第3話 今日も笑顔
弔師や香振りにとっては、降ってわいたにわか景気だ。毎日三つは葬式が出る。
近所で死人が出れば、験が悪いというので香振りが招かれる。葬式を出す家のまわりには、香振りたちが遠慮がちな活気をかもして集まってくる。
香振りは葬式行列の先頭に二人。次に神官が続き、弔師が担ぐ棺の両脇にも二人。そのあとに家族が泣きながらついて、最後にまた四人。もうもうと香煙りを吹流しにして歩いて行く。弔葬のウトゥーが家族の悲しみの尾を断つように謡われる。
少女は煙に眼をしばたたきながら、このところ毎日謡っているウトゥーを繰り返す。ほとんど無意識に節をまわしていると、慣れた喉は正確に音をたどる。
町の西北の外れを出て、しばらく行くと墓場がある。乾き切った砂の上に置かれた屍は腐る前にミイラのようになるはずだが、入り口の近くは屍に埋めつくされて、それらどうしの湿気で腐臭がする。もっと奥まで運ばねばならない。
棺を開けると、すでに少し匂う。白布にくるまれた亡骸をそっと砂漠に下ろす。首のあたりから汚い茶色の染みが広がっているのが見える。
香振りの少女は、死化粧を施す弔師が胴体と泣き別れになった首を、縫いつけていたのを思い出す。
若い女の首の付け根はまるで乱れのない真一文字だった。酒で血糊を拭い、白手袋を着けた若い弔師が衿の綻びでも直すように手早く繕う。
弔師とは死体に触る作業をすべて司る、家を持つことを許されない一族だ。昏き名を払うために、月に一度彼らの使ったものは全て焼かなければならない。家を建ててそれを毎月焼くよりは、建てないほうがましというものだ。
彼らは川原や砂漠のとば口に屋根もかけずに暮らしているが、定住しているわけではないらしい。かといって、ハイガ族のように完全な漂泊民でもないらしい。くわしいことは分からないのだ。彼らのことは、彼らにしか知られない。誰も彼らの事など知ろうとはしない。わざわざけがれに近づこうとはしない。
屍という昏き名に関わるゆえに、彼らは身の潔白のために白い頭巾を被り、白い布で爪先まで覆って作業をする。その姿から彼らは白シデムシといって蔑まれる。
死体にたかるというのなら香振りだとて同じ事だ。明けき名の宿る香の煙で昏き名から死者の魂を守る。ただ、屍に手を触れるか否かの違いだけだ。
銀細工匠を二十人抱え新しい店をもう一軒出そうという中の上くらいに羽振りの良い商人の家にしては、えらく豪勢な葬式である。白シデムシと香振りをそれぞれ六人も雇っている。
重苦しく音を隠した喧騒の中で、父親は半狂乱になって通り魔に復讐を誓っていた。 母親は半分だけでなく八割がたおかしくなっていて、うすら笑いを浮かべて延々涙を流し続けた。
彼女は親戚や雇い人たちの腕を捕まえては、娘の死に様を話して聞かせるのだ。
「赤い布を買ってやったら、あの娘の首は銀の刀で飛んでったのよ。あの娘の服は真っ赤になった」
母親はしかし、死体の修繕を終えた弔師が部屋を出てくると、身を避けた。触ればけがれが移る。
言いつのる相手を血走った眼で探し、彼女は弔師の後清めに、彼について部屋を出てきた幼い香振りの少女の腕を取る。しかし、見返すその眼に息を呑んで、二割残った正気が彼女の手を離させた。裏口から先に外へ出た白シデムシの後を、少女は小走りに追う。裏口を出ると弔師は白装束を解いているところだ。少女はその前で香炉を振りながら清めのウトゥーを謡う。
