第4話 たぶん楽しい旅の始まり
ロルウ市民防衛軍、ロスハー隊の隊員は五人である。
「肩から肺臓まで、ぱっくりだとよ」
巡回の出番待ちのあいだ通り魔の噂話に花を咲かせ、ロスハー隊長自らがなげやりな口調で厭世の旨を表明する。
「十五かそこらのガキがだよ? この四日で十何人も殺っちまうんだから世も末だね」
軍の字にだまされて入隊した新米のターヴェイが、凛凛しくも背を伸ばして拳を握る。
「許せないです! 何の罪もない市民を理由なくして殺害するなど、悪業の極み、必ずや正義の天誅が……」
「お前さんねー……。歯が浮かない?」
先輩であるディクマが、ターヴェイの台詞をさえぎった。
「いえ、心配ないであります。自分は体だけはどこも丈夫にできており、歯もまだまだ丈夫です」
「……あーそーかいそいつぁー良かった。なあロスハーちゃんよ」
「てめえは隊長様にタメ口きくんじゃねーよ」
隊長様のセリフに対して、ナードが聞こえよがしの生欠伸をし、リバンはうげえっとげっぷをした。ロウにいたっては玩んでいた櫛を隊長の頭の上に投げ捨てた。
ロスハーは自分の頭に当たって落ちた赤い扇形の櫛を拾い上げ、目の高さで裏表ひっくりかえしてみる。ロウが、綺麗でしょう、と言う。今朝、短く括った髪の根元にこの櫛をひっかけて、ここに帰ってきたのだ。
「女の操を投げ捨てるなよ、後で祟るぜ」
ロスハーは櫛をロウに放って返す。
自警団の中では先輩だが、新米のターヴェイよりも一つ年下のロウは、少年の顔で陽気に笑った。
「そんなんじゃないですよ。綺麗だって言ったらくれたんだ。たいしたものじゃないんでしょう」
ディクマがロウの首に腕をかけて絞め上げる。
「女泣かせのロウちゃんはー……! 一つ枕の上で貰ってきたんだろが!」
「そうですよう! ざまーみろっ」
ディクマは騎蜥蝪の首をもへし折るという腕を、ロウの細い首から解いてお手上げした。そのまま天を仰いで嘆く。
「どうして世の女どもはこんなガキを相手にしたがるんだ! 本物の男をこんな所に放っといて!」
解放されたロウは、ターヴェイの肩に腕をかけて寄り掛かる。
「見習う先輩は選んだ方がいいですよ、ターヴェイさん」
「は! 自分は優秀なる先輩諸氏に恵まれて、たいへんに幸福に思っております」
ターヴェイは真面目な青年なのだ、本当に。堅気の。
市民防衛軍に入ったのだって、本当に市民の安全を守ろうと思ったからだし、先程からの話題のような男女関係など身の回りで聞いたことすらない。いや、なかった。防衛軍に入るまでは。
市民防衛軍などと大層な名前が付いてはいるが、もともとゴロツキどもに鈴をつけようという思いつきだ。無法者の中で目端の利く野郎が、このあたりを仕切る方便に始めたのだ。今では正規国軍から巡回を依頼されるまでになって、その要領良し野郎は裏の帝王気取りである。
ターヴェイは真面目な青年なのだ。が、世の中に真面目がそぐわない場があることを知らない。
「先輩方のもとで、今日こそ通り魔を退治したいであります!」
目を輝かせるターヴェイに、ディクマが訊いた。
「ターヴェイちゃん。浮く、っつー言葉、知ってる?」
「はい! 知っておりますが」
ディクマが話を続けるのを期待して、ターヴェイは言葉を切った。ディクマは当然ながら皮肉の解説をしてやるつもりはなく、そっぽを向いて手をひらひらさせた。ターヴェイの期待を少しでも吹き払おうというように。
「……あそ。お利口さんだね、ホントに君は」
ターヴェイはもちろん、はっきりと感謝の言葉を述べた。
ロウが赤い櫛を髪にひっかけて言う。
「巡回中に、通り魔出ないかな」
ロスハーが肩をすくめた。
「やめてくれ。会いたかねーよ」
「どうして?」
ロウは目を見張って、隊長に反問する。
「通り魔見つけたら、殺していいんでしょう?」
それまで黙っていたナードが隊長に替わって答えた。
「黙れ、殺人狂」
「ひどいな。僕は通り魔じゃないですよ」
突き出た腹をさすっていたリバンがうげえっとげっぷをした。ナードは深くうなずいて言う。
「俺は信じ難い思いで、そのことを天に感謝する」
