第5話 有限を生きる全ての子らにも
「ククマブ!」
名を呼ばれただけで、罵りの言葉となる。
でも、子供は泣かなかった。
泣いても、誰も助けに来てはくれないから。
この名をつけたのは、父親なのだから。
母殺しという名をつけたのは。
ククマブは、父親に嫌われている。
そういうものだと、本人は思っている。
「お前が生まれなけりゃ、あいつは生きてたんだ! お前があんなふうに生まれてくるから、あいつは死んだ……、いや、お前が殺したんだ! お前があいつを殺したんだ、自分の母親を殺したんだ! 母殺しの悪魔め! ククマブ! お前が死んでりゃ良かったんだ!」
父親から、これ以外の言葉をかけられたことがない。生まれてから五年余り、父親は今だに髪をかきむしって泣き喚く。ククマブは涙を浮かべて縮こまっている。いつ殴られるかと思って、身をすくめている。
案の定、父親の手がふりあげられる。ククマブは目をつぶって、その手がふりおろされるのを待つ。一瞬痛くて、それで終わる。今日のところは、終わる。
「あんた、いいかげんにしなさいよ!」
新しい母親は、あきれたように父親の手を止める。ククマブと同じ歳の連れ子の本当の父親は、今でも坑道の奥深くで岩盤の布団をかぶって眠っている。
彼女は、ククマブの涙を拭ってくれる。彼女のおかげで、この三年は殴られる回数が半分で済んでいる。
「あんたもねえ、せめて逃げるぐらいしなさい。そのうち、殺されちまうわよ」
ククマブは、でも、そのうちそうなるのだと思っている。そういうものだと思っている。それを望まれているのだと、知っている。
自分は、ククマブなのだから。
後妻の連れ子は、父親を失い、そのすぐ後に二歳の弟に母親をとられたと思っている。だから、今度の父親は自分のものにしなくてはならないと思っている。
「とうさん、ククマブがぼくの弓取ったあー!」
ククマブは、地面に置いてあったおもちゃの弓を拾い上げただけだ。でも、悪いのは自分なのだ。
そういうものなのだ。
それでも、叩かれれば痛い。ククマブは弓を放り出して、通りへ逃げる。
通りに出れば出たで、安心していられるわけではない。
「ククマブだ!」
「きもちわりい!」
「こっち来んなよ、紫の目!」
「ククマブ!」
ククマブは、彼らと目を合わせようとはしない。すれば、見るなと言われる。見てはいけないのだ。
紫の目とは、そういうものなのだ。
ククマブの目が開いた時、父親は子供を縊ろうとした。ククマブは祖母に助けられたが、それ以上に好かれることもなかった。
ククマブは長い縮れ毛が顔にかかるまま、地面だけを見て歩く。乾いた砂にまみれて灰色になった足が、交互にかさかさの地面を踏んでいく。
いつもは、そうだ。
でも、今日は、なぜだか顔を上げて、群がる子供たちをその瞳に映してみる。
先頭に立った少年と目が合う。体の大きな少年は、ククマブと同じ歳の、ククマブの兄弟だ。一瞬の間に、少年の瞳に恐怖が現われ、それが憎悪に塗り替えられる。
「……見るなよっ! ムラサキがうつるだろっ!」
「そうだよ、ククマブ! きったねえ!」
やはり、見るなと言われるのだ。
紫の目だからだ。
罵られるのだ。
ククマブだからだ。
少年は石を投げる。子供たちは、みんなで石を投げる。
こぶし大の石が、ククマブの肩を打つ。もっと小さな石が、頬を切る。もっと大きな石が、脛を砕こうとする。
よろめくククマブの額に、まっすぐ飛んだ石が、眉間を割る。
ククマブの目の前が真っ暗になって、次に気が付くと、真っ赤だった。
ククマブは、いつのまにか地面に手をついている。
ぐらぐらする地面をつかんで、体を起こすと、飛礫はまだ、いくつも飛んで来る。世界中が赤い。
ククマブは突然、吐きそうな程の怒りを覚えた。
目の前に落ちた石を掴んで立ち上がる。
意味の無い叫びを上げながら石を振りかぶる。
赤い幕のかかった向こうで喚き蠢くものの方へ、投げ付ける。
ぴたりと止んだ飛礫は、子供たちの足元へばらばらと落ちる。
ククマブは小さな手で顔を拭い、涙で赤い幕を洗う。
さっき目の合った少年が、ククマブの兄弟が、腕を押さえて痛みを訴えている。怯えて泣いて、大人の助けを求めている。父親と母親の助けを求めている。
ククマブは治めかたの分からぬ怒りに、歯を軋らせて少年を睨んでいる。
地面が揺れている。
大人たちが駆け付け、ククマブは肩を掴まれ詰問される。
「何をした! 今度は兄弟を殺そうってのか!」
父親の声だ。聞き慣れた、怒りの声だ。
地面が揺れ、肩が揺すられる。ククマブは、少年を睨んでいる。
「この……、母殺しのバケモノっ!」
ククマブは頬を張られて気を失う。
夢の中でも、ククマブはククマブと罵られる。
いつも、そうだ。
夢の中でも、紫の目だと蔑まれる。
いつも、そうだ。
そういうものだ、そういうものだ、そういうものだ、そういうものだけれど。
ククマブの名が、ククマブだからだ。
ククマブの目が、紫だからだ。
だから、ぶたれるのだけれど。
だから、石を投げられるのだけれど。
ククマブはククマブだから、そのうちとうさんの望むようになる。
そういうものだ。
そういうものなのだ。
そういうものなのか。
そういうものなのか?
夢の中で名を呼ばれる。
「ククマブ!」
「ヤダアッ!」
ククマブが怒りにまかせて睨みつけた少年は、家に帰ると熱を出し、次の日の昼にこと切れた。
ククマブは、怯えた父親に殴られる。
血の繋がっていない母親は、もう夫を止めようとはしない。前夫の忘れ形見を失って、その悲しみと恨みを、紫眼の子供に預けてしまえばいいと思っている。
ククマブは、殴り殺される前に父親から引き離される。ククマブは自分の両手両足に鎖が巻かれるのを、涙も枯れた瞳で見る。
ククマブは手足に鎖を繋がれて、引かれて歩く。
森の中へ。
鉄の鎖は、重くて痛い。
近寄ってもいけないと教えられる、森の奥へ。
森の影は、暗くて恐ろしい。
鎖を引く大人たちも、怯えている。
何も言わずにククマブを急かし、朽ちた祭壇のある大きな木の隣の木に鎖を繋ぐ。神官がぶつぶつと何事か唱えると、大人たちは早々に立ち去った。
ククマブは疲れて座る。大気は湿って暑い。
湿った落葉は冷たい。
梢は高く、下生えは疎らだ。遠くに鳥の声がする。
ククマブは大木にもたれて、足を投げ出す。
もう恐くはない。誰も、怯えていないから。
ククマブと呼ぶものもいない。
紫の目を見るものもいない。
ククマブを助けるものもいない。
だがそれは、いつも、そうなのだ。
ククマブは生まれてこのかた、初めて心底安堵する。
ククマブを憎むものは、もう遠くだ。
もたれかかった木の幹は、ククマブの小さな背中を許している。座り込んだ落葉は、その上を通るものを全て許している。
乾いた風は、ククマブまで届かない。梢の上が歌うだけだ。
ククマブは、重い鎖のかかった両手を足の間に落とす。
じっとしたまま、遠くの鳥を聴く。
響きだけが、たゆたう。
澄んだ音だけが、ククマブのまわりに現われては消える。
膝を立てると、鎖と落葉と衣擦れの音が、ククマブに自らの存在を思い出させる。
ククマブの背中の方で、すぐ近くで、セナガムシが鳴く。ククマブに、その実在を思い出させる。遠くの鳥も、その足で枝を渡り、確かに嘴を開けて声を上げている。
セナガムシが突然鳴き止み、ざくりと落葉が鳴った。
「この子供は誰だ!」
ククマブが振り向くと、老婆が一人杖をついて立っている。
水が抜けて縮んでしまったような体で、皺だらけの顔、歯のない口。濁った目でククマブを見下ろす。皺だらけだが、そこだけ濡れた唇をぱくぱくさせる。
「こんなところに子供が一人でいるなんて。なんてことだ」
そうだった、森に入ってはいけない。ここにいてはいけない。
ククマブは、ここにいてはいけない。
森の外にいてもいけない。
ククマブは、どこに行っても、そこにいてはいけない。
ククマブは、いてはいけない。
この世界のどこにも、いてはいけない。
老婆はよろよろとククマブの腕を掴む。
ククマブは、期待する。
いてはいけないところから、追い出してくれるのだと。
老婆は、ククマブの顔に目を近付けて問う。
「誰なんだい、おまえは!」
ククマブは、喉にからまる声で、細く答える。自分の名を伝える。
老婆は、笑った。
「ハ、ハ、ハ! これは驚いた。おまえが、母を殺したって?」
老婆はククマブの腕につかまって、ククマブの隣に腰をおろす。
「どうやってだい? こんな小さな手でかい」
老婆がククマブの手を取る。
曲がったまま固まってしまった指で、ククマブの柔らかな手を開かせる。手首の鎖の錆の跡を拭う。
ククマブは上着の裾にとぐろを巻いた鎖を見る。ククマブの腕から自由になった鎖を見る。
「どうやって、殺したんだえ?」
「……生まれたときに、……」
「どうやって」
「……ころしたって、……」
「どうやって」
「……血がとまんなくなったって、……」
老婆はククマブの手首を、まださすっている。
「それは、母がかってに、死んだんだろう」
「……ククマブが生まれなかったら、死ななかったって、……」
「誰が言うんだい?」
「……とうちゃんが、……」
「おまえが、母親を殺したって?」
ククマブはぎくしゃくと頷く。
老婆は肉のたるんだ腕で、ククマブの頭を抱き締めた。
「こんなにかわいい子供になんてことを言うんだろうねえ」
老婆はククマブの髪に手を突っ込んで、顔を上向かせる。
「ほうら、こんな目は見たことがないよ!」
ククマブは見開いていた目を伏せる。
「こんな、きれいな、紫の目だなんて!」
ククマブは、再び目を上げる。
見上げた顔は、老婆ではなく、唇に紅をさした女の顔だ。赤い唇が割れて、白い歯を見せる。
「いっしょにおいで、名前のない子供」
さっき名を告げた老婆は、どこへ行ったのだろう。
女は、ククマブの裾の上の重い鎖をじゃらりと投げ捨てる。自分といっしょに立ち上がらせると、ククマブの両わきに手をいれて抱き上げる。
ククマブは、暖かな胸にしがみついた。
「さあ、どんな名前にしようか」
ククマブは、女に自分の名を告げる。
「それは、本当の名じゃない」
女はククマブの綿のような髪を撫ぜる。
「まちがってる」
女はククマブの頬にくちづける。
「呼び名は、本当の名前の主を守るためにあるんだからね」
ククマブを守るものはない。いつも、そうだ。
「……おばさん、だれ……?」
女はククマブを抱いて歩きだす。
「森に入ってはいけないのは、なぜだか知ってる?」
ノガの森に入ってはいけない。森はノガのものだから。ノガの怒りは災いをもたらすから。女神のものに触れてはいけない。
「そう。森にはあたしがいるからさ」
森は女に道を開ける。
苔蒸した陽だまりに、大きな鳥がいる。
鳥はひしゃげた声で、があと鳴いた。
ぼそぼそと垂れ下った羽は乱れている。長い首は剥げかけている。大きく潤んだ黒い瞳にときおり瞬膜がひかれる。長い嘴で、また不恰好にがあと鳴いた。
女は鳥に向かって言う。
「さあさあ、新しい子供だよ。果物でも採っておいで!」
鳥は悲しいような声をあげ、鱗だらけの足で助走をつけて、なんとか舞い上がった。
「お腹が空いているだろう? 可愛い子」
からまりあって小山のような木の根かたに、腰を下ろす。柔らかな分厚い苔が砂の代わりに根の隙間を埋めている。
子供を腿に乗せ、やわらかく抱きしめながら、女は頬をすり寄せる。
「なんて可愛い子。どうしてお前を可哀相なままにしておけるだろう」
鳥が羽を鳴らしながら近付いてくる。
「新しい子供だよ」
嘴の下を撫でてやり、今度は子供に笑いかける。
「シャタル達が、何でも言うことを聞いてくれるからね。いつでも呼ぶといい」
大きな黒い鳥は、シャタルと呼ばれるらしい。
鳥が、があと鳴く。子供は恐る恐る手を伸ばす。長い首に触れると蛇のように頭が揺れた。
子供は手をひっこめて女の顔を見上げる。
「なにも恐がることはないんだよ」
女はたたまれた黒い翼を軽く叩いてやる。
「可哀相な女たちさ」
また羽を打つ音がして、嘴に黄色い果実をくわえた鳥が舞い降りてきた。鳥は踊るように近寄ってくると、果物を二人の膝の上に落とす。
女が拾って皮を剥く。甘く青い匂いが漂う。
「さあ、お前の本当の名前を捜さなくては」
女はすっかり皮を剥いた、濡れた果実を子供の手に握らせる。
「お食べ……。お前に幸運を導く名前、不運を遠ざける名前。お前の全てが映える名前、お前の心の邪魔にならない名前」
女は子供の髪をかきあげてその顔を覗き込む。
「きっとここに書いてある……」
子供は目を丸くする。女は子供の眉間のあたりを見つめている。
書いてあるとはどういうことだろう。子供自身はもちろん、両親も祖父母も、字を書ける者などいない。書かれた覚えもない。
女はしばしの後、両手で子供の顔を包んで額にくちづけた。
「ちゃんと見えたよ。いい名前だ。お前はお前のために生きなければいけない。守ってあげよう。お前のために。お前の命を永遠に守ってやろう。我が愛し児として、永遠に」
女は子供に耳打ちをする。
笑みを含んだ声で告げられた名は、永遠の命とともに子供のものになった。
「今、新しく生まれた子、兄弟たちを見せてやろう。シャタル、みんなを連れておいで」 子供は新しい名前を頭の中で見つめている。
広場の回りの森の中から、があがあとシャタルたちの声が聞こえ、子供たちの嬌声が小鳥の群れのようにさざめいた。
子供たちが、女のもとに駈け寄る。
赤子もいれば、年寄もいる。全て、ノガの子供たちだ。つめかけた者たちはみな、女の所へすり寄ってくる。
女は赤子の手を握ってやり、老人の涎を拭ってやる。
「新しい子供だよ。お前たちの妹だ。間違った名前を取り替えた子供だ。この子の正しい名をみんなに教えてやろう」
女は子供を抱いたまま立ち上がり、みなにその名を告げた。
紫眼の少女は、森の子供になった。
森の中は子供たちのものだ。
ノガに守られた子供たちは、何に害されることもなく苔の褥に安らう。
薄物を一枚まとっただけの子供は、髪を乱して花の中に眠る。
瞬膜で瞬きをする大きな鳥たちが、なにくれとなく世話を焼く。鳥たちは、子供に触れたくてしかたない。
寝乱れた長い髪を、嘴でそっとすく。
子供はふと目を開き、鳥の黒い瞳の方へ寝返りをうつ。仰向けのまま欠伸をして起き上がる。
「おはよう」
鳥は嗄れ声で、があと答えた。
欠伸のせいで涙の溜まった瞳は、透き通った紫色だ。その目をこすりながら鳥の翼を掴んで立ち上がる。
鳥は首を突き出し突き出し、歩を進める。子供は裸足で湿った下生えを踏む。
小川へおりて顔を洗った。川岸の砂は流れに晒されて、乱されても水を濁さない。
子供は流れから直接水を飲んで息をついた。
「ノガのとこへ行く」
鳥は嗄れ声で、があと答える。
靄がかかって薄暗い朝の森の中を歩き、子供は日溜まりの中に女の姿を見付けた。
「ノガ!」
走り寄って抱き付く。
「元気そうだね。何か食べるかい?」
「うん」
シャタルに果物を採ってくるように命じる。
「みんなでディカを食べよう。ちょうど熟れた頃だろう」
ノガは紫の瞳の子供を膝にあげ、森の奥に呼び掛ける。
「さあさあ、こっちへおいで子供たち。ルーメニ、ムアル、ミミネネ、ザガジャ、スロ、リュウキ、おいで、ディカがあるよ」
鳥たちが梢のディカの実を運んでくる。
リュウキと呼ばれた少年はギマの背に乗り、シャタルに支えられて広場へ出てきた。ノガの近くまで来ると獣の背から降りる。うずくまった獣の引き締まった胴に体を預ける。「リュウキにディカの殻を割っておやり」
ディカの果実はざらついた堅い殻に覆われている。熟れたものは卵型の殻の頂上が僅かに弾け、独特の匂いを洩らしている。爪をかけて少しこじると、きれいに殻は剥がれるのだ。
両手を使えば難しいことではない。
だがリュウキの両手は、ディカの殻を割ることには向いていない。ねじれたように外を向き、体に引き寄せられている。指は反りかえり、あるいはきつく曲げられて開かない。
紫眼の少女はノガの膝を降り、リュウキの隣でギマに寄り掛かる。
ギマは喉を鳴らす。
少女は大きな耳の後を掻いてやる。緑の目を細めたギマの唇を捲って長い牙を掴もうとする。
ギマはしなやかな尾を迷惑そうに振りながら、しかたなく口を開く。
少女がざらつく舌を掴み出そうとするに至って、さすがにギマも頭を振って逃れた。 少女はギマと遊んでやるのを止め、ディカを割ってはリュウキの口に押し込んでやる。
リュウキは少女よりもずっと大きな体を横たえたまま、体を仰け反らせている。顔は斜めを向いていつも鋭く振られている。
とても細い足が苔をこする。
細すぎて歩けない。だから、ノガがギマを使わしたのだ。
少女は自分とリュウキの口に、交互にディカを詰め込んだ。
リュウキは、あああ、と言う。紫眼の子供はリュウキに名を呼ばれたので、なあにと答える。
リュウキは、おおえい、と言う。
「うん。おいしい。いつも食べれればいいのに」
ノガが少女の口に剥いた果実を押し付ける。
「いつの季節でも熟れている果物は、おいしさが薄まるものなのさ」
リュウキが笑う。ノガはその頭を抱き上げた。少女はその二人に寄り掛かるように座り直した。
森はいつも涼しく、暖かく、子供たちを守り、閉じ込めている。
そして、子供たちが息をひそめる夜もある。
ノガの目に触れぬように。
シャタルたちは悲しい目をして、翼の下に子供を隠す。
ノガの牙が闇の中に白く浮かぶ。
ノガの爪は子らの血に赤く染まる。
近くにいた子供は、柔らかな腹から食われてしまう。
ノガは子供が好きなのだ。
喰ってしまいたいほど。
暖かな子供の体を腹に納めて、ノガは幸せに目を細める。
なんて可愛い、私の子。
愛しくて、食べてしまいたい。
願いはかない、ノガはその幸福に微笑む。
シャタルは血の匂いに涙して、嗄れ声でがあと嘆く。
黒い鳥は、木の実や水だけで生きている。血の匂いは好まない。
反対にギマは、血の匂いが好きだ。肉を食わなければ生きていけない。
森の中で狩りをする種族なのだ。
最強の獣だ。
四つの足音は隠され、不意に喉笛に襲いかかる。
木の葉一枚の影にも隠れ、梢を飛び渡る。
敏捷な森蜥蝪を板根の間に追い詰め、空中で小鳥を屠る。
その顎は一噛みで、騎竜の首を引き千切ると言う。
その前脚の一振りで、子らの頭は飛ぶだろう。
だが、ギマの空腹を満たすために子らの肉が供されたことはない。
その代わりにシャタルの頸が砕かれる。黒い羽だけが残され、骨の一片もあまさずギマの腹の中におさまる。
もしも子供の肌にその牙が向けられとしても、その子はノガに守られている。ギマは肉を味わう前に森の地面に打ち据えられ、女の叱咤にあとずさる。
ギマは、唯一ノガの足元にのみ頭を垂れる生きものなのだ。
ギマさえ従えて、ノガの子供たちは森の中で、遊び暮らして過ごす。
何をしてもいい。ノガが守ってくれるのだから。
森の中では。
紫眼の少女は、森の中を走るうちにその縁まで来てしまった。
灌木が縁取る森の内側から、そっと葉を掻き分けて外を覗く。
砂丘がなだらかに広がっていた。
森の中からはほとんど見ることのできない天海が、砂丘と同じ広さでゆらりと広がっていた。
少女は砂漠へ一歩踏みだそうとする。
ふいに伸びた優しい腕が抱き止める。
後からノガが少女を抱き竦める。
耳元に暖かい唇が寄せられる。
「外へ出てはだめ」
「どうして?」
ノガはそのまま少女を森の奥へといざなう。
「森の外は危ないからね。お前を傷つけようとするだろう」
「どうして?」
「森の外は、お前のことがあんまり好きじゃないからさ」
少女は暖かく湿った森の大気に包まれる。
「さあ、ギマと遊んでおいで」
少女の肩に、金の毛皮が擦りつけられた。子供は太い首を抱き締める。喉を鳴らしている。
爪をしまった前脚で少女を押し倒す。少女はその遊びに大喜びで目茶苦茶に暴れて、ギマを打ち倒す。
ノガはもう一頭のギマに凭れている。
少女はギマにまたがって命じた。
「ねえ、この木に登って! てっぺんまで!」
ギマは子供を背に乗せたまま、太い幹を駈け上がる。枝から枝と、爪を架ける。
枝がしなり、折れそうだ。
少女は獣の背を降りて、枝の上に立った。
大きく木を揺らして風が渡る。
葉擦れの音が耳元で騒めく。
見上げると、天海がゆらりと広がっていた。
あるとき、少女はノガの目を盗んだつもりで、森の際まで走る。
この前見たのとは別の場所だ。
割れた岩と、乾いた灌木が風に晒されている。
岩の表面に足を置く場所を探す。
しかし突然、背後から名を呼ばれて振り返る。
「お止め。戻ろう」
ノガに従うシャタルが、髪の一房をそっと引いた。
あるとき、少女が思い切って土の道に出ようとすると、腕を掴まれ引き戻された。
痩せ枯れた老女の腕に、そっと捕らわれる。
「ここにいておくれ、可愛い子」
少女は紫の瞳を閉じてその胸に顔をうずめる。
「森の外では、私の力は弱い」
ノガは少女の瞼を骨ばった指でなぞる。
「愛し児よ、私はお前を永遠に守ると誓ったのだから」
子供は安らう。
ノガの言葉に。ノガの森に。
森の中では、毎日が永遠をふくんでいる。
少女はどれだけの時が永遠を指すのか知らない。
ククマブの名を捨てた時から、どれだけの時が過ぎたのかも知らない。
ククマブが老いさらばえ、朽ち果てる程の時が過ぎたことを、紫の瞳の子供は知らない。「ギマ……」
喉を鳴らして獣が現われる。
少女はひとしきり耳の後を掻いてやる。それから、長い毛の生えた耳に囁いた。
「……乗せて」
獣は地に伏した。子供が背に乗ると立ち上がる。首を捻って行く先を訊ねる。
「……森の外まで走るんだよ」
獣はその言葉に弾かれて走り出す。
木立ちの先にノガの姿が見える。
「どこへ行くの」
ギマは、ノガを飛び越え、哀しげに鳴いて立ちはだかるシャタルたちを、易々と蹴散らす。
「いけない!」
ノガの手が、ギマの尾を掠める。ギマの尾は、木々を避ける度に鋭く振られて舵の役を果たす。
ギマは瞬く間に森を走り抜け、乾いた土くれを蹴たてた。
子供の後を追い腕を伸ばした女も、諸共に砂漠へまろび出た。
女の肌は乾きに焼かれる。
足が地に焼き付く。
悲鳴を上げて子供の名前を呼ぶ。
獣の背で髪をなびかせた子供は、開けた砂漠の広さに有頂天になる。
ノガは血の涙を流して子供を追う。僅かにいざる。
「戻っておいで、愛し児よ。不運にみまわれる前に」
子供の姿はもう見えない。
「ああ……、永遠を誓った子」
倒れた女は、乾いた砂にざらざらと沈んでいった。
木々の元、湿った大気の中で女は蘇る。
「森の兄弟たちよ。あの子の幸運を祈ろう。無事に帰れるように。あの子の名前が正しく呼ばれるように」
一度森を出た子供は、長い間戻って来ることはできない。
森の入り口はいつでも開かれているが、辿り付くのは容易ではない。だが、幾人もの子供が森を出、やがては帰って来たのだ。
今、旅立ったのは、永遠の命と正しい名前を持った子供。
かつて、いくつもの砂漠を渡って戻ってきた子供が、ノガを慰める。
かならず帰る、と。
全ての子らは、かならずここへ帰るのだから。
ノガは笑う。
愛し児たちに囲まれて。
ノガは子らを抱き締めて言う。
命尽きる者ならば、その瞬間には、必ず帰ってこよう。
だが、お前たちの兄弟は違うのだ。
だから、幸運を祈ってやろう。
早くこの森へ帰れるように。
いつでもこの森へ導かれるように。
祈ってやろう。
ラカラカが、幸運の道を歩むように。
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