第13話 解死人
夜が明けた。鬨の声は、一度も聞こえてこない。
「妙だな」
儀作が近寄って来た。
「はい。稲薙ぎといえ、一度は鬨が上がるものです。この距離なら十分に声は届きますし、とうに稲薙ぎは行われている筈です」
「もしかすると、戦になっていないのかもしれないぞ」
武平は、儀作の顔を見た。
「小柳が稲薙ぎを黙って見ていると」
「有り得ない事だとは思う。だが、なくはないだろう」
「確かに、妥当と言えば妥当かもしれません」
「理由は分からないがな。何にせよ気を抜くわけにはいかない」
「それは私と儀作殿だけで良いでしょう。小柳がこの村に兵を向ける事は、まずありませんから」
「そうだな。一先ず俺は家に帰る。寺にいても何があるわけでもない。それに、叛意ありと見られる恐れもある。俺が戻れば他の奴らも着いてくるだろう」
「お願いします。私は若衆に話をした後、最後まで千樹寺にいます」
武平は源市のもとに走った。
家に潜んでいた若衆は表に出て散らばっている。源市は一人の若衆と共に、屋津村との境目に立っていた。
「少し前に何人かを様子見にやっています」
「誰を行かせたんですか」
「一味神水の際に潜ませていた奴らです。事情も全て把握していますから大丈夫です」
「深追いは」
「きつく言っておきました。こまめに戻るようにしているので、そろそろ新しい情報が手に入る筈です」
「戦が起きている様子は」
「最初に軽く探った範囲ではありません。それと、多見、新河、屋津の動きについては既に把握できてます」
「どう動いたんですか」
「村人全員が山に籠ってます。おそらく寝返りを悟られたのかもしれない、と考えたんでしょう。幸い籠っただけ何もしていません。また、興田軍も何もしなかったようです」
「分かりました。私は千樹寺に戻ります。この調子で続けてください」
源市は頷くと、若衆が口を開いた。
「俺はもう一度行ってきます。ついでに兄貴の言葉を伝えときます」
若衆が走っていく。武平は千樹寺に戻った。
門を潜る前から祈祷が聞こえてくる。村の者は大多数が家に帰っていた。何人かは農作業を始めている。
「どうだった」
惣左衛門が問う。その態度には落ち着きが戻っていた。
「今のところは大丈夫です。興田軍が負けた様子はありません。しかし、小柳が負けた様子もありません。小柳が応戦しなかったと見るべきでしょう。無論、まだ戦が起きていない可能性もありますが」
「眼の前で稲が刈られるのを、黙って見ていたというのか」
「今のところはそう言うしかありません。後は若衆からの報告次第です」
惣左衛門は溜息を吐いた。
「一体、小柳は何を考えているのだ」
「想像でしかありませんが、機ではないんでしょう」
「どういう意味だ。交戦するだけの兵なら十分にいるだろう」
「いえ、そういう事ではありません。小柳が何かを企んでいるのは明白です。それが寝返りの件なのか他の何かなのかは分かりませんが、その企てに支障が出ると考えたから応戦しなかったんでしょう」
「そうでもなければ指を咥えているわけはないか。妙な不気味さだけが残ったな」
「調べて分かるものではありません。今後の小柳領、陽指城の様子を注視するぐらいしかできることはないでしょう」
「そうだな」
また、惣左衛門は溜息を吐いた。
若衆が、千樹寺に飛び込んできた。
「兄貴、大変です」
「落ち着いてください」
若衆は頷き、荒い呼吸を繰り返す。息が整うと囁くように言った。
「興田軍が多見、新河、屋津の三村に解死人を求めています」
武平の口から、声が漏れた。
強烈な血臭が吹きつけた。地面から無数の赤子が湧き出てくる。大声で啼いている。
「勝手に山に籠ったことは反乱に能いする、というのが名目のようです。解死人の数は一村につき一人だけです」
「源市はどこに」
「境目から動いてません」
「その場に留まるように言っておいてください。絶対に兵に手を出していけません。何があろうともです」
「分かりました」
若衆は走り去る。武平は強張った両肩をゆっくり動かした。
肩が重い。痛い。熱い。赤子が一斉に這い寄ってくる。肩の重圧に引き寄せられて近づいてくる。
「そうか、それも有りか」
武平は、千樹寺の縁で右往左往している惣左衛門に事を伝えた。
「なんだと」
惣左衛門の眼が見開かれる。顔色が、瞬時に蒼白になった。
「騒がないでください。父上が騒ぐと勘ぐる者が出てきます」
「わ、分かった」
胸に手を当てて浅い呼吸をする。血の気は失せたままだった。
「興田軍はここにも来るのか」
「おそらく来るでしょう」
「寝返りを悟られたのか」
「分かりませんが、可能性は大いにあります」
「どうする、解死人は誰を出す。いや、儀作と半四朗を集めるのが先か」
「落ち着いてください。興田軍が来るまでまだ時間はあります」
また、惣左衛門は呼吸を繰り返す。少し深いものになった。
「そうだな、まだ誤魔化しようはある。それまでに対策を考えよう。そうだ、祈祷を手伝っていたというのはどうだ。これなら興田殿も文句は言えまい」
「いえ、ここで三村に解死人を求めたという事は、寝返りの情報を掴んだ可能性が非常に高いです。和尚に口添えを頼んだとしても解死人を求められるのは避けようがないでしょう。それどころか企ての中核である千樹寺を抱えていることで、さらに重い罰が課せられるかもしれません」
「無理か」
「無理でしょう」
惣左衛門は息を長く吐く。武平は静かに言った。
「安心してください。私が全て、何とかします」
惣左衛門の眼が鋭くなった。
「駄目だ」
「何か考えがあるんですか」
「解死人は頭株を求めるだろう。今、お前を失うわけにはいかない。儂はもういつ死んでもおかしくない歳だ。儂の命で済むのならそれで良い」
「良いんですか」
惣左衛門は笑った。
「何、村の者であれば誰でも良いのかもしれない。余計な心配だ」
遠くから地響きがやってきた。馬蹄音が近づいてくる。門の前で止まり、次郎三郎が姿を現した。
「戦勝報告だ。和尚のお蔭で無傷で勝利を得られた」
「それだけを、言いに来たのですか」
惣左衛門が言うと、次郎三郎は眉を寄せた。
「何か、他に聞きたいでもあるのか」
「いえ。戦勝、おめでとうございます」
次郎三郎は無言で頷く。祈祷が止み、円照が表に出てきた。
「和尚。御祈祷感謝します。和尚のお蔭もあり、戦は大勝利に終わりました」
「当然の事をしたまで、礼を言われるような事ではありません。民を思う興田殿の徳心、天も必ずや見ている事でしょう」
「そう言って頂けると儂も安心できます。では、失礼」
次郎三郎は千樹寺を出て行った。
「どういうことだ。何のお咎めもなしだと」
惣左衛門が首を捻る。円照が口を開いた。
「何かあったのか」
「多身、新河、屋津の三村が解死人を求められたのです。それなのにうちの村には何もなかったのです」
「ほう、そう来たか。興田殿も中々考える。直ぐにでも、境内から人を追い出した方が良さそうだな」
境内に残った数人に、円照は歩み寄っていく。
「どういうことだ、武平」
「やはり、興田殿は寝返りに気付いていた、ということです。つまり、一味同心を崩壊させようとしているんです。そして、その要である千樹寺だけは興田領に残そうとした。その結果が、三村に解死人の要求をして、うちには何も要求しなかったという事です」
惣左衛門は歯噛みした。
「そういうことか」
「もうすぐ類蔵か伊十郎殿が訪ねてくるでしょう。それを何とかしなければ三村に攻め込まれる恐れがあります。いえ、小柳の企ては水の泡となるわけですから、小柳に敵視されて村を滅ぼされるかもしれません。どちらにしろ打つ手を間違えれば、村は滅びます」
「ここが、正念場か。乗り越えても状況は大きく変わっている。儂らに、何ができるのだろうな」
惣左衛門は力なく笑った。
「なるようになります。少なくとも、できる事はしなくてはいけません」
「今月の観音講の際に、和尚に年貢を納めるよう説いてもらうところだったというのに。物事は、上手く進まないものだな」
「仕方がありません。まずは眼の前の事に取り掛かりましょう」
「そうだな。そうするしかないか」
地が震えていた。千樹寺の前を土煙が横切っていく。兵たちは笑みを浮かべて、騒ぎながら歩いていた。武士も咎めようとはしていない。
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