血に汚れた白装束を脱ぎ袖のない貫頭衣だけになった弔師は、意外なほど色が白い。いつも全身を覆う衣裳を付けているためだ。少女は彼のまわりを左右に一度づつ回って香の煙でその肌を洗う。香の香は明けき炎の精を宿し昏き名を払うだろう。
煙を受ける痩せた青年は、ふと香振りのふくらかな顔に目をとめた。
「小さな香振り、きれいな目だね」
少女はちょっと驚いた顔で青年を見上げる。
見張った瞳は顔からはみだしそうで、色は、紫だ。
五つかそこらの女の子は唇の端をつりあげ、肩をすくめて大人びた口をきく。
「白い弔いさんは、肌がきれい」
青年は苦笑する。生白い二の腕をちらと見て。
「いや……、けがれてるのだよ」
「どこが? ぜんぜんだよ!」
今度は少女の剣幕に青年の方が驚く。薄汚れた拾い物の普段着を取り上げながら、少女の視線に気押される。
青年は服をかいこみしゃがみこむと、少女の頬をやさしく撫ぜた。髪の一房を指ですいてやり、にこりと笑う。
「さあ、まだ仕事が残っているのだろ?」
少女は一毫も怖じけることなく、青年に笑い返して裏口を戻っていった。若い白シデムシは穏やかに上着に腕を通して普段着姿になると、裏口から中へ辞退を告げる。組の中で、死体の修繕の役目にあたる青年の、今日の仕事はこれまでだ。あとは棺輿の担ぎ手と墓守りの仕事になる。青年は川原の我が家へと歩き始めた。
墓場の奥で神官と香振りたちが亡骸を取り囲む。そのまわりに参列者が神妙な顔で佇み、弔師は少し離れて砂の上に膝を折って控えている。
神官がウトゥー・エレを唱え始めると、香振りは口をつぐむ。
神官のウトゥーが終わると、それでおしまい。参列者は神妙な顔のまま、香振りは香炉の鎖を手元に引いて、弔師は守り役の一人を置いて、ぞろぞろと元来た道を戻るのだ。
墓場を出たところで神官と香振りと弔師は謝礼をもらい、それぞれの帰途につく。墓守りだけはあと二日帰れない。
少女は銀貨を腰の皮袋に収めてその重みに満足すると、今度は弔いのウトゥーとはうって変わった自分の好きな歌を歌いながら歩く。
意味がわかって歌っているのかどうか。舌足らずの甲高い声で恋の歌を。
「あたし、あんたの足元で、あんたの沓になりたいわ
いつでもあんたの爪先を、熱い砂から守ってあげる
おれは、おまえの耳元で、おまえの耳飾りになりたいな
いつでもおまえの耳たぶに、熱い言葉を聞かせてあげる
いつもあんたと、いつまでも行くよ
いつもおまえと、いつまでも暮らそう」
脳天気な恋歌に年配の神官が眉をひそめた。
「これ、子供。不謹慎な。歌を止めなさい」
言われた少女はくるり振り向き、思い切り舌を出すと勢い良く走って行って、墓場を囲む塀の上に飛び上がった。上着の尻をまくってはたいて見せる。神官は憤慨したが、何とか年長者の矜持をかき集めやっとのことでそれを無視することに成功した。
少女は墓の内側を見渡して屍を指折り数え独りごちる。
「そろそろ、もう充分」
少女は塀からぴょんと飛び下り、町の方へ駆け出した。さっきの続きにまた声を張り上げる。
「おまえ百まで、わしゃ九十九まで
共に白髪の生えるまで
おまえ二百で、わしゃ百九十九
共に白髪の抜けるまで、っと」
今日の商売はこれまでと、少女は香炉の蓋をぴったり閉めた。
「おまえ三百、わしゃ二百九十九
共に白目を見せるまで」
夕刻のシオ通りの人波に乗りながら、まだやっている。
「おまえ四百、わしゃ三百九十九
共に白骨さらすまで」
シオ通りとルダフ通りの角の兵屯所が見える。少女は立ち番から少し離れて壁際に座り込んだ。
「おまえ五百で、わしゃ四百九十九
共に白骨溶けたなら、晴れて自由なひとりものー」
