アンダーウォーター・トラベラーズ

狸穴かざみ

第1話 願わくはごみ溜め以外で

 首輪なしで生きていくのは難しい。

 ゴミ溜め漁りは、首輪のない連中の覇権争いの場だ。いかに新鮮な食料にありつけるかが彼らの生死を分ける。そのためには縄張りを確保しなくてはならない。

 保護する者もなく路上に重なり合って眠る子供たちは、町をうろつく野良犬たちと同じように小さな群れを作って生きている。食料の調達も排泄も水浴も、両者の生活圏は一致している。

 わずかでも収入を得られる手段は大人たちに独占されている。実行するのが首輪つきの子供たちだとしても同じことだ。

 自らを頼って生きる子供たちは、同等の敵として野良犬と戦い、さらに支配しようとする者の手から逃げ切って、生き残る。そのために群れを作ることは有効だ。

 だが、キダイは昨日群れからはぐれてしまった。

 物心ついたときにはすでに一緒に行動していたグループだ。十二か十三才のガトを筆頭に、だいたい七、八人が一緒にいる。血のつながった兄弟が混ざっているのかもしれないがキダイは知らなかったし、そんなことはどうでも良かった。キダイにとって生きるということは、彼らと共に行動することと同義だ。

 昨日は少し足をのばしすぎた。

 複雑にスラムと噛み合った繁華街が彼らの生活圏だが、昨日はだいぶスラムから離れてまともな人間の町の方へ近付いてしまったのだ。ちょっと油断して石畳の大通りに出たところを警備兵の棍棒に追われた。みんな一斉に散らばって、別々の路地に逃げ込む。ガトが一番小さなレンジャを抱え上げて走るのが見えた。まだ四つにはなっていないはずのレンジャは、ガトの腕の中で火がついたように泣きじゃくっていた。あれでは捕まってしまうかもしれない。

 キダイはガトたちと反対の路地へ走り込んだ。人が通るための道を走る間に、肩と腰を打たれる。痛みをこらえ、それこそ必死で走ってアオトカゲしか通らないような家々の裏に潜り込むと、やっと追手のないことを確かめるために振り向くことができた。いや、もう走れなくなってへたりこんだのだ。無理に走りすぎて吐き気がした。頭がぐらぐらする。

 地面に両手をついて酸素に縋りつく。頭の中でレンジャが泣いている。

 小さなレンジャはみんなの兄貴風やら姉貴風やらのおかげでいつも可愛がられていた。ふわふわの髪の毛、おもちゃのような手、大きく澄んだ虹の瞳。その名前のとおりにきれいな子。彼女の名前は虹という意味のシュナ語だ。ときおり滝壷のまわりで戯れるという十色の鱗に覆われた竜神の名前。

 キダイはまだ虹どころか、滝壷も見たことがない。滝の落ちる場所のまわりは聖域で、神官兵に追い払われる。ガトは一度見に行ったと言っていた。それはそれは凄かった、そうだ。

 やっと吐き気がおさまってきて、石壁に背をつけて足を抱えて座る。背中がずきずきする。途中で転ばなくて良かった。もし転んだりなんかしていたらあの棍棒で確実に脳天をかち割られていた。

 脳天をかち割られて死んだ女の子を見たことがある。警備兵はできれば触りたくないという態度もあらわに、血と泥で汚れた彼女の服を掴んで荷車に引きずり上げた。生きている者も死んだ者も一緒につめこまれて運ばれて行った。

 冷たく乾いた壁の隙間は、中天の陽に照らされて奇妙に明るい。白茶けた細長い砂地の上には、同じ色に染まったがらくたが窮屈そうに安定している。壁の上の方には絶対に開かれることのない窓がはまっている。昔は鮮やかに塗装されていたらしい桟と鎧戸は、すでに石と化して色を失くしている。

