授業12 未来の旦那様

 風呂を出た俺は、新しいジャージを身に付けてリビングへと向かっていた。

 言い忘れていたけど、漏らしたものは風呂に入る前に自分で片付けたからね。


「りっくん、大丈夫ですか?」


 リビングに入ると、母さんが心配そうに聞いてくる。

 もとはといえば母さんが縛ったせいであんなことになったんだから、本当は青姉じゃなくて母さんに償って欲しいくらいだ。

 でもそんなことを言ってまたお仕置きされるのは嫌なので言わないでおこう。


「全然大丈夫だよ」


 俺は出来るだけ自然な笑顔を意識して笑う。


「ふふっ、そうですか。それは良かったです」


 母さんも口元に手を当てて穏やかに微笑んだ。

 こんな純真無垢な笑顔を見せられる人が悪魔みたいな性格の持ち主だとは誰も思わないだろう。腹黒い通り越してもはや腹漆黒だ。


「りっくんなにか言いましたか?」

「な、なにも言ってないです!」

「ふふふっ、そうですか」


 俺が否定すると母さんは微笑みながらキッチンの方へと歩いて行く。


 こ、心を読まれたのかと思って焦ったぞ。

 せっかくお風呂に入ったのに冷や汗でびちゃびちゃだ。


 背中に若干の不快感を覚えつつソファに座る。


 あれ、そういえば青姉はどこに行ったんだ?

 見る限りキッチンには居なさそうだし、自分の部屋かな?


「青ちゃんはお醤油を買いに行ってくれてますよ」


 いつの間にかソファの後ろに立っていた母さんが俺の疑問に答える。


「そそそ、そうなんだ」


 ま、また心を読まれた! それにこの人、瞬間移動したよ !


 キッチンの方へ行くのをこの目で間違いなく確認した人が、突然後ろに現れて心臓が口から飛び出るかと思った。


「それとりっくん、今日は私が晩ご飯を作りますから楽しみにしてて下さいね」

「う、うん。ありがとう」


 母さんのご飯か……。ごくっ。

 俺は母さんの作るご飯を想像して唾を飲み込む。

 でもこれは決して期待の表れではない。

 むしろ母さんのご飯を食べることに緊張しているのだ。


「ただいま戻りました!」


 そこに醤油の入った袋を持った青姉が帰ってきた。


 青姉は、珍しくワンピースを身に付けている。

 丈が長く生足はほとんど見えない。腰の辺りを紐で軽く絞めており、それにより出るところは出て引っ込むところは引っ込んでいる。

 青姉のスタイルの良さがよくわかる服だ。

 上が濃い青でそこから徐々に色が薄まり足元は白というグラデーション。

 そのワンピースは、いつもはクールな青姉をアニメとかでよく言われる深窓の令嬢のようなお淑やかな雰囲気に変えていた。

 普段は後ろで結っている髪を下ろしていたのも、俺がそう感じた要因の一つかもしれない。


「ありがとうございます。青ちゃん」


 母さんは青姉から醤油の入った袋を受け取るとキッチンへと戻っていく。

 まさか母さんは青姉が帰ってくるのを予知してキッチンから出て来たんじゃ……。

 でもそんあことより今はいつもとは違う青姉を見ることの方が重要だった。


「な、なんだよ」


 じっと青姉を見つめていたからか少し頬を紅く染めた青姉に睨まれてしまう。


「こ、これは別に私が着たくて着てるわけじゃないからな! 早希さんが着ろって言うから断れなくて着てるだけだからな!」


 俺が見るのに夢中でなにも答えずにいると、なぜか必死で自分の意思で着ている訳ではないと弁明する青姉。


 似合っているから普段から着ればいいのに。


  そんな俺の思いを知らずに青姉は続ける。


「こんなヒラヒラした服が私に似合わないことぐらいわかってるんだ! だけど早希さんが着ろって言うから!」

「青姉、なにをふざけたこと言ってるんだい。どっからどう見ても似合ってるじゃないか」


 これで似合ってないなんて言ったら服が可哀想だ。ほとんどの人が似合わないことになる。


 「そ、そんなお世辞言われても全然嬉しくないからな! それに何だよその諭すような喋り方は!」


 別にお世辞のつもりはなかったんだけどなぁ。どうすれば信じてくれるんだろう?


 とりあえずもう一度褒めてみるか。


「お世辞じゃなくて本当に似合ってるよ」

「うるさい! そう言って本当はバカにしてるんだろ! もう鈴の言葉なんて聞きたくない!」


 えー、似合ってると思ったから似合ってるって言っただけなのに……。


「鈴のバカ!」


 全然聞く耳を持ってくれない青姉。

 俺はどうせ聞いてくれないのならと普段は言えない褒め言葉をひたすら言い続けてみることにした。


「青姉って本当にスタイル良くてなんでも似合うね。いつものクールビューティーな感じもいいけど、今着てるワンピースも似合ってて思わず見とれちゃったよ。すっごい綺麗。その上頭も良いし、ギターも弾けて料理も出来て、なにより仕事も出来る。もう完璧じゃん! 絶対最高のお嫁さんになるよ! ていうか俺のお嫁さんになって俺を養って欲しいぐらいだふげっ!」