立ち番が変な顔をして、香振りの少女を見下ろした。
「きれーな姉さん、いい男
ちょいと一緒に遊ばないー、っと」
どうやらそれで一曲終わったらしく、人通りを眺めていた目がくるりと立ち番の若者を見上げた。
ばっちり目の合ってしまった若い兵は思わず笑ってしまい、しかし、番兵が無闇に愛想をふりまくものではないと思いなおして、にやりと開けたままの口を慌ててへの字に曲げた。
「おっちゃん。通り魔まだ捕まんないの?」
当年とって二十一才の立ち番はおっちゃんという呼び掛けが自分に向けられたのだということに、一瞬思い当たらなかった。だが、思い当るとむっとした。
「まだだ」
なるたけ短く答えると、携えた長槍の柄の石突で紫の目を向ける少女をつつく。
「ほら、こんなところに座るんじゃない!」
女の子はもぞもぞと立ち上がる。
「夜は外に出ちゃいけないんでしょう?」
夜間外出禁止令が出ている。すぐ出るのだ。何かにつけて。長引く戦を抱えた広大な国では、戦線とは縁遠い辺境の町でも癖になったように緊急命令を出したがる。
毎日のように発令されるナントカ禁止令に慣れきった町の人間のほとんどは、適当に禁止事項を守ったり守らなかったりして暮らしている。
「そうだ。危ないからな。だが、これは通り魔のせいではなく、緊迫した戦線の……」
紫の瞳が足元の方へすとんと降りた。
「……でも、宿屋は泊めてくれないよ」
正義感にあふれる若者は、この子供が夜毎夜露に震え野犬に怯えて眠る様を思い描いた。何か優しい言葉を捜して口を開きかける。
「痛っっ!」
少女の踵が全体重と勢いを十分に、立ち番の爪先に踏み下ろされたのだ。
まなじりを吊り上げた若者が顔を上げた時には、少女はもう手の届かぬところでこちらを振り返っていた。アカンベエをして||走り去る。
少女は香炉の鎖の端についた鈴を一足ごとに鳴らして走る。
息を弾ませ、橋のたもとに足を止めた。
昨日まではいなかった警備兵が小さな屋根を張って詰めている。目の前に立ち止まった少女に申し訳程度に視線を投げた。少女は紫の目でじっとみつめる。
「おっちゃん。夜まで見張ってんの?」
口を引き結んだ兵隊は、突然吠えた。
「さっさと渡れ!!」
その声に少女は橋の向こうまで吹き飛ばされた。
ギノザミ通りに出た少女は、町外れ、砂漠の方へ歩き出した。しかしギノザミの門が閉ざされているので、町を囲む石壁に沿って歩く。少女の背丈よりも高い壁が延々続く。壁から三丈は建物を作ってはいけないことになっているので、壁沿いはずっと歩くことができる。
うら淋しい壁際をしばらく歩き、少女はふいに横道へそれた。ランズ通りを滝の方へ上がる。皮を売る店が多い通りだ。乾いた死骸の匂いがする。
少女は店の軒先に出された売り物にいちいち触って歩く。動物を開いた形のまま乾かしただけの皮。栗鼠の柔らかな毛皮も鞣す前は毛だけが柔らかく皮はがちがちだ。鞣した蜥蝪の皮は肌に貼りつきそうな滑らかさ。小刀の鞘が十、二十とまとめて売られている。何の飾りもない茶色一色のものから、細かい透かし彫りに鮮やかな彩色を施したものまで。印傳の財布もあれば、鉄のたがをかけた鍵付きのつづらもある。
少女はぴょんぴょん跳ねて軒から吊した水袋をつつきまわした。
「こらっ! 悪戯しおって!」
拳を振り上げた店主に向かって、少女は平然と言う。
「これ、ちょうだい」
店主は一言ごとに少女の肩を小突いて通りの方へ押し出した。
「やれる、もんか! 売りもん、だぞ!」
少女は通りによろめき出ると、首を突き出して毒づいた。