 そのもっと上には何もない空間があって、さらにもっと上には天海が地上で何が起ころうともひねもすのたりと揺らめいている。石壁が下方で足もとの砂地を細く囲っているのと同じく、石壁の上方で同じ形に細く長く切り取られた天海は、静かな川のようだ。

 キダイは歩きだした。砂色のがらくたは近付くと大きな机だということがわかったが、どうやってこんな所に放り出すことができたのかはさっぱりわからない。真っ二つになってもまだ道幅より大きい。

 乗り越えようとして天板に体重をかけると、全体重が乗ったところで踏み抜いた。キダイは足を喰われたと思った。割れた板は鋭く足に刺さる。半ベソかきながら足を引き出し、四つん這いになって天板から降りる。

 通りに出ると屋根の向こうに滝の姿を捜し、ひとまずそれと反対の方向へ行く。しばらく歩くうちに縄張りの位置のだいたいの見当がつくだろう。夜になる前に縄張りへ戻りたい。

 びっこを引いて歩いていると、突然、空腹を意識した。今日はまだ何も口に入れてない。せめて飲み物だけでも欲しい。喉がくっつきそうだ。

 果物を山積みにした屋台が見える。

 橙色の蜜柑。篭から溢れんばかりにキダイを誘う。

 屋台の目の前まで歩くと、客の大人の腋の下から手をのばして大きな蜜柑を一つ掴みとり、人通りの中を全力で走り抜ける。売り子の中年女の呪いの言葉がドスのように飛んできたが、人々の間に隠れてしまった子供には届かない。店を離れてまで追ってこようとはしない。そんなことをしたら戻って来るころには店の跡形もないだろう。

 小さなかっぱらいはしばらく走って歩を緩めた。必死で走っている方が目立つ。目立っていたら、誰からどんな因縁をつけられるかわからない。

 蜜柑の皮を剥くとその匂いだけで唾が湧く。歩きながら皮は道端にぼろぼろ落とし、冷たい果肉にかぶりついた。強烈な芳香にむせて果汁を吹きながら咳き込む。回りを歩いていた大人たちが嫌な視線で側を離れる。病気持ちだと思ったのに違いない。手も顔も胸まで果汁で濡らして食べ終えると、触った手のほうが汚くなりそうなズボンの尻で手を拭った。

 縄張りまでまだ遠い。警備兵から逃げるときに縄張りから遠ざかるように逃げてしまったらしい。縄張りの外で、しかも一人でなんて、恐くて寝ることもできない。

 一生懸命歩いているのに、太陽の船のほうが速い。

 さっきの蜜柑が空腹の呼び水になってどうしても何か食べたかった。

 大通りから一本路地に入って、ごみ捨て場をさがす。この辺りは大きな食堂が集まっているから造作ない。ごみ捨て桶の中を漁る。

「おまえ、誰だよ!」

 夢中になっていると背後から詰問された。

 キダイは恐怖に目を見はって振り返る。同じ年ごろの子供たちが五人。囲まれたキダイが後ずさり、ごみの上に尻餅をつくと一斉に飛びかかってきた。髪を掴まれ、腹を蹴りつけられ、鼻柱を殴られて、自動的に涙が溢れた。

「さっき、蜜柑を盗っただろう!」

「俺たちの縄張りだぞ!」

 キダイは手足を振り回して抵抗したつもりだったが、五人相手に盲滅法では何の功も奏しはしない。身を守ろうと丸めた背中に、手や足ではない硬いものが打ちつけられた。思わず悲鳴を上げて仰け反る。今度は頭に衝撃がきてキダイは失神した。

 白目を剥いてだらりと四肢を投げ出した様に、五人の子供たちは攻撃を止めた。一人が両手で抱えた煉瓦を重そうに足元に落とす。敵ではなく、気持ちの悪い物――死体を見る目つきで言う。

「死んだ?」

「なら、行こうぜ」

 リーダー格らしい少年が、一度キダイの背を足で押してみて唾を吐いた。五人の子供たちは元気良く走り去る。

 やがて夕暮の蒼く光る闇が静かに地上を満たし始め、裏通りの腐ったごみまでが無機物のように清潔に見える。建物の反対側では、酒房兼曖昧宿がやっと活気を得て騒ぎはじめる。

