第12話 突然の出陣
小さなざわめきが聞こえた。
夜番に立っていた武平は、音の聞こえてくる赤井城に眼を凝らす。城前に焚かれた篝火の明かりは普段と相違ない。
「何かあったんですかね」
隣の若衆が訊いてくる。
「ここからでは分かりませんが、嫌な予感がします」
若衆の顔色が変わった。
「兄貴はここで待っててください。俺が見てきます」
「気付かれないように。遠目からで十分です」
「分かりました」
若衆は足音を殺して滑るように走っていく。まもなく、闇に消えた。
ざわめきが僅かに増してきた。赤子の幻影がふらりと現れる。若衆が大急ぎで帰ってきた。
「大変です、赤井城に兵が集まっています」
「数は」
「今は百程度ですけど、まだ集まってきています。どうしますか」
騎馬が、赤井城から現れた。徒を四人連れている。騎乗の男は鎧を着こんでいた。闇夜に筋張った顔が見える。
「今直ぐ惣左衛門殿、儀作殿、半四朗殿を起こして来てください。ただし、絶対に慌てない事。それを徹底するよう伝えてください」
「それだけで良いんですか」
「急いでください」
若衆は頷き、走り去っていく。武平は千樹寺に向かった。
岩厳が、門の前に仁王立ちしていた。
「何の騒ぎだ」
「興田殿が兵を集めています」
「戦か」
「分かりません。今、次郎三郎殿がこちらに来ています。私はここに立っているので、和尚を起こしてきてください」
「分かった」
岩厳は僧房に走る。近づいてくる次郎三郎の顔が徒の持つ灯りに照らされていた。表情に浮かぶ険しさは、そう深いものではない。
円照、岩厳、定妙が表に出てくると、次郎三郎が馬から下りた。
「こんな夜分に何かありましたか」
円照が問う。次郎三郎は浅く頭を下げた。
「申し訳ない。一同で出迎えていただけるとはありがたい事です。これから小柳に戦を仕掛ける為、戦勝の御祈祷を頼みに来ました」
「大戦ですか」
「いえ、稲薙ぎを予定しています。大きな戦にはならないでしょう」
「そうですか。祈祷の件は承知しました。今から準備を始めれば、小柳領に着く前には始められるでしょう」
「お願いします」
次郎三郎は一瞬定妙に眼をやり、武平を見た。
「今は還俗して、武平と名乗っているのだったな」
「はい、そうです」
「儂に着いてこないか。褒美も出そう」
「いえ、ありがたいお誘いですが遠慮させてください。今は一介の百姓です」
次郎三郎は武平から視線を外し、円照を見た。
「軍勢は篠ヶ坪を通るが、村人を怯えさせるようなことは一切させない。惣左衛門には心配しないよう、伝えておいてくれ」
「分かりました。武運を祈っています」
「うむ。期待しておけ」
馬に跨り、次郎三郎は赤井城に戻って行った。
少しして、惣左衛門が千樹寺に走って来た。
「何があった、武平」
「これから興田殿は小柳に稲薙ぎをしに行くそうです」
惣左衛門は呼吸を整えるように溜息を吐く。
「なら一安心だな。しかし、うちの村は給人がいないから良いとして、多見の村などには伝令が行っているのか」
「いえ、行っていません。おそらく奇襲のように稲薙ぎを行おうとしているのでしょう。多見の村に口触れを出せば、小柳に事が伝わります。興田殿はそれを避けたかったのでしょう」
「そういう事か。この件、伊十郎に伝えた方が良いな。突然村に兵がやってくれば、寝返りを悟られたと勘違いするかもしれない。勘違いで武器を振り回されては堪ってものではないぞ」
「止した方が良いでしょう。まだそうと決まったわけではありませんから。それにうちの村から多見に伝えるのも不自然に思われるでしょう。伊十郎殿や他の村も独自に対処する筈です。今は静観に徹しておきましょう」
惣左衛門はしばらく黒髭を撫で回し、頷いた。
「そうだな。その冷静さ、助かっているぞ」
境内に灯が点いた。その頃になってようやく、儀作と半四朗が走り寄ってきた。
「大丈夫なのか」
半四朗が息急き切って言う。惣左衛門は笑みを浮かべた。
「安心しろ、稲薙ぎに行くそうだ」
「そうか」
半四朗は深く息を吐いて呼吸を整える。儀作は赤井城に眼をくれた。
「軍勢はどこを通る」
「この村だ」
惣左衛門が答える。儀作は辺りを見回した。
「源市はどこにいる」
「私が伝えに行きます」
「任せたぞ、武平」
村の者が千樹寺に集まって来ている。武平は源市の家に走った。
「良いか、絶対にこちらから手を出すな」
源市が若衆を集めて指示を出していた。既に、全員が揃っている。
「兵が村の物に手を出そうとした時だけ、素手で応戦しろ。そうすれば興田殿が間に入ってくる。それまで絶対に血を流すなよ」
一斉に返事が上がる。武平は源市に声を掛けた。
「大丈夫そうですね」
若衆から、小さな歓声が起こった。口を開きかけた源市が苦笑する。
「問題ありません」
「兵を挑発しないように家の中に潜ませておいてください」
「分かりました。兄貴はどうするんですか」
「私は千樹寺にいます」
「女子供は兄貴に任せました」
次々に似たような言葉が飛び交う。武平は目礼して千樹寺に戻った。
境内には若衆を除いた全ての村人が集まっている。最奥に子供を置き、次に女を配置する。前線の門の近くには男たちが立っていた。
「どうだった」
惣左衛門が訊ねる。表情には少しの余裕が生まれていた。
「既に動いていました。若衆は問題ありません」
「良し。儂らは寺の入り口を固める。お前はどうするのだ」
「私はまだ用があります」
「分かった。それが終われば直ぐにでもこちらに来てくれ。お前が先頭にいれば、万が一もないだろう」
頷き、武平は僧房に向かった。円照たちの祈祷の声が境内に重く響いている。取り乱している者は一人もいなかった。
僧房は暗く、眼が利かない。しかし躊躇うことなく奥に進み、壁に掛けた刀を掴んだ。
赤子が、這い寄ってきた。耳に抱き付いて啼き始める。
血塗れの赤子が累々に転がっている。そこここで啼いている。一斉に見てくる。揃いも揃って起き上がり、血を流しながら寄ってくる。
「何しているの」
玉の声が、背後から聞こえた。武平は刀から手を離し、息を吐いて振り返る。
「何でもない。どうした」
「遅いから呼びに行けって、父さんが」
玉の顔は、微かに強張っていた。
「そんなに時間が経ったのか」
「分からないけど、そろそろ兵が動きそうだって」
「分かった、直ぐに行く」
武平は僧房の入り口に向かう。玉は動かなかった
「それと、あなたのお父さんがいないんだけど」
「見落としただけだろう」
「そうじゃなくて、本当にいないの」
「放っておけ」
「良いの」
「戦を見に行ってるんだろう。どうせ死にはしない」
「あなたがそう言うなら」
玉は身を翻し、外に出ようとする。その背に、息子の姿がなかった。
「待て。子はどうした」
「あの子ならお母さんに預けてるけど」
「どっちのだ」
「あなたのお母さんだけど、どうかしたの」
赤子が消える。肩の痛みが消える。武平は、玉に詰め寄った。
「息子はお前に任せると、何度も言った筈だ。何をしている」
玉の眉尻が下がった。
「ごめんなさい。でも」
「言い訳はするな。直ぐに取り返して来い」
玉は口を開きかけ、唇を結んだ。僧房を飛び出していく。
ややあって武平は門に戻った。即座に惣左衛門が怒鳴る。
「遅いぞ」
「用は済みました。もう大丈夫です」
「なら、良い」
それきり、惣左衛門は口を開かなかった。男たちは皆、腰の刀をしきりに触っている。儀作だけが堂々としていた。
武平は千樹寺を出て、水堀に掛かる木橋に立った。赤井城に集まる灯の動きが活発になっている。
数個の灯が、群れから離れた。それから灯の群れが薄く伸びていく。
地が、震え始めた。土煙が夜にもはっきり見える。
櫓に上った大和守は、領の境目に布陣する興田勢を見やった。
「三百、と言ったところか。短時間で集めたにしては立派なものだ」
眼下では己の手勢が走り回っている。それを悠然と眺めていると、近習の一人が恐る恐る声を掛けてきた。
「領内は大わらわですが、打って出なくても良いのですか」
大和守は小さく笑う。
「放って置け。所詮形だけの稲薙ぎよ。下手に抗うと大局に影響が出る。それに、奴らの目的は儂らではない」
「と、言いますと」
「まあ見ておれ。これを機に興田領は大きく動く。奴らは賭けに出たのだよ、上手くいけば儂らが育てた火種は消える。下手をすれば業火となる。勉強になるぞ」
近習は威勢良く返事をする。一拍置いて、別の近習が口を開いた。
「島尾張守から報告が入りました」
「申せ」
「文治派は媚薬から眼が離せなくなった」
無言で、大和守は笑みを浮かべた。
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