第2話 鋼鉄製のジベレリン
風に吹かれるように歩く老人の、意外な速さにキダイは半ば小走りについていく。
「今度は少し町に出て楽しむか」
乾いた白い土を蹴りながら、キダイは老人を見上げる。
「なあ、いつになったらその刀くれるんだよ?」
ワングは背に大剣を負うている。身の幅は広くないが、長さのある片刃の刀で美しい烈風の反りをもっている。
「まだじゃなあ。まだ修業が足りんなあ」
ワングはのんびりと天海を見上げ、キダイはせわしなく繰り出される自分の爪先に目を落とした。
「いいかキダイ。こいつは強い。負けちゃいかんのじゃ」
「……聞き飽きた……」
キダイが、これまた毎度お馴染みの不貞腐れた答えを返し、老人は笑う。
「強くなれ、キダイ」
老人の痩せ枯れた手が頭に置かれ、少年はまたうつむく。
本当にいつになったらワングが認めるほど強くなれるというのだろう。この自称浮浪剣士と、陳腐な修業の旅に出てから五年以上たっている。それでもまだだと言う。そこらのチンピラには負けないし、一対一なら兵隊にだって勝てると言われた。
あとは、何に勝てばいいのだろう。
丸一日歩いてロルウの滝町の門をくぐったところで、キダイは訊ねた。
「ワングは昔兵隊だったんだろ? どのくらい勝った?」
「わしは昔、騎士だったんだ」
キダイはばかみたいに口を開けてワングの顔をみつめる。いつもの好々爺の顔だ。いつもはぐらかされてきた答えは、随分と偉そうな過去を語っているというのに。
「うっそだろー……!」
「うはは。わしはあまりにも強すぎて追放されたんだな。他の騎士が皆、自信喪失しちまうだろ?」
「吹くなあ」
「そう思うか?」
老人は、かかか、と笑う。キダイはもちろんそう思ってはいなかった。
安宿をとると二人は寝床に倒れこんだ。砂漠で風に吹かれながら歩くのは疲れる。久しぶりに鍵のかかる部屋でキダイは安心して翌日の昼まで眠った。
「よく眠る子供だ。脳みそがとろけて流れ出してこんかね?」
「ジジイになるほど朝が早くなるんだよ、生きてる時間が惜しいんだろ」
このセリフのあとにキダイは足首に関節技を決められて降参を宣言し、めでたく昼食の時間に朝食をいただけることとなった。階下に降りて食堂に席をとる。
香振りの声がするのでキダイはちらと戸口を見やる。
ムンギリ地方の名物だ。どの家もどの店も日に一度か二度は香振りを呼び止める。ここはさほど大きくもない食堂だが、昼の稼ぎ時を前に祝福を受けておこうというのだろう。
明けき名の祝福を、唯一の正しき名に祈りを。
鎖の端に付いた鈴を軽く鳴らし、反対の端についた銀の香炉の蓋をわずかにずらして微かに匂わせ、口上を謡いながら歩いてくる。
通りの方から聞こえた口上は少女の声だ。
店の戸口から二三歩中へ招かれた少女は、さっそく香炉の蓋を開ける。香炉が膝あたりまでくるように鎖をのばし、何度かゆっくりと左右に振ると、にわかに勢いをつけて振り回しはじめる。円を描く香炉から吹き出す紫煙が店中に香りを運ぶ。
「偉大なる御名よ、清けき香の香に充ち満ちてあれ、昏き名を祓えよ、明き名を顕せよ」 幼い少女の甲高い声が口上に続いてウトゥーを唱え始める。なかなか巧い謡い手だ。ウトゥーは古い時代の難解な雅語で謡われる。意味を理解できるのは神学を学んだ者くらいで、呪文のようなものだ。香振りたちも意味も分からず歌うもののほうが多い。
少女がゆっくりと右を向き、ちょうどキダイたちの方へ顔が振り向いたときだ、それまで見えないウトゥーの譜を詠むように伏せられていた目が、くっきりと開かれ焦点を結んだ。
