第21話 前触れ
次郎三郎が、三人の伴を連れて千樹寺にやってきた。顔に疲れが表れている。動作は依然と変わりなかった。武平と視線が合った瞬間、僅かに眼を瞠る。
「変わったな、武平」
「戻っただけです」
「いや、変わった。どこがと言われると言葉には出来ないが、間違いなく変わった。昔、見た事のある雰囲気だ」
「どこで見たんですか」
次郎三郎は息を吐いた。
「さてな。だが、儂の好みの顔だ」
「そう言って頂けるとは、ありがたい事です」
次郎三郎は何も言わず、本堂に腰を下ろした。背後に三人の供が控える。
「減免の催促は聞いている。晩稲の減免は不作分だけは認めよう。それ以上は許さない」
惣左衛門が口を開いた。
「減免の量については異存ありません。しかし、長梅雨の影響を受けなかった農作物などもあります。ですので年貢の一部を、それらや他の物で納める事をお許しください」
「他の物とは何だ」
「銭、特に銀を用意しようと思っております」
次郎三郎は眼を細めた。
「銀か。この不作の年でどうやって用意するつもりだ」
「米を売ることによって用意するつもりです。今年は不作の為、米の値段が高騰しています。売る相手にも困らないでしょう」
「最初の納期までは十日もないぞ。それは直ぐにでも売れるのか」
「いえ、十日では間に合わないでしょう。ですので納期を先延ばしにして頂けませんか。半月ほど伸ばしていただければ、年貢は必ず払います」
「必ずとの言葉、偽りはないだろうな」
「勿論です」
一度、次郎三郎は眼を瞑った。
「他の物で年貢を納めるのは認めよう。だが先延ばしは許さない。規定通り順次納めよ」
惣左衛門は少し身を乗り出した。
「我らに、飢えて死ねと言うのですか」
「十分な減免は認めた筈だ。それで飢えると言うのは、村の内部に問題があるのではないか。お前には立場上、いくつかの特権を与えている。そのお蔭でそれなりの蓄えがあるだろう。それを崩して納めれば良いではないか」
「何故、他の者の年貢を儂が払わなければならないのですか」
「出来ないと言うなら、他の者に納めさせるまでだ」
「他の者にやらせても同じ事になるだけですぞ」
「やらせてみなければ分からないだろう。少なくとも、初めから無理だと言う者よりは頼りになる。そうは思わないか」
「口だけの者は頼りにならない。儂はそう思います」
「少し、よろしいかな」
円照が言った。次郎三郎が眼をくれる。
「何ですか、和尚」
「この前の稲薙ぎの件は覚えていますか」
「当然覚えているよ。反撃をくらうことなく大きな戦果を挙げることができた。それがどうかしたのですか」
「あの件は篠ヶ坪には何の話もなかった。他の村には口触れが回っていたというのにです。無論、小柳に悟られぬようにする為には仕方のない事でしょう。しかし、他の村はそれで潤ったと言うのに、篠ヶ坪には何もなかった。聞くところによるとそれに配慮してくださったようで、他の村より減免を認めて頂けたことにより、長い眼で見れば平等な対応です。ですが短い眼で見れば、未だ篠ヶ坪は他の村より損をしている。それだと言うのに篠ヶ坪では、村を捨てた者はほとんど出ていない。特に、他の村では何人もの若者が村を捨てたと言うのに、篠ヶ坪では若者は一人たりとも村を出ていない。その上、少し納期を伸ばして貰えば必ず年貢を払うと言っているのです。甲斐甲斐しいではありませんか」
「和尚の言、尤もではある」
次郎三郎は腕を組み、明後日の方向を見る。少しの間宙を見つめ、惣左衛門を見据えた。
「良かろう。まず、納期の先延ばしはやはり認めない。だが、最初に納める分は半分だけで良い。他の物で納める事も認める」
惣左衛門は声を漏らした。
「それで、良いのですか」
「ただし、一日たりとも遅れは許さない。一日でも遅れた場合は全ての減免を取りやめる。例年通りの量を、何が何でも納めて貰う」
惣左衛門は笑みを浮かべ、勢い良く頭を下げた。
「寛大なお心、感謝します」
「感謝なら和尚にするが良い。儂の心は和尚の言葉に動かされた」
次郎三郎の眼が、武平に向いた。
「話は変わるが武平よ、大中井殿と小柳の間で戦が起きんとしているのは知っているか」
「真偽は分かりませんが、噂だけなら」
「戦になるかは儂にも分からないが、両家の間に戦の機運が高まっているのは事実だ。儂は、大戦になるだろうと見ている」
「それを俺に、それもこの場で言って良いのですか」
「構わない。耳聡い足軽たちなどは、既に北に向かっている。じきに周知のものになろうとしている話だ。それに詳しい話は儂も知らないのでな。聞かれて困る情報など持っていないのだよ」
次郎三郎は微笑する。
「そこでだ、武平。もし戦が起こった場合、儂の麾下として参陣してはくれないか。前にも戯れで誘ったが、此度は本気だ。武具が必要なら儂が全て用意しよう。年貢の免除が欲しければ、それも何とかしよう。領地が欲しければこの村をやっても良い。どうだ、悪い話ではないだろう」
両肩が痛む。しかしとうに馴染んでいる。今更揺れ動くものなどない。
「俺に、それだけの価値がありますか」
次郎三郎は、深く頷いた。
「今のお前になら、間違いなくある。末永く興田の為に尽力してくれると、儂は確信している」
「一百姓に、領地ですか」
「うむ。そうなれば年貢はお前自身で決めれば良い。今年の凶作の影響はしばらく尾を引くだろう。お前がこの村を治めれば、それも随分と抑えられる筈だ。多少なら儂も手を貸そう。どうだ」
「少し、時間を下さい。直ぐに答えを出せるものではありません」
「分かった。出陣するまでには何かしらの答えを出してくれ。戦が起こらなかった場合は年貢を納める際で良い」
伴を連れ、次郎三郎は去って行った。
「武平よ、この件、儂は口を出さない。お前の好きなように決めると良い。どちらを選ぼうと儂は尊重しよう」
惣左衛門が言うと、円照も頷いた。
「私もだ。この件は三人の心の中に仕舞っておこう。相談があるなら遠慮なくしてくれ」
「感謝します」
武平は、二人に頭を下げた。
源市が家にやってきた。表情には焦りが表れている。
「兄貴、大変です」
「どうした」
「俺たちが小柳に寝返ったという噂が、あちこちで流れています。それも篠ヶ坪、屋津、新河、多見の四村が寝返ったと、正確な情報が流れています。この分なら直ぐに噂は広まるでしょう」
両肩の痛みが、ほんの少し和らいだ。
「そうか」
「そうかって、何もしないんですか」
「放って置け。噂を流したのはおそらく小柳家だ。興田がこの村に交渉を持ち掛けてきた事に気付いて手を打ってきたんだろう」
「噂の真相を聞かれた場合はどうしたら良いですか」
「小柳家の謀だと答えれば良い。儀作と半四朗は、十年前の生ヶ原の戦いを引き合いに出して宥めるだろう。俺も父上も、お前も儀作も半四朗も一笑に伏せば、村の者は納得する。堂々としていれば良い」
源市は頷き、首を捻った。
「小柳は何故そんな事を。無駄な争いを呼ぶだけで益があるとは思えませんが。これでは、興田に戦支度をしろと言っているも同然です」
「俺も分からない。ただ、興田家は俺たちを懐柔しようと寝返りを伏せていた。噂を流す理由はない。なら、犯人は小柳家だ。今はまだそれしか言えないな」
「時が来た、ということでしょうか」
「そうだろうな。大中井家が出陣したのかもしれない。戦支度は済んでいるな」
「必要な物は千樹寺に運び込んでいます。いつ攻めに来ても即座に構える事ができます」
「なら良い。逸るなよ」
「分かってます。それで兄貴、興田が持ち掛けた交渉ってのはどんなものでしたか。随分と変わった交渉のようですけど」
源市の声に、微かな高揚があった。
「何故そう思う」
「いえ、俺がこの話をした時兄貴はほっとしたような顔をしたんで、何か変わった事を言われたんではないかと」
武平は、自分の顔に触れた。
「俺はそんな顔をしていたか」
「ちらっと見えただけですけど、確かにほっとしてました」
「気が抜けただけだろう。どのみち俺たちの寝返りは明るみに出たも同然だ。興田家も今までのような態度ではいられない。つまり、交渉は水に流れた。中身を知っても仕方がないだろう」
「まあ、それもそうですけど」
「納得したなら帰れ。長話をしているとそれこそ怪しまれるぞ」
頷き、源市は家を出て行った。
「ほっとしていたか」
武平の口元には、微笑が浮かんでいた。
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