「いーよ、ばーか」
向かいの同様の店に入っていって水袋を指差す。今度は最初にはっきり、自分が客なのだということがわかるように言う。
「ねえ、これ、売ってよ」
少女は自分の頭がすっぽり入りそうな皮の袋を二つも買って、店のおやじにあきれた顔で見送られた。
少女はずだ袋にぎゅうぎゅう皮袋を詰め込んで背負うと、チャルク通りに出る。外へ向かってとことこ歩き、チャルクの門の屯所の裏に風をよけてもぐりこんだ。ずだ袋と香炉を置きサンダルを脱ぐと、その荷物全部に外套をかぶせて兵屯所の裏口を探す。
屯所と裏の建物の狭間に立って見上げると、落ちかけた陽を透す天海の色は、少女の瞳から溢れたような紫の光だ。
壁に沿って行く途中で竃の煙出しらしい高窓を見付けて飛び付いた。煤で真っ黒になりながら潜り込み、部屋を仕切る壁の上をそろそろ伝う。
兵たちの点呼をしているらしい、飾り付きの帽子がずらり並んだ部屋を見下ろす。直立不動の軍人たちは誰も頭上の暗がりをよそ見しようとはしない。
先頭に少しいい服を着たのが四人。それぞれの後に部下が六人ずつ定規で引いたように真っすぐに並んでいる。彼ら二十八人に向かい合ったチャルク隊隊長が声を張り上げた。
「せんきょくわかれつをきわめ! しかしわがぐんわぜんせんしつつ! かくじつにわがくにのはんとおひろげておる!」
少女は彼がいったい何語をしゃべっているのかと紫の目をぱちくりさせた。
謎の絶叫をしばらく続けた後、彼はやっと少女にも意味の分かる言葉を発した。
「良いな!」
「はっっ!」
二十八人が突然鋭い声を上げて敬礼をしたので、壁の上の少女は危うく手を踏み外しかけた。
「ところで! 昨今この町に連続殺人鬼が出没し! 夜な夜な善良なる市民の殺戮を繰り返しておる!」
少女は猫のようにひたと軍人たちに注意を向ける。
「我が! 防衛軍チャルク門警備隊は、その第一の任務として市民の安全を確保せねばならない!」
早く本題に入ってほしいと願っているのは少女だけではないようだ。
「そこで! チャルク隊としては、門外の警備よりも門内の警備を強化することとする! チャルク通り周辺の巡回を、これまでの三刻ごとから、一刻ごととし! 甲冑の着用を定める! しかし、門外の警備も怠ってはならない! ただし、これまでの午前午後二度の巡回を! それぞれ一度とする! では、時間分担を発表する! ガータス伍長!」
向かって右端の真四角の顔をした中年が、ばかにでかい声で敬礼をして一歩前へ出た。踵をごんと鳴らして直角に右に向く。それから、天井の暗がりに潜む少女の耳までガンガンするような声で、分担表を読み上げ、敬礼し、向きを直し、一歩下がった。
少女は分担表が読み終えられると、すぐさま方向転換して入って来た煙出しの高窓まで這って戻り、音を立てないようにぽとんと裏路地に着地した。
荷物にかけた外套を取ろうとして、うわっと手を引く。自分の格好を見下ろして、やや白の残っているあたりに手の平をこすりつける。服がずいぶん汚くなったわりにきれいになっていない手で荷物をつまみあげ、結局、真っ黒い胸に抱えて歩き出した。
「まっくろけーのけー、まっくろけーのけー、まっくろけーのまーるやけー」
適当に語呂あわせを歌にして歩く。
すでに月が一つ、ゆらりと天海の向こうから照っている。太陽の残照がほんのりと町を染めて、景色が柔らかい。
丈の高い草がまばらに茂る川原が広がっている。点々と焚火が燃えて、宵闇に黒く煙を上げる。少女はその間の踏み跡を通って水際まで降りた。乾いた砂利の上で服を脱ぐと、少し躊躇してから服を持って水に入った。
川の中で服と自分の体の汚れを水に流す。荷物の側に上がり、洗ったばかりの髪と服を小さな手でしぼった。黒い手形のついた外套だけを体に巻きつけて焚火の間を抜ける。 焚いた火のまわりに集まっているのは、少女のような宿の取れない香振りや路上生活者たち。それから生粋の川原者である旅芸人や弔師。
少女が脇を通り過ぎようとした一つの焚火の向こうで、誰かが立ち上がって声をかけた。
「小さな香振り! 昼間の、きれいな目の……」
少女が立ち止まると、今日の仕事の葬式で見た顔が焚火の光を受けてこちらを向いていた。死体の首を繕っていた青年が仲間の輪を離れて近寄る。
「どうして、こんなにびしょびしょ?」
昼間のように少女の目の高さに合わせてしゃがみ、濡れそぼった髪を一房指ですく。
「水浴びした」
「夜は、だめだよ。……冷えるのだから」
青年は火の側に少女を招いた。
「おいおいおい! 連込むには若い方がいいって言ったって、もうちょっとトウが立ってる方がいいってものだぜ?」
昼間の棺輿の担ぎ手の一人が青年をひやかす。青年はにこりと笑って穏やかに答えた。
「今度は、そうする」
「いーや奥手のおめえに今度なんてあるものか! そのガキしっかりと捕まえて、トウが立つのを待つのだな。童顔のおめえさんには似合いだなあ、うん」
担ぎ手がけらけら笑って繕い手の肩をどやしつけた。別の中年の担ぎ手が感慨深く一人ごちる。
「三十も下の連れ合いとは、さも世代間較差というものに悩まされることであろうの。いやいや……」
少女は紫の目をひんむいて隣で微笑む男の顔を見上げた。
「あんた何才?」
「三十八。二十にも見えるらしいのだがね、困るだろ?」
困るだろ、と言われても、まったく三十路に届くとは思えぬ容貌だ。少女は四秒間、彼の顔を見つめてから言った。
「だいじょうぶ、六つに見える五百歳もいるからさ」
そう言って、親指で自分の胸を指す。童顔の男は感謝を表して少女に頷いた。
「なんだなんだ五百歳だあ? これは驚いた童顔女だ、完璧おめえの上を行ってるぜ!」「四百六十も上の連れ合いとは、さも世代間較差というものに悩まされることであろうの。いやいや……」
女の子はひっくり返って吹き出した。足をばたつかせ腹を抱えて笑う。担ぎ手もいっしょになって笑う。
担ぎ手と少女の爆笑に誘われて、態度だけは落ち着いた三十路男も笑い声を洩らしている。
地面に腹ばいになった女の子はなおも腹をひくつかせながら喘いだ。
「あああ、おなかが疲れる」
修繕屋が女の子の背を軽く叩く。
「五百歳の香振り、今日の宿はある?」
「たった六才の汚い香振りになんか、部屋なんて貸してくんないよ!」
やっと笑いを収めた少女は体を起こして膝を抱える。若い方の担ぎ手が焚火の側の地面を平手で叩いた。
「ここに泊まりな! これの嫁御ならば当然だ」
これ呼ばわりされた年長者は相変わらず穏やかに微笑んでいる。
「一晩、川原で共寝も、悪くはないよ」
少女は口をつぐんでただ頷いた。
しばらく火を見つめていたが、ふいに顔を上げる。
「ねえ、通り魔ってどこに寝てんのかな?」
中年の棺輿担ぎがようやく天海に漕ぎ出してきた二つ目の月の船を見上げた。
「さて、夜の闇は暗きことよの。昏き名を隠すには絶好であろうの」
「あれはほんの一時しか町に出ては来ないからな。どこぞの橋の下にでも、じいっと隠れているのだろうぜ」
少女は背を伸ばして若い担ぎ手を見つめる。暗闇に紫のひとだまが浮かぶようだ。