キダイの向かいに座るワングが壁に立て掛けた大剣に、少女の目は吸い寄せられている。 大剣が注目されるのは珍しい事ではない。ずいぶんと大きくて装飾も凝っているために、単なる好奇心から骨董屋の喉の手に盗賊の商売気まで惹いてしまう。それよりもキダイが驚いたのは、少女の瞳の色が紫だったことだ。
少女はウトゥーが終わるまで剣を見つめていたが、仕事が終わると店の主人が渡してくれる銀貨の輝きに目を移した。腰の小さな皮袋にしまうとまた香炉の蓋をわずかにずらして通りへ出て行った。
「なあワング。今の子、眼が紫色だった」
「まあ、いろんな人間がおるわな」
ワングは大剣を見られていたことも知らぬげに、骨ばった手で杯を傾ける。
「市場に行けば、もっといろんなモンが見られるぞ」
「うん。早く食べおわってよ、早く行こう!」
キダイは先刻から、ちびちびと酒を舐めるばかりで一向に食事を終わらそうとしないワングを見ているのに飽き飽きしているのだ。
「そう急かすな。老人は消化器が弱っとるからな、ゆっくり噛まんと体に悪い」
「ちぇ。どうせ老い先短いんだから、体のことなんか気にすんなよ」
暇つぶしの雑言を浴びせられながらも、ワングは充分な時間をかけて食事を終えると大剣を負って店を出た。
市場の喧騒はそこにいる全ての人を背景にして主役の来ない舞台だ。そこにいる全ての人がそれぞれに主役でありすぎる。
ワングは風のように人々の間をすりぬけてゆく。キダイは擦れ違う人々と肩をぶつけあいながら、老人の後について歩いた。A
老人は武具を扱う露店商の前で足を止めると、弟子を振り返った。
「どうだ? わかるか?」
刀剣の目利きをしろというのだ。
キダイは真剣に品物を見渡した。そうすると必ずぽっかり浮かんで目に入ってくるものがある。いくつか目星をつけたら、今度は手にとって見る。手の中でちょっと揺らしてみると切れそうな奴はわかる。
一度だけ握らせてもらったワングの大剣に近い奴がそうだ。
「こん中じゃ、これが一番」
キダイは一ふりの剣を示した。両刃の厚くずんぐりした飾りのない剣は、軽く振り下ろしただけで頭が割れそうだ。
露店商の親父がぽかんと目の前の少年の顔を見ていた。ワングがにやりと笑って親父に聞いた。
「こいつは切れるんじゃろ?」
「ああ、ええ。掘り出しもんで。退役した伍長さんの持ち物だったんですがね。軍騎竜の首を一発ではねたって、話ですよ。ええ」
ワングはその剣を軽く振ってみてから、キダイに向かって言う。
「欲しいか?」
「俺、片刃のいいやつじゃなきゃいらない」
「そうか」
ワングは剣を親父に返した。
「残念だったな」
二人は市場の中心らしい広場に出た。人垣の中を覗くと、大道芸人が曲芸を披露している。キダイよりも幼いような、痩せて長い手足をした子供が物凄い早さでトンボを切ってみせては深々と頭を下げ真鍮の鉢を持って見物客の間をまわる。 大人の男が端の方に座っていて両面太鼓を叩きながら歌っている。乾いた太鼓の鋭いリズムに粘っこい声が不思議に合っている。子供はその音に操られるように、逆立ちをし、空中に飛び上がり、異常なまでに躯を曲げる。
子供は息が切れると真鍮の鉢を持って回る。銀貨を何枚も入れてくれる物好きな太っ腹の成金もいれば、小さな銅貨を一枚放ってくれる親子づれもいる。一番前に座り込んで香炉を抱えて一心に曲芸を見ていた少女は、小さな口を開けたまま回ってきた少年を見上げた。小さな手を広げた上に銀貨を一枚乗せている。
少年は、銀貨を拾い上げた。
「……ありがとう」