 

 俺がなにも考えずに思ったことをそのまま口にしていると、背けていた顔を俺の方へ向けた青姉にチョップをされる。

 青姉のチョップは見事に俺の額の真ん中を捉えた。喋っている途中で叩かれ俺は舌を噛んでしまう。


「い、いひゃいじゃないかぁ」

「鈴がバカなことを言うのが悪い」

「あぎゃっ」


 今度はデコピンをされる。めちゃくちゃ痛かった。


「女の人にお嫁さんになってとか軽はずみに口にするんじゃありません」


 青姉は俺の目を見て子供に言い聞かせるように言う。

 てっきり聞いてないと思っていたのに、どうやら全部聞かれていたらしい。

 俺は若干恥ずかしくなる。

 だが、それよりも子供扱いされたことに腹が立った。


「お、俺だって男なんだ。か、軽はずみにそんなこと言わないよ!」


 俺は頭を撫でようとする青姉の右手を弾いて啖呵を切る。


「痛っ」


 手を弾かれた青姉は小さく悲鳴を上げた。

 それを見て少しの罪悪感を覚えつつも、俺は青姉を睨んで言葉を発する。


「それに軽はずみなのは青姉の方だろ! お酒を飲んで迫ってきたり、酔ってベッドに引きずり込んだり、お風呂に入ってこようとしたり、少しは俺が男だってわかってよ!」


 再会して以降毎日のように誘惑され、正直そろそろ我慢の限界だ。

 ここらで青姉に俺が男だってことを理解してもらわないと困る。


「り、鈴が男だってことぐらいわかってるよ。酔ってたけど大きくなった鈴のあそこ触ったのを覚えてるし、鈴がその、ひ、一人でしてるのだって知ってるもん」


 頬をリンゴ色に染めた青姉がゴニョゴニョと呟く。

 その言葉をなんとか聞き取った俺は、一人でしているのがバレていたことに若干驚きつつ、青姉に向かって叫ぶ。


「な、ならちょっとは意識してよ! も、もし俺が一人でするだけじゃ我慢出来なくなって青姉のことを襲ったらどうするつもりなんだよ!」

「えっ、無理矢理襲われそうになったら返り討ちにするに決まってるだろ?」


 青姉は数秒前まで頬を染めていたとは思えないくらい真顔になって、なに言ってんのと首を傾げる。

 えっ?


「い、いやいや流石に俺の方が力は強いんだし返り討ちは難しいでしょ?」

「そうか? 昔から喧嘩で鈴に負けたこと無いし、別に出来るだろ。返り討ち」

「そ、それは昔は俺より青姉の方が力強かったからで、い、今は俺の方が」

「今も私の方が強いだろ? さっきも鈴は本気で扉を押さえていたっぽいけど、私は六割ぐらいの力だったぞ?」


 青姉が食い気味に俺の言葉を否定する。

 確かに青姉の言う通り俺は本気で押さえていた。

 なのに青姉はあれで六割だったの?

 う、嘘だよね? 俺の方が青姉より力が弱いなんて嘘だよね?


「そそそ、そんな嘘言っても俺はしし、信じないし」

「嘘じゃない」


 身長も頭脳も力も、なにもかも青姉に負けてるなんて、み、認められない。


「そ、そこまで言い切るなら、い、今俺が青姉のことを襲っても問題ないよね?」

「ああ、別に問題ないぞ? 絶対返り討ちに出来るし」


 俺が聞くと、青姉は自信満々といった風に胸を張って答えた。

 その自信打ち砕いてやる。


「おりゃぁぁあ!」


 俺は両手を青姉の胸目掛けて伸ばす。


「おいしょ」


 青姉は軽く俺の手を掴み、そのまま曲がってはいけない方向へ曲げていく。


「うぎゃぁぁ! い、痛い! 痛いよ青姉! ごめんなさいぃ! お、俺が悪かったから離してぇ!」


 俺は痛みに耐えられず、すぐに謝罪した。


「わかればよろしい」


 青姉は涙目で頼む俺の手をすんなり離してくれた。


「な?  私の方が鈴より強いだろ?」

「ううっ、青姉の方が俺より強いです」

「ふっふっふ。そうだろうそうだろう。別にお姉さまって呼んでもいいんだぞ?」


 青姉は得意気な笑みを浮かべて調子に乗っている。

 完敗した俺はなにも言い返せず青姉の言葉に従うのだった。


「青お姉さまの勝ちです」

「ふふふ、はい。それじゃあこの話はこれで終わりな!」


 俺の言葉を聞いて満足したのか青姉はパンパンと手を叩き、話を終わらせる。

 ただ最後に青姉は――


「あっ、でも鈴が言ってくれたこと全部嬉しかったぞ。ありがとな。未来の旦那様」


 ――と言い、ウィンクをしておどけてみせた。

 俺は、やっぱり青姉にはかなわないなと思い笑うのだった。

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