 夜になると、子供たちは昼間よりも慎重にカモを選んで商売をする。本当にイカレた奴とか本物の組織の成員とか、手を出した途端にこっちの生命が持っていかれてしまう種類の連中は夜の徘徊者だ。そいつらに当たらない限り、夜は仕事がしやすい。子供たちはすばしこいし、御立派な大人たちよりは頭も良い。たとえば、何人かで組んでひったくりをするのはいい稼ぎだ。

 ランプの灯りが昼間より赤く道を照らしている。女たちの嬌声が赤い唇から弾けている。羽振りの良い男のまわりにはたくさんの女が群がって、か細いその手にいくらかでも多く何かをもぎとろうとしている。赤い爪を閃かせてまとわりつくその手は、細くても決して無力ではない。汚れのこびりついた子供たちの黒い手と同じように。

 ただ違うのは、彼女たちの手は、繋がれている。

 老人は風に吹かれるように、雑踏の中を歩いていた。ついさっき夕暮れ時にこの町についたばかりなのだ。落ち着いて食事がしたかった。

 ふらふら歩いていると、時折強い視線を感じる。背に負った大剣のせいだ。やけに長く、鞘の意匠も凝っている。ほとんどは好奇心の眼差しだが、たまにチンピラどもの警戒と敵意と羨望がぎらぎらと張りついてくる。

 老人は知らぬふりで、立ち並ぶ食堂を物色して歩いた。

 突然、横から筋肉の固まりにがっちりと抱き締められた。

「まああ! 素敵な小父様、ウチで遊んでいらして?」

 小柄な老人はさして驚いた様子もなく、ふんぷんたる脂粉の香りの源を見上げた。機嫌良く、かかか、と笑う。

「綺麗なお嬢さんよ、わしは腹が減ってる。あんたのウチで飯は出しとるかね?」

 とてつもなく筋肉質の女に見えなくもない男は、厚い唇でにっこりした。男の声で女を演じる。

「もちろんよ! 料理の腕には自信があるの!」

 その力強い肯定に負けたのか、老人はお嬢さんの後について店に入って行った。大剣を下ろして席をとり、料理と酒をかたっぱしから注文する。存外気が優しいらしい客引きのお嬢さんが、心配して忠告してくれる。

「そんなに食べられやしないわよ? 」

 老人はさっそく出された酒の杯をすすりながら、機嫌良く笑う。

「ちょっとづついろんなモンを食ったほうが楽しいだろ? みんな手を出してくれよ、うまい料理を残しちゃもったいない」

「気っぷの良い人ね」

 骨太のお嬢さんは風の起こりそうな仕草で好意を表わし、うってかわって空気の隙間を縫うようなしなをつくって老人の隣の椅子に腰を下ろした。反対側の隣には骨ばったお嬢さんが隈取りをした鹿のような目をしばたたいて足を組む。老人の背後の壁に立てかけられた大剣の鞘を指先で触れてみる。

「すんごいカタナねえ……! なんか名前の付いた名刀なんでしょ?」

 老人は窪んだ目をきょろきょろさせて、残り少ない白髪のへばりついた頭を左右に振る。「そいつはわしより年寄でな。名前はあるが役立たずになってしもうた」

 意味ありげに下の方を見つめてみせたので、お嬢さん方は素敵な低音で笑う。それから、もっと過激な冗談を連発しはじめて、店の中は収拾がつかない騒ぎだ。

 老人も上機嫌で顔中笑顔にして飯を食っている。痩せ枯れた体のどこに入るのか、次々に皿を空にしてゆく。

「小父様ったらいい食べっぷり。嬉しいわあ」

 客引きをしていた大柄なお嬢さんが本当に幸せそうに目を細める。料理は彼女が作っているらしい。

 老人は二時間程かけて食事を終わらせると席を立った。代金の五割増しくらいの銀貨をお嬢さんに握らせる。お嬢さんはそれをしっかり握ったまま、しかし、少し済まなそうに言った。