少年曲芸師は共に道端を職場とする親近感からか、自分よりも幼い香振りの澄んだ紫色の瞳に笑いかけた。女の子は赤ん坊のように笑いかえすと立ち上がり、手を振って人垣の足元にもぐっていった。
少女は大人の足をかきわけて人垣の向こう側へ出ると、顔にかかるふわふわの髪を手の甲で払いのける。もう一度頭を振って髪を肩の後へおいやってからつま先で立ち、西の通りの入り口に銀の鞘のきらめきをみとめとことこ歩きだした。
その日、ワングとキダイは一日遊び歩いて夜もふけてから宿に戻った。足元の怪しいワングをキダイがやっと支えている。
「階段、自分で登れよなあっ」
「うー、いかんいかん……。かわやかわや……」
ワングは口を押さえてふらついた。
「わあっ! おやじさん、灯りつけてくれよ!」
寝呆けた顔の宿屋の主人を叩き起こす。
キダイはやっとワングを寝床に放りこむと、疲れ果てて深い溜め息をついた。脱いだ外套を被って寝床で丸くなる。
「まったくこのジジイは、何年も一人で放浪してたなんて信じられねえな!」
寝返りをうつと、上掛けを剥いだ老人の寝姿が月明かりに目に入った。キダイは自分の寝床を降りてばさばさとそれを直してやる。
「手がかかるったらよお!」
キダイは寝床に飛び込むや、今度こそ朝まで目を開けるものかと外套をひっかぶった。 窓の外では二つの月が天海の瞳のように揺れている。
窓の向かいの路地裏では、月の光に照らされて小さな香振りが体を丸めた。灯りの落ちた窓を一瞥してから目蓋の下に紫の視線を隠す。
静かな夜がふける。夜明けまでの静寂が。
翌朝、キダイはワングの死にそうな声に起こされた。
「み、水、持ってきてくれいぃ……」
キダイは階下の厨房に顔を出して、水差しと器を盆に乗せて戻ってきた。
「歳のくせに、飲みすぎだろ」
「おお、すまんのう」
ワングは体を起こして水を飲み干した。
「キダイ。そういや、こいつの名前を知らんだろう?」
大剣を顎で指す。
「刀なのに名前なんか付いてんの?」
老人は、かかか、と笑う。
「なにせ名刀だから!」
弟子は一言、け、と言った。
「なんじゃ、教えてやらんぞ」
「……聞きますってば。六年も隠してやがって」
老人は枕元の小卓に空になった水の器を置いた。
「シャド・ラグ、という。刀匠の銘が入っておってな。こいつは一生のうちで三本の刀にしか銘を打たなかった」
「だから?」
ワングは天井を見た。
「あー、だから、貴重品ちゅうことだな」
「……それで?」
ワングは嫌な顔をしてキダイを見た。キダイは歯を見せてにやついている。老人は上掛けをよけ、寝床の上で胡坐をかいてキダイに向き合った。しわだらけの頬に軽く笑みを刻み、意外に真面目な声を出す。
「良く聞けよ、キダイ。こいつは血が好きだ」
キダイは壁にどんと背を預けた。
「人切り包丁だもん、当然だろ」
「そうだ。とりわけ人の血を好む。こいつを持つ者にそれを要求する」
「ワング、血ぃ吸われてんの?」
深いしわが正体の掴めぬ笑みを刻む。
「わしの血はやっとらん。分かるな?」
「戦場ならいくら切ってもお手柄だろ」
「ああ、そうだ。……わしはこいつに勝った。だから、この歳まで生きてこられたんだ。分かるか?」
急に銀の鞘の燻した色が血潮の跡に見えてくる。
「だけどそれじゃ、刀を持ってる意味がないじゃんか」
「まあ、その辺は、うまく妥協してバランスとっていかんとなあ」
老人は、かかか、と笑う。いつもの声にキダイはほっとして身を乗り出した。
「俺、腹減ったんだけど」
「おお、今日はお前一人で遊んでこい。わしゃしばらく休みたい」
そう言ってワングはキダイに財布の皮袋から、銀貨を出してやる。
