授業9 母、帰還

「ふふふっ」


 部屋の扉が開く。

 そこには白衣を身につけた銀髪の幼女が立っていた。

 髪と同じ銀色の瞳を細め微笑する彼女を見て、俺はベッドから飛び起きる。


「か、かかか、母さん!?」


 幼女の正体それは俺の母さん、鈴屋早希さきだった。


「久しぶり、りっくん」


 母さんは腰まで伸びた艶やかな銀髪を揺らしながら、スタスタと俺の方へ向かって歩みを進める。


「か、母さん! い、今のはち、違って!」

「ふふっ、今のってなんのことですか?」


 俺の目の前でたどり着いた母さんは微笑んで首を傾げる。

 どうやら聞かれてはいなかったみたいだ。よ、良かった……。

 ほっとしたのも束の間、母さんの閃いたように人差し指を立てて言葉を発する。


「あっ、もしかしてロリババアと言っていたことですか?」


 か、完全に聞かれていた。その事実を認識して背中がゾッと寒くなる。


 「ふふふっ、りっくんたらお母さんのことをなんて呼んだら駄目ですよ」


 母さんはニコニコと笑いながら俺を注意する。

 笑顔のまま表情が変わらないから他の人には――感情が読めなくて――可愛らしい幼女に見えるだろう。

 だが、息子の俺には母さんがなにを考えているのかある程度わかる。

 その証拠に、俺には、母さんの後ろに般若が見えていた。

 般若は手にもった刀を今にも抜かんとしている。

 つまり母さんがなにか恐ろしいことを考え、実行に移そうとしているのだ。


「ふふっ、りっくん。そこに正座してくれますか?」

「はい!」


 俺は母さんのお願い(拒否権はない)を叶え、その場で正座する。


「ふふふふっ」


 母さんの笑いに合わせ後ろの般若が刀を抜く。

 これから自分の身に起こることを想像して俺の体はガタガタと震え出す。

 今日はどんな薬を注射されるんだろう。

 笑い薬か泣き薬か惚れ薬かはたまた媚薬か。今までに打たれた薬を思い出して震えが激しくなる。


「りっくん、震えすぎですよ?」


 震える俺に母さんは注射器を見せて暗に注射出来ないから震えるなと要求する。

 そんなこと言われると普通余計に震えてしまうだろうが、既に俺の体は母さんによって調教されている。

 震えを止めなければもっと酷い目に合うことを体も理解しているから、俺の体は自然と震えるのをやめた。


「ふふっ、お利口さんですね」


 母さんが小さな手で俺の頭を優しく撫でる。

 俺は薬を注射される覚悟を決めて瞼を閉じた――。


 …………?


 一向に針を刺される痛みは訪れない。

 おかしいと思い、俺は薄目を開ける。


「さ、早希さん。お久しぶりです」


 注射器を持った母さんの右腕を掴む青姉の姿が居た。


「ふふっ、お久しぶりですね。青ちゃん」


 母さんは青姉の方へ顔を向けて挨拶を返す。


 今の内だ!


 俺は自分の身を救ってくれた青姉を生贄に、その場から逃げようと立ち上がる。


「りっくん、どこへ行くんですか?」

「鈴、どこ行くんだ?」


 しかしそんな人でなし行為が上手くいくはずもなく、すぐ二人に窘められてしまった。

 さらに生贄にしようとしたせいで救世主だったはずの青姉までもが敵に回る。


「りっくんそこに座って下さい」

「鈴そこに座れ」

「あっ、えっと、その、はい」


 冷やかな声で床を指差す二人。

 俺は何事もなかったかのよう素直に従い正座する。

 あのまま耐えていれば青姉が助けてくれたかもしれないのに、青姉が敵になったのは自分だけ助かろうとした俺の自業自得だった。


「青姉、母さん」


 二人の顔を交互に見る。

 ああ、これはダメだ。

 穏やかに微笑む二人の顔を見てもう誰も助けてはくれないということを悟り、俺は静かに瞼を閉じた。

 数秒後、右腕が冷やっとしてからチクリという痛みを感じ、俺は消毒されてから針を刺されたんだと理解する。


「ふふふっ」


 母さんのおしとやかな笑い声が聞きつつ、俺は薬を受け入れた。


「りっくん。もう終わりましたよ」


 俺の肩を母さんが優しく叩く。

 俺は目を開けて右腕を見る。痛みのあった部分には小さい絆創膏が張られていた。

 まだなにも変化はない。

 俺はいつ薬の効果が表れるのかびくびくしながら、正座をしたまま待った。


「……」

「だ、大丈夫か?」

「ふふっ」


 俺は沈黙し、青姉は心配そうな顔で俺の顔を覗きこみ、母さんは心底楽しそうに笑っている。

 一体どんな薬を注射されたのか。

 色々想像して怯えていると、俺の体に異変が起こる。

 う、歌が歌いたい! 歌いたくて堪らない!


「ら~ら~らら~」


 俺は我慢出来なくなってメロディを口ずさんだ。


「ぶふぅ! ちょっ、鈴、いきなりやめっ、あはははははは」


 俺の歌を聞き、青姉は吹き出し腹を抱えて笑う。


「ふふふっ」


 母さんも口元に手を当てておしとやかに笑っている。


「ら~ららら~らら~」


 お、おかしい! 二人に笑われて死ぬほど恥ずかしいのになぜか歌わずにはいられない!

 俺は自分の異常な精神状態に混乱する。


「らららららら~」


 だが、どれだけ混乱しようと歌うのはやめられなかった。

 青姉に音痴だと言われ、当分人前で歌うのはやめようと思ったのに、どうしてこんなに歌いたくなるんだ!


「あはははは、も、もうやめ、はぁはぁ、あはははははは」


 涙を流して笑い続ける青姉を見て、自分の歌はそこまで笑うほど下手なのかと悲しくなって泣きそうになる。


 もうやだ!! もう歌いたくない!!


 けれど俺の口は止まらない。


「ららら~らら~」


 ま、まさか!


「もしかして~これが~薬の効果~?」


 普通に喋りたくてもミュージカルのように歌いながらになってしまう。


「鈴、ひっ、ひひ、全然、ひぃ、音程合ってないぞ」

「はい。りっくんの言う通りそれが薬の効果ですよ。ふふふっ」


 青姉は過呼吸になりそうなほど笑っている。

 母さんはクスクスと笑いながらおみごとですと続ける。

 容姿も相まってイタズラが成功して喜ぶ子供のようだった。


「母さん~なんで~こんな薬を~」

「ふふふっ。私、さっき二人が話しているのを聞いてしまいまして、せっかくですから青ちゃんにはもっとりっくんの素敵な歌声を聞いて貰おうと思って、この薬を使いました」


 母さんは楽しそうに深紅の瞳を輝かせ、悪びれる様子もなく白状する。

 いつもいつも、その時に俺が嫌がることを的確にしてきやがって……。


「このロリババアがぁぁ~!」 


 俺は積もり積もった母さんへの恨みを晴らすように大声で


「あは、あはははは、く、苦しい。も、もうダメ」


 部屋の中には俺の歌声と青姉の笑い声が響いていた。

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