「どこぞって、どこ?」
中年の担ぎ手が、小さく歌う。
「川原を知るは砂利の隙間の捨て舎利ばかり」
少女の隣に座っている青年が背を丸めて女の子の顔を覗き込んだ。青年の顔は穏やかな仮面のようだ。
「けがれているから、川原者に触れてはならないのだよ」
「故に汝こそ我が触れ得ぬものを識るとも言うのだろうが」
若い担ぎ手が火の横にごろりと寝そべった。
少女が裸の足を火の方へ投げ出し後手をついた。あごを上げて三人を等分に見る。
「かわみずの流れのつらをあらえばや、かわもの風の花かぜのとおりをいつしかきく花は、かわらかわかぜかわなみのながるる先のむしのこえはら」
中年の担ぎ手が初めて紫の瞳を見た。
「さても古い歌を知っているものよ」
少女の背中にかかる髪を、青年が手櫛ですく。
「橋の下は、昼でも暗い」
若い担ぎ手が寝返りをうって少女の顔を見る。
「ルグン橋の上には鬼が出るだろ、コムナ橋の下はムシだらけで、ワテ橋のたもとは餓鬼の巣だ。大虎を見たいんならスナロ橋かエイシャ橋か、な。なあ?」
青年に同意を求めておいて、担ぎ手は起こした頭を地に落とし、もう起き上がるつもりはないようだ。青年は髪をすく手を止めた。
「おやすみ、香振り。明日も、仕事を探さねばならないのだろ?」
少女は満面に笑みをたたえて、元気に返事をした。
「はーい、おやすみー!」
「……静かに寝ろよ、まったく五百歳のババアはよ」
眠ったはずの担ぎ手の言葉を無視して少女はぱたりと地に伏した。
翌朝、少女は生乾きの服を着て皮袋の入ったずだ袋を背負、真鍮の香炉を手に下げた。そして、青年を振り仰ぐ。
「名前、聞かないほうがいい?」
死体継ぎの青年は、にこりと笑った。
「では、もう会えないのだね」
「どうして? ともだちなのに」
青年は微笑んだまましゃがんで透きとおった紫を覗く。
「次に会うときは、呼んで……。名は、レンジャ・ヤガ」
少女は真摯に頷いた。
天海に昇る虹の竜神という名を持つ青年は、少女の頬を軽くなでる。
「名は、ラカラカ」
「とても、良い名だね。さようなら、ラカラカ」
少女は歩き出しながら手を振った。
「またね! ……そっちのおっちゃんとにーちゃんもまたね!」
女の子は返事を待たずにぱっと駆け出した。長い巻き毛をぽんぽん跳ね上げて香炉の鎖についた鈴を一歩ごとに鳴らして。
青年はうっすらと笑みを浮かべる。その肩に担ぎ手がどさりと腕をかけた。
「ばかだね、おめえは! 捕まえとけって言ったろが」
肩を落とした青年の顔を間近に見た担ぎ手はぎょっとした。あわててその頭をどやしつける。衝撃につむった青年の睫に涙が一粒ひっかかる。
「……い、痛い」
「大の男がそのくらい我慢をしな! 泣き別れの首を縫い合わせて平気な顔をしている男が、自分のことになると少しのことで痛がりやがる」
中年の担ぎ手が焚火に砂利をかけた。
「早う寄せ場に行かねばの。はて仕事の減りそうな雲行きよ」
弔い屋の寄せ場に集まるのはほとんどが白シデムシで、香振りが少しまじる。彼らの組の頭が微かな香の香りの中で焦れていた。
「遅いぞ」
「悪い悪い。まだ仕事にありついてないんじゃないかと思っていた」
頭が顔をむぐむぐさせて、苦虫を噛みつぶしたような笑みを作る。
「昨日の晩も出たからな、通り魔が」
修繕役の青年に顎をしゃくる。
「肩がばっくり開いてるとさ」
青年は、にこりと笑って頷いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます