第三話 ボーイ・ミーツ・ガール

  第三話 ボーイ・ミーツ・ガール


 重光たちが学校へ行っているあいだも寝ているあいだも、ファントムは昼夜の別なく仮想世界で活動できる。グレイは夜に日を継いでアイリーンのサポートに徹していた。

 そして数日後の夜、自室にいた重光はファントムと融合して今日の仮想世界での記憶を手に入れると、ファントム・ヘッドギアを外して携帯デバイスから愛梨に電話をかけた。コール二つで繋がった。

「あ、お兄ちゃん先生! 愛梨も今ちょうどファントムを回収したところ!」

「そうですか。ともあれ、レベル一〇到達おめでとう。これで初心者卒業ですね。もう僕が教えることはありません」

「ええっ、なんで? 愛梨、これからもずっとお兄ちゃん先生に教えてもらいたいな」

「君がそれを望むなら……でも男子禁制のレディースチームに入るのなら、僕と一緒にプレイする機会は少なくなるでしょう」

 重光がその話題を持ち出すと、電話の向こうで愛梨が息を呑んだ。だがフレンドはお互いのレベルを確認できる。マリアは今この瞬間にも、アイリーンのレベルが一〇になったのを見ているかもしれない。選択のときがやってきたのだ。

「レベルが一〇になったら、百姫繚乱に入るかどうか決める……君が自分で云ったことです。まさか忘れていたわけではないでしょう? さあ、その答えを聞かせてください」

 すると数秒の沈黙を挟んで、愛梨は云った。

「……愛梨、入ろうと思う。本当は、あの日マリアさんに誘われたときに、ほとんど心は決まってたの。即答はまずいかな、って思っただけで」

「そうですか」

 重光は愛梨の選択を静かに受け止めていた。しかしその静けさを不安に思ったのか、愛梨がうろたえた声で尋ねてくる。

「あのあのっ、お兄ちゃん先生は、愛梨が百姫繚乱に入るの、反対?」

「いいえ、そんなことはありません。君が自分で選んだということ、それが一番大切なことなのです。ゲームライフはもう一つの人生……自分で決断し、楽しんでください」

「……うん!」

 その声だけで、彼女が顔を輝かせているのがわかった。それで重光が一握りの満足を得ていると、愛梨がこんなことを云った。

「それじゃあ今度はお兄ちゃん先生の番だね」

「えっ?」

「この数日、ずっと愛梨のことばかりだったけど、別に忘れてたわけじゃないからね。お兄ちゃん先生がゲームを休止してた理由……喧嘩したお友達との、仲直り」

 それを聞いて重光はちょっと怯んだ。

「憶えて、いたんですか……」

「当たり前だよ」

 愛梨の得意顔が目に浮かぶようだ。もちろん、重光としては今さらあの男との和解など考えられない。しかし重光が息抜きにゲームを提案し、愛梨が重光と同じゲームをやりたいと云い出し、それが暴力ゲームだと知って一度は怯んだ愛梨がそのゲームを選んだのは、重光が友達と喧嘩したことを知って、仲直りさせたいと思ったからだ。

「……僕は君の心の風通しをよくしたかった」

「そして愛梨は、お兄ちゃん先生が楽しかったって云うゲームに……あの『夜』に戻りたがってるって思ったから、そうしようと思ったの。愛梨と一緒なら、戻ってくれるはずだって、一〇〇パーセント確信してたよっ」

 ――これだよ。

 重光は思わず片手で顔を覆ってしまった。

 つまり愛梨は重光がいなければヤンキー・オンラインに出会わなかったし、重光もまた愛梨がいなければヤンキー・オンラインに戻らなかった。重光が愛梨のために行動したと思ったら、愛梨もまた重光のために行動していた。だからこれは、二人三脚なのだ。

 ――愛梨一人がめでたしめでたし、では終わらねえな。

 重光は心でそう笑うと、真面目な口調で云った。

「愛梨ちゃん。正直なところ僕は彼と仲直りするのは簡単じゃないと思っています。もし彼とゲームでもう一度出会ったら、絶対に戦いになるでしょう。その先にどんな結末が待っているかはわかりませんが、今の僕に云えることは、逃げないということだけです」

「うーん……わかった。でも具体的になにがあったの?」

「それはまた別の機会にしましょう。僕のなかでも気持ちを整理する時間をください」

 まだゲームの最新情報も、あの男の現在の消息についてもなにも調べていない。調べようと思えばいくらでも調べられたのに、目を背けていた。向き合うには時間がほしい。

「……うん、わかった。それじゃあ一回切るね。マリアさんに御返事しないと」

「ええ、それがいい。それとわかっていると思いますが、例のリアル面接には、念のため僕も同行しますからね。会うならそのつもりで約束を取り付けてください」

「うん、わかってるよっ」

 愛梨のその元気な返事を聞いて、重光は相槌を打つと壁掛けカレンダーを見た。時代が進んでも、部屋のインテリアとしてのカレンダーには、昔から変わらない需要がある。

「ちょうど明日が終業式ですね。明後日から夏休みだ」

「でもお兄ちゃん先生は、夏休みも毎日補習があるんだっけ?」

「ええ、進学校はどこもそうです。それでも都合をつけますから、安心してください」

 重光はそう云って、最後に二言三言交わして通話を終えた。


        ◇


 それから二日後の夏休み初日、出校した重光は午前の補習を終えると、予備校があると云って帰ることにした。だが予備校の講義を取っているのは夕方からで、本当はこのあと愛梨に付き添って百姫繚乱のヘッドであるマリアたちと会うことになっているのだ。

 ――急展開だな。

 愛梨がマリアに百姫繚乱入りを申し出てからたった二日で面接となったのは、お互いの居住地が非常に近いと云うことが判明したからだ。それで予定がつけやすくなり、東京在住のカタナの都合もついて、三時に名古屋の喫茶店で待ち合わせとなっている。

 というわけで昼前に学校を出た重光は、待ち合わせの時間には十分間に合うと楽観しながら、蝉時雨と夏の陽射しが降り注ぐなかを駅に向かって歩き出した。

 そこへ後ろから声がかかった。

「どうしたの? なんだか急いでいるみたいじゃない」

「本田さん……」

 驚き、立ち止まった重光を、本田観空が颯爽と追い抜いていく。どうやら彼女も早退らしい。重光は首を傾げながらも、そのあとについていった。

「いや、僕は予備校があって……」

「すぐわかる嘘はやめて。私たち同じ予備校よ?」

 そう責められて、重光はすぐに話を嘘から真実へとスライドした。

「予備校があって、という名目で学校を早退しました。今日はちょっと人と会う約束があるんです。本田さんこそ、どうしたんです? 彼氏とデートですか?」

 重光が珍しく軽口を叩くと、観空はたちまち憤慨した様子で重光に詰め寄ってきた。

「彼氏なんていませんから! 毎日、異常なスピードで進む授業が八時間! 生徒会とクラス委員長の仕事! 予備校! ピアノ! 夏休みも毎日登校! なんにもできない!」

 重光は唖然とした。いつも澄まし顔で万事をそつなくこなす才媛の観空が、いきなりこんな小爆発を起こそうとは。だが観空はすぐにはっとして、手で口元を覆って云う。

「ごめんなさい。大きな声出しちゃって」

「……いえ、わかりますよ。僕も似たようなものですから」

 すると観空は泣き笑いのような顔をしたが、腕で目元を拭うと、もう完璧な笑顔だった。

「大丈夫。息抜きなら出来てるから」

「……ファントムダイブ?」

 その問いに、観空は唇だけで笑った。だが現実の自分があまりにも勉強漬けだと、ファントムで遊んでいなければやっていられない部分もあるだろう。ひどい少子高齢化によって世相は暗いが、バーチャル・ムービーシアター、バーチャル・アトラクション、バーチャル・トラベルなどで人生を豊かにできるのは、この時代のいいところだ。

「私も今日は友達と約束。だからピアノのレッスンがあるって先生に嘘ついちゃった」

 観空はそう云うと、軽やかな足取りで青信号の横断歩道に踏み出していった。

 ――先生に嘘ついただって?

 優等生の裏切りを面白がりながら、重光は口元に笑みを浮かべて観空のあとを追った。そのうちに、どうやら自分たちの行き先が同じらしいと気がついた。

「本田さんも駅ですか?」

「ええ。名古屋まで出るから。あなたも?」

「はい。駅で人と待ち合わせて、それから電車に乗る予定です」

 そんな話をしながら駅までやってきた二人は、肩を並べて半世紀前に建てられた古い駅ビルのなかへと入っていった。

 駅構内の光景は、日本のどの駅もそう大差あるまい。向かって右手に店舗があり、左手に窓口や改札がある。昔あった自動券売機はもうない。誰もが一人一台は持っている携帯デバイスが切符や定期券の代わりだった。どうしても切符を買いたい場合は、窓口で直接売ってもらうことになる。ある意味、大昔に戻ったわけだ。

 と、観空が立ち止まって電光発車標を見上げ、眉をひそめた。

「ちょうど電車が出ちゃったあとね」

「そうですか。僕はとりあえず待ち合わせの相手と合流するので……」

 時刻は午後十二時三十分だ。名古屋で百姫繚乱の二人と会うのは三時だから腹ごしらえするのは決まりだが、どこでなにを食べようか、と重光が考え始めた矢先である。

「お兄ちゃん先生!」

 いきなりの声に考えを打ち切られた重光が振り返ると、私服姿の愛梨がこちらに駆けてくるところだった。そして数秒後、息を弾ませている愛梨に重光は微笑みながら云う。

「迂闊ですよ、愛梨さん。人の目があるところでそんな風に呼んでは、あなたのイメージを損なってしまいます」

「えー、だってここには愛梨のことを気にする人なんて……」

 と、そこで愛梨の目が重光の隣にいる観空を捉えた。その目が丸く見開かれる。

「お兄ちゃん先生、もしかして、彼女?」

「違います」

 一方、観空は腕組みして重光に厳しい眼差しを注いできた。

「あなた、ロリコン?」

「断じて違います」

 丁寧かつ強い口調で否定した重光は、しかしこれは説明がいるだろうと思ってこう云った。

「まあこの際ですから紹介しましょう。彼女は山葉愛梨さん、小学五年生。先日話した、僕が家庭教師をしている女の子です」

「ああ……」

 それで合点がいったのか、観空はやっと眉を開いてくれた。重光はちょっとほっとしながら、今度は愛梨に向かって云う。

「愛梨ちゃん、彼女は本田観空さん。僕の同級生で、僕と同じく生徒会に所属している人です。今日はたまたま一緒になったんですよ」

 そう紹介されるのを待って、観空は愛梨に右手を差し出した。

「本田観空です。よろしく、愛梨ちゃん」

「ごきげんよう、山葉愛梨ですわ」

 愛梨はよそいきの仮面をつけて、観空に握手を返した。その手をぐっと握ったまま、観空が目を弓のように細めて云う。

「ところでアイリ……ちゃん。あなたさっき川崎くんのこと、お兄ちゃん先生って……」

「あら、お恥ずかしい。ほんの些細な戯れですわ」

 普段は物腰優雅なお嬢様を装っている愛梨である。うっかり素顔を見せてしまった観空に対してどう取り繕うのかと思っていたら、どうやらしらばっくれることにしたらしい。ならば助け舟を出すのが自分の役目と思って、重光はそっと嘴を入れた。

「本田さん。僕は愛梨ちゃんと食事をしていくので、ここで別れましょう」

「そう。構わないけど、ちょっと待ってて。念のため確認しておくことがあるから」

 観空はそう云うと握手を終え、自分の鞄から携帯デバイスを取り出した。なにをするつもりだろう思って見ていると、愛梨の鞄からピコンと小さな音がする。どうやらこちらはこちらで着信らしい。デバイスを取り出す愛梨に、重光は低声こごえで訊ねた。

「なんです?」

「マリアさんからメッセージ」

 現在、ほとんどのオンラインゲームではフレンドとの連絡を簡便にするため、『ライン系』と呼ばれるショート・メッセージ・サービスの専用アプリを提供している。今、マリアはそれを使って愛梨にメッセージを寄越したというわけだ。

「僕も読んでいいですか?」

「うん、いいよ」

 それで重光は愛梨に顔を寄せて、二人でメッセージに目を通した。内容はこうだ。

 ――こんにちは。アイリだからアイリーンなんて、ずいぶん安直な名前だったのね。

 重光は目が点になった。理解が追いつかないでいるうちに、新たなメッセージが出る。

 ――ところで隣の男は本当にロリコンじゃないの?

 そのとき重光の頭のなかで、稲妻のように強烈な、光りと音を伴う衝撃的な理解が起こった。勢いよく振り返ると、観空が唇を薄く伸ばして笑っていた。しかしその微笑みとは裏腹に、観空は額に汗を掻いていて、追い詰められたような目をしている。

 そんな観空に向かって、重光は優等生を取り繕うことも忘れて叫んでいた。

「テメーかよ!」

「こっちの科白せりふ!」

 つまりは、そういうことである。


        ◇


 重光はもう面接など不要ではないかと思ったが、それでは東京からこちらに向かっている四人目に申し訳ない。そこで午後三時、約束通り、名古屋駅前の喫茶店にて重光たち四人がテーブルを囲んでいた。

「いやあ、意外と世間は狭いなあ。はっはっは」

 眼鏡の美女は笑ってそう云うと、注文した紅茶のカップに手を伸ばし、一口飲んで隣の観空に意地悪な視線を向けた。

「ネトゲで知り合った相手とオフで会ったら知り合いだったって、どんな気分すか?」

「別に……それより自己紹介。あとは佳多那さんだけよ」

「あ、はいはい」

 佳多那はそう云うとカップを皿に戻して居住まいを正した。

「どもっす。鈴木佳多那すずき・かたな、二十七歳。普段は東京でしがない公務員やってます。ヤンキー・オンラインでは百姫繚乱のサブヘッド。全国制覇目指して行くんで、夜露死苦っす!」

 そう云って重光にVサインを寄越した佳多那は、すらりとした長身の美女だった。栗色の髪を纏めてヘアクリップで留めているが、髪を下ろせばかなりのロングヘアであろう。その顔はぞっとするくらいに美しい。プロポーションも抜群である。だから黙っていればクールビューティの名をほしいままに出来そうなものなのに、口調は砕けていて、服装も皺の寄った黒いシャツに汚いジーンズというだらしない格好である。

 ――せっかく美人なのに、なんていうか、まあいいか。それよりもだ。

「鈴木さん、本名プレイですか……」

「愛梨ちゃんのアイリーンも本名みたいなもんでしょ」

「それはそうですが……本名が鈴木佳多那で、ゲームじゃカタナで、日本刀ポントー使いとは……乗ってたバイクもスズキのカタナでしたよね?」

「刀、好きっすからねえ。ていうか、参ったっすねえ。川崎重光くん……こんなイケメンが来ると知ってたら、もっと気合入れた格好で来るんだった」

「はあ」

 重光はそれが本気なのか冗談なのか見極められずに困惑していた。と、ブラック珈琲のカップに口をつけていた観空がうっそりと云う。

「本気よ」

「え?」

「佳多那さんはこんな美人なのに、なぜか彼氏いない歴二十七年というヤバイ人なのよ」

「ちょちょちょ、なんでそういうことバラすんすか! ヘッド!」

 佳多那は観空の肩を掴んで揺さぶったが、観空は手にしたカップを気にして云う。

「珈琲が零れるからやめてください」

 すると佳多那はため息をついて手を下ろし、突然「うひっ」と笑って重光を見てきた。

「でもここだけの話、自分が三十歳のときに奥さんが四十歳って、どうっすか?」

「ないね」

 重光がにべもなく答えると、佳多那は勢いよく天井を見上げた。

「くそがあああっ!」

 それから佳多那はシュガーポットを開けて紅茶に砂糖を三つも入れると、それをがぶがぶと飲み始めた。既にもう砂糖を入れていたにもかかわらず、だ。

 そんな佳多那を唖然と見つめて愛梨が云う。

「鈴木さんは美人だから、本気になったら彼氏くらい簡単に出来ると思うんですけど?」

 すると佳多那は紅茶のがぶ飲みをぴたりと止め、ややあってから云った。

「……だって、ヤダもん」

「えっ? なにがです?」

「クッソイケメンで身長一八〇センチ前後で、旧帝大卒で一緒にゲームしてくれて、なおかつ年収一〇〇〇万以上見込みの男じゃないと、あげないもん」

 佳多那はカップで口元を隠したままそんなことを云うと、眼鏡越しの秋波を重光に送ってくるのだった。

 ――俺を見るな。頬を染めるな。

 重光が内心ひどく焦っていると、観空が小さなため息をついてうっそりと云った。

「その高望みを捨てないと、本当にそのまま三十まで行っちゃいますよ?」

「いや、今いる……目の前に……将来そうなりそうな超優良物件が……」

 ――物件とか云うな。

 重光がそう声をあげそうになったとき、観空が爽やかにパンパンと手を打った。

「オーケー、私が悪かったわ。こんな話を持ち出すべきじゃなかったわね。それより本題に入りましょうか。愛梨ちゃん」

 名前を呼ばれ、愛梨が居住まいを正した。だがその顔はもう、よそいきのものではない。ヤンキー・オンラインのプレイヤー同士、外面を取り繕う必要はなかった。

 そんな愛梨を見ながら、観空が自分の胸に手をあてた。

「百姫繚乱のトップ二人はこんな人間よ。それでどうする? ウチに来たい?」

「行きたいです」

「よし。じゃあおいで」

 それで契約は成立した。だがあまりにも簡潔だったせいか、愛梨が目を丸くして云う。

「あ、ありがとうございます。でも、こんなにあっさりでいいんですか?」

「いいのよ。まさか小学生だとは思わなかったけど、特に悪い印象はないし、川崎くんが家庭教師してる子なら間違いないでしょ。ねえ?」

「はい、僕も本田さんなら安心です。愛梨ちゃんのこと、よろしくお願いしますね」

 重光はそう云うと率直に頭を下げた。ヤンキー・オンラインは喧嘩上等の疾走バイオレンスゲームである。それだけに今日まで愛梨単独でのログインは許さず、必ず自分が傍についていた。だがこれからはその役目を、観空たちに譲ることになる。

「まだ小学生ですから」

「わかってるわ」

 その言葉を聞いて安心した重光は、頭を上げると、観空を見つめてしみじみと云った。

「しかしいずれは我が校の生徒会長になるかもしれない本田さんが、ヤンキー・オンラインって。レベル一〇五って……」

「それはこっちの科白せりふだってば! あなたレベルいくつ? パッシブスキルで隠してたけど、あの物腰は相当やり込んでるでしょう!」

「教えません」

 重光はそう云って顔を横向けた。観空はそんな重光をしばらく睨んでいたが、やがて気を取り直すように一つ咳払いをして云った。

「まあとにかく、このことはお互い内緒にしましょ」

「そうですね。ゲームとはいえ、親や教師に暴走族をやっていると知られたら……」

「絶対に怒られるわ」

 そう云った観空と重光は見つめ合い、やがて二人は同時に噴き出して笑った。


 話がまとまって喫茶店を出たあと、名古屋を軽く観光していくという佳多那に別れを告げ、重光たちは電車で地元に戻ってきた。時刻は夕方の五時である。季節柄まだまだ明るいが、愛梨を徒歩で帰らせるつもりはなく、重光は携帯デバイスを取り出して云った。

「タクシーを呼びます」

「送ってあげればいいのに……って、私たち、六時から予備校か」

「そういうことです」

 かくして重光は無人タクシーを一台確保すると、愛梨に付き添ってタクシー乗り場まで行き、後部座席に愛梨を乗せ、携帯デバイスからタクシーのAIに行き先を指定した。

「これでよし。じゃあ愛梨ちゃん、お母さんには連絡しておきましたから」

「うん、ありがと、お兄ちゃん先生」

 愛梨は嬉しそうに頷く、シートベルトを締めながら観空に目をやった。

「じゃあマリアさんヘッド、またあとで……」

「ええ。今夜、あなたの入隊式をやるわ。それとリアルで『マリアさんヘッド』とか云わない」

「はーい」

 そうしてドアが閉まり、タクシーは注意喚起の疑似エンジン音を立てて動き出した。それを見送りながら、重光はうっそりと云う。

「……身近であの子が素を出せる相手は、僕しかいなかったんですよ。それがもう一人増えました。しかも同性です。これから思春期を迎えるうえで、僕には話せないようなこともあるでしょうし、そのときは相談に乗ってあげてください」

「まだ十一歳なのに、外面使い分けてたもんね」

「ええ」

 そう相槌を打った重光の顔を、観空が下から掬い上げるようにして覗き込んできた。

「でも外面の使い分けといったら、あなたもかなりの役者だったわよね」

「……本田さんもでしょう?」

「私はあなたほどじゃないわ。ロールプレイの原義は役割演技……だからヤンキーらしく振る舞うし、喧嘩のときは啖呵も切るけど、私はいつも私だもの。でもあなたは完全に二つの顔を使い分けていた。まるで別人、どっちが本当のあなたなの?」

 そういじめられて肩をすくめた重光に、観空は顎をしゃくって云った。

「予備校まで歩きましょうよ。話したいこともあるし」

「いいですよ」

 そうして二人は連れ立って歩き出した。観空の方が少し前を歩いていて、重光はそのあとをついていく。時間帯としては夕方だが、まだ日が高くて陽射しが厳しい。

 そんな初夏の夕暮れを楽しげにそぞろ歩いていたが観空が、あるとき云った。

「ファントムダイブがあってよかったわね。旧時代のオンラインゲームみたいにリアルでパソコンの前に座っていないといけなかったら、ネトゲなんて一生できなかったわ」

「そんな時間、ないですからね。夏休みになっても毎日補習で……」

「普通、補習って云ったら成績不良の生徒が受けるものだけど」

「進学校の生徒はいくら勉強してもしたりないって意味で、全員成績不良ですよ」

「ふふっ、そうね。まあ勉強もピアノも楽しいけどね。遊べなくて可哀想って云う人もいるけど、学校じゃ出会えない友達に出会えたりするし、遊びならファントムワールドでオッケーな時代だし……もっともトップ集団はファントムワールドでも勉強してるけど」

「彼らは本当に、根っからの勉強好きなんですよ」

 進学校にも色々な人間がいた。重光や観空のように勉強も生徒会の仕事もそつなくこなすマルチタスクな秀才肌、勉強の虫であるトップ集団、奇人変人に類する天才、背伸び受験して合格したはいいものの授業についていくのに必死な者たち……。

 そんなことを考えているうちに、二人は人気のない高架下までやってきていた。観空がここへ重光を連れてきたのだ。彼女は立ち止まって振り返ると云った。

「で、どうしてヤンキー・オンラインだったの? 息抜きにゲームをするならほかにも色々あるはずよ。それなのにどうして、よりによってヤンキー・オンラインなのかしら?」

 それは重光こそ観空に訊きたいことだったが、先に問われたのは重光の方だ。

「えっとですね……」

 どう答えたものか、重光は少し考え、こう切り出した。

「今の時代、自動運転が普及して久しいですよね。信号も含めて交通網はAIによって完全に制御されている。ペダルもハンドルもない車が一般的になり、人は車のAIに行き先を入力するだけ。運転免許制度は崩壊し、かつて日常的だった運転という行為は、もうモータースポーツの世界にしか残っていません。こんな現代の交通情勢において転倒の危険があり、イレギュラーが起きやすいバイクが公道から追放されるのは自然な流れでした」

「ええ、そうね。バイクは消えたわ。安定のある三輪バイクに挿げ替えられた……それが私たちの時代。おかげで交通事故による死者も激減。実に平和な交通社会が実現したわ」

 それに相槌を打った重光は、そのとき優等生の仮面を外した。

「でも、つまらないと思いません?」

 捉えようによっては不謹慎なその問いに、観空は答えなかった。肯定しないのは賢明だが、否定もしないのはなぜなのか。黙って微笑む観空から同族の匂いを嗅ぎ取りながら、重光は暗い高架下から明るい車道に目をやった。

「僕らみたいな、なんの力も持ってない子供が世界をぶっ壊す方法はバイクなんですよ。スピード違反で世界に刃向かい、爆音で俺はここにいるぞと叫ぶ。二〇世紀のバイク小僧にはそれが出来た。僕らには出来ない。バイク自体が、もう世の中に出回ってないんですから。そんな僕らがバイクに乗る方法、それは……」

「一つ、バイクレーサーになる。二つ、ファントムダイブして仮想世界でバイクに乗る」

 先回りしてそう云った観空が、しろい歯を見せていたずらっぽく笑う。

「つまり、悪いことがしたかったのね。私と一緒」

「本田さんも?」

「ええ、そうよ。私はたぶん、現実じゃ悪いことできないから。でもそんな私を壊して、どこか別の場所でヤンキーを演技ロールプレイしたいと、思ってしまった……」

 それは夜だった。バイクに乗って、気の合う仲間たちと走り続ける夜、それこそがヤンキー・オンラインの本質だ。喧嘩も全国制覇もその夜を彩る宝石に過ぎない。

 その夜へ飛び出した重光と観空は、きっと同じ人種なのだろう。

「夜と手を組んでバイクで世界に刃向かう……ふふっ。どうりであなたのこと好きになれないわけだわ。これは同族嫌悪だったのね」

 ――ひどい云い草だ。

 重光はそう思ったが、好きになれないというわりに観空はいつになく柔らかい笑顔を浮かべていて、彼女自身が淡い光りを放っているかのようだった。

「今夜の入隊式、あなたも立ち会いなさいよ。愛梨ちゃんの門出を見送ってあげなさい」

「最初からそのつもりでしたよ」

 そしてそれを見届けたら、自分もヤンキー・オンラインの世界でやらねばならないことがある。あの男と、もう一度会わねばならない。

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