「ワングは?、飯は?」
「食いたくなったらな」
キダイは外套を羽織った。
「なら俺、昼帰って来ないよ」
「行ってこい行ってこい」
「うん。じゃあな」
少年は軽やかに階段を下り通りへ駆け出した。どこかの路地裏から、香の匂いが微かに漂う。
路地から顔を出した幼い香振りは少年の後ろ姿と二階の窓を見比べ、そのまままた道端に腰を下ろした。香炉を脇に置いてぼんやり天海を見上げる。
陽をうけてきれいな青だ。波に乱されて白い光がちかちかしている。
キダイは言葉どおり、昼を三刻も過ぎて帰ってきた。
「ただいまワング! 飯もう食った? 蜜柑食う?」
鮮烈な柑橘の匂いをまとって部屋に入る。ワングは寝床の上で痩せ枯れた体を丸めたままだ。
「ちぇ」
キダイは市内見物の興奮を伝える相手が寝ているので、途端につまらない。とりあえず、蜜柑の残りを片付ける。それでも師匠が起きる気配はないので、部屋を出て下へ降りた。
「おっちゃん、お茶ちょうだい!」
食堂の椅子に乗っかって足をぱたつかせる。
「はいよ、ただいま」
ほとんど間を置かずに宿の主人が熱い茶の器を盆にのせて持って来た。
「熱いよ」
「ありがと……」
音を立てて少しだけすすると、とても甘い。いかにも甘いものが好きそうな体形の主人がキダイの隣の椅子をひいた。
「じいさんの二日酔いはまだひどいかね? 昨日はすっかり出来上がってたようだが」
キダイは顔を上げる。
「飲みすぎなんだよー。ちゃんと飯食ってた?」
主人が目を丸くして首を振った。
「こっちには、降りてきてないよ」
キダイは溜め息をついた。
「お粥作ってくれる?」
粥が湯気を上げる盆を捧げ持って、キダイは足で扉を開けた。
「ワング! 起きろよ! お粥ぐらい食えるだろ」
盆を小卓にのせ、キダイはワングの肩を揺すった。
「なあっ」
老人の肩をぐいと引いて、こちらを向かせる。肩につられて、頭がぱたりとキダイの手に触れた。反射的にキダイは手をひく。絹だと思って触ったら乾いたタールだったという感じ。
キダイは、そうっとワングの頬に触れてみる。
温度がなかった。
キダイの心臓が跳ね上がる。
喉元で跳ね回る心臓を抱えて、キダイはじっとワングの胸元を見つめた。
上下するはずの胸の動きを、必死に待つ。
待ちきれずに、かすれた声を洩らす。
「……ワング……?」
声といっしょに、鼻の奥から嗚咽が染みだしてくる。
恐怖だけを感じていた。何が起きたのか、わからなかった。
耳鳴りだけが響いて、老人の声はなかった。
静かに目を閉じた老人の寝顔は、ここにあるのに。
声を上げたくないのに、胸が息を押し上げる。涙が頬をこぼれて、顎の先で冷たく冷えた。
絶対に、今、ワングに会いたかった
絶対に、もう二度と、会えなかった。
静かに目を閉じたワングの寝顔が、ここにあるのに。
キダイは、涙の溢れる目を見開き、嗚咽の声を殺して、立ち尽くしていた。
立ち竦んでいた。
天海が夕日に染まる頃、部屋の中に子供の嗚咽以外の音が小さく響いた。
……リリ。
鈴のような音に、少年の心臓は止まりそうになった。
涙に濡れた顔で振り返るが、動くものはない。
外からかと、窓を見る。
リリ。
いや。確かに部屋の中からだ。
大剣の立てかけてある、部屋の隅のあたりから。
リリ。
キダイが凝視する先で、かすかに動いたのは、動くはずのない鍛鉄だ。
キダイは信じられぬまま、次の震えを待っている。
リリ。
壁に立て掛けたシャド・ラグが、鳴いた。
キダイの心臓が驚愕する。だが、それをシャド・ラグに知られてはならない、と思う。強いて、静かに呼吸する。