「こんなにもらっちゃって大丈夫なの? これが最後の晩餐だなんていうのはイヤよ?」

 老人は財布の皮袋をたたいて笑う。

「懐が暖かいときぐらい、偽善家にならんとな」

 もともと大きな唇をさらに大きく引き伸ばして、お嬢さんは吹き出しそうに言った。

「慈善家でしょ? やだ、酔ってるわよ」

「いやいや、偽善偽善、わしの自己満足。おお、気分がいいのう、施しをすると!」

 個性的なお嬢さん方の声援を背に受けて、老人はひらひらと手を振ってふらりと人込みに紛れた。ほろ酔い加減のいい気分でしばらく歩く。小用を足したくなって暗い路地に入り、さて、すっきりしたところで、老人は何かを聞きつけて顔を上げた。

 悲鳴か泣き声とおぼしき、細い声だ。声のしたと思われる方向に一歩体を向けると、噛み付くような犬の声が低く響いた。

 老人は小走りに路地の一角を曲がる。何匹かの野良犬がごみにたかっていた。老人の方を向いた瞳が緑の宝玉の光を放つ。不穏な唸り声をあげる犬の首に銀光が一閃し、犬の首と胴は泣き別れに地に伏した。あとの三匹が狂ったように吠えたてる。

 老人を敵と定めた犬たちの向こうに、夜闇の中で血かもしれない汚れで真っ黒に見える子供が、ごみの中に横たわっている。

 老人は長いが細身の刀を真っすぐに構えた。風のような反りを持った刀身は、背に触れただけも指が落ちるのではないかと思わせる。月の光を受けて、闇に開いた傷口のような鍛鉄は、片面が青銀色で片面が白金色である。二つの色が触れ合う刃先が、見えない火花を散らして大気の粒子を切り裂いている。

 しばし刀身と対峙した犬たちは、慎重に退くと身を翻して闇の中へと走り去った。微かな曇りの残る銀弧を鞘に隠して、老人は倒れた子供に屈みこんだ。

「おい、もう死んじまったか?」

 ごみと泥と傷にまみれた子供は、もう指一本動かせやしなかった。老人は子供の胸から腹にかけて指先で押してみて肋骨が無事なことを確かめると、薄い肩の上に担ぎ上げた。「ごみ溜めじゃあんまりだわな。せめて墓場で眠りたかろ」

 夢を見せる煙が漂うような種類の宿を捜して老人は闇の路地を行く。大きな荷物を肩に担いだまま、小さな木戸を蹴とばした。薄暗い灯りを洩らして半開きにあいた木戸の影から、顔色と眼つきと愛想と態度の悪い男が肩を怒らせて老人の顔をねめつける。

「部屋かい」

 老人が陰気な声に頷くと、男は廊下の奥へ顎をしゃくった。その三白眼は老人が背負っている二つの大荷物のうち、銀色に光る方にずっと注がれている。

 思いの外広い廊下は建物の向こう側まで抜けている。今来た道よりはやや広い向こう側の通りは、表通りとは違う喧騒が気怠さと緊張感を胎んでいる。廊下の端には一枚剥げば裸といった格好の女たちが壁にもたれ、唇の両端を吊り上げて見せた。

「上の六番だ」

 男が色褪せた紐のついた鍵を壁からとって渡し、狭い階段を指す。老人は鍵を受け取ると銀貨をいくつか男に掴ませた。

「酒を買ってきてくれ。一等安いのを大瓶で二本、急いでな。それを水浴場に持ってきてくれんか」

 男は銀貨の重さが、安酒二本分より余計にあることを確かめると何も言わずに出て行った。老人は夜の花を一輪手招く。

「一晩分こいつの洗濯で稼がしてやるが、どうだ」

 そう言って肩の上の荷物をぱんぱんとはたく。くたびれた花はため息をついて承知した。 壁から背中をひき剥がし、流されるように水場までついてゆく。

「……あんたの孫?」

 女は裾をはしょり恥ずかしげもなく足を出して水場の床にしゃがみこんだ。

 固まった血糊で貼りついた子供の上着に水を含ませて剥がしてやる。

「いいや。ついさっき、そこのごみ溜めで拾うた」

 老人は部屋からとってきた白布を裂きながら答える。

「物好きだね。あんた人買い? それともお稚児さんが趣味?」

 女が言いながら水場の入り口を見上げた。男が酒を買って戻ってきて、裂かれた白布を見て眉をしかめる。

「酒と布を買っても、つりが来るだろ」

 老人は笑顔で酒瓶をもぎとった。さっそく右手の端から傷を洗いにかかる。

「わしの商売は死に神から金を貰っとるようなもんでな」

 傷の中から砂を洗い出す。浅いの深いのとり混ぜて子供は全身くまなく傷だらけで、酒で行水したようなものだ。

「たまにはこっちから金を払ってお引取り願ってみるのも悪くなかろ?」

 女は傍らで膝を抱えて肩をすくめた。

「おかしなこと言うね。貰えるもんだけ貰っときゃいいじゃないか」

 老人は腰の皮袋から小さな壷を取り出すと、中身の茶色い軟膏を大きな傷を選んで塗りたくる。薬臭い、苦い匂いがした。

「つり合いを取るっちゅうのは大事なんだよ」

 老人は笑う。

「まったく変なジジイだよ」

 さらに膏薬の上から布を巻いて、出来上がりというように手を叩いた。

 老人は一度立ち上がって腰を伸ばすと、包帯だらけの子供を抱き上げた。子供の着ていたものをたわしで擦っている女に、部屋の番号を告げて二階に上がる。子供を寝床の上に寝かしてやると、やっと大剣を背から下ろした。

 少しすると女が上がってきて洗濯物を椅子の背に広げた。

「血の染みは、どうしたって落ちないよ」

 そう言って、先刻のように自分の腰に腕を巻き付けて壁にもたれた。老人は御苦労さんと礼を言うと続けた。

「すまんがこれで粥でも買ってきてくれんかね」

 女は面倒臭そうに天井を見上げた。鼻からため息を吐き出す。

「お粥だけでいいの? 滋養のあるもん買ってこようか?」

 老人が笑って差し出した銀貨の中から、女は買物の分だけ取ると手の中でリズムをつけて鳴らした。

「不用心なジジイだねえ。持ち逃げされたらどうすんのさ」

「そりゃあ、どうにもならんな」

 女はとうとう馬鹿を見る目つきで老人を見ると、肩をすくめて部屋を出て行った。

 子供は二日めの昼にやっと目を覚ました。

 額に巻いて汗じみた包帯をとり、女が水を搾った手巾で熱を冷まそうとしたとき、ぼんやりと目を開けた。

 女は子供の額と前髪をぐいぐいと拭い、なるべく優しい声で寝てなさいと囁くと、開け放った窓から身を乗り出した。

「ちょっとジイさん! 生き返ったよ」

 露台を出して浮浪者相手に木札でゲームをやっていた老人が、顔を上げて叫び返す。

「あの坊主はいつ死んだ! もともと生きとるモンが、生き返りゃせんがな!」

 上から見た老人の顔は、口をぱっくり開けて笑っている。

「うるさいね、歯っ欠けジジイ!」

 老人が、かかか、と笑って、露台を離れたのを見てから、女は蜜柑を一つ手にとって子供の寝床の傍らに膝をついた。両肘を枕元につき、手を子供の目の前でひらひらさせる。「わかる? 見える? なんか欲しい?」

 焦点の甘い瞳がゆっくりと女の方を見て不安げに鈍い瞬きをくりかえす。女は首を傾げて微笑んだ。

「だいじょぶよ。だいじょうぶ。ゆっくり、……寝てればいいのよ」

 部屋の扉が軽い音をたてて開く。老人は女の後から子供の顔を覗き込んだ。女はうっとうしそうに立ち上がると、老人の手に蜜柑を押し付けて脇にのいた。壁にもたれて二人を見やる。蜜柑の皮を指先で裂きながら、老人が問う。

「気分はどうだ、坊主」

 割れた唇をやっと開くが、舌が口の中に貼りついて動かない。ひりひりする喉が呼気に擦られて少しだけ音を出した。自分の呻き声に不安が増して、鼻の奥から涙が満ちてくる。瞳に溢れた涙に何も見えなくなって恐怖に喘ぐと、口元に冷たい液体がそっと流れてきた。その救いを飲み込んで、やっと息が通った。

 睫の先で涙をとばしながら目を見開くと、頬を拭う濡れた滑らかな指の向こうに、女の顔が紅のはげた唇に笑みを湛えて覗く。

「焦ってんじゃないよ」

 老人の反対側で女は寝床の上に腰掛けると子供の体を起こしてやる。自分の片足で胡坐をかくようにして腕の中に子供の肩を抱き、その手に水の入った杯を持たせる。

「ゆっくり飲んで」

 子供は言われた通りにし、杯を包んだ両手を膝の上に下ろした。怯えた目で老人の方を見上げると、枯れた指で剥いた蜜柑の一房が子供の口の前に差し出される。逃げるように身を引いたが、抱きすくめるように女の手がのび、蜜柑の房を唇に押し込んでいった。途端に唾が湧いてきてろくに噛まずに飲み込んだ。

「慌てんじゃないよ」

 その日、子供の口は専ら栄養の摂取に従事し、一言も言葉を発せぬまま睡魔の手にまた塞がれてしまったのだった。

 子供がことりと眠りに落ちたのを見ると、女は腰に両手を当て老人に向かって顎を上げた。

「無駄金を使わなくて済んだね」

 いくら看病してやったって半死人なんてすぐに死人になっちまうよ、阿保らしいったらないね。

 ふらふら遊びの合間に様子を見に来る老人の顔に、女が吹きつけたセリフだ。

「お前さんも阿保らしいことにならずに済んで良かったな」 

 女は右手の平を上に向けて老人の前に突き出した。

「あたしゃ貰うもんさえ貰えば文句ないんだ」

 老人は気前の良いことに銀貨の中に山吹色を一輪混ぜてやる。女は擦り切れた錦の巾着にそれを収め、巾着は首から下げて服の中に落とした。

「じゃあね」

 一言、気のない別れの挨拶を告げて、女は後ろ手に薄い扉を閉めた。それからしばらくこの宿には姿を現さなかった。また益体もない用事を頼まれるのは御免だった。子供の世話などまっぴらだ。

 子供は次の日の朝には自分で寝床の上に体を起こした。粥を平らげ、蜜柑も自分で剥いて食べた。

 寝床の足元に椅子をひいてきた老人が、皺だらけの笑顔で問う。

「坊主、名前はなんという?」

 子供は途端にむっつりと黙り込む。

「脳天ぶん殴られて忘れちまったか!」

 無言でこっちを睨んでいる子供に比べ、老人は愉快そうに口をぱっくり開けて笑っている。

「じゃ、わしが付けてやろう。いい名前がいっぱいあるぞ。アリシャ、レスレル、ウーカ、レンジャ、ユド……」

 蕩々と言い連ねられる女名前が、とうとうレンジャの名まで引き合いに出すに至って子供はやっと怒りを感じた。

「俺、男だぞっ! ……てめーはなんていうんだよ!」

「わしか? わしゃ、ただのしがない浮浪剣士で名乗る程の名前じゃない」

「俺だって、てめえに言う名前なんかねえよ」

「そうか、じゃあ、お前さんの名前はユドルサリな」

 子供は頬を脹らませて押し黙る。老人は優しく笑っている。

「ものは相談だがな、ユドルサリ。わしと一緒に旅に出ないか」

 子供は相変わらずだんまりを決め込んでいるので、老人は続けた。

「この町でコソドロやって、ゴミ漁っておってもどうにもならんだろ。給料までは出せんが、飯くらいは食わせてやれる。砂漠案内の仕事でも教えてやろう。どうだ」

 子供は口をとがらせた。

「どういうことだよ」

「一人で長旅をするのは淋しいもんでな。旅は道連れと言うだろ」

「どっかの奴隷市場にでも連れてく気だろ」

 その言葉に老人はひざを叩いて喜んだ。

「ひねくれとるのうお前! これで生き抜いてきたわけだもの!」

 老人は椅子を立つと、大剣を背負って機嫌良く子供に言った。

「人買いを連れて来たりはせんから、ゆっくり寝とれ。わしゃ、日暮までちょいと遊んでくる」

 子供はどうにも落ち着かなかったが、本調子でない体では老人の言う通りにするしかなかった。

 逃げても逃げてもどこまでも犬に追われる夢から醒めると腹が減っていた。

 小卓の上に果物の鉢を見付けて、子供は這いずるようにして寝床を下りる。だが視界に軽い暗幕が降りてきて、一度しゃがんで休まなければならない。二三歩離れた小卓に手をつくと、もう一度しゃがみこんで休む。しかたがないので小卓によりかかって床に座り、まわりに皮や種や芯を散らかして果物を食べた。

 それから這って寝床に戻り、上掛けの中で体を丸めた。

 次に目が醒めると明るかったのでまだ夕方なのだと思ったが、老人に朝食を勧められて、朝だと知った。

「だいぶ元気になってきたようだ、ユドルサリ」

 子供は粥の鉢に顔をつっこんだまま、老人の言葉を無視した。

「ユドルサリちゃんは、いつまでご機嫌斜めなのかのう?」

「あのなあっ!」

 子供は匙を握り締めた。

「やめろよ、気持ちわりぃ!」

 老人は勝ち誇ってにんまり笑う。

「わしの名前は、ワングだ」

「…………キダイだよっ」

 キダイは腹立ち紛れにすごい勢いで粥を片付ける。それを見ていたワングが半分残っている自分の粥を差し出した。

「いらねえよ!」

 はねつけて恐る恐る床に下りる。昨日のようにめまいがしないのを確かめてキダイは新しい果物に手をのばした。

 手に付いた果汁を服の裾になすりつけると、やおら壁に立てかけてあった大剣をひっつかみ、扉のほうへ飛び出した。しかし、何かに足をとられてすっ転び、床に付いた手が払われて、気づいた時にはワングの尻に敷かれて身動きもできない。

「離せバカヤロウッつぶれる死ぬ死ぬ死ぬ!」

 ワングは、かかか、と笑う。

「百年早いわ、ケツの青い小僧ッ子が!」

 まだしっかりと握り締めているキダイの手から大剣をもぎとると続けた。

「この刀が欲しいか、キダイ? それなら、わしから剣術を習え。見事免許皆伝のあかつきにはこの名刀をそなたに授けよう。どうだ?」

 聞き慣れない言い回しはどうもぴんとこないが、路上での苛烈な生存競争に鍛えられたキダイの鼻は、そこはかとなく詐欺の匂いをかぎつけていた。しかし、それはこちらが出し抜けばとても魅力的な結果をもたらしそうな匂いでもある。

「本当かよ? ジジイてめえ、剣なんかできんのかよ?」

 ワングはキダイの背中からおもむろに立ち上がると、キダイの胴体を掴んでひょいと寝床の上にのせた。

「一個小隊くらいなら一人で片付けてくれるわい」

「……イッコショータイって何だ?」

 今度は分からない単語が一つだけだったのでキダイは正直に聞いてみたのだったが、ワングはひひひと笑って答えなかった。



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