第6話 うるささや岩にひび入る蝉の声


     6  うるささや岩にひび入る蝉の声   



 ラカラカは手綱を離して、後ろの荷物によりかかる。足もあぶみから離し、竜の歩くのにまかせてぶらぶらさせる。沙漠に出てもう二十日余り。ビアナの滝は三日前から見えるようになったが、町の緑はまだ見えない。

 どんなにうるさい音でも単調に続くと眠くなってくるものだ。ラカラカは大きな紫色の目を半眼にして、昼寝がしたいと思っている。

 キダイが長い胴を陰気に丸めて呻いた。

「……暑い、たるい、うっとうしい」

 爆発して天海を仰ぎ、叫ぶ。

「うるっさい!!」

 紫の目をした小さな女の子は、瞼をあげて長身の青年を見る。

「何期か前より、ずいぶん減ったんだから」

 キダイはやっと成長の止まった体躯を、また前に丸めて、今度は、暑いなあと気の抜けた声を漏らす。

 ビアナ地方は低地だから暑いのだ。

 キダイは、低地は太陽から遠いのにどうして暑いのだろうと思う。

 太陽は天海の水面を走る光の船。天海は大地の天蓋。見上げれば、何処から見ても青く大きく、何時でもゆらりとたゆたっている。月も星も、その面を滑ってゆく天界の船だ。

 天上の神々の船に思いを馳せようとしても、うるさいものはうるさい。

 辺りを飛び回る無数の小さな生き物。

 目にもうるさいこの大量の虫は、火炎蝉と呼ばれている。

 その名の由来はこの虫が蛹から成虫に羽化するするときに発火するところからきている。燃え上がった蛹の殻を撒き散らしながら飛び回り、次々にまわり中の蛹に飛び火して羽化していく。炎がおさまったら、恋の歌を歌いながら草木岩石見境なくかじる。家の石壁だってかじる。

 だから当然、火炎蝉は嫌われている。先進地域ではほとんど駆逐され、大群が残っているのはビアナのような辺境くらいで、ここでももうすぐ駆逐されるだろう。

 一匹が強く羽音をたててラカラカの胸元に飛びついた。ラカラカはそれをつかみとり、両手の人差し指と親指で二枚の翅の端をつまんでぶら下げた。

 虫は逃れようと体を震わせる。

 子供は虫の都合にお構いなく、しげしげとその翅を見つめる。黒い針金の脈が走る透明の膜は、素晴らしい比率の菱形をしている。

 火炎蝉は足を蠢かしてらてらとした節の腹を丸め、いゞゞゞゞっと爆発的な音を発する。

 ラカラカはびっくりして手を離し、蝉はびいんと飛んでいった。キダイの後ろの荷に括りつけてある長い包みにはりつく。

 沙漠は火炎蝉の声のようにじりじりと暑い。

 太陽が天海のふちを滑り落ちる頃、ラカラカが、あっと叫んだ。

「ビアナの門だ!」

 キダイが背を伸ばす。

「今日中に着けるな」

「夜になっちゃうかも」

「この辺は戦場じゃないから、夜になっても門開いてるだろ」

 門に近づくにつれて蝉は減っていく。羽化する前に集めて毒で殺してしまうという。昔は蛹を殺す術がなく、集めてもただ火から遠ざけることしかできなかったが。南半球で開発された薬品は、こんな辺境でもそう高価なものではない。

 門は開いていた。

 月影の荒野に目印のかがり火がきらめく。よそ者にもわりあい好意的な町であることが知れる。

 こちらの門から一直線にこの町一番の大通りが走り、あちらの門が見える。そんな大きさの町だ。滝も小さい。滝は大通りの北側にあり、月と星の光を通してほんのりと闇に浮かび上がっている。

 滝壷の音がざあざあと聞こえる。門のところで一度竜の歩を止める。眠そうな顔をした門番兵があくびと一緒につぶやいた。

「ビアナ滝町へようこそ……」

「あ、どうも」

 キダイは人の好い笑みを浮かべて会釈する。

 キダイとラカラカは東門をくぐって本通りに入る。

 本通りは、繁華街というには家庭的に過ぎるだろう。それでも宿屋は五軒もあるし、食堂だって三軒もある。こんなに暑くてうるさい辺境になぜ町があるかというと滝があるからで、どうして五軒も宿屋があるかというと塩が採れるからである。

 ビアナのまわりでは地面に水を撒くと塩が湧いてくる。滝壷から流れ出た川がまわりの地面を湿らせ、それが乾くと塩が残る。その塩を地面から削りとって、上のレイナ町に売りに行くのだ。塩を運ぶ人夫や商人のために宿屋が営業できる。

 二人はゆっくりと竜を進め、二軒目の宿の前に止めた。

 キダイだけが竜を下り騎上のラカラカに手綱を渡し空きを確かめにいく。外塀の木戸を開けて首を突っ込み簡潔に尋ねる。

「空いてる?」

 キダイと同じくらいの年格好の青年が、狭い庭の向こうのベランダで椅子に座ったまま答える。

「空いてるよ」

 キダイは木戸をそのままに、ラカラカに空き有りの旨を告げ自分の竜の手綱をとった。ラカラカも身軽に竜を飛び下りる。

 宿の若者が出てきて、裏の竜舎へ案内した。荷と鞍を下ろすと竜たちには飼い葉が与えられ、人間たちには部屋が与えられた。

 干し煉瓦の入った土壁で四角く区切られた部屋がコの字型に並んでいる。部屋は真四角で、調度は何もない。鍵のかかる木戸が一つ、木の桟がはまった小さな窓が一つ。

 二人は水溶きバイラと干果物をがっつき、毛布を床に広げマントにくるまって早々に寝た。沙漠での野宿と違うのは風が来ない分ましという程度だ。どこでも眠れる旅人二人は目を閉じた途端に熟睡した。

