第7話 一味神水
厚い雲が垂れこんでいる。千樹寺は重い闇に包まれていた。人声は絶え、虫の気配も消えている。風だけが微かに鳴いていた。
「皆、良くぞ集まってくれた」
伊十郎の抑えた声が本堂に広がる。
「この場にいるのは多見、新河、屋津、篠ヶ坪の四村。この四村が互いに手を取り合い、小柳に寝返る。これから我らは一味同心となり、密かに興田と戦っていくのだ」
「良いところで悪いが、一つ良いかな」
円照が言った。伊十郎は浅く吐息する。
「何ですか」
「寝返るのは良いが、今年興田殿に納める年貢はどうするつもりだ。ここに集まっている理由の多くを占めるのは、今年の凶作だろう。今年中に小柳が立てば良いが、そうでない場合はどうする。小柳に付くことを悟られてはならないのだろう」
数人が賛同の声を上げる。他の者も表情に同じものが表れていた。
「誤解があるようだな。確かに寝返りは悟られない方が良い。ただし、それは俺たちの事情だ。最悪、興田に攻められるからな。小柳は侵攻の際に小柳領となることだけを求めている。それ以外の事は何も要求していない。別に、小柳に年貢を納めることを興田に伝えてきても全く構わないぞ。無論、他の村を巻き込まなければの話だが」
惣左衛門が口を開いた。
「その言葉だと、多見は興田に年貢を納め続ける、と言っているように聞こえるが、どうなんだ」
「興田になんか納めるかよ。良いか、聞け。小柳が兵を起こすのは今年だ。絶対にな」
「その根拠は」
屋津村の佐助が問う。伊十郎は懐から午玉宝印を取り出した。
「これは小柳が興田に仕掛けた謀だ。誰が相手であろうと口にするわけにはいかない。その代わり、起請文を書こう。これは和尚に書いてもらう。それで問題ないな」
「この場は、それで良いだろう」
儀作が言い、他の者も頷いた。伊十郎は表情を変えず、円照に午玉宝印を渡した。
出来上がった起請文を全員が確かめると、伊十郎は声高に告げる。
「今お前たちが一番気にしているのは年貢の事だろう。まず、小柳の年貢の免除については今年の収穫分を含んでいる。なぜなら、小柳は今年中に兵を起こすからだ。ただし、詳しい時期までは分からない。晩稲の収穫より遅くなることは十分に考えられる。いまさら言うまでもないが今年は凶作だ。興田に減免を迫れば十分に時間は稼げる。また、興田もそれを予期しているだろう。よって、誰かが興田に寝返りを宣言しない限りは、年貢の心配はいらない」
「一つ良いか」
新河村の庄吉が、垂れた頬をさすりながら言った。
「何か足りない点があったか」
「いや、概ね満足する答えが得られた。しかし疑問があってな。少々話が上手いと思うのだが、皆の者はどう思う。卑下するわけではないが、この四村にそこまでの価値があるとはとても思えない。誰か良いように使われているのではないか。誰が誰に、とは言わないが」
伊十郎の眼が吊り上がった。
「それは、俺に言っているのか」
「そこまでは言っていない。褒美が嘘でなければ、小柳の謀であろうが地後の謀であろうが、もしくは別の勢力であろうが、どうでも良いのだ。だが、その可能性があることを皆が意識しておく必要はあるだろう、と言いたいのだ。武士共に良いように使われ、無惨に捨てられることだけは避けなくてはならない」
伊十郎の喉の奥で忍び笑う。
「使い捨てられる可能性もあるにはあるだろう。俺が会った小柳の男が、別の勢力に繋がっているかもしれない。だが、それがなんだ。この中、武士に良いように使われ、捨てられることに満足する者が一人でもいるのか。そんな奴らが、ここに集まるのか。既に、戦は始まっているのだ。それを忘れなければ何の問題がある。なあ、ないだろう」
「ふむ。その心意気であれば文句はない。話を遮って悪かったな。続けてくれ」
「他に、意見のある者はいるか」
身じろぎはしても、口を開く者はいなかった。
「次は寝返りを決めた後の話をしよう。まず、小柳が兵を起こすまではなんの問題もない。興田に寝返りを悟られなければの話だがな。唯一にして最大の関心事は、小柳が兵を起こした後のことだろう。小柳が興田を破った場合は、そのまま赤井城に入りこの地を治めることになる。これが最良の結果だが、そう上手くはいかないだろう。その場合は一先ず千樹寺に陣を張り、その間に城を築くとのことだ。これは俺の想像だが、屋津と新河の間にある山に築くつもりだろう」
「待て。その山はうちと新河の入会地だぞ」
屋津村の佐助が言うと、新河村の庄吉も続いた。
「そうだ。入会地を奪うのだ。小柳は何をしてくれる」
「言っただろう、あくまで想像だ。城の場所はまだ決まっていない。まあ、あの山以外に適した場所はないと思うがな。城を築く際には持ち主に相応の払いをするとのことだ。詳しい交渉は選ばれた村がすることになる。その時に、望むだけ吹っ掛ければ良いだろう」
「分かった。一先ずはそれで良い」
屋津村の佐助が言い、新河村の庄吉も引き下がった。
「それで和尚、さっき言った通り、小柳の陣地として千樹寺を貸してもらいますが、文句はありませんね」
円照は好々爺然とした笑みを湛えた。
「この状況でそれを訊くとは、随分と意地が悪いな」
「では、断ると」
「いや、良いだろう。しかしこちらはこちらで、小柳に挨拶をしておかなくてはな。これは好きにさせてもらうぞ」
「勿論です。ただし」
「分かっている。おおっぴらに動きはしない」
「それと、この件は定妙殿に伏せておいてください」
「心配するな」
伊十郎は、しばし円照を見つめた。
「信じられないか」
「いえ、この場に和尚の言葉を疑う者はいません」
「ほう。私も偉くなったものだな。篠ヶ坪の者にそう言われるならまだしも、多見の村にそこまでの事をした覚えはないのだがな。もしかすると、他の僧が何かしていたのか」
「そうではありません。ですが和尚の高徳は有名です。だからこそ、興田や小柳が頼りにしているのでしょう」
「そうかな」
伊十郎の眼が、僅かに鋭くなった。
「何か、言いたいことでも」
「口に出すほどのものはない」
「この際ですから全て吐き出してはどうですか」
円照は唸り、息を吐いた。
「なら、言わせてもらおうか」
「どうぞ、ご遠慮なく」
「大した話ではない。小柳が寺に陣を張っている間、食料はどうするのかと思ってな」
伊十郎の口元に笑みがこぼれる。そこここから微笑が起こった。
「そんな事ですか。無論、小柳が用意するでしょう。妙に真剣な様子で言うのですから、つい緊張しましたよ」
「悪いな。うちもそう裕福ではないのでな。もう少しすれば修行に出ていた者が帰ってくる。そうすれば厨事情は一層厳しくなる。まあ、貧乏人の心配性だ。笑って許してくれ」
「いえ、和尚のお蔭で場も和やかになりました。感謝します」
伊十郎は浅く頭を下げた。円照から視線を外し、他の者に眼を向ける。
「大よその事には答えられたと思うが、何か意見はあるか。些細な事でも遠慮なく言ってくれ」
一人が仲間に囁くと、誰もが小声で相談を始めた。漏れ聞こえてくる言葉は、伊十郎に好意的なものばかりだ。
円照が、隣に座る武平に言った。
「やはり何か隠しているぞ。くれぐれも油断するな」
僅かに開かれた唇に動きはない。武平は目礼で答えた。
ふと、背中を軽く叩かれた。見ると惣左衛門が口を寄せてくる。
「どう思う」
「大きな問題はありません。判断を下す情報は得られたと思います」
「それで、お前の意見は」
「私の意見は不要でしょう。それに無価値です」
惣左衛門は儀作に眼をやった。笑みを浮かべて首を振る。半四朗を見ると、唇を噛んで首を振った。源市も頷かない。
「全員、強硬策には反対の様だ。大勢は決まったな。それで、お前の意見は」
「なおさら聞いてどうします」
「父として聞きたいのだ」
肩に軽い痛みが走る。武平は、少しの間眼を閉じた。
「どちらも同じです。柴論争が起きた時点で、血が流れる事は決まっていたんです。もう、何をしても遅い。餓死者は出なくとも何人も死にます。それも何年、もしかすると数十年にも渡って。後は、腹を括るだけです」
「良いのか」
「何がですか」
「いや、お前が良いのなら、もう言うまい」
それきり、惣左衛門は押し黙った。
しばらくすると、屋津村が寝返りの賛同を示し、新河、篠ヶ坪も続いた。
「何度も集まるのは危険だ。異論がないようなので、和尚、起請文をお願いします」
円照は、全ての者に眼を配った。
「寝返りの件の他言無用。裏切りの禁止。それで良いな」
全員が賛同する。
「それと、場と時間故、略式で行う。興田殿に悟られては元も子もないのでな。これも構わないな」
反応はやや鈍かったが、直ぐに全員が了解した。
円照は声に出して起請文を書き始めた。ありとあらゆる仏の名が書かれた起請文に、集まった者が署名していく。
それから、全員の名が記された起請文は火にくべられた。生まれた灰を神水に溶かす。始めに伊十郎が口を付け、次の者に器が渡される。
そして、全ての者が神水を呑んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます