第7話 峠越え
7 峠越え
ルウジがシムド寺を出てから三年になる。その間に二人殺した。
もし、近い未来がその時となるならば、天海を曳くであろう者たちを。
シムド寺の老ジズ師は神聖数理学を専門としていた。彼がロクトの明書第三章七四番の理式に解を見つけ、その解とミンの理式によって導き出された図形を導き出された速度で、ルウジは地上に描いていく。
それぞれの定点で、やはり理式によって導き出された条件に合う者を殺す。探す必要はない。必ず会ってしまうはずだから。それを見落とさないようにすればいい。
最初は、セウの町の市で正午にルディの花を買いその二時間後に南門を通る者。
老ジズ師が、会えば分かると言ったが本当だった。
それは三十がらみの男で、市で見かけた途端に、分かった。
ルウジは聖騎士である。自分がなぜ聖騎士に選ばれたのかも同時に分かった。おそらくは昏き名のものであろう力を、感じることができた。
二人目は、若い娼婦だ。
ラネンの町に入り最初にルウジに触、話しかけてくる者。
斬りつけると、女は身を翻しルウジを睨つけた。
「何の恨みがあるってのよ!」
そう言って、紅の薄衣の裾を恥ずかしげもなく太股まで捲り上げ、そこに巻きつけてあった短剣を抜いた。長衣の裾は、そのまま腰帯にぐいと押し込む。あらわにされた長い滑らかな足がしっかりと開かれ、膝を曲げて腰を落とす。
女の琥珀色の目が、金光と化してルウジの目を射る。
ルウジは何か激流のような力を感じる。昏いというよりただ爆発とか暴走とかいうような、速度と乱れを持った強大な力だ。なるほどこれなら天海を曳くに足る、と思わせる力。
ルウジは女の胴を払うように剣を振る。
女は飛び退き、ぴたりとルウジの目を見て言う。
「このクソッタレ! あたしは文無しなんだ、殺って何の得があるんだい!」
「明けき名のもとに、昏き名の種を滅す」
ルウジの静かな声に、女は逆上した。
「明るいだけが正義なもんか!」
まっすぐに向かって来ると短剣でルウジの剣を受け止め、その上から左手で二本の刃を握り止める。
「さあ、答えろ……! あんたの髑髏の中には、闇が、無いの?」
ルウジが力任せに剣を引くと、女の手から魔法のように赤い液体があふれ出した。女はルウジの目を捕らえたまま動かない。
剣に心臓を貫かれてもまだ琥珀色の目はルウジに激しく問うことを止めなかった。
剣を引き抜き視線を引き離す。
天海を映す琥珀色の目は、死体が朽ち果ててもそのまま残り、砂に埋もれ、いずれの世にか琥珀として掘り出されるのではないか。
ありありとその情景を思い浮かべて眉をしかめた。あれから一年も経つのに、あの問いと幻が頭から離れない。ぼんやりしていると必ず思い出してしまう。
今は無事に山を越えなければ。
岩できた峠には植物がほとんどなく、だから動物もほとんどいない。空気は軽く、日差しが痛いように熱い。風と、自分が乗っている竜の爪が岩の表面をこする音だけが、やけに大きく聞こえている。
もうすぐ次の目標に出会うはずだ。
自分の竜以外の爪音と話し声を耳にとらえる。竜は二頭、話し声は二人。
峠の一番高いところから見下ろすと、青年と少女の二人連れが見えた。向こうでもルウジに気づいたらしい。青年が軽く手を上げる。ルウジも同じように応え竜を進める。
少女のほうが、青年の後ろに竜を下がらせた。狭い峠の道では、どちらかが譲らなければならない。二人連れは竜を止めてルウジが通り過ぎるのを待っている。
青年がお互いの顔が見えるところで、やあと言う。
「どちらまで、行かれるんです?」
ルウジも竜を止めた。青年のこげ茶色の目を凝視して答える。
「ビアナです」
青年は笑顔のまま気の毒そうに言う。
「あそこは火炎蝉にやられて燃えちまいましたよ。水くらいは補給できるかもしれないけど、期待しないほうがいいな」
「そうですか」
ルウジは言いながら竜を一歩進ませる。青年と並び、その後ろの少女の顔が見える。大きな目が何も知らずにルウジを見ている。
ルウジは腰に下げた剣の緒を解く。肩の力を抜いたその動作は、剣を抜いて敬礼でもするのかと思わせる礼儀正しい自然さである。柄に手をかけながら少女の目を見る。
「紫の目というのは、珍しいですね」
言い終わった時には、両手で剣を突き上げている。
剣が抜ける一瞬の間に、少女の目はルウジの目的を悟りくっきりと見開かれた。少女は手綱を引き、体を反らし、だが剣先は少女より速く少女の心臓を追う。青年の荷物から剣が鞘ごと引き抜かれ、ルウジの剣を下から叩き上げる。
少女の悲鳴は甲高くて、ぴんと張った絹糸がきしるような音だ。
ルウジの手には、少女の左肩の鎖骨が砕け筋肉の束が断ち切られ、肩甲骨の上を刃が滑る感触がありありと感じられる。青年にはね上げられた剣を、今度は少女の喉へ返そうとしたが、その前に青年の剣がルウジのみぞおちを突いた。
青年の剣がまだ鞘をかけたまま振るわれたことに、安堵よりも不思議さを感じる。半分意識を失いながら、鞘がはらわれていたらその剣は自分の体を突き通していただろうと考える。
ルウジは無意識に受け身をとっていたが、肩から岩にたたきつけられて失神した。そのまま岩場を転がり落ちる。
「ラカラカ!」
キダイは肩を割られて竜から落ちたラカラカに駆け寄る。ラカラカの竜は血の匂いに脅えて走り去ってしまった。
少女は半ば口を開き白目をむいて動かない。吹き上がった血のために、顔から胸まで血まみれだ。肩の肉の断面からは、まだ蕩々と血潮が流れ出してくる。キダイはラカラカの名を呼びながら、上着を引き裂き左の胸に耳を付けた。頬が暖かい液体に濡れる。吐き気を催すほど芳醇な甘みのある血の匂い。実際口に含めば濃い塩の味だというのに鼻の奥では甘味を感じる。
細い肋骨の下から早い鼓動が伝わってくる。きゃしゃな喉の奥に泡がぞろりと流れる音がして、ラカラカは喉をひくつかせてむせた。まぶたが震えて紫眼が血の中を泳ぐ。
「ラカラカ、起きてろよ!」
キダイは耳元に怒鳴って、自分のターバンをはずしてラカラカの肩に巻きつける。生成りの布の上には、瞬く間に赤い染みが浮き出した。とにかくきつく縛り上げる。
キダイはラカラカを抱き上げて竜に乗る。片手で手綱を操って走り出す。ラカラカの肩がもたれている胸に、じんわりと暖かいものが広がってくる。
「ラカラカ、生きてるか?」
ラカラカは大きく息を吸い込んでやっと言った。
「ん……」
「大丈夫なんだな?」
「……ん」
女の子の小さな頭を掴み上げられそうな指の長い手で、髪を軽くなでつけた。
竜は力強いリズムで足を運ぶ。
石だらけの山道だが、肉厚の足の裏と柔らかな関節で繋がった爪が、確実に地面を掴んでいく。峠は下りだ。蹴爪で歯止めをかけながら、尻を跳ねあげ、長い尾を水平にして平衡をとっている。竜にとってはたいしたことのない走りだが、上に乗っている人間にとっては曲乗りだ。まして、片腕に怪我人を抱えているとなれば振り落とされないだけで精一杯だった。
道の片側は奈落に落ち込む崖、。もう片側はのしかかるようにそそり立つ崖。しら茶けた大岩は、一つ一つがキダイの背丈をはるかにしのぐ。
竜が跳ね上がったり横滑りしたりするたびに情けない奇声を発して、竜を操るというよりしがみついているだけだ。
太陽の船が天海のふちを完全に滑り降りるまで竜を走らせ、野営地を選ばずに道端に泊まることにした。ラカラカの傷をかばうように抱いて眠る。
ラカラカの傷を覆った布は、吸い込んだ血が乾いて固くなっている。出血は止まったようだし水も飲んでいる。だが熱を出して朦朧とし、痛みにうめき声を上げ、とても安眠しているとは言い難い。
朝になるとラカラカは回復した分はっきりと苦痛を感じて、眉をしかめた。
「……いたいよ……」
「泣きそうな声を出すんじゃねえって。俺のほうが泣きたくなっちまうぜ」
キダイはそっとラカラカを抱き上げて竜に乗る。
「たぶん、今日中にセカ村に着けるからよ」
「……んんん」
キダイの言葉通り、昼過ぎに村に着いた。
細い川にしがみついた細長い村はそのほとんどが乾いた畑だ。宿屋はなく、キダイは雑貨屋の前で竜を止めた。
「どうも。医者はどこですかね?」
店番をしていた女は、眼光鋭くキダイを見る。
「あんた、どっから来たの?」
「山のほうで」
「どこの山!」
キダイは今来た方角を指し、精々愛想良く見えるようにと願いながら、真面目な表情で答える。
「ビアナを出てケンガン山脈を越えて来まして。途中で賊に襲われてこいつが怪我してるんですよ」
店番の女は、ラカラカの肩とキダイの胸についた茶色の染みをじろりと見た。
「なんでセカに来たの? いつまで居るつもり?」
キダイの腰の低さが微妙に変化して慇懃無礼な響きを帯びる。
「申し分けないんですがね、怪我人が居るから医者を教えてくれっつってんですよ。診てもらったら、さっさと出て行って差し上げられるんですがねえ」
店番の女はキダイから目を離さずに、店の奥へ声をかける。
「ちょっと、おまえさん……!」
痩せた男が出て来てキダイを見上げた。
「医者はいない」
「じゃあ、薬が欲しい。傷薬はないかな、薬になる木か草か、何でもいい」
「この村には余分なもんはないんだ」
「金でも荷物の一部でも、言うだけ払う」
男は無言で店から出て来ると、表の木戸を閉じ始めた。仕方なくキダイも無言で竜を進めた。
今度は庭先でバイラを干していた女に尋ねてみようと手綱を引く。
「すいません。医者か、傷薬はないですかね?」
女には、キダイの声が全く聞こえないらしい。キダイはもっと大きな声を出すべく、腹に息を吸い込む。口を開いたキダイの頬にラカラカの右手がぺたりと触った。すぐにだらりと下ろされる。
「あ? どうした」
熱にうるんだ紫眼を半眼にして、熱い息を吐く。
「……薬なんか、いらない。なおる」
「…………けど、今苦しそうじゃねえか」
キダイの口調が本当に腹立たしげなので、ラカラカはバイラを干している女の背中を横目で睨んで言う。
「いたいのより……、この町にいるほうが、やだ」
「だけどな……」
「いらないって!」
ラカラカが金切り声をあげるので、キダイはため息をついて竜を歩かせる。
薬はともかく、食料が手に入らないのは困る。水だけはいつでも確保できるように川沿いに進んだ。川を溯るにつれて、いよいよ人家は少なくなっていき、川原と荒野の隙間にバイラの畑が続くだけだ。
角の丸くなった川原の石をからから言わせながら、竜は従順に走る。やがて日が暮れ、キダイは竜を止めた。
煎ったバイラの粉を瓢箪の鉢の中で水に溶いてラカラカの手に持たせ、自分は干したダヤの実をしがむ。竜に背を預けたラカラカが両手に鉢を抱えて尋ねる。
「バイラ、あと、どのくらいあるの?」
「二日か三日だな」
キダイは口の中で柔らかくなった干しダヤを手の上に出すと、ラカラカの口元に差し出した。ラカラカは鼻の頭にしわを寄せる。
「……いらないよ」
顔をそむけ、バイラの鉢をキダイに押しつける。
「食欲なくても食え。だいぶ血が抜けてんだから、死んじまうぞ」
「死なない」
「分ってるけど、ダメ。お前が食わないんだったら、俺も食わない」
ラカラカは口をへの字にひん曲げてそっぽを向いた。キダイは鉢の中にダヤを放り込み、ラカラカの前の地面に置くとごろりと横になった。聞こえよがしにぶつぶつと呻く。
「あああ、腹へった。メシ食いたい。早く食いたい。腹へって死にそう」
ラカラカは鼻から一つ勢い良く息を吐いて、鉢を取り、バイラまみれのダヤをつまみ上げて口に入れ、ろくに噛まずに飲みこむ。
「……食べたよ」
キダイは本当に空腹だったので、残りのバイラを飲み下すようにたいらげた。
翌日になるとラカラカの熱は下がっていた。左手をゆっくり動かしてみて、包帯をとってくれと言う。指は全部動くがまだ腕は上がらなかった。
血糊で固めたれた布は容易には剥がれず、水に浸して切り裂いて、やっとラカラカの肩があらわになる。傷痕は刃物で切られたというよりは、溶けて窪んだといった体だ。死んだ組織がまだだいぶ残っているし乾いていない。だが、そっと傷のまわりを触ると、鎖骨はもとどおりに繋がったことがわかる。きれいに洗ってから、もう一度布を巻いた。
更に翌日には腕が自由に動くようになり、斬られてから五日目には傷は完全にふさがった。ラカラカはひきつった桃色の傷痕に触れて、人間じゃない、と言った。
それが、ラカラカを斬った男に対してなのか、それともラカラカ自身に対してなのかキダイにはよく分からなかったが、どちらにしろ返す言葉は同じだ。
「いろんな人間がいるよ。……それより食いもんがない」
「明日には、メラーマンに着くでしょ」
「金もない」
「しょうがない」
ラカラカはキダイの胸に寄りかかって天海を見上げる。
太陽の船は今日の旅を終え、天海の瞳、二つの月が、ゆらりと二人を見下ろしていた。
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