ロウは何が可笑しいのかけらけらと笑った。その笑い声に重なって、外に竜の足音が近付き止まる。
籤引きで運のなかったロスハーが、隊長のふりをして立ち上がった。
「行こうぜ、市民の安全のためによ」
その言葉にロウがぱっと立ち上がる。
「待って、まだ鎧つけてない!」
ロスハーとロウ以外の四人が、一斉に立ち上がる。
「嬉しいねー俺は。有能な部下を持って」
ロスハー隊の出発は、四半刻遅れとなった。
ロスハーとロウがそれぞれ弓を持って竜に乗った。
竜とは本来大型の爬虫類一般を指す語だが、たいていは乗用の騎竜のことを指す。
多くの種が含まれるが、ほとんどが雑食性の二足歩行種である。乾燥に強く、低速での持久性が本領だが、短距離ならかなり速く走ることもできる。性質は概ね温和で、人によくなつく。沙漠にくらす人々と家畜としての竜の関係はとても密接だ。北半球では南半球のように動力車が普及していない。
ロスハー隊に割り当てられた竜は二頭だけなので、残りの四人はランプを持って前後を歩く。
ロウが弓の弦を鳴らす。
「銃のほうがいい」
ターヴェイが騎上のロウを見上げる。
「ロウさん、銃を使ったことがあるんですか! 先進国ではみんな持ってるらしいけど、自分はまだ……」
「ロウッ!」
ロスハーが弓でロウの頭をぶん殴った。
「兜はどうした」
身軽さが身上のナードが鎧を着けないのは分かるとしても、ロウが兜を着けないのはなぜか。
「櫛がじゃまで、かぶれないんですよ」
「……まあ、てめえの脳味噌見たきゃそーしろ」
ロウはどうやら、自分の脳味噌見てみたいらしかった。
ウイ通りに入ると立ち並ぶ屋台の灯りにランプを消した。緩やかな坂は、騎上からかなり遠くまで見渡せる。
ロスハーが、やおら鐙に立ち上がった。
「どうした、鷹目のロスハーちゃんよ」
ディクマの言葉に、ロスハーは何かを見つめたまま答える。
「ただの鷹じゃあ、夜目が利かねーよ。夜鷹は品がねーから、フクロウかミミズクにしときな」
鞍に腰を戻し、ナードに顎をしゃくる。
「シオとルダフの角までおつかいだ」
ナードはすぐさま駆け出した。あっという間に見えなくなる。人を乗せた竜より速い。
「逃げたい連中と野次馬が押し合ってる。リバン、こっち乗れ」
リバンの丸い体が身軽に鞍に上がると、二人の乗った竜は弾かれたように走りだす。ロウがディクマを自分の後ろへ引き上げる。
「おらおらどけどけどけえっ! 蹴られてーかっ!」
わめきちらすディクマを乗せたロウの竜が続き、さらにその後を追ってターヴェイが必死で走る。
無理矢理竜を進ませて人垣を抜ける。
血刀をひっ下げた少年が、足元に死体を残し人波を割って走る。二騎はそれを追った。「ロウ! 嬉しいかよ?」
鐙に立ち上がって矢をつがえるロウの後ろから手綱を取りながらディクマが訊く。
「殺っていいんですからね」
顔は見えなかったが、声が笑みを含んでいる。
狙いをつけたロウが、矢を放つ前にロスハーが気づいた。
「ばかっ! てめー通行人に当てたらクビだからなっ!」
ロウは弦を緩めて、揺れる鞍に腰を戻し、つぶやく。
「あーあ。殺したいな、なんでもいいから」
その耳元にディクマが大声でわめきたてる。
「銃が手に入ってもてめえにゃ持たせねえぞ! 絶っ対っ!」
いくら人をかきわけながらとはいえ、子供の足で竜を振り切れるわけもない。ロスハーが通り魔の前へ踊り出て、ロウが手綱を引く。挟まれた少年は否応なく足を止めた。
ロスハーの後から滑り降りたリバンが剣を抜く。体形に見合った分厚い剣だ。両手に構えて少年の細身の刀と対峙する。
リバンが見切る間もなく、少年が切り込んだ。リバンは受け止めようとした剣を僅かにずらして、横殴りに少年の刀を払う。返した剣を上から振り下ろすが、切っ先を叩かれた。 チィンといい音がして、リバンの剣先の欠片がロウの方へ飛ぶ。ディクマの皮手袋を着けた手がそれを叩き落とした。
ロウが弓に矢をつがえ、弦を軋ませて引き絞る。
その時人垣が崩れ、鉄の甲冑が盾を押し立ててなだれこんだ。国の警備隊だ。
ロウは天を仰ぐ。夜の二つの瞳が波にゆらりと地上を見ていた。
「間が悪いですよ、ナードさんてば」
「足が早すぎるんだろ」
ディクマが竜の頭を回して、人垣の際まで下がる。
「おらおら、一般人! 出て来んじゃねーぞ!」
通り魔は一瞬のうちに鉄の盾の壁に閉じ込められた。中から見ると、足の付いた壁が迫ってくるようだ。
だが少年はなんの動揺も迷いもなく、その壁に切りつけた。
盾を持つ兵士の腕ごと切り捨てる。
壁の向こうに現れた顔は、自分の腕が消えたことに恐怖していた。その悲鳴はまわりの兵士の怒りの叫びにかき消される。恐れを振り払うための怒りの叫びに。
壁の隙間から突き出される剣や槍の穂先を、或いは叩き落とし或いは弾き返しするうちに陣形が崩れ、凶器はそれを見逃さなかった。
すり抜けるように一人の胴をはらって壁の外へ飛び出す。赤い湯を肩からかぶって、遠巻きにする野次馬めがけて走る。
少年は突然膝が折れるのを感じ、走っていた勢いのまま地面にぶつかった。
右の腿に矢が突き立っている。左手で無造作に引き抜くと暖かい血がたらたらと足を伝う。サンダルに流れこんで足がぬるりと滑る。右膝が笑って役に立たない。
野次馬の前の騎上に弓を絞る姿をみとめて、少年は闇雲に路地に転がりこんだ。射手の耳元にのぞく赤い飾りが目に残る。
放たれた矢は、少年の影を射る。
転がりこんだ先に置いてあった蜜柑の乗った露台といっしょにひっくりかえり、つぶれた果物に足を取られながらそれでも走る。
的が闇に隠れて、射手は肩を落とした。
「あーあ。もったいなかったな」
「欲張っちゃいけねーなあ。一本当たったんだから」
ロウは未練がましく弦をはじく。
「こういうのが一番ストレスが溜まるじゃないですか」
「……そのまんま、胃潰瘍で死んでくれよ……」
野次馬と兵のいりまじった怒号の中でロウはディクマの呟きを聞き逃さなかった。目を見張って振り返る。
「ひどいな、そんな! 僕は胃は丈夫ですからね、平気です」
ディクマは危う、竜の背から落ちそうになった。
「っそーゆーボケはターヴェイに返してこいってんだ! ばか!」
「そういえば、ターヴェイさんは何処に行ったんでしょうね?」
新米の自警団員は、盾を持った警備兵と一緒に裏路地を走って行ったのだ。
だが重い装備がじゃまになって、追っ手の一団は二つ目の角ですでに目標を見失っていた。
狩られることに慣れた少年は、追っ手がついてこなくなったことを意識しながら、まだ走り続ける。
逃げ道を選択する頭とは別のところで、不思議な思いで香りを感じた。芳醇で鮮烈な柑橘の香りだ。その香りに空腹を感じたような気がして、自問する。
腹が減っているのか。
是、と感じる。
誰の。
私の。
私は、そうだ、鋭い片刃の、この指先まで、飢えている。
狭い路地裏には、かすかに残る果汁の香りよりもたっぷりと浴びた血潮が匂う。
もう路地の角を四回はまがった。キダイは必死で動かしていた足を弛め、右の足とシャド・ラグを引きずるように歩く。今はどこかに隠れなければ、次の獲物を屠れない。
汚い路地裏をシャド・ラグの仄かな反射光に頼って行く。
水音が聞こえ真っ黒い川面が景色を分断している。闇の中で薄ぼんやりと見える橋のたもとへ這い込んで体を横たえた。
冷たい大剣を抱いて、ようやく安堵する。右の腿からは痛みと熱が脈を打って広がって来て、自分が眠ったのかそれとも眠りかけたところで痛みに起こされたのか良く分からなかった。
時間が途切れたような気分でふと目を開けると、すでに明るい。橋板の隙からもれる光の向きと角度は、日が中天を過ぎたことを示している。陰影をつけられた目の前の砂の乱れが良く見えた。小石混じりの湿った砂はぼそぼそとして、シャド・ラグにかぶったところは刃こぼれに見える。
その砂が靴底に踏まれて鳴る音と子供の声が、同時に降りかかってきた。
「やっと目ぇ覚ました。そのまんま死ぬかと思った」
キダイはぎょっとして上体を起こし、シャド・ラグを構える。切っ先の向こうに二つ紫の燐光が浮いている。
小さな女の子は臆することなく、にーっと笑って言った。
「助かる方法、教えてあげようか?」
キダイが答えないので少女は続けた。
「その刀を捨てちゃえばいいんだよ」
シャド・ラグからの冷たい血のはやりが途絶え、キダイは初めて少女の視線を自分で受け止めた。キダイが手にしてから初めて、シャド・ラグが血ではない何かを待っていた。
「かんたんだよ。その手を開けばいいだけ」
にんまり笑う少女の視線が、キダイの指をからめとろうとする。
「都合のいいことに川のそばだしさ。沈めちゃえ」
キダイは息を飲んでつかを握る自分の手を見た。
離せば、終わりだ。
この数日間、ずっとそう思いつめて握り締めていた。これを手に入れた者として、これの存在に正しく意義を与えてきたはずだ。そのために在るものを、そのために使ってきた。
離せば、終わりだ。
これを手にした者の存在の意義も満たされていた。これと、これを手にする者とは、一組で正しく在ることができる。一組で、その目的を果たすために在る。
だが、離せば終わりだ、とキダイは思う。
一組であった自分は目的を無くし、一組みでなければ目的を果たせぬこれは、次の使い手を捜す。それで終わりだ。この子供の言うように川へでも捨ててしまえば、これもただの片翼になって朽ちるのかもしれない。
このすばらしい切れ味の、目の前にある生身を全て屠り去る鍛鉄が。キダイに向かってきた全ての切っ先を弾き返した銀の閃光が。乾いた血の色に朽ちてしまう。刀を振りかざした兵の全てからキダイを守ったシャド・ラグが。ただの錆の塊になって、川の流れにもろもろと流されて、砂に混じって見えなくなる。
この、風の反りを持つ、白い光の鋼鉄が。
キダイは少女の目を見返した。
「できない」
そう答えて、シャド・ラグのつかを握りなおす。
あまりにも心地よく掌に馴染む凶器が、落ち着いて次の血潮を待っているのを感じる。しかし少女の紫眼はキダイの視線を軽くはね返す。
「あ、そう。じゃあ、もう一つ助かる方法教えてあげる」
少女は得意満面に胸を張った。
「ラカラカに助けてもらいな」
キダイは少女の真意を計りかねて黙っていた。黙して自分に狙いをつけたままのキダイに、少女はもどかしげに喚いた。
「ほらほら助けに来てやったんだから!」
両手でぶらさげていたずだ袋と長細い布の包みを、目の前に投げ出す。
「それ、どけてよ」
キダイはやっと、ラカラカというのが少女の名前なのだという事を悟る。
シャド・ラグがゆっくりと地に伏せる。途端に足の痛みがぶりかえした。
ラカラカはしゃがみこんで袋に頭を突っ込み、緑の葉のついた枝をひきずり出し、石の薬研を取り出すとその葉を磨り潰した。新鮮な青臭さが広がる。瓶を開けてキダイの足にざぶざぶと酒をかけて洗う。むりやり矢を引き抜いたせいで肉がえぐれているのが顕になる。
「膝じゃなくて良かったね」
ラカラカが無造作に傷の奥を洗ったので、気を失いそうに奥歯を噛みしめた。歯の間から漏れる息が荒い。先程の葉が傷にかぶせられ、白い布がきつく巻かれる。
キダイが目をつむったまま痛みに耐えていると、はい、と言って、蜜柑の香りが鼻先に突き付けられた。目を開ける。
「食べなきゃ死ぬよ!」
叱りつけるようなキンキン声に、皮を剥かれた一切れを受け取る。口を湿らせるようにゆっくりと齧る。目の醒めるような、鮮やかな橙色の味だ。
鮮やかな記憶の匂い。ワングを初めて見たときに、知らない女の指先で唇に押し込まれた酸味と甘味。六年前の同じ季節。屋台で蜜柑を盗った。ゴミの中で子供たちに私刑された。犬の口が目の前で開いた。無意味に喉から声が搾りだされた。銀色の閃光が闇をきれいに切り裂いた。
ラカラカはさらに蜜柑の残りとケードの葉に包んだ食べ物をキダイの膝にのせた。
キダイは右手をシャド・ラグのつかに乗せたまま、左手でそれらをがっつく。何日食べていないのか。四日か五日だろうか。よく覚えていない。
夢中で食べていると、立てた左膝を揺すぶられた。
「ねえってば!」
口の中に食べ物を頬張ったまま、顔を上げる。
「おいしい?」
少女の丸い顔が間近に覗き込んでいる。そういえば、さっきから何か声をかけられていたような。あわてて頷くと、ラカラカは嬉しそうに笑んで、それからケードの葉の上から莢豆を一つかすめとった。
少しの間ラカラカはキダイの食べる様を観察していたが、ふと思いついたように長細い布の包みを取ると、それを放るようにして解き始めた。幾重にも巻いた布がはがれ、からりと乾いた音をたてて砂利の上に転がり出たのは、シャド・ラグの鞘だ。
キダイが驚いて口をきこうとすると、少女はその口をぴたり指さして言った。
「早く食べちゃいな。ラカラカは」
シャド・ラグを指す。
「これと話がしたいんだから」
そう言って立ち上がり、地に伏せた大剣を見下ろす。
「もう充分食べたでしょ。あんただけじゃ動けないくせに。恩を売ってるのは、あんたじゃなくて、こいつだよ」
キダイは半口開けてラカラカを見る。こいつというのは、どうやら自分のことらしい。やはりこの女の子は気狂いなんだろうか。
「こいつが死んだら、何にも動けないあんたなんかラカラカが滝壷に沈めてやる!」
キダイの右手の中でシャド・ラグが疼いた。
地面から一直線に幼い少女の柔らかそうな喉を狙って走る。だが、信じ難いことにラカラカは鍛鉄の背を軽く手で払い、カールした長い髪の一房を犠牲にしただけでキダイの懐に飛び込み、包帯の上から右腿の傷に噛みついた。
キダイは悲鳴をあげてシャド・ラグを放り出した。体を丸め、きつく閉じた目蓋の隙間から涙がこぼれる。
「何こいつ!」
ラカラカは逆上しケードの葉の包みをひっ掴んで刃身に投げ付け、その上から足で踏み付けにして悪しざまに罵る。
「なまくらののらくらのとうへんぼくのかなくぎのクソ切り包丁!」
ラカラカは勝ち誇って鼻息を荒くする。手に余るつかを小さな両手で掴み、砂利になすりつけて刀身についた食べ物をこそげ落とすと、座り込んで鞘を足に挟み大剣の刃を押し込む。さっき解いた布でまたつかの方までぐるぐる巻きに包み込む。
昏き名の魔臣サギアのように髪をふりたてて高笑い。
「おまえなんか、滝壷に捨ててやる!」
薄闇の中で仄かに光って見える紫の瞳が本気で包みを見つめていると思って、キダイは必死でそれを奪い取った。
「やめろよ、俺のだっ……」
自分に矛先を移した視線に怯える。
「ちがうよ。おまえがそいつのだ」
今度はキダイもいっしょに滝壷に沈めてもいいと言っているようだ。
「ワングの形見に、俺がもらったんだ……」
射止められた視線をそらすことができない。
「知ってるよ。そいつはあのじいさんのだったけど。キダイはまだまだじゃないか」
少女は突然キダイに興味を失って、口を広げたままのずだ袋から瓢箪を取り出すと喉をならして水を飲んだ。キダイの方へ突き出す。
「もういいよ。捨てないから。お水欲しい?」
思わず受け取る。
「なんで俺の名前知ってるんだ?」
「知ってるから」
「だから、なん……」
「飲まないの?」
瓢箪をただ掴んだままだったキダイは、取られる前に慌てて水を喉に流し込んだ。小さな手が瓢箪をもぎとっていく。
ラカラカはもう一口水を飲むと瓢箪の栓を締めた。それをずだ袋に放りこみ、代わりに束ねた紐を取り出すと、大剣の包みを抱えたキダイによこす。
「それで担いで。早く逃げよう」
キダイが腑に落ちない顔でとまどっていると、ラカラカはさっさと袋の口をしばって背に負った。
「通り魔、捕まったら火焙りの刑だよ」
言われてキダイはあわてて立ち上がり、大剣の鍔の下と鞘の下の方をくくって背にまわした。だが、足が進まない。傷のせいではなく。
「何で、おまえが俺を逃がすんだよ?」
一緒に行ったらシャド・ラグを奪われるかもしれない、俺の生命もだ。このガキは人買いの使い走りなのかもしれない。でなきゃ兵屯所に突き出すといって強請られて、殺し屋がわりにでも使われるのかもしれない。
キダイの杞憂を知らぬふり、ラカラカは軽く答える。
「おもしろそうだから」
「何が!」
「知ーらない。弱虫キダイ。いいから、ちょっとだけラカラカを信用してついといで。町にいたらすぐ見つかっちゃう」
「おまえと一緒になんか行かない」
ラカラカがぷーっと頬を脹らませる。
「いーよ! じゃあ一人で行けばっ?」
軽い体を地面に叩きつけるようにして座り込み、生意気を絵に描いたような目つきでキダイを見上げた。
キダイは踵を返してラカラカを無視することに決める。
町は暗く静まりかえっていた。通り魔の一件で夜間の外出禁止のおふれが出ているが、そんなものがなくとも町が静まる時間だ。
川面にせりだした掘立て小屋の床下を歩く。足首まで泥水に浸けて、頼りない小屋の柱を支えにして。川を下ってそのまま沙漠まで出てしまえばいい。
ただゆっくり歩いているだけなのに息が上がる。はじめてその重さを実感した右足を一歩一歩持ち上げる。
どう気をつけても水音を立てる自分の足音が頭上の誰かを起こしはしないか。キダイは思うように動かない右足を呪いたい気分だというのに、二三歩後からはむしろ水跳ねを楽しむような足音がついてくる。
ついに歩を止めて振り向く。
「ついて来んなっ」
「ラカラカは一人であっちに行くんだもん」
女の子は小さな歩幅でぱしゃぱしゃと前に出る。キダイは仕方なくその後を追う形になった。案内をしてもらっているようで嫌なのだが追い越すことができない。
前を行く足音がぴたりと止まった。聞こえよがしにラカラカが言う。
「この先のルグン橋で検問してるから、ここからシオ通りに上がって行こうっと」
ラカラカは身軽に掘立て小屋とあばら屋の隙間をよじ登っていく。キダイは闇の中で躊躇したが、この足で検問の有無を確かめに行く勇気はなかった。ラカラカの登ったあとを両手と左足だけで辿る。顔まで泥まみれになって路肩に上がると、よつんばいのまましばらく動けずに喘ぐ。
「歩け」
耳元に暖かくてふわふわしたものが寄って来て囁いた。
ラカラカが腕を抱えてキダイを立たせ、通りの向こう側へ引っ張って走る。まだ息の整わないキダイは、もうどうでも良くなって引かれるままに歩を進める。熱い息に乾かされた喉が上と下でへばりつく。必死で唾を飲み込んで呻く。
「みず」
「あとでね」
「やだ」
言いながら、引きずられて走る。
ほとんど自動的に足を前に繰り出していると、後に引き倒されるように逆に腕を引かれた。尻をついてへたりこむキダイに瓢箪を押し付けて、ラカラカは路地裏からチャルク通りを窺う。
竜の爪が地を喰む音がして騎兵が姿を現わす。三騎は全て竜共々鉄の鎧を着け大弓を携えている。前後を行く歩兵がランプをもって辺りを隈なく照らしてゆく。ラカラカは狭まる石壁の影の奥へ身を潜めた。
キダイの側へ戻ると瓢箪を取り上げ、再び腕を抱えて引きずり上げる。
「ほら、行くの」
「やだ」
言いながら、引きずられて歩く。
首を仰け反らせて息をつくと、天海の上の月が光っていた。石造りの軒や窓の出っ張りや、そこから伸びた竿やら綱やら。青昏く明るい天海は鋭く複雑に切り取られている。それは進むごとに様々な破片に分かれていくので、キダイは脇道へと腕を引かれるのが少しうれしい。しかし当然の事ながら、上を向いていると足元が危うい。しょっちゅう転びかける。
「もうちゃんと前見ろ、ばか!」
「やだ」
言いながら、引きずられて走る。
さすがにラカラカの方も口で息をしている。自分より大きなキダイを引きずって走っているのだ。大通りを真直ぐ行くことができれば今ごろ町の外なのだが、巡回の目を避けて曲がりくねった裏路地を行かねばならない。
チャルク通りに沿うようにしばらく走ると、家並みが切れて空き地の向こうに石壁が見える。町と沙漠とを分ける境界壁だ。キダイとラカラカの身長を足したくらいの高さの壁だが、路地から右手にのぞむあたりは上部が崩れていて、なんとか越えられそうである。
空き地の左右を見渡し、崩れた壁へ走り出そうとしたその時、壁の向こうで灯りがひらめいた。まっすぐに伸びるランプの光りだ。二つか、もしかすると三つの灯りが壁を掠めて頭上に飛んで行く。そして、男たちの固い声。
ラカラカはキダイに口を閉じろと身振りで伝えると、身を低くし足音を殺して壁に身を寄せた。
「乗用の肉食竜なんて珍しいな」
「ああ、しかも長旅の装備だ。今すぐにでも出せる」
硬い皮の靴が砂を噛む音と、軽い鉄の鎧が触れ合って鳴る音。
「まともな旅行者がこんなところに竜を繋いでおくわけがない」
さらに別の声が言う。
「ジェド、竜を屯所へ連れて行ってくれ。俺たちは夜明けまでここを警備する。何かあったら狼煙玉を使う」
ラカラカは兵たちの会話を聞きながら、ずだ袋からこぶし半分くらいの大きさの油紙の包みを二つ取り出した。立ち上がって一つを高く放り投げ、いつのまにか手にした小刀を放ってそれを両断した。軽く破裂する音をたて霧のような粉が風に流れた。
音のしたあたりにランプの光が交差する。
「おい、今のは何だ!」
兵の動揺した声に立ち上がろうとするキダイを手で制して、ラカラカは一人、崩れた壁の上に飛び上がる。
三つのランプが一斉にラカラカを照らした。眩しさに顔をしかめ、ラカラカは三人の兵と件の二騎の竜を指差してわめきちらした。キダイにも分からぬ異国の言葉だ。激しい調子に、怒りと責罪の響きだけは明らかである。
「誰だ!」
「子供じゃないか。西夷人か?」
「嬢ちゃん、今何か投げたかい?」
兵たちも小さな女の子に戸惑いを見せる。
先ほど破かれた包みの中身が、ゆっくり地上に降りてきた。キダイの鼻にもかすかに甘い匂いが感じられる。
しかし、竜の鼻には十分すぎる刺激だ。沙漠からの風に散らされた粉は、その下に眠っていた竜たちの目を覚ます。沙漠を渡って滝の側にたどりついた時のように、鼻面を空に突き出す。寝静まった家並みで竜小屋だけが落ち着かない。
ラカラカは一際強い調子で、おそらくは罵倒語を言い捨てると、驚くほど大きな音で明瞭な指笛を吹いた。
数町歩に響き渡ったであろう、はっきりした言葉のごとき旋律。もし仲間がいれば聞き漏らしようのない。
確かにそれを聞きつけた者を少女の仲間だと言ってもいいだろう。ただし、ラカラカは一度も顔を合わせたことなければ、彼らが何頭なのかも知らなかったが。
匂いに目を覚まされた竜たちは、ラカラカの呼び掛けに歓喜した。小屋の薄い扉をなんなく蹴破り、呼び声の源に向かってまっしぐらに駆ける。
「やめろ! 静かにしないか!」
指笛を吹き続けるラカラカに、兵の一人が掴みかかった。
ラカラカは指笛はそのままに左手を一旋。銀色の小刀が一直線に鉄鎧の胴に飛ぶ。小さく火花が散って小刀は魚のように跳ね上がった。兵たちは色めき立って脇差しの鞘をはらう。
が、突然、少女の隣にぬうと頭を出した竜に一転ひるむ。
その兵の一人を目がけて、ラカラカは先刻の油紙の包みの残りの一つを投げ付けた。目の前に飛んできた飛礫を兵は構えた剣で叩く。
包みは風船のように破れ細かい粉が顔にかかる。すえたような甘い花の匂いに三人はむせかえった。
兵たちの軍竜が鼻を脹らませて嬉しそうに鳴いた。少女の隣に顔を出した竜も同じ声をあげ、嬉々として兵に飛び付いた。
町外れの路地裏では、喜び勇んだ竜たちが同じ方向に向かってぎゅうぎゅう押し合っている。匂いの源を隠す壁をひょいと飛び越えると、そこには魅惑の香りを発散する人間が恐慌状態でわめいているのだった。もちろん竜にとっては、何に匂いがついていようと構うことではなく、そこ目がけて殺到するだけだ。
「キダイ! 早く!」
次々に現れる竜が壁を越え始めて、踏みつぶされはしないかと頭を抱えていたキダイは、壁の向こうがどうなっているのか全然わからなかった。急かされるに任せラカラカの手を借りて壁を乗り越え、肩から砂地に落ちる。
男たちの不様な叫び声が聞こえる。
立ち上がると目の前に凶悪な顔をした肉食竜がおとなしく跪いていた。ラカラカに尻を押されて、つんのめるように騎乗する。途端に竜は立ち上がり駆け出した。竜の首にしがみつきながら振り返ると、兵たちは自分たちの軍用竜に襲われている。ように見えた。竜たちとしては懐いているだけだが。
狼煙玉の閃光が上がり、キダイを追って走るラカラカの髪が逆光に映えてコロナのように光る。
「やったぜ!」
「逃げろおー!」
「飛ばせエッ!」
ラカラカは一人で歓声をあげて、キダイを抜かして行く。キダイの乗った竜もつられて速度を上げた。体を後ろに持っていかれそうになって竜の首にしがみつく。
二発目の狼煙玉が、今度はラカラカの背を照らした。あの光は各門ごとに設けられている屯所の兵たちを呼び寄せるはずだ。一番近いのはチャルクの門だろう。振り返ってみるが暗くて何も分からない。真っ黒いごみの山のような町の姿が暗い天海を背景に立ち上がっているのみだ。
町の中心に落ちる滝が、覆いかぶさるような巨大な漏斗型の光の柱になって天海を支えている。
キダイには見えなかったが、もちろんチャルク門駐屯所は一発目の狼煙玉の光ですぐさま六騎を出動させた。早駆ける六頭の竜たちは現場に近付くにつれて異様な興奮を示して突進した。熟練した騎手がいくら手綱を引いても従おうとはせず、無闇に媚びた吠え声をあげて。
踊り狂う竜に危険を感じ騎上から自ら転げ落ちて、四角い顔の軍曹は鼻の穴をおっぴろげて怒鳴った。
「何だこの匂いは! 誰だチュンバ花粉なんぞ撒いたのは!」
先程巡回に出した三人が、どうやら竜たちの中心にいるらしい。
「おい! 人間と竜を分けろ! 踏みつぶされるぞ!」
言うのは簡単だ。この命令が完了されたのは夜明け近く。竜たちが騒ぎ疲れて自主的におとなしくなってからだった。
ラカラカとキダイはその頃すでに町の形の見えぬところまで逃げおおせて並足で竜を進めていた。
砂丘の凹凸が行く手に長い影を寝そべらせている。天海から水を降ろす滝の漏斗と、その源たるたゆたう天蓋が、太陽の光を胎んでいる。
滝は、本物の黄金の光だけで作った彫刻のように、静かにそこに在った。
あまりのすがすがしさに、キダイは疲労感を覚える。
あまりに巨大な天海と沙漠に挟まれて、自分にできることは、何一つない。
突然与えられた雄大な静寂の中で、キダイは記憶に迷う。
今までに知り合った人々の顔が、様々に浮かぶ。思い出すうちに、涙がこぼれた。
あまりに情けなくて、涙がこぼれた。
自分の、この弱さは、あまりに情けない。
路上で眠っていたころ、群れからはぐれた途端に、死にかけた。
ワングに拾われて、養われた。
ワングがいなくなった途端、シャド・ラグに負けた。
シャド・ラグの力で人を斬り、逃げ、橋の下で死にかけたとき、小さな女の子に助けだされた。
自分の力で死線をくぐり抜けたことなど、一度もないではないか。首輪なしで生きてきたと思っていたが、いつだって誰かに手綱を取られていたではないか。
手綱を引かれる度に、安堵して。
止められない涙が、更に情けない気分を煽る。
「キダイどうした? 足痛いの?」
いつのまにかラカラカが並び、顔を覗き込んでいる。
「……なんでもない」
それでも涙は止まらない。
「ねえ、矢の傷って危ないんだよ。ちょっと休んで包帯替えよう」
キダイの乗った竜の手綱に、ラカラカが手を伸ばす。
「ちがうってば!」
キダイはその手を叩きはらった。思いのほか強く打ってしまった自分の手に驚き、後悔してうつむく。それでも、自分の弱さを見たくないのは変らない。
「……何で助けるんだよ……」
あの時も、あの時も、放っておかれて死んでいれば、こんな情けない思いをすることなんかなかったのに。
「ごめんね」
ラカラカの謝辞に皮肉の色はなく、キダイは顔を上げた。
紫の宝玉が二つ、真摯にキダイを見つめている。
ラカラカは溜め息で、そっと、確かめるように訊いた。
「ごめんね……死にたかった……?」
聞いた瞬間、キダイははっきり思い出した。
死にたくなかった。
死にたくなくて、死にそうに弱くて、死ぬより助けてほしかった。弱いくせに、死にたくなくて、それなら助けてもらうほかなくて、やっぱり、それは情けない。
首を横に振りながら、キダイはまだまだ涙をこぼす。
ラカラカは複雑な苦笑を浮かべ、頭を振り上げて天海を見上げた。
明るい海だ。
子供は突如、きんきん声で歌いだす。
「のったりのたのたのーたりんー
のーてんのたのたのーたりんー
のーみそのたのたのーたりんー
のーみものたのたのーたりんー」
涙と鼻水に濡れたキダイの顔が、苦しげに歪む。泣きたいのに、笑いたい。流砂に飲まれた足の裏をくすぐられているような気分だった。
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