リリ。リリ。
心臓の動きに同調するかのように、かすかなつかの震えの早さが増す。大剣の身震いが鞘に阻まれて鳴るのだ。
リリ、リリ、リリ、
いよいよ早まる鞘鳴りの音に、心が囚われる。
キダイは、銀の刀の方へ、歩を向ける。
リリ、リリ、リリ、
音に急かされるように、あわてて掴み取った。
掴んだ両手の中で、シャド・ラグが笑っている。
シリリリリリリリ……………………
腕を伝わったその震えが、胸の奥をかき回して、落ち着きない動揺が腕に伝わる。キダイは耐えきれずに、鞘を払う。
闇に開いた傷口のような、ぬめる光を放つ。
左手は力を失って鞘を床に落とし、右手は食い込んだようにつかを握りしめている。
両目を見開いて銀の弧を見つめる。片面は青鉄の、片面は赤鉄の。
体が浮いたように軽くなる。床は足を押し返していないし、空気は頭を押さえつけていない。
目に入るのは、風の反りを持つ銀色だけだ。
そして、脳裏に、赤い花が咲く。
涙に冷やされた頬に、熱がかえる。
指の先から、渇きを感じる。
赤く濡れそぼつことを、望んでいる。
渇きを癒す液体を。
赤い。
暖かい。
キダイも知っているもの。
シャド・ラグの渇きを、癒すもの。
我が身を揮えと言う。
斬れ、と。
キダイの脳裏に、赤い花が、開く。心地よく熱い。
シャド・ラグが、命じる快感は。
斬れ、と。
血潮が、たぎる。
斬れ。
熱い、花を。
赤い、花を飲め。
そのために、この一組の、おまえとわたしがあるのだから。
右手がわなないて、それにつられるようにキダイは駆け出した。
部屋の扉を蹴り、ころげる勢いで階段を降りる。
宿の主人が血相変えて飛び出してきたキダイに驚いて声を掛けようとする。
キダイは生きたものの姿に血が湧くのを感じた。今、手にしたものは、何のために手に入れたのだ。その使い道は正しく目の前に示さなければ。
「お客さ……」
言葉の続きを、彼は空中でつぶやくことができたかもしれない。それを聞く者は誰もいなかったが。
主人の体は、右腕と右肩と首から上、それより下の二つに別れて床に倒れた。霧のように飛び散った血飛沫で空気が鉄錆臭い。
シャド・ラグは薄い血曇りを纏いながら、輝きの鋭さをいや増す。
死体になった男の女房が悲鳴をあげても、キダイはこの切っ先を呼ぶ声なのだと思った。願いどおりにその声の源を貫く。声はぴたりと止んで、女は満足したように床に眠る。 悲鳴を聞きつけて駆け込んできた隣人の胴を払って、キダイは外へと駆け出した。
黄昏時の夕闇の中で、血刀をひっさげて走る少年の姿に、通りは一瞬のうちに恐慌に陥る。その中で、胴を裂かれた男の死体をまたぎ少年と入れ違いに宿へ駆け込んだ少女の姿を見咎める者はいなかった。
小さな女の子は急な階段を持て余して、手もつきながら二階に上がる。外より暗、静まりかえった二階の廊下を左右に見渡す。五つの部屋の中で一つだけ開け放たれた扉を覗き込んでみる。
夕刻の水色の光の底に、刀身の反りに合わせた優美な弧が沈んでいた。皮の上に銀の透かしをかぶせ、色のついた石がはめこんである。一番大きな石は本来昼の光では薄紅色だが今は透明な紫に見える。それと同じ色をした少女の目が、部屋の中をぐるりと見渡した。
小さな寝台が二つ。一つは寝乱れたまま。もう一つは白い掛布の下に人の形を隠している。
寝乱れた方の寝台から掛布を引き剥がすと、少女は床に打ち捨てられた大剣の鞘をその中に巻き込んだ。布の端を縛りつけると、一度それを床に置いて、もう一つの方の寝台に歩み寄る。階下が騒がしくなってきたのにも動ぜずに、寝息も立てずに眠る老人の耳元でささやく。
