第5話 村同士の争い

 円照の表現力豊かな読誦が境内に響き渡っている。


 篠ヶ坪村の者を中心として近隣の村人が集まっていた。屋津村の者も数人参加して、総数は百を超えている。武平も端の方に座っていたが、円照の読誦は耳に入っていなかった。その眼は、一人の男に向いている。


 しばらしくて読誦は終わり、参加者たちが散らばっていく。その男は数人の郎党と共に動こうとしなかった。武平は男に近づいて声を掛ける。


「お久しぶりです、伊十郎殿」


「おお、円房か、丁度良い」


 伊十郎は微かに笑う。その顔に走る裂傷がひくついた。


「和尚と惣左衛門に用があったんだが、よくよく考えればお前も必要だったな」


「何か用ですか」


「俺たちはここでもう少し待っている。他の奴らがいなくなったら本堂に上がるから、和尚と惣左衛門に待っているよう伝えてくれ。話がある」


 連れの郎党の二人は、若く逞しい男だった。落ち着いた雰囲気だが、時折、鋭さが見え隠れしている。


「分かりました」


 和尚と惣左衛門に話を通して待った。参加者たちは千樹寺を出て行き、伊十郎たちだけが残る。本堂に場所を変えると、円照が普段よりも穏やかに言った。


「話とは何かな」


「実は、屋津村に合力を頼まれたんです。篠ヶ坪から鎌と柴を奪い取った後、戦になるようなら加勢してくれ、と」


 惣左衛門が眼を細めた。


「何が目的だ」


「目的、か」


 伊十郎は薄く笑った。


「減免についてはお前たちのところにも話があったよな。あれについて、お前たちはどう思う」


「予想の範疇だろう」


「確かに、興田からすれば妥当なところだ。ただよ、全免ですら手元に残る量は昨年よりも少ない。これで不満がないってのは嘘だろう」


「不作の時点で不満しかない。興田殿がどう対処しようとな。当然の反応だろう」


「そうだよな。その上、屋津と篠ヶ坪との間で戦が起きそうになった。それなのに興田は全免を認めなかった」


「儂らは譲歩を引き出そうとはしなかった」


「ああ、そうだ。近隣の村々が一丸となれば、全免を認められた可能性はある。だが、所詮は可能性だ。全免なんてものは滅多に認められるものでもない。それを分かった上で、お前たちは退いたんだろう」


「回りくどい言い方は止めろ。率直に言え」


 惣左衛門の語気が少し強くなった。


「悪いな。ならそうしよう。中稲と晩稲、どうするつもりだ」


「早稲と同じだ。あまりにも悪ければ種蒔の時期に動く」


 嘲るように、伊十郎は腹の底から笑った。


「悠長だな、おい。それまでに何人の死人が出ると思っている。まさか中稲と晩稲が例年通りになる、なんて思ってないだろう。中稲は早稲と同程度、晩稲もそれなりに梅雨の影響を受けている。飢饉は、眼と鼻の先だぞ」


「儂らができることなどそう多くはない。飢饉になるのも自然の摂理というものだ。愚痴をこぼして解決するものでもない」


 伊十郎は、武平に眼をやった。


「今年の冬はどうなると思う」


「残念ながら、各地で戦が起きるでしょう。それも大規模なものが。小さなものは数えきれない筈です」


「そういうことだ。今回の冬から春にかけては厳しいぞ。相当な数の死人が出る、間違いなくな。それを、悠長に構えて待っているつもりか」


 惣左衛門は眉を寄せた。


「お前は、何を企んでいる」


「このままいけば屋津は篠ヶ坪に攻め入る。ただ屋津は、戦を起こさず柴の件を水に流す条件を提示してきた」


「それは何だ」


 伊十郎は、威嚇めいた笑みを浮かべた。


「篠ヶ坪よ、小柳に寝返れ」


 惣左衛門が眼を瞠った。円照は声を漏らす。源市は素早く辺りに眼を配った。

 赤子が、啼いていた。


「屋津も、新河も、うちの村も小柳に寝返る。その褒美は、五年に及ぶ年貢の免除だ」


「おおよそ、興田殿の赤井城から小柳領の間にある村が対象ということか」


「そういうことだな」


「正気か」


「俺はまともだ、至極な。結論は後日伝えに来い」


「これを興田殿に伝えれば、どうするつもりだ」


 伊十郎は歯を剥いて笑う。顔の裂傷が大きく歪んだ。


「寝返りが興田に漏れた際は、真実がどうであろうと、お前たちが密告したとして篠ヶ坪の村人、その悉くを殺す」


 惣左衛門が息を飲んだ。


「興田殿はすぐそこだぞ」


「だからどうした。それだけの対価は屋津から頂く。それなりに解死人は求められるだろうが、何の問題もない」


「その前に、興田殿が動けばどうするつもりだ」


「この件の原因は、屋津と篠ヶ坪の柴論争によるものだ。精々、仲介に動く程度のことしかできないだろう。兵を起こすにもうちの村は小柳領に隣接している。そう簡単に侵攻はできない」