 月が中天を少し過ぎた頃、その安らかな眠りを邪魔するものがある。

 誰かが、ラカラカの名を呼ぶ。

 少女は長い巻き毛だけをマントの外に出して、ぐるりと寝返りをうつ。

 なおも声は、少女を呼ぶ。

 ラカラカの枕許に立ち、紫眼の御子よと声をかける。

 身じろぎしない子供の寝姿にしびれを切らしてか、そっと肩をつついた。

 ラカラカは眠りを覚まされたことに眉根を寄せ、ろれつ怪しく抗議する。

「……なんだよキダイ。ラカラカはもう寝てる……」

「ラカラカ殿、御願い申し上げたき議、之有り候。御目覚め下され」

 目をこすって何とか薄く開く。

「なにいってんの?」

 暗闇の中うっすらと浮かび上がる姿に、ラカラカはやっと目を見開き、まじまじと目が覚めた。

「あんた、だれ?」

 キダイではない。

 まるで芝居の役者のように見える。

 衣装は華々しい古代の礼服であろうか。綾織の縁が付いたターバンの下から、長い髪が背に垂れている。トーガは厚手で張りのあるヒカ産の絹らしい。赤地に金の刺繍で炎が踊っている。

 そして、背にしょっているのは、翅だ。

 黒い針金のような脈が走る透明な膜は、素晴らしい比率の菱形。

 ラカラカはまたぼんやりと半眼になりあくびと一緒に言う。

「なんだ、にんげんじゃ、ないのか……」

 人間じゃないものは真っ直ぐに背を伸ばして立ち、顔だけは床の少女の方へ向けている。

「女神の王たる神名の娘の姫御子殿。紫眼の御子殿に」

 子供はその言葉のとおりの目をきろりと剥いて、相手のせりふを途切る。

「うるさい。ラカラカは誰の子供でもなくてラカラカなの!」

 子供に叱り飛ばされたそれは、瞬き一つせずに詫びた。

「これは御無礼を申し候。あいすまぬ」

 ラカラカはぐにゃりと背を曲げる。

「眠いよ……」

「なら、寝ろよ、ぶつぶつ言ってないで」

 キダイが寝床の中からくぐもった声を上げる。

「だって、なんかいるんだもん」

 少女は毛布の上にぺったり座って口を尖らせる。青年は寝ぼけ眼で体を起こし、長い巻き毛にほとんど覆われた相棒の顔を見る。

「いる? 何が?」

 ラカラカは黒い綿のような髪を小さな手でかきあげる。

「知らないよ」

 赤いトーガが衣ずれの音をたて、キダイの肩にそっと触れる。

「もうし……」

 青年は、素ッ頓狂な声を喉にからませて飛び退いた。

「……なんか……触った」

「だから、なんかいるんだってば」

「だって、何にも見えねえぞ!」

「見えるもん」

 ラカラカが翅の持ち主に指を突きつけた辺りを、キダイはいつもより三割がた大きく開いた目でしばらく見つめる。

 キダイの目には、薄ぼんやりとした靄がゆらりと動く様が映る。

 青年は慌てて少女の後ろに隠れようとするが、どだい体の大きさが違うのだから少女の頭上に覆い被さっているだけだ。

「なんだよ、やだぜ、俺はユウレイなんか」

「ほら、ウソツキ。見えるんじゃんか」

 キダイはあさっての方を見て、頭をのけぞらせて見つめる紫の視線から逃げる。

「見たくない……」

 ラカラカは自分の肩をつかんでそっぽを向いている相棒に鼻を鳴らして答えると、赤いトーガの上の黒い硝子のような目に向き直る。

「早く帰れ」

 翅をしょったものは相変わらず真っ直ぐ立って、時代がかった言葉をくり返す。

「我らが願い、御聞き届け下されたく候」

 少女は後ろの青年の腹に背中を預け、半眼にしても大きい目でそれを睨む。

「イヤ」

「どうか、是非にも。我が一族の命運、この時宜に全てかかっておりますれば」

「知らないよ。メンドクサイのやだもん。ヤダ」

 大きな体に小さい肝の青年は、自分の腹によりかかっているくしゃくしゃ頭に、なあと言う。

「何、話してんだ? お前、やだやだって邪険にして、バケモンだって怒るんじゃねえの? 大丈夫かよ」

 ラカラカはキダイの膝の間に体を引き上げて居心地良くなると少し機嫌を直した。

「平気だよ。怖くないもん」

「魔物だろ? 神臣じゃないよな」

「今さら、魔物が怖いわけ? シャド・ラグのほうがすごいよ」

 キダイにはラカラカのつむじしか見えない。

「……そうでした。お前とも十年も付き合ってるんだった」

「そうだよ。だから、早く帰れ。ラカラカ、寝るよ」

 赤いトーガの膝をはらい、それは少女の前に両の膝と手をついた。

「どうか、火をかけて下され」

 キダイは薄靄が凝り固まって炎になるのを見た。もうだめだと思った。ラカラカは背を起こし、熱のない赤光を紫眼に映して尋ねる。

「火?」

 幻の炎は、是と答える。

「未だ翅を広げること叶わぬ我が同胞に、炎を御与え下さりたく候。我が命、この声に変え、最早貴殿の外に願い伝うる術無く、ただただ、御願い奉り候、御願い奉り候」

 繰り返しながら、声と炎とは段々に小さくなり、ふと消えた。

 ラカラカは身を固くして炎の消えた後を見つめているキダイを振り返る。

「火ぃ、付けてってさ。どうする?」

「どうするってお前、付けてくれってんなら付けてやれよ。付けないで祟られでもしたら、それこそ面倒じゃねえか」

「そう。じゃ、あしたね」

 ラカラカはキダイの首に腕を回して抱きつくと、風の匂いの残る頭を青年の肩に乗せてきっぱりと目を閉じた。小さな子供でも、眠ってしまうとずっしりと重い。キダイは釈然とせぬ思いで、ラカラカを抱えたままその場に横になる。

 自分の外套を引き寄せてくるまりながら、何に火を付けるのか聞いていないことに気がついた。だが、子供の言い分が解せないのはいつものことで、深く考えるより先に眠りの流砂に飲みこまれる。

 明けて翌朝、昨夜の問答のせいで目覚めはずいぶん遅かった。

「おなかすいた」

 ラカラカが起きるなりそう言うので、二人は身繕いもそこそこに宿を出て、携帯食ではない食事をするべく食堂の席に着く。

 焼きたてのバイラ・パンに、角蜥蜴の串焼、野菜のスープ。二人はものも言わずに食らいつく。

 やっと人心地ついて、両手からパンと蜥蜴の肉を離してげっぷをする。ラカラカは手についた肉の脂を舐め、キダイはラウ茶を二つ注文した。

 茶を飲み終わる頃には、太陽は中天に差しかかり、座っていても汗の滲む陽気だが、沙漠の真ん中の町は乾燥していて汗はすぐに乾いていく。

 食堂の椅子にだらけていても仕方ないと、今度は水浴びをしに滝壷へ行こうということになった。二人は、大通りを東にふらふら折れて行く。

 小さいとはいえ、遙か天海から落ちてくる滝は威容である。

 近くから見上げると、砂時計のように途中がくびれて、漏斗を二つ合わせたような形に見える。実際には、天海から滝が始まる所は上に開いた漏斗型で、下の滝壷に向かって段々細くなって落ちて来るので、全体が細長い一つの漏斗の形をしている。

 だが、滝壷に落ちるところで、大人が十人二十人いても囲いきれない太さがある。見上げると上方は、遠近法に従って細く見え、更に天海の漏斗がその上に乗っているように見える。

 滝は天海を支える光の柱である。

 滑らかに一滴の乱れもなく落ちてくる水は、その流れに光を従えて滝壷まで運んでくる。滝は光を内包した透明な柱だ。また、天海も光を損なうことのない透明な青をしている。うねりによって僅かに光が揺れる。滝はしかし、横から差した光も捕らえてしまうから、大地の上に長い影を作る。

 滝壷に至って、滝はとうとう弾けて水煙になる。

 轟々たる光の滴は、その回りに静まって池を作り、流れ出して川となる。大きい滝ならばその回りに、蜘蛛の巣のように川をつくり、滝の名を関した水系を広げる。

 ちなみにこのビアナの名を持つ水系はない。

 滝壷の池にはたいてい沐浴場が作ってあるものだ。ここでは川の流れ出る水口に囲いの石積みがあった。ラカラカは着ているものを放り出すと、水に飛び込んだ。器用に泳いではしゃいでいる。キダイは上だけ脱ぐとそれを持って水に入り、手拭い代わりに体を擦って垢を落とす。

 時折、火炎蝉が羽音とともに飛んできて、滝の中へ消えていく。

 夕方になれば賑やかになるのだろうが、この時間の沐浴場に人影はまばらである。

 浅瀬に座って腕を洗っていたキダイが、後ろから声がするので振り返ると、三人の男女が知らない言葉をしゃべりながら近づいてくる。男が二人と女が一人。

 この近くの国の言葉ではない。服装もそれを証明している。

 男の一人が、キダイの視線を受け止めて笑った。

「コンニチワ」

 キダイは、可笑しな発音だなと思いながら、愛想笑いを浮かべて挨拶を返す。

「どうも。今日も暑いねえ」

 なんだか生っちろい感じのする男は人好きのする笑顔を満面に浮かべて近寄ってきた。水際にしゃがんで首を突き出す。

「あついヨ! アナタ、つめたいミズ。すばらシイですネー」

 へたくそなトゥマライ語である。

 ラビュア地域の交易語として発達したトゥマライ語は、ハイガ語を母体とした比較的単純な言語だ。この男、ラビュアの外から来てまだ日が浅いと見える。

「ワタシ、ミナセ。アナタ、ダレ?」

 言葉はへたでも良くしゃべる。

「名前か? あんたミナセっての? 俺はキダイだよ」

「ワキダ、イダヨ?」

 キダイは噴き出した。ミナセと名乗った男も分っているのかいないのか、一緒になって笑っている。

「なんだよそりゃあ! キダイだよ。キ・ダ・イ」

「キーダイー!」

「伸ばさなくっていいんだよ。……キダイ!」

「キダイ!」

「そうそう」

 ミナセは晴れ晴れと笑い、キダイともう一度くり返して続ける。

「キダイ、知るか? カエンジェミ、どこ?」

「蝉? 沙漠のほうにいっぱいいたぜ」

 ミナセは後ろで聞いていたもう一人の男を振り返って、異国の言葉で何やら言う。二人で二三やり取りすると、後ろにいた男が流暢なトゥマライ語で言う。

「すまん。こいつは言葉が分からないくせにうるさくてな。俺はジャジャットだ。キダイさん、だったか? 明けき名の祝福を」

 神を明けき名と呼ぶのはマガウェ教徒だからだ。ラビュア人のほとんどが信奉する宗教である。

「明けき名の祝福を。キダイでいいよ。あんたはこの辺の人なのかい?」

「ハイガのロテ族だ。今は部族を離れているが」

 あいにくキダイはロテ族の名までは知らなかったが、それも当然だろう。ハイガ族は血縁集団の結束が強く、一家族が一部族を成しているようなものだ。彼らは部族ごとに独立し、沙漠を旅して生活している。居を定めぬ流浪の民なのだ。

「ふうん。どっから来たんだい、ラビュアの外だろ?」

「そうだ。ケイガ共和国から来た」

 キダイはその国がどこにあるのか知らなかったが、遠いということだけは分かったので、遠いなと呟いた。

 ミナセが川の中のほうに手を振って、コンニチワをくり返している。

 見遣ると、ラカラカが川面に髪の毛を広げてぷかぷか泳いでいる。キダイは少女の名を大声で呼び手招きした。こちらに向きを変えてゆっくり泳いできた。

 ミナセがキダイの肩をつつく。

「ラカラカ?」

 ラカラカを指して尋ねるのでキダイがうなずくと、ミナセは調子良くラカラカの名を連呼して手を振った。

 ラカラカは泳げない程の浅瀬にくると、水を纏い付けて立ち上がった。素っ裸なので、キダイは、自分が体を洗っていた上着を無理やりかぶせる。

 濡れそぼった髪を大人じみた仕種でかきあげる少女の顔を見て、ミナセの顔から笑みがひいた。黙っていた連れの女に声をかけ、ラカラカを示し早口にやりとりする。ジャジャットは相変わらず無表情だ。

 ミナセはラカラカに話しかけようとして、言葉の通じないことに思い至りジャジャットを促す。

「ラカラカ? 歳はいくつだ?」

 ラカラカは大きな紫眼を剥いてジャジャットを見上げる。

「五百歳」

 キダイが眉を八の字にして苦笑いして口を出す。

「六歳ですよ、六歳。六つ、な?」

 ラカラカはキダイを尻目にかけて、長い髪をわきに集めて両手でしぼる。

 ジャジャットがなるべく優しい声を出そうと努力しながら、やはりぞんざいな口調で尋ねる。

「ラカラカ、最近、体の調子はどうだ?」

 少女は目を伏せた。

「げんき」

「そうか」

 言葉に詰まったジャジャットを押し退けて、女がラカラカの顔を覗きこんだ。

「ラカラカ。頭、痛いとき、目、痛いとき、歩く難しいとき、少しでも、医者、行きなさい。子供は守られる。医者はそうしたい」

 ラカラカは無言でふくれっ面をしている。キダイが少女の頭をかき回しながら、大丈夫ですよと言う。

「こいつに限って、病気なんてしないから、絶対」

 ジャジャットがキダイの腕を掴んで強引に離れた所に引っ張って行く。

 ラカラカは顎を上げてそれを見送り、自分の脱ぎ捨てた服のところへ小走りに行って、キダイの上着を放って着替えた。

 ジャジャットはラカラカに背を向けてキダイに尋く。

「あの子供の出身地は、リムド鉱の採掘地の近くではないか? 親は紫眼ではなかったろう」

「さあ、知らないな。会った時はもう一人だったし」

 ジャジャットは一瞬思案する。

「……紫の目は、病気の可能性が大きい。カヤード水系に多い病だが、十歳まで生きるのは難しい。症状は急に進むから気をつけたほうがいい。できれば南の先進国から派遣された医者に連れて行くといい」

 キダイは呑気に答える。

「へえ。そんな病気があるのか。知らなかったな。道理で紫の目の人間がいないわけだ」 キダイはジャジャットの肩を軽く叩き、片眉上げてにやりと笑う。

「ご忠告、ありがとさん。けど、ラカラカはほんとに大丈夫だからさ、心配すんなって」 逆に慰めている。ジャジャットは難しい顔をしてキダイを皆のほうへ促した。

 着替えの終わったラカラカが、歓声をあげて女とおいかけっこをしている。女は見事なフットワークでラカラカの手をすり抜けている。

 キダイは打ち捨てられた上着を拾いながら、ジャジャットに尋ねた。

「ところで、あんたたち、何しにこんな辺鄙なとこまで来たの?」

「ああ、火炎蝉の採集のためだ」

 ラカラカが走って来た勢いのままキダイにぶつかって止まると、ジャジャットを見上げる。

「蝉なんか集めてどうすんの?」

「調べる」

 ラカラカは解せないという顔をあらわに、首を傾げる。

「蛹、集めて殺すんでしょ」

 ミナセが天を仰ぎ異国語で大げさに嘆いた。女が同意して、二人で何やら非難する口調。ジャジャットは冷静な表情のまま言う。

「馬鹿な事をしたものだ。駆逐政策のおかげで、ほとんど絶滅しかけている」

 キダイは沙漠でのうるささを思い出す。絶滅しかけであれかと思うとうんざりした。

「いいじゃねえか。うるせえし、火が付くと危ないんだろ?」

「それは目先の利害でしかない。火炎蝉はセレリデアの一次宿主だ」

「せれりでや?」

 異国語が混じってキダイには理解できない。

 説明しようとしたほうも、トゥマライ語にはない専門用語を使いそうになって口ごもる。

「天海水を組織して……いや……。天海を浮かばせて……支えている、虫のようなもの、かな」

「はあ。よくわかんねえなあ……」

 少女がジャジャットを見つめて言う。

「あんたは、蝉がいたほうがいいの?」

「世界のために、そのほうがいい」

 ラカラカはキダイを振り返った。

「世界のためだって。キダイ、引き受けることにして良かったね」

 キダイは虚を突かれて、だらしなく口を開けた。

「え」

「約束忘れてた。思い出すために、あれがこの人たちと会わせたのかもしれない。早く行こ」

 手を引く少女に、長身の青年は曖昧にうなずき、三人の異邦人に辞意を告げる。

 沐浴場に残された三人だが、ジャジャットはほかの二人の目が自分に説明を求めていることに気づき、首を振った。

「なんでもないさ。何か用事があるらしい」

 ミナセが、ははあと笑う。

「そっか。なんか悪いこと言ったかと思っちゃったぜ。もっと蝉のこと聞きたかったのにな」

「あんまり知らないんじゃないの? 普通は興味ないでしょ蝉。何か、受諾とか約束とか言ってなかった?」

 女はまだジャジャットから何か聞き出そうとする。

「言っていたな。子供の言う事はよくわからない」

「うーん。どこの国でも子供は同じか」

 女はえらく納得してから、滝を見上げた。

「ここにも飛んで来てるね。水中と水底のサンプル採ろう」

 蝉が耳障りな振動音をたてて飛んでくる。おそらく交尾の済んだ雌だろう。ビアナ周辺の蝉の多くは、小さなビアナの滝ではなくもっと東南のギリ滝を目指す。何百沙里もの距離を飛んでいくのだ。

 ミナセが透明な水を手で掻き混ぜ、口の片端だけ笑って言う。

「南半球じゃ遠宇宙開発だってやってるのに、虫けら一つの生態のことも分っちゃいないんだからな」

 女が腕組みをして滝を見る。

「セレリデアの門か。移住なんてできるのかな。降海までに間に合うと思う?」

 ジャジャットが採集用具を取り出して女に渡す。

「さあな。いつかは落ちる」

 女は硝子の小さな瓶を専用のボウガンに装着しながら、ジャジャットの目を下から睨むように見る。

「じゃあ、こんな研究無駄だって?」

 ジャジャットは今日初めての笑顔を見せた。

「それでも、知りたいんだろう?」

 ミナセがけらけら笑った。

「ムシキチの因果だねえ」

 三人は求道者の顔つきでサンプルの採集に取りかかる。

 滝の影が町の外にまで届く時刻になったが、まだ太陽の熱は衰えを見せない。

 長身の青年の手をひっぱって勢い込んで歩くラカラカは、息を切らせて歩をゆるめた。キダイが背を丸めて尋く。

「なあ、何に火を付けるんだよ?」

 ラカラカは目を丸くして振り返る。

「夜、聞いてたじゃん」

「俺はお前の声しか聞こえてないぞ」

 ラカラカは、なあんだと言う。

「じゃ、あれ、ちゃんと見えてなかったの?」

「俺が見たのは、もやもやがぼっと燃えたやつ」

 ラカラカはもう一度、なあんだと言う。

「翅があったんだよ。蝉のこうゆうさあ」

 ラカラカは空中に、両手で左右に菱形を描いてみせる。

 火炎蝉が、火を付けてくれと頼む。

 キダイだとて、ばかではない。

「……もしかして、蛹に火を付ける、なーんて……」

 ばかになりたいキダイに、ラカラカはけろりとうなずいた。

「それって、やっぱり、町に集めてある蛹の山のことだったり?」

「沙漠のは、みんなかえっちゃってるもん」

 キダイは鯖目で天を仰ぎ、無意味なうめき声を上げる。

 昨夜ラカラカが火を付けると言ったとき、キダイの頭の中にあったのは、松明、焚き火、竃、ランプ等々であった。だから付けろと言ったのだ。

「止めようラカラカ。それはヤバイ」

 おそらく蛹は町の中か近くに見張りでもつけて保管してあるだろう。火を付けたら、火炎蝉は飛び立つ。連鎖的に集めてある蛹全てが火の粉を散らして飛び回る。火炎蝉のおかげで焼け野原になった町の話しなどいくらでもある。

「なんで? キダイ、まだ火炎蝉が燃えて飛ぶの見たことないでしょ? きれいだよ」

「あのなあ、火事になっちゃうだろが」

「逃げればいい」

 ラカラカはそう言って、にんまり笑って付け加えた。

「火事場泥棒だってできるかもしれないし」

 キダイは反射的にまわりに聞かれた様子がないか視線を走らせる。人通りはまばらだ。こちらを見ているのは、だいぶ先で道端にしゃがんでいる水売りくらいだ。

 キダイはぼんやりした垂れ目の上で、右の眉だけ持ち上げてラカラカを見下ろす。

「成算あんの?」

「経験と実績に裏打ちされたラカラカが、自信を持ってお届けしましょう」

「何をお届けすんだよ。最初っから、そのつもりで引き受けたんだな」

「ただで人助けしてたって食ってけない。この町、香を売っても儲かりそうにないし」

「世の中打算だらけで、まったく嘆かわしいねえ」

 キダイは言いながら、しゃがんだ水売りの男と目を合わせる。人の良い笑みを浮かべ、ちょっと手を上げて近づく。

「おじさん、一杯ちょうだい」

 男は素焼きの瓶から汲み出した水を銀の杯に満たす。少しあふれさせたそれを、キダイに差し出す。

「どーも」

 キダイは嬉しそうに受取りさも美味そうに半分飲んで、ラカラカに残りを渡す。

「この町は暑いね」

 男は鋭い皺をほとんど動かさずに答える。

「ああ。この町は初めてかい?」

「そうなんだ。バルワンからモブまで行くんで、寄ったんだけどね。沙漠のほうで蝉が凄かったから、ここに長逗留するのはよそうと思ったら、町の中は静かでいいとこだね」 男は少し誇らしげに言う。

「昔は酷かったさ。やっと退治したんだ」

 ラカラカはちびちび水を舐めている。

「へえ。町にはもう出ないんだ」

「いや、まだ蛹はたくさん出るんでな。今期も大変だよ」

「全部見つけて殺すの? 一匹一匹?」

 男はとんでもないと言うように首を振る。

「手でひねり潰せるもんなら、苦労せんよ。町が溶解薬ってのを買ってな、蛹は集めて溶かすんだ」

「ふうん。どのくらい集まるもんだい?」

「小さい家、一軒分くらいにはなるな」

 キダイは朗らかに笑う。

「うそだろ? こんなちっちゃい虫だぜ?」

 大きな手の親指と人差し指で小さな輪を作り、そこからからかうように男のほうを覗く。男は仏頂面だ。

「うそだと思うんなら、見てきてみろ。西門の外の右手のほうに蛹小屋が建ててある」

 ラカラカが杯に残った水を一気にあおり、キダイの上着の裾を引く。

 キダイは空になった杯を男に返し、礼を言いながら金を渡すと、ラカラカを肩に乗せて歩き出す。

 たいして歩くこともなく、西の門を出、右のほうを見ると干乾煉瓦の塀に囲まれた小屋がある。狭い入口の両側に剣を携えた男が座っている。

 肩に女の子を乗せてのんびり歩いてくるキダイを見て立ち上がった。

 ラカラカが小さな手を振る。

「さなぎ見せて!」

 見張りは中年と青年の二人組だ。顔を見合わせ、まばらな口髭を生やした中年のほうがあいまいに手を振った。

「だめだよ。なるべく開けちゃいけないことになってるんだ」

 ラカラカは黄色い声で、だってと言う。

「沙漠のはみんなかえっちゃって、蛹はいないんだもん」

 樽のような体形の青年は、我関せずを決め込んで塀によりかかった。中年は困った顔で言う。

「困ったなあ」

「ねえねえ、いいじゃん、見せてよ」

 キダイが得意の愛想笑いで腰を低くする。

「ちょっとだけ見せてもらえませんかねえ? 一回見たらこいつ満足するから」

 中年は首を左右に傾げ、少女の顔を見てつい笑ってしまう。

「うーん、火種になるような物、持ってないね?」

「やった! おじさんありがとう!」

 ラカラカが足をばたつかせて騒ぐので、キダイはよろけて少女の胴をつかむ。

「暴れんなよ!」

 ラカラカに言ってから見張りの二人を交互に見て、かなり丁寧に礼を言う。

 塀を抜け、小屋の木戸を開けてもらうと、綺羅の山だった。

 金属とも硝子ともつかぬ光沢が、緋色にも青や緑にも変わって、戸口と小窓から入る日光をぱきぱきと反射している。親指程の大きさの蛹は、砂色の繊維の上に砕いた鏡を張り付けたようだ。

 ラカラカは半口開けて紫眼を見張る。キダイも大きく嘆息した。中年が自慢げに、きれいだろうと言う。

 小屋の中は水の匂いがして涼やかだ。床は水浸し、キダイの背丈ほどにも積み上げられた蛹もずぶ濡れに水滴がついている。眠ったまま溶かされようという蝉たちは、水に濡れていよいよ妖しく色鮮やかだ。

 ラカラカがやっと、まばたきをして言う。

「……なんで、びしょびしょなの?」

「火がつかないように、水をかけてるんだよ」

「毎日?」

「毎日三回。そのために滝からここまで水をひいてある」

「ふううん。おじさんがずーっとやってるの?」

「おじさんは、昼間だけだよ。交替しないと大変だからね」

 ラカラカは蛹を見たまま、またふうんと言い、急にキダイの顔に視線を転ずるとつかまっていた頭をぱたぱた叩く。

「もう見た」

「へえへえ」

 キダイは従順に、向きを変えて表へ出る。

「わがまま聞いてもらって、すいませんでした」

 好青年のふりを最後まで通し、へらへら笑って町へ戻る。西門を入ると、重いと言って少女を肩から下ろし、言う。

「無理だよ」

「平気だよ。見張りも二人しかいないし」

「あれじゃ、火なんか付かないだろ」

「付くよ。沙漠では、自分で火ぃ出すんだから」

 ラカラカは華奢な顎を上げて、冷たく笑う。

「約束は守らなきゃ。キダイが火ぃ付けろって言ったんでしょ」

「言ってない」

「言った!」

 金切り声に鼓膜を直撃されて、キダイは白旗上げることにした。

「わかったよ」

 しかし悪あがき。

「ったく。要するに騒ぎにしたいんだろーが、てめえはよー……」

 紫眼の少女はしらんぷりして先を行く。黒い髪が表面だけ乾いて妙につややかだ。キダイは絡まりきったその様に、宿で鋏を借りようと思った。だが青年の思いは裏切られるべき運命にあるのだろうか、結局、ラカラカの髪は長いままで、借りたのは調理場の植物油を少し。油で滑りを良くした生乾きの髪をほどききるころには夜だった。

 ところで、かつて鋏を選択した女性もいる。

「短髪なんて、女のする格好じゃない」

 そう言って周囲を唖然とさせ、更にその女性の闘争心に火を付けたことに全く気付かなかった男の名は、ジャジャットである。

 女性は挑戦的に笑って言い返した。ジャジャットの心臓に指を突きつけ、そういうセリフは、と言う。

「あたしより速く走れるようになってから言うんだね!」

 ユンナは蟲類学研究室に入るまでは、陸上競技部に所属していた。半年程、陸上部にいたが、そこから発生するあらゆる束縛に嫌気が差して止めてしまい、友人だったミナセに連れられて標本を見に来たまま、その部屋に居着いてしまった。

 その時は、蟲類学については何も知らないに等しかったが、今では北半球のこんな辺境にまで調査に来るようになった。

 ジャジャットは留学生だ。漆黒の髪と石の彫像のような顔。痩せて長身の少数民族は、自分が注目の的であることにいつもいら立ちを感じていた。ハイガの民は雄大な寡黙を好む。饒舌なミナセと友人関係を保っていることは、驚いていい。

 久しぶりに故郷に戻ってきたジャジャットは、久しぶりに心安らかである。

 ミナセにもユンナにもそれは良くわかった。滝で採集したサンプルを抱えたまま、三人は大通りの食堂でお茶を飲んでいる。南半球から見たら秘境と言われるような場所にいるにしては、のどかな様子である。

 ケイガ共和国から飛行艇を四本乗り継ぎ、スーディ連邦に着くまでに丸二日。そこから赤道降滝帯の手前まではサンドバギーで三日。そこから先は竜に乗って行く。

 覚悟はしていたが、ミナセとユンナには始めての体験だ。ジャジャットは大人になるまで騎竜の経験がなかった人間が、いかにそのことに関して不器用かということを思い知らされた。

 南半球の住人のほとんどにとって、竜というのは動物園にいるか一部の金持ちの趣味のための動物でしかない。

 種類の多い爬虫類のなかで大型のものを一般に竜という。ただ、それだけの、大きな蜥蜴だと思っている。

 竜は北では特別の扱いを受ける。さらに乗用の種類は別格だ。沙漠で漂泊生活を送るハイガ系部族の伝統では、騎竜を殺すことは殺人と同等と見なされる。

 今回の調査旅行で竜に乗り始めてからすでに一月、さすがに勘の鈍いミナセもまともに竜を扱うことができるようになってきたところだ。

「ジャジャット、いつもより当たりが柔らかいよね」

 ユンナが少々つまらなさそうに言うと、ジャジャットは少し微笑む。

「外国人とかけっこなんかしたら、目立ってしょうがないからな。折角落ち着いていられるのに」

「今の状態がお前さんの落ち着いてるっつー状態なの? ガッコにいるときより、全然はしゃいで見えますけど」

 ミナセが猿のように笑う。ジャジャットはなんと微笑を持続させたまま、そうかもしれないと答えた。

 ミナセは目と口を丸く開け、しばらく言葉を失った。

「……うわあー素直なジャジャットつまんねーよー。いつものように無表情に皮肉な言葉で無慈悲なこと言ってくれ!」

 ユンナがそれを見てけたけた笑う。

「ジャンキーだよ、ジャジャット・ジャンキー。ミナセは中毒患者」

 ミナセは調子を取り戻した。

「もっとぶって」

「俺はサディストじゃない」

「新しい自分を恐れてはいけないよ、ジャジャット君」

「でも、ジャジャットってどっちかっていうとぶたれたい方じゃない。あたしとの勝負、負けると分ってるのに走るもんね」

「ユンナに付き合っててエンドルフィン・ジャンキーがうつったんだよ、それは」

「アドレナリン・ジャンキーじゃないの? エンドルフィンは気持ちいいときに出るんじゃなかった?」

「そうだっけ? ユンナはマッスル・ジャンキー?」

「違うよ。スピード・ジャンキー」

「俺なんかしゃべってるだけで脳内麻薬物質が滝のように流れ落ちてくるね。やっぱジャジャットはアドレナリンだな。お前、怒りを耐えるの好きだもんね」

「……誰がその忍耐を強いているのか、分ってるんだろうな?」

「快感でしょ?」

 所詮ジャジャットが口で敵う相手ではない。ミナセは深い緑の目を丸くして笑い、沈黙したジャジャットの上からばらばら言葉を投げかける。

「それじゃあさ。ユンナはスピード・ジャンキーで、俺はエンドルフィン・ジャンキーで、ジャジャットはアドレナリン・ジャンキーってことで決まりね」

 ユンナが脳天気に迎合する。

「OK、OK」

 ミナセが突然姿勢を正し、今までの脈絡を無視して観光ガイドを始めた。

「では皆さん、次は蛹の小屋見学でーす。少し歩きますのでついてきてくださあい」

 ユンナがはあいと言う。

 ミナセはジャジャットに向かって、おまえ通訳の役ねと言った。

 だが蛹小屋まで行くと、ツアーは失敗だったことが明らかになった。異邦人たちは胡散臭い危険人物にしか見えなかったようだ。

 仕方なく宿に戻り、サンプルを投げ出すようにして座り込む。

「見たい」

「欲しい」

「諦めろ」

 ジャジャットも、そうは言ったものの蛹は欲しい。

「……まあ……盗むか」

 二人のケイガ人の口が、アの形に開いたまま閉じない。

 ハイガの民は涼しい顔で言う。

「蝉の蛹は、家畜じゃないからな」

 ミナセがやっと息を吸い込む。

「家畜以外は盗みオッケーなの?」

「家畜以外の、動物は、所有物ではない。と見做される」

「でも、やばいんじゃないの?」

 眉をしかめたミナセに、ユンナが提案する。

「タッチ・アンド・ゴーで逃げよう」

 ミナセがため息をつく。

「逃げたらばれるから隠そうね。ユンナ君、走ることばっかり考えないように」

 三人の合意が得られたので、夜になったらもう一度蛹小屋に行くことになった。

 日が落ちてからが長かった。ユンナなど今にも走り出しそうだ。

 夜遊びをする者以外は眠ってしまう時間に宿を出る。道端のそこここに、男たちが何人かづつ座り込んで、ぼんやりしたりしゃべったりしている。その中を、三人は見られていることを意識しながら、何気なさを装って歩いていく。

 門を出て、月影に浮かぶ小さな小屋のほうへジャジャットとミナセだけが向かう。ユンナは門から壁に添って少し行き、蛹小屋の裏に回る。

 塀の小さな門の両側に、見張りの一人は頭を垂れて座り、もう一人は槍を抱くようにして横になっており、門が開いている。

 二人はわずかだが違和感を覚えて、駆け出した。

 門のところでジャジャットはミナセの腕をつかんで止め、息を殺して中を覗く。

 小屋の扉も開いている。体を低くして扉に近づき、そっと中を見る。と、途端に小屋の中が明るくなって、ぱきぱきと光を反射する蛹の山と少女と青年の姿が浮かび上がる。

 明かりは、少女の手に握られた松明に踊る炎だ。

 ジャジャットは咄嗟に少女の手に飛びついた。

 少女は小さく驚愕の声をあげ、紫眼を大きく見張ってジャジャットを見た。

 ジャジャットは松明をもぎ取り扉の外へ投げ出した。小屋の中は一気に暗くなり、ラカラカの目が紫色に光っているように見える。キダイは床に置いてあった太刀に手をかけてうずくまっている。

 少女が眼尻を吊り上げて言う。

「なにすんの!」

 ジャジャットはキダイの手元を気にしながら答える。

「こちらのセリフだ。何をしようとしていた?」

 ミナセがユンナを呼ぶ声がする。

 ラカラカの白い歯がちらつく。

「世界のためになることだよ……」

 ジャジャットは昼間の会話を思い出して絶句する。

 ミナセがケイガ語で、どうしたんだと聞く。

「火をつけるつもりだったらしい」

 キダイの手元で金属の擦れ合う音が僅かに聞こえる。ジャジャットは鋭く青年を見、刀身が短く引き出されているのにそそけだった。決して人になつかない肉食竜と目が合ったときのような、そんな感じのする刃物の色。

 ぴたりと膠着した小屋の空気に、ジャジャットの声が響く。

「ユンナ! 人を呼んでこい」

 砂を蹴る音に、ラカラカが舌打ちして、やおらジャジャットに飛びかかって抱きつく。

「キダイ、外の奴が松明持ってる!」

 青年の長身がばねのように弾けて、ジャジャットを突き飛ばし、扉から飛び出す。

「ミナセ、火を消せ!」

 ミナセが松明を水桶に投げるより一瞬早く、鞘に入ったままのキダイの剣がミナセの手から松明を叩き落とす。

 ミナセは歯を食いしばって腕を抱える。

「ミナセ!」

 ジャジャットがラカラカを振り払い、するりとキダイの懐に入りこんでそのみぞおちに拳を叩きこむ。キダイは後ろに転がったが、間髪いれずに立ち上がる。

「あぶねー」

 ちょっと足でも滑らしたような口をきいて、目の端に松明を捕らえる。左手には剣の納まった鞘を握ったままだ。ジャジャットも構えを解かない。

 ミナセがやっと痛みから立ち直って、キダイの様子を伺いながら松明に手を伸ばす。その足にラカラカがしがみついた。

「うわわ! このガキなんとかしてよ!」

 言いながら何とか少女を引きはがそうとするが、子供に乱暴したくないと思っているからなかなかうまくいかない。

 キダイが間延びした笑顔で言う。

「なあ、ジャジャットさんさあ。俺は、抜きたくないんだよ。どいてくんないかなあ?」 松明はまだ、勢い良く燃えている。

「抜きたくないなら、そのまま立ち去るのだな」

 かすかにざわめきが聞こえる。

「人が来るぞ。逃げるなら今だ」

 キダイは落としていた腰をひょいと上げ、鞘の口についていた皮紐で剣の柄を縛る。それを見てジャジャットは少し気を抜いた。

 キダイの剣捌きは見事だった。鞘をかぶったままの剣は弧を描いてジャジャットの首を打ち、返す刀でミナセの腹を突く。二人はそれで動かなくなった。

 キダイの剣に突き飛ばされたミナセといっしょにひっくり返ったラカラカだが、両手をついて立ち上がると、松明を引っ掴む。

 小屋の中へ投げ入れた。

 キダイが気を失ったジャジャットの足をつかんで、小屋から引きずり出す。

 小屋の中から、焼け石に水をかけたような、しかしもっと勢いのある音がして、バチバチと火の粉を撒き散らす小さな炎の塊が飛び出した。

 金と青の炎だった。

 親指ほどの金光の塊から、断続的に澄んだ青の炎が噴き出す。爪の先ほどのかけらが、同じ色をしてパリパリと小気味良い音をたてて落ちて行く。そのかけらは地面に落ちてからもしばらく燃え続ける。ラカラカはその光を紫眼に受けながら、星だと思った。

 最初の一匹を見送る二人の頭上を、次々に羽化した火炎蝉が飛んでいく。

「あっちちちっ」

 キダイが首の後ろを大あわてで払った。火の粉が落ちたのだ。

 小屋は生きた溶鉱炉と化し、盛大に火花を撒き散らしている。

 町の門のほうから悲鳴が聞こえる。

 火炎蝉は飛ぶ。

 キダイとラカラカはそれぞれ倒れた二人に水をぶっかけた。

 よろよろと立ち上がった異邦人は、辺りの光景に茫然と肩を落とす。ここがさっきまで月影だけに照らされた静かな夜だったとは、俄かには信じ難い。それが天界なのか地獄なのかは知らないが、この世ならぬ美しさである。自然状態ではこれだけ高密度に火炎蝉が飛び交うということはないのだから、常ならぬ眺めである筈だ。

 四人は仲良く揃って駆け出した。

 町の門のところに人だかりがあり、その中から細い影が走り寄ってくる。ミナセが苦しい息の合間から、叫ぶ。

「ばーっか! ユンナ! 戻れって!」

 ユンナはあっという間に二人に並びくるりと向きを変えていっしょに走り始める。

 ラカラカが短い手足を、それこそ必死で振り回している。キダイが長い体を持て余しぎみに走りながら、ラカラカを脇にすくいあげた。

 ユンナが見事なフォームで着実に走り、キダイに並ぶ。キダイは全力で走っているがユンナは余裕で、器用なことにキダイに耳打ちした。

「キレイ」

 それからトゥマライ語が分からないので、ケイガ語で続ける。

「逃げきれよ!」

 耳元で怒鳴られたので、キダイは目を剥いてユンナを見下ろした。笑っていたので笑い返したら、ユンナは呵呵大笑。キダイは更につられて声をあげて笑う。全力疾走しながら笑うのは苦しかった。

 ユンナは軽やかに離れて行く。明けき名の軍臣サバキのようだ。

 門のところで、ただもう混乱している人垣に突っ込む。

 キダイとラカラカからはもう異邦人の三人は見えない。青年は少女を抱いて人ごみをかきわける。

 蝉とか火事とかいう言葉が断片的に耳に入る。子供の泣き声も。

 東門と滝の方向に町中の人間が流れていく。だが小さな町だ。たいした人数ではない。人の流れはまだ正気を保っている。

 キダイは宿まで一気に走り抜け、ラカラカを抱えたまま竜舎の扉を蹴り開ける。旅支度をさせた竜が二頭、ぐうと唸って一度立ち上がり、膝をついて主を迎えた。

 キダイはラカラカを一頭の背に放り上げ、もう一頭の手綱も預けて竜舎の外へ出す。それから誰のものだかわからないが残りの三頭も竜舎から追い出してやると、待っていたラカラカから手綱を受取り、竜に飛び乗るといきなり走らせた。

 大通りを駆け抜け、東門を飛び出す。

 ラカラカが竜の背で弾みながらわめく。

「儲けなしだ!」

 キダイが間延びした声で返す。

「次の町でちょっときびしいですなー」

「見られちゃったからシュタ滝町には行けないよ。すぐに追いつかれちゃう」

「ますますきびしいなあ。じゃあ、どっちに行くよ?」

 ラカラカは前方を睨みつける。黒く立ちはだかるのはケンガン山脈だ。

「山越えしよう。逃げ切れるのは絶対。途中で行き倒れるとヤバイけど」

 ラカラカにしては深刻そうな顔をしている。

 炎のあらかた尽きた火炎蝉が、後ろから二人を追い越していった。

 月光の下で突如ラカラカが白い喉をあらわにしてけらけらと笑う。細められてもなお、燐光が漏れる紫の目。キダイは今は黒く見えるこげ茶色の目でラカラカを見る。目が合った。ラカラカは、あははと笑って言う。

「でも、きれいだったから、いいか!」

「町一つ焼いといて、いいかはねえだろう」

「町に火を付けたのは、蝉だもん!」

「はいはい」

 月夜の荒野を、二頭の竜が駆けていく。

 ビアナの町は明るく赤く浮かび上がり、輝く滝が火炎蝉をまとわりつかせた様は、まるで祭りのようだった。


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