「なんで年取ったからって死んじゃうのさ……」
少女は老人の頭まで掛布をかけ、細長い白い布包みを拾う。それを両手に抱えて階下に降りると、兵士と役人と野次馬が宿の主人夫婦の屍を取り巻いていた。
兵士の一人が少女に目をとめた。
「子供の見るもんじゃない。さああっちへ行け」
役人がうるさそうにそちらを見、仏頂面で声を張り上げる。
「見せ物じゃないぞ! さっさと出て行け町人ども!」
不満の声をあげる町人どもの流れに押されて、少女は建物の外へ吐き出された。小走りに斜向かいの路地に入ると、重ねて捨てた木っ端の影から隠しておいた銀色の香炉を取り出す。商売道具の真鍮細工を包みの先にひっかけて少女は路地の奥へと姿を消した。
昨夜の通り魔の噂は、あっというまに町中に広まった。
夕闇の中で屠られた五人のうち、二人は屈強な警備兵だったというのに、その通り魔はまだ年端も行かぬ子供だという。人の口の端を伝わるたびに少年の容貌は悪魔のそれに似てゆき、しまいには地の底で生まれたという出生の秘密まで囁かれるのだった。
そして、伝説の悪魔に似ていれば似ている程、その話は遠く作り物めいてくる。殺人の場を見ていない大部分の町の人々にとって通り魔は怪談のネタの一つに過ぎなかった。
「暗くならないうちに帰るんだよ。あの通り魔まだ捕まってないんだから」
「大丈夫、お婆ちゃん。母さんといっしょに行くんだから」
ネルトルエナは十四の誕生日の祝いに、新しい上着を作ってもらうことを母と約束していた。
シオナ通りには、織物染物の問屋ばかりがずらりと並んでいる。切り売りの錦が軒から吊され、巻いたりんずが積み上げられ、全ての色と模様が混ざることなく、くっきりと隣合っている。
「母さん! 赤いのがいい。真っ赤な絹がいいな」
「ネル、そんな派手なもの滅多に着れやしないじゃないの」
ネルは澄んだ瞳を真丸にして、母の袖を引いた。
「晴れ着よ? いいでしょ? あたし、こんなのしか持ってないんだもん」
今着ている自分の真っ白い上着の袖口を目の前で振り回して見せる。それは染み一つない柔らかな木綿で、細い糸で織られた目のつんだ上等な物だ。ネルの肌にそっくりな。
母親は目の前ではしゃぐ自分の子供の姿に、光り輝いている愛しい娘の眩しさに、目を細めた。
馴染みの店で頭上の布々をかきわけるように奥へ入る。
「絹の、赤いのを見せてくださる? この娘になんだけれど……」
店の女性が判で押したように、まあ可愛いお嬢さんなどと言うので、ネルはお返しにきちんとはにかむような笑顔を見せた。つもりだったが、まだ幼なすぎる少女は笑顔を作ることに見事に失敗して、本物の花が咲いたようになってしまう。
女性は吊してある中からいくつか下ろして、次々に棚の上に放り投げ、母親の腕にひっかけしてゆく。それぞれ微妙に違う色合の赤だ。カーマイン、マゼンダ、ヴァーミリオン、ローズ、カドミウム、スカーレット、クリムソン。
「どんな色だってありますよ!」
女性はたっぷりとした胸を張った。
ネルは見ているだけでわくわくした。艶のある絹の、投げ出されて雪崩打つ無為のドレープ。そのどれもが、さまざまに魅力的な赤い色をしている。どれが一番きれいだろうか、どれが一番かわいいだろうか。困ってしまって母親の顔を見上げると、母親までがわくわくした笑顔なのだった。
「どれがいいの? これは? かわいいよ?」
まだ紅をささないネルの唇に合わせたような、瑞々しいローズピンクの布を胸元に添えてみる。ネルはそれを見下ろし、回りを見渡し、小首を傾げた。
「うんん。これは?」
ネルが取り上げた一枚は濡れたようにしっとりとした絹で深い深い真紅一色。血に濡れそぼった赤子の髪のように指にまつわりつく。
「これじゃ晴れの上着にするには布が柔かすぎね。もっとしっかりしたのじゃないと」
「でも、きれい。じゃあこっちは?」
鮮やかなカドミウムオレンジの重たい絹は、艶の隣が暗く陰る。
「そうねえ。ちょっとねえ。婦人会に着ていくような布じゃない? 若いんだから、もっと軽い布の方がいいわねえ」
「あっ、じゃあ、あの花のついたの!」
女性はネルが指差した布を棒を使って下ろし、彼女の腕にかけてやる。
澄んだマゼンダピンクのクムラクの花が、黄金色の地一面に織り出されている。
「あら、いいんじゃない? とっても」
母親は言いながら娘の肩にその布をかけてやる。そうやって少し離れて眺め、頭の中に上着に作ったそれを想像する。
「似合う?」
「ええ、かわいいわよ。似合ってる」
袖はゆったりとってやろう、胸回りはぴったりにして、裾の方を少し広くして、丈は膝の上で、襟ぐりに若葉色の縫い取りをして……。
「そう? そうかな? 子供みたいじゃない?」
ネルは自分の腕にかかった絹の光沢をためつすがめつみつめている。その姿を見て母親はまだまだ子供だと思っている。
「そんなことありませんよ。お花の模様が大きすぎないから上品でしょう?」
店の女性が言うのを聞いて、ネルは心を決めた。母さんは自分のことを子供だと思っていて、いつも子供っぽいものばかり勧めるのだから。
「ねえこれにする。母さん、これいいよね、すごく」
「そうねえ」
「そうですよ。八十番手の糸でこんなに織り込んであるなんて、なかなかありませんよ。柄がみんな形が整ってるし、色も鮮やかでしょう。一生ものですよ」
結局それを包んでもらって、二人は外に出た。
「ねえ、母さん、お茶を飲んで帰ろうよ」
「いいわね。ちょっと疲れたものね」
夕暮の近付いた町は、昼間の賑わいを背負って気怠く浮き足立っている。二人は華やいだ気分で、新鮮な果物の香りのする甘くて冷たい液体を飲んだ。暗くならないうちにと席を立つ。
ネルは母親の腕を抱えてひっぱるように人込みの中を歩く。道端の花の屋台に目を奪われた拍子に、前から来た少年とぶつかった。
「あっ、ごめんね」
瞬間的に飛び退いた少年が、正面からネルを見据えた。
謝っても愛想笑いもしない。薄汚れた頬はげっそりとして、棒状の包みを持っている。雑に巻いた布の中身は盗品かも。きっと不良だ、どうしよう。
少年は一動作で包みを解いた。
ネルはきらめき出た銀色の光が何なのか分からずに目を丸くした。
隣にいた母親が娘の体をかばおうとしたが、一瞬遅かった。
目をつぶって母親が抱きとめた体は力を失い、二人いっしょにくずおれる。
腕に熱い湯がかかって、母親は目を開けた。
息をするのも忘れて、真っ赤な腕の中を凝視する。
半ばまで斬られた首が、ぐらりと横を向いてちぎれかかっていた。脈を打って吹き出す娘の血液といっしょに、自分の体から力が抜けていく。真っ白い、いや、白かった娘の服は、血に浸されて赤く濡れている。新鮮な血液の、光を含んだ真紅の色。
「ぁああああああ」
喉が勝手に震えていた。こぼれそうな娘の首をかきいだこうとする。
柔らかな髪が血に濡れそぼって、頬に貼りついている。見開いた目の中にも、半ば開かれた口の中にも血が溢れている。絹目の肌の上をつるつると血が流れる。
母親は、その色だけを網膜に焼き付けて、気を失った。
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