第8話 大和守
多見村の者が夕暮れに千樹寺を訪ねてきた。その細身の優男は丁寧に頭を下げる。
「初めまして、類蔵と言います。この度は伊十郎さんに言われて参りました」
「何か過失でもあったかな」
円照が言うと、類蔵は首を振った。
「違います、心配しないでください。今回来た用件は二つです。まず、これから伊十郎さんと話をする際は俺を通してください」
岩厳が眉を寄せた。
「煩い蠅は相手にしないってか」
「いえ、興田への発覚を恐れての事です。前回のように、惣左衛門さんが直々に訪ねてきては勘ぐる者が出てきます。そこで俺が千樹寺の門徒となることで、それを回避することになりました」
「なるほど。それは分かったが、多見でのお前さんの立ち位置はどの辺りだ。それにもよるだろう」
「和尚の心配はご尤もですが、そこも大丈夫です。俺は伊十郎さんの家の下男ですから、勘ぐる者はいません。それに物心つく前から伊十郎さんの家にいますので、伊十郎さんは育ての親のようなものです。裏切る心配もありません」
「よろしい。もう一つの用件を聞こうか」
「小柳が寝返りの動向を聞きたいと」
「小柳の誰だ」
「陽指城の城主、幡南大和守様です」
「伊十郎から話を聞いているだろう」
「この度は別の者から聞きたいとのことです」
円照は武平に眼をやった。
「一人は武平、もう一人は寺の者、といったところか」
類蔵は微笑んで頷いた。
「ご慧眼。ただし、人選は和尚以外の者にしてほしいとの事です、目立ちますからね」
「なら、岩厳しかいないな。岩厳、粗相はするなよ」
「童扱いは止めてください。まあ、斬られない程度の立居振舞はできます、断言はできませんが」
岩厳が含み笑い、円照は片方の眉を持ち上げた。ややあって、武平は口を開く。
「聞いても良いですか」
「答えられる範囲なら」
「千樹寺の僧を呼ぶのは分かりますが、何故私を呼ぶのですか」
「俺も伊十郎さんに言われただけなので詳しくは知りません。ただ、武平さんは幡南大和守様に名指しで呼ばれたようです」
「面識は、なかった筈ですが」
「さて、それを俺に聞かれても。伊十郎さんは最初こそ疑問に思っていましたが、直ぐに納得したようですが」
嫌な予感がした。赤子が啼こうとする気配を感じる。
類蔵は円照に向き直った。
「用件は伝えました。陽指城を訪ねる時間ですが、今日の陽が沈んだ頃合いに村を発ってください。くれぐれも顔を見られないよう注意をお願いします。それと、これを」
類蔵は懐から書状を取り出して、円照に渡した。
「それを夜番の者に見せれば、館に通してもらえます」
「了解した。岩厳では心配だ、これは武平が持っておけ」
「それが良い。俺が持つといつ無くすか。持ちたくもない」
武平は受け取った書状を懐に仕舞った。
「念を押しますが、顔だけは見られないでください。この件は一部の者しか知りません。篠ヶ坪の者は勿論、小柳の者にも注意してください」
陽光だけが空に残っていた。外を出歩く者は減っていたが、人の気配は濃厚に漂っている。武平は千樹寺に向かい、僧房に足を踏み入れた。
円照と定妙の姿はない。一人立ち尽くす岩厳は、巨躯に手綱のみを着けていた。
「おお、武平。これからどうする」
「恰好の事ですか」
「おう、多少の変装は必要かと思ってな。どうしたものかと悩んでいた」
「髪型を変えるか被り物をすれば十分でしょう。後は僧衣を着ないことぐらいです」
「それで大丈夫か」
「普通の人はそこまで夜目は利きません」
岩厳は一瞬呆け、声を上げて笑った。
「そうだった、そうだった。いや、眼が良いのも困りものだな」
岩厳の身支度は直ぐに整い、二人は千樹寺を発った。
興田川に沿って屋津村を通り、多見村に入る。新月の夜に小柳領の灯が浮かび上がって見えてきた。
「もうすぐ小柳だ。夜盗には気を付けろよ」