 惣左衛門は口を開きかけ、閉じた。伊十郎が立ち上がる。


「話はここまでだ。じっくり考えると良い。寝返る以外に取れる手段はないと思うがな。まあ、密告だけは止めておけ。こればかりは何があろうと全ての者を殺す。どんな手を使ってでもな。主だった者は、楽に死ねると思うなよ」


 含み笑いを漏らし、伊十郎は郎党を連れて去って行った。


 源市が、怒声を上げた。


「すいません、もう大丈夫です」


 頭を下げ、押し黙る。円照が愉快そうに笑った。


「飛び掛からなかっただけ成長した」


 惣左衛門も力なく笑い、それから溜息を吐く。


「しかし、伊十郎の目的は何でしょうか。寝返りの主犯は、まず間違いなく屋津ではなく伊十郎でしょう。ですが、不作とはいえ寝返る理由に見当がつきません。減免にしても、伊十郎の多身村は小柳領に隣接しているので比較的寛大な処置になった筈です。小柳から来る夜盗に、今更参ったわけでもないでしょう」


「おそらく、この寺が目当てなのだろう」


「どういうことですか」


「小柳が粉を掛けて来たのだろう。年貢の免除と他に金銭を与える、とでも伊十郎に言ったか。それで交渉に来たのだろう。この寺は土塁と堀のある立派な拠点だ。出城としては最適だろう」


 武平は唸った。


「出城にしては、興田殿の赤井城に近過ぎはしませんか」


「確かにその通りだ。だが、それは小柳にしても同じこと。一番近い陽差城からなら歩いて一刻、馬であれば四半刻と掛からない。場所にしても、大人数を展開できるような土地ではない。四半刻程度であれば十分に耐えられるだろう」


 惣左衛門は己の短い黒髭をさすった。


「つまり、小柳は千樹寺を奪おうと企んでいるのですか」


「それが妥当だろう。武平はどう考える」


「私も同意見です」


「和尚はどうするつもりですか」


 惣左衛門が問う。円照は、無数の皺を引きつらせて猛々しい笑みを浮かべた。


「戦に身を置く我が門流、武士を恐れてなんとする。寝返りの件は、お前たちで好きに決めると良い。小柳も直接力を振るって奪うつもりはないだろう。おそらく、寺を陣として使い、少しづつ自分のものとする筈。やりようはいくらでもある。お前たちに心配されることではない」


 惣左衛門は頭を下げた。


「感謝します。ただ、気になる事が。寝返りというのは天道に背かないのでしょうか」


「難しいな。興田殿は良くやっている。これが悪辣な執政を行っているのではあれば寝返りも問題ないが、そうではない。領主が善政を尽くしている限りは、大人しく従うのが道理というもの」


「やはり、そうですか」


「しかし村というのは、領主に仕えているわけではない。あくまでも、手を結んでいるにすぎないのだ。寝返り自体は悪い事ではない。事を荒立てるのが問題なのだ」


「しかし、今回の件は」


「うむ、これに当てはまる。だが、世の中には事情というものがある。仏法に帰依している者でも、獣食を絶っていない者は多い。それは何故か。獣を食わねば生きていけないからだ。これについては、古今東西の僧が致し方ないと認めている。それを考えれば、今回も同じことだろう。寝返らなければ村人が死ぬ。寝返ったとして、誰がこの選択を責められようか」


「では、天道に背くことにはならないのですね」


「大丈夫だ。それにこの問題は、仏法領のことではない。天道に背く恐れは一切ない。断言しよう」


 惣左衛門は深く息を吐いた。


「安心しました」


「ただし、筋を通す為に今年の年貢は興田殿に納めるべきではある。古来より、その年の年貢を納めればどこに行っても良い、となっているからな。しかし、今の状況でそれを求めるのは酷というものだ。胸に秘めておけば、それで十分だろう」


「和尚の言、胸に仕舞っておきます。それで、興田殿の一族である定妙殿についてなのですが」


 円照は考えるような仕草を見せて、大きく頷いた。


「問題はない。あれは興田殿の甥、気になるのは分かるが、あれは良くも悪くも武士だ。我らが小柳に寝返るわけではないが、事実上、血筋は二つの陣営に分かれる。都合が良いと笑いはしても、密告などする男ではない」


 惣左門は怯えた眼を、武平に向けた。


「和尚の言葉を疑うわけではないが、お前は定妙殿をどう思う」


「心配いりません。それでも不安なら、御鉾神社で話し合うのが良いかと」


「なるほど。和尚、申し訳ありませんがこの件、定妙殿には伏せておいてくれませんか」


「構わない。人に話せばそれだけ事は漏れやすくなる。お前たちも用心すると良い」


「忠告感謝します。結論が出ましたら報告に来ます」

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