その隣にテイが腰を下ろした。

「歌を歌わなくても、滝は落ちてきたかもしれない」

 間欠的に小規模な滝が落ちてくる場所というのはある。

「うん。俺だって、ラカラカと長年つき合ってなけりゃ信じねえな」

「あの女の子は、他にも何かやるんですか?」

「んー。俺は十二年前に初めてラカラカに会って、そん時あいつ六歳だったんだよな」  テイは器用に片眉だけしかめる。

「じゃあ、いま幾つなんです」

「六歳。見りゃ分かるだろ」

「信じません」

 テイはきっぱり言って、その場で仰向けに寝転んだ。

 キダイはにやにや笑い、目をつぶったテイの顔を見下ろして尋く。

「なあ、あんたさあ、あの坊やに惚れてるだろ?」

 テイは冷ややかに笑って起き上がる。

「ええ、勿論です」

「俺が言ってるのは、所謂そういう意味でだよ?」

「ええ。そう思っていただいて結構です」

 テイは全く動じずに、しれっと笑う。

「分ってないのは本人お一人だけじゃないですか」

 キダイがまだにやにやしているので、テイは言った。

「下衆」

 キダイは更に勝ち誇ったにやにや笑い。

「どっちが」

「幼女嗜好者」

「誰が! スランマルタに言っちまうぞ」

 テイはけらけら笑う。

「信じませんよ、あの坊やは。忠臣テイに全幅の信頼を置いてますから」

「よくてなづけたもんだよ」

「人を騙すのは得意なんです」

「坊やは騙されやすすぎるんじゃねーの?」

 キダイはうっそりと大あくびをすると、そのまま横になる。テイもまたぱたりと体を倒し優しい瞼を閉じた。


 夜の闇を徘徊する虫や、それを狙う小さな蜥蜴たちの活気が絶え、しかし、まだ朝の気配も見えぬ頃、既に滝の流れの絶えた環状列石の中央にたまった湿った土がぼそりと動く。 地面の下から、植物が芽を出すように土を押し退け、指が天海を指す。泥まみれの五本の指がするすると生え、手首が現れひじが現れる。細長い褐色の腕は指からひじまで全部を土に横たえ、それを支えにして地下から肩を引き出し、頭と髪を引きずり出す。黒髪は泥にまみれ、その端は根のように土の中に残されている。やはり泥に覆われた顔は、目を閉じ、唇を閉じてはいるが、土色の下につややかな赤が透けて見える。もう一方の肩を頬に寄せるようにして腕を地中から引き抜く。

 それは両のひじを支えにして上半身を地上に現した。豊かな乳房にも泥がのっている。華奢な首をもたげ、黒く長い睫が上下に開いた。

 漆黒の瞳に、それをのぞきこむ紫の瞳が映る。

 土から生えた女は赤い唇にたっぷりと笑みを含ませる。蓮の花弁の形をした大きな目がくっきりと光る。

「ラカラカ。あたしの愛しい子供。戻っておいで」

「いや」

「あの子といっしょに連れて帰ってあげる。キダイとウィディとおまえとあたしとあたしの子供たちみんなと、森で暮らすの」

「やだよ。だめ」

 土から生えた女は婉然と笑う。

「いいわ。可愛い子、昏き名の祝福を知る子よ、待っていてあげよう。いつまでも。ところで、あれをごらん」

 女の腕が指まで真っ直ぐに伸びて指す先は、ジャエンフの方角、その上あたりの天海。

 青暗い天海の底が、一瞬強く橙色に照らされる。

 盲いたようにふっと暗さが戻り、暫くすると音というより何か粘りつくような、ううんんという響きが通り過ぎた。

 女の指が示す天海の底は、また下から橙色の光に照らされている。おそらくあれは火影である。

「美しい瞳の子よ、ジャエンフへの到着が遅れて、炎に打ち砕かれずに済んだね。もうジャエンフまで何も邪魔は入らない。あとは、しっかりお歩き」

「うん」

「愛している、ラカラカ」

 ずぶずぶと、土に帰って行く。

 ラカラカは蕩けるような笑みをただ見つめたまま、何も答えない。

 ノガは指の先まで地中に没し、ラカラカが立ち上がると、東の天海が太陽の光を放ち始めていた。天海はその表から強く照らされ、赤い火影はおし隠された。

 一行は暁光の中で食事をとり出発した。

 キダイは荷物の他に、ラカラカも背負っている。

 いつの間にか、銀色の髪の者が後ろからついてきていた。

 荒野を歩いて行くのは決して楽ではないが、ジャエンフへ必ず着けると案内人が断言したので、皆、持ちこたえた。

 三日目には、ラカラカは自分で歩くようになった。ただ、子供の足に皆が合わせる訳にはいかないのでまるで小走りになってしまう。それに疲れるとキダイの背にしがみついていた。

 五日目の夜、食事を終えるとテイがキダイを人の輪から連れ出した。皆に背を向け声をひそめる。

「ちょっと頼みがあるんですけど」

 耳を寄せたキダイに、あの、と銀の鞘に入った大刀を指す。

「あの刀は、よく切れるんでしょう?」

 テイは撃ち抜かれたほうの腕を、袖をまくってキダイに見せる。

「これ、切ってください」

「げ」

 腕は肘から先が死んでいた。

 キダイは体を起こして大きな声を上げる。

「だって、ただ切ればいいってもんじゃないだろが!」

 皆のほうを向いて、ラダールとラカラカを呼ぶ。

「テイが、うで」

 テイに口をふさがれる。

「大げさにしたくないからあなたに頼んだのに。騒がないでくださいよ」

 キダイはテイの手を口からはがすと、なおも二人を呼び、更に付け加えた。

「他の奴は来るなってさあ!」

 ラダールはテイの腕を見るなり言った。

「切らないと死ぬぞ」

「だから今、キダイに頼んだんですけどね」

 ラカラカが鼻の頭に皺を寄せてまくしたてる。

「これ我慢してたってバカだ! 火とか布とか持ってくる。ラダール、ナイフ持ってるね?」

 少女は荷物のほうへ走って行く。目を丸くしたスランマルタがラカラカに尋く。

「どうしたの?」

 少女はスランマルタを横目で見て、少し考えてから答えた。

「なんでもない」

 荷物を漁って上着を一枚と燃料を少し、水袋を持って、また走って戻る。スランマルタとディンは顔を見合わせる。

「どうしたんだろう」

「来るなと言うのですから、行かないほうがいいでしょう」

「……うん」

 ラカラカが持ってきた燃料にキダイが火を点け、ラダールのナイフを焼く。テイの腕を洗い、布を裂いて肘の上をきつく縛る。キダイがテイを羽交い締めにする。ラダールが自分の外套を脱いで裾を丸め、テイの口につっこんだ。

「しっかり噛んでおけ」

 ラダールはためらわずに焼けたナイフをテイの肘に滑らせた。ニ三度刃を動かし、ぶつりと音がして腕が落ちた。

 テイは、ああ軽くなった、と思った。

 呼吸が早まり、顔が青ざめる。

 傷口は布できつく巻かれ、切られて痛いのか縛られて痛いのか分からない。

「……それ、見えない所へ、捨てて下さい。気持ち悪い、ですから」

「何、ぶつぶつ言ってんだ。大丈夫か?」

 言われてテイは現実に戻る。痛い。

 憮然として、その意を表明する。

「いたい!」

「生きている証拠だ。良かったな」

 これがキダイのせりふなら言い返すところだが、ラダールの口から淡々と言われると全くほっとしてしまう。

「どうしたんだ!」

 ほっとしていられない。スランマルタの声だ。来るなと言ったのに。

「吐かないで下さいね」

「わ、私が戻すのより、おまえの腕のほうがよっぽどもったいないじゃないかっ!」

「おや、ずいぶん強くなったじゃありませんか」

 テイはなんと言い返してやろうかと、にいと笑う。スランマルタは絶句している。

「泣かないで下さいよ。痛いのはあなたじゃなくて、私なんですから」

 スランマルタは必死で涙を飲みこんだ。

「すまない。私を庇ったときの傷だろう」

「あなたはそうやってすぐ謝る。謝って済まないことに謝っても仕方ないでしょう。別に謝ってほしくはないですよ。もうちょっと気の効いたことを言えるようになって下さい。私はあなたの教育係でもあるんですから、まったく恥ずかしいかぎりですね」

 困った顔をしているスランマルタの横から、キダイが顔を出す。

「元気じゃねーか」

 スランマルタはキダイを見上げた。キダイが眉を持ち上げる。

「なあ?」

 同意を求められて、スランマルタは更に困ってしまう。

 ラカラカが腰に着けた小さな皮袋から、何やら油紙の包みを取り出した。開くと灰色の粉が入っている。

「これ飲んで」

「何ですか?」

「くすり」

「要りません」

「だめだよ。痛くて眠れないよ」

 だからこそ飲みたくない。痛み止めは感覚が鈍る。

 テイは少女を無視する。ラカラカはふんと鼻で息をした。キダイの手に粉薬を渡して言う。

「口移しでも飲ませて」

「うーん。それはスランマルタ君に頼むべきだと思うけどなあ」

 うそぶくキダイの手から、本当にスランマルタが薬を奪い取る。テイの顎を掴んで開かせるなり薬をざらりと放り込み、さらに水を流し入れ、顎と頭頂を押えつけて飲みこませた。

「昔よくおまえにこうやって苦い薬を飲まされたものだ」

 テイは器用に片眉だけしかめてみせた。



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