岩厳の声には、微かな高揚が混じっていた。
「大丈夫です。そうそう襲ってはきません」
「そう思っている時が一番危ないんだ。俺は懐剣を忍ばせてあるから良いが、お前は無手だろう。それで大丈夫なのか」
「自分の事は自分で対処しますからご心配なく」
「楽観しているのか、大層な自信を持っているのか」
岩厳は忍び笑った。
間もなく陽指城のある樫尾村に入り、館の夜番に書状を渡した。少し待たされて館の一室に通され、待つように言われる。
やがて、重みのある足音が近づいてきた。
「待たせた」
厳めしい大男が入って来た。
「幡南大和守だ。千樹寺の円房と岩厳だな」
「今は還俗して、武平を名乗っています」
大和守は武平の眼を見つめ、脚を投げ出して座った。
「そうか。千樹寺の噂は聞いているぞ。特に、円房の名はな。篠ヶ坪には鬼がいる、儂らの間でも有名だ。幾度も武功を上げ、戦働きで得たものを篠ヶ坪の者に分け与えているとか。主に、南の戦場にいたようだな」
「はい。稀に東や北に行くこともありましたが、ほとんどは南にいました」
「南は荒武者の多い土地。そこを生き抜いたお前は、さぞ勇猛果敢な兵なのだろうな」
「いえ、今は一介の百姓です」
大和守の視線が、武平の腰に向けられる。
「して、刀はどうした。取り上げるような事はしていないと思うが」
「元々、刀は持ち歩いてはいません」
「ほう、珍しいな。刀への執着心は、儂らも百姓もそう変わらないと言うのに。しかも篠ヶ坪の者は二本差しだろう」
「私には過分なものです」
「過分か」
大和守は含み笑いを漏らした。
「そういえば、南で大層酷い戦があったというが知っているか」
赤子の気配。武平は答えなかった。大和守が岩厳を見る。
「お前は」
「今年の夏は戦に行ってませんので初耳です。今年の事ですか」
「いや、去年の夏の事だ。儂も詳しくは知らないが、ある武士に討伐令が出てな。その際、一族郎党、赤子に至るまで皆殺しにするよう達示があったという。いや、酷い事よな。内情は知らないが、女や赤子は見逃しても良いだろうに。そうは思わないか、武平よ」
大和守が、じっと見つめてくる。赤子が今にも啼かんとしている。
武平は目礼して視線を外した。
「私も、そう思います」
「うむ、戦乱の世とはいえ、最低限の情けは無くてはな。それで武平よ、お前はこの戦について、何か知らないのか」
「その時期は南方の戦場にいましたが、耳にしたのは初めてです」
大和守は浅く吐息した。
「まあ良い、本題に入ろう。お前たちを呼んだのは、伊十郎以外の口から話を聞きたかったからだ。まず、伊十郎についてはどう思う。興田に着いていくつかの戦に加わった事もあるらしいが、信用できる奴か」
即座に、岩厳が答えた。
「俺は信用してません。どうにも相性が悪い」
大和守は笑った。
「正直な奴は好みだ。武平、お前も同じように答えてくれると儂も気が楽だ」
「理由はどうあれ、寝返る者を信用することはできません。百姓など風になびく草のようなものと、昔からの言葉にある通りです」
「裏返せば、利が勝る限り裏切らないという事だ。こういう者は裏切りを念頭に置いていれば、存外、信用できるものだ。良かろう、伊十郎の件は了解した。これからも仲介は伊十郎に任せるよう伝えておけ」
「分かりました」
「次に年貢についてだ。免除は今年から数え始めるが、場所が場所だ。軍役までは免除できない。田畑に応じて課させてもらう。その対価は銅銭か銀で払うことになるだろう。その為、村々の指出を伊十郎がまとめて持ってこい。一先ずの判断に使うだけだ、正確なものでなくて良い。ただし、後日に正確なものを提出させる。細工はほどほどにしておけ」
「分かりました。無礼とは分かっていますが、一つ聞きたいことがあります。よろしいですか」
大和守は顎をしゃくった。
「言ってみろ」
「事の重大さは理解していますが、その上でお聞きします。今年中に兵を起こすというのは本当ですか」
「事実だ。必ず兵を起こす。だが、根拠については話せない。その理由は分かってくれるだろう」
「大和守様から確約が頂ければ、それで十分です」
「流石に理解が早いな。どうだ、武平よ。今からでも遅くない、儂のものにならないか。相応のものは払うぞ」
「ありがたいお誘いですが、私は百姓です。百姓には百姓の分があります。私には分不相応な待遇です」
少し間が空いて、大和守は息を吐いた。
「まあ、良かろう。気が変われば会いに来い。いつでも歓迎しよう。さて、岩厳よ。興田領に侵攻した際、儂らは千樹寺に陣を張ることになるが、その件について和尚はなんと言っていた」
「了解したと」
大和守は微かに笑みを浮かべ、懐から袋を取り出した。
「銀が百匁ほど入っている。挨拶料だ、受け取れ」
岩厳は手を伸ばしかけ、声を漏らした。
「悪いですが、和尚からは何も受け取るなと言われてますんで。もし何かあれば後日、和尚が挨拶に行くんで、その時にでも」
笑い、大和守は袋を仕舞った。
「良い心構えだ。この度の件、伊十郎が中心に位置して儂らとの仲介を務めてはいるが、主柱は千樹寺になるだろう。岩厳のような者がいるならこちらも気が休まるというもの。和尚にはよろしく言っておいてくれ」
「了解しました」
「用件はこれで終わりだ。南の戦場の話やお前たちの武辺話を聞きたいところだが、儂も暇ではないのでな。ここで失礼する。伊十郎に不満があればいつでも言いに来い。お前たち二人は直ぐに通すように図らっておく。ではな」
大和守は腰を上げ、退室しようとする。
「そうだ、忘れていた」
立ち止り、向き直った。その顔には不敵な笑みが浮かんでいる。
「武平よ。お前を、頼りにしているぞ」
肩に激痛が走る。血の臭いが漂ってくる。赤子が、啼き始めた。
「勿体ないお言葉です」
大和守の足音が悠然と遠ざかっていく。それが聞こえなくなるまで、武平はその場を動かなかった。
二人は篠ヶ坪村に戻った。起きて待っていた惣左衛門と円照に事情を話して、武平は自宅に帰る。
窓から漏れる淡い光が、玉と息子を照らしていた。どちらも安らかな寝息を立てている。人の気配は絶え、山や田からの音が混じりながらも明瞭に聞こえている。
武平は、玉を犯した。
赤子が、耳にへばりついて啼いている。
大和守は笑っていた。傍に控える二人の近習は黙って座っている。
「武平、話に聞く以上の男だ。面白い、太郎が推挙するだけはある。儂は確信を得たぞ。この戦、必ずやものにする」
近習が同時に頭を下げた。
「おめでとうございます」
「うむ。大中井家の方はどうだ。島尾張守は何と言っていた」
「我ら武断派は政より遠ざけられたが故に結束は固く、殿に重用されたが故に文治派は脆い、とのことです」
大和守は歯を剥いて笑み、扇子を一扇ぎした。
「もう扇子の不要な季節になったな。戦が起こるまであと数か月か。大中井家は既に、滅びの道を歩み始めた。果たして、興田はどうかな」
また、大和守は静かに笑った。
「何か楽しい事でもありましたか、大和守様」
太郎が床の軋り音すら立てずに部屋に入ってくる。途端、大和守は破顔した。
「おお、太郎、来たか。武平に会ったぞ。薄々感じていたが、やはりお前にそっくりだった。見事なほどにな。笑いを堪えるに苦労したぞ」
太郎の表情が険しくなった。しかしそれも一瞬のことだった。
「そうですか。小柳家の戦支度の調子は」
「順調だ。島尾張守のお蔭で全ての情報は筒抜けよ。お前もその時に備えておけ。もう世捨て人ではいられないぞ」
太郎は深々と一礼した。
「元より、その覚悟でございます」
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