第3話 戦の前触れ

 千樹寺の境内で若衆が木剣を振るっていた。上半身は裸になり、汗の雫が煌めている。一帯の地面は黒味を色濃く帯びていた。


「闇雲に振るな。一振り事に頭を使え」


 厳岩の怒声が響く。若衆は力強く返事をして、気合と共に汗を飛ばした。


「見ているだけか」


 塀に背中を預けて座る武平の隣に、定妙が腰を下ろした。


「十分でしょう」


「また前のように、直接指導してやれば良い。喜ぶぞ」


「代わりに定妙殿がしてはどうですか」


 定妙は笑った。その総髪が動きに合わせて揺れる。


「俺が教えれば、内容も意味も別物になる。流石に親父も黙ってないだろう。お前と同じように、見守っているだけで十分だ」


「次郎三郎殿はお元気ですか」


「親父は病気知らずだからな、心配なんて必要ない」


「減免の件はどうなっていますか」


「さてな、関わりを絶ったからこその僧だ。興田がどう考えているなんて俺は知らない。まあ、興味もないがな」


「そうですか」


「和尚に任せていれば良いようにしてくれるだろう。それでどうにもならないなら、武平、お前が言えば良い。給人になるとでも言えば、親父は喜んで走り回るだろう」


 給人。つまるところ、興田の麾下に入って戦うということだ。


「戦って、何を成します」


「何でも良い。力があれば何でも手に入る。どんなものでも守れる。あって困るものでもないだろう」


「そんな簡単に、融通の利くものでもないでしょう」


「なければ死ぬ。それだけだ」


 若衆は素振りを終えて、それぞれ打ち合いを始めた。始めは動きの確認をしていたが、次第に熱が入ってくる。木剣の打ち合う音が入り乱れ、裂帛の気合が八方を飛び交う。


 一際、甲高い音が鳴った。


「その程度かっ」


「抜かせっ」


 血の気の多い二人が、木剣を力強く振るっている。一切の手加減はない。真新しい痣が、上半身にいくつも浮かび上がっていた。岩厳はそれを嬉しそうに観覧している。


「激しいな」


 定妙は立ち上がり、二人に近づいていく。片方の男の手から木剣がすり抜けた。

 瞬間、相手の男が木剣を振り上げた。


「そこまでだっ」


 定妙が叫ぶ。木剣が振り下ろされた。


 骨の砕ける音が聞こえた。木剣で殴られた男は、肩を押さえて蹲る。殴った男は荒い吐息を吐きながら、清々しい笑みを浮かべた。


「どうだっ」


「やりすぎだ、冷静になれ」


 定妙が言うと、殴った男は声を漏らした。途端、顔から血の気が引いていく。


「わ、悪い。つい熱くなった」


 殴った男は手を差し伸べる。その手を、殴られた男は払いのけた。


「触るな」


「悪かった」


 殴った男は頭を下げ、立ち尽くした。それからもう一度謝ると、千樹寺を走り出ていく。


「大丈夫か」


「今はまだ、大丈夫です」


 定妙の手を借りて、殴られた男は立ち上がった。


「岩厳、何故止めなかった」


「武士の倅が何を言うか」


「怪我をしては元も子もないだろうが。自分の手抜かりを棚に上げる気か」


「我が門流を、忘れたか」


 殴られた男を近くの者に任せ、定妙は岩厳に詰め寄った。


「俺は、怪我をしては元も子もないと言った筈だぞ」


 岩厳は、声を上げて豪快に笑った。


「稽古とは戦を想定して行うものだ。そして、戦では人が死ぬ。その戦を想定した稽古で死人や怪我人が出るのは当然の事だろう。違うか」


 定妙は吐息した。


「いや、俺が悪かった」


「あの程度の音なら直ぐに治る。早く手当てをしてやれ」


 定妙は頷き、殴られた男を連れて僧房に入った。


 昂ぶった熱は俄かに立ち消え、稽古は打ち切りになった。


 散っていく若衆を見ながら武平がその場に座っていると、源市が正面に腰を下ろした。その鋭い眼が、覗き込むように武平を見る。


「兄貴、あの時一度も動きませんでしたね」


「あの二人がいれば大丈夫です」


 源市は困ったように頭を掻いた。


「その喋り方、どうにかなりませんか。兄貴には似合ってないですよ」


「似合う似合わないの問題ではないんです」


「ま、兄貴が決めた事に文句は言いませんけど。それより今の一件をどう見ますか」


「故意ではないと皆分かっています。尾を曳くことはないでしょう」


「そこは俺も心配してないですよ。あの二人の事故なんて珍しくもない。いつもみたいに直ぐに仲直りますよ」


「なら、心配する必要はないでしょう」


 源市が表情を固くして距離を詰めてきた。


「俺が言いたいのは、事故が起こった原因です。早稲の登熟不良に始まり、中稲の生育の悪さ。今のところ影響のなさそうな晩稲も野分でどうなるか。そして、減免についての見通しも立っていない。皆、苛立っているんですよ」


「だからといって、どうにかできるものではないでしょう」


「それは分かってます。原因を取り除く事なんてのは俺たちにはできない。問題なのは、この村どころかここら一帯の村が苛立っていることです。その怒りの矛先がどこに向けられるのか。突然、振るわれるかもしれない。そうなっては遅いんです」


「それを起こらないようにするのが、あなたの役目でしょう」


「村内だけなら俺一人の力でも何とかなります。ただ、他の村と諍いが起きたら俺一人では抑えきれない。どうしても他の者の手が必要になります」


「惣左衛門殿がいるでしょう」


「惣左衛門さんは前線にはいません。若衆の中で、そういう者が必要なんです」


「幼馴染が何人もいるでしょう」


「他の者では頼りにならないとは言いません。ですが皆下っ端です。率いる者が必要なんですよ、他の村々にまで顔が利いて、引き際を知っている者が。それは」


「源市」


 武平は立ち上がる。源市の表情が明るくなった。


「兄貴、ようやく」


「いえ、私はしません」


「そう、ですか」


 源市は眼を伏せ、腰を上げた。


「無茶を言ってすみませんでした」


「あなたには十分な力がある。それこそ私の力が必要ないぐらいに。自信を持ってください。そうしないと若衆は着いてきません。それを忘れないように」


「ありがとうございます。その言葉、胸に刻んでおきます」


 源市は、項垂れるように頭を下げた。




 盂蘭盆会は無事に終わり、中稲の収穫まで小休止となっていた。


 収穫の終わった早稲田では牛を使った麦畑作りが行われている。村の女たちは鎌を片手に、山に柴狩りに行っていた。


 惣左衛門が、額の汗を拭いながらやってきた。


「今日は休みか」


 自宅の前に座っていた武平は、無言で頷いた。


「どうした、考え事か」


「最近の村の様子について、少し」


 惣左衛門は唸り声を漏らした。


「それか。確かに皆苛立っているな。しかし、若衆の稽古中に起きた事故の後始末も、源市は上手く納めた。他の村が争いを起こさない限りは大事に至らないだろう。それに、他の村では若い衆が戦を求めて夜逃げしていると聞く。血の気が多い者が減るのだ、なおさら問題はないだろう」


「つまりは、身元不詳の者が増えている、という事です。何が火種になるかは分かりません。この状況で火が付けば瞬く間に業火となります。それだけは、絶対に避けなければなりません」


 惣左衛門は、武平の眼を見据えた。


「なら、どうするつもりだ」


「分かりません、が、事によっては傍観しているわけにはいかないでしょう」


 惣左衛門の頬が緩んだ。


「そうか。その時は頼りにしているぞ」


 重い。武平はさり気なく両肩を回して重圧を振り解く。


「勿論、起きないに越した事はありませんが」


「儂もそれを願っている。さて、そろそろ仕事に戻るか」


 惣左衛門は早稲田に戻っていく。武平はその場で思案に耽った。


 不意に、ざわめきが聞こえた。


 穏やかな雰囲気ではない。声は隣村の屋津村から聞こえてくる。見ると、村の境目に人だかりが出来ていた。陽に当たる無数の刃物が鋭い光を放っている。


 考える前に、武平は走っていた。


 様相が見えてくる。柴刈りに行った女たちと、屋津村の男たちが言い争っていた。女たちは鎌を握りしめ、男たちは腰の脇差に手を掛けている。


「何をしているんですかっ」


 武平は叫んだ。人だかりの眼が、一斉に向けられる。


「聞いておくれよ武平」


 真っ先に梅が言った。


「この馬鹿共がつまらない難癖をつけてくるんだよ」


「なんだとっ」


 屋津村の佐助の眉間に深い皺ができる。


「俺たちの山で柴を刈っていて、よくもまあそんな面ができるな。その恥知らずの顔、叩き潰してやろうか」


 梅の眉と眼が、高々と吊り上がった。


「やってみなっ。その鈍らで叩き落とせるほど、私の首は軟じゃないよっ。ほら、早くその粗末なものを振るって見せな」


「良い度胸だっ」


「刀を手にしないと吠えられない小物が、ほざくんじゃないよっ」


 女たちが次々に鎌を構える。男たちも脇差を払っていく。


 赤子が、啼いていた。


 幻聴。どこにも赤子の姿はない。それでも、頭の芯にまで赤子の鳴き声が響いてくる。


「止めてください」


 武平は、両者の間に割って入った。


「今直ぐ、武器を下ろしてください」


 佐助が、脇差の切っ先を武平に向けた。


「そこを退け、円房。お前から殺すぞ」


 梅が鼻で笑った。


「ほら、やっぱり小物だ。無手相手にしか強く出られない」


 女たちから嘲笑が起こる。佐助が脇差を振り上げた。


「挑発は止めてください」


 武平は強い語気で言い、佐助の前に立ちはだかった。


「それを下ろしてください」


「お前の脳天にか」


 武平は、佐助を睨み据えた。


「下ろしてください」


 佐助は唾を飲んだ。おもむろに口を開く。


「まずは、女共からだ」


「ふざけるんじゃないよっ」


 女たちから追従の声が上がる。武平は静かに言った。


「あなたたちも鎌を置いてください」


 ぽつりぽつり、と声が止んでいく。


「分かったよ」


 女たちがめいめいに鎌を置くと、男たちも渋々脇差を収めた。少しずつ、両村の人が集まってきている。


 武平は、深く息を吐いた。


「何があったんですか」


「女共が、うちの山で柴を刈ってたんだよ」


 すぐさま梅が反論した。


「だから、それはあんたたちの勘違いだって言ってるでしょうが」


「こっちは俺たちの山で柴を拾った瞬間を、確かに見たんだぞ」


「それが勘違いだと言ってるんだよ。既に刈っていた柴の転がり落ちたところが、境目のすぐ近くだってだけで。そもそも、拾った場所だってうちの山じゃないか。難癖をつけるのはお止め」


 また、佐助が脇差に手を掛けた。


「付け上がるなよ、女。俺たちは円房の顔を立てて刀を収めただけだぞ」


「その顔に泥を塗ろうとしているのは、脇差を抜こうとしてるあんたじゃないか」


 一瞬、佐助は柄を握りしめた。


「良いか、一先ずは鎌を取り上げるだけで勘弁してやる。それができないのであれば、お前たち篠ヶ坪の村人全員を殺す」


 梅は堂々と胸を張り、佐助を真正面から睨み返した。


「良くお聞き。この世でね、濡れ衣を着せられるほど腹が立つことはないんだよ」


「力に頼るのは止めてください。互いに死人が出るのは望んでいないでしょう」


「だから、鎌を寄こせと言っている」


「渡すぐらいならあんたを殺してから死んでやる」


 前線に立つ者の眼が、鋭くなっていく。赤子の啼き声が大きくなってきた。


「何の騒ぎだっ」


 円照が、老体に鞭打って走ってきた。息を乱して人だかりに眼を配り、中央の武平に声を掛ける。


「何が起こっている、事情を説明してくれ」


 武平がどちらの言い分も伝えると、円照は佐助を見やった。


「目撃したのはどれだけの量だ」


「一切れ分だけです」


「よろしい。では、こうしよう。屋津村の者一人と篠ヶ坪村の者一人に、千樹寺で夕飯を馳走しよう。これで手打ちにできないか。これ以上騒げば興田殿がやってくる。そうなれば、どのような理由をつけて介入してくるか。これはお前たちの望むところではないだろう。今が引き際だと思うが、どうかな」


 武平は、円照に頭を下げた。


「和尚、感謝します」


 梅は振り返り、他の女たちに了解を取る。


「私たちも、和尚の意見を受け入れます」


「お前たちはどうだ」


 佐助は仲間たちに意見を求める。返事は曖昧な頷きがほとんどだった。


「分かりました。此度は我らも和尚に従います」


 佐助は口惜しそうに言う。円照は満足そうな笑みを浮かべた。


「よろしい。では今晩、千樹寺に来る者を決めておくように」


 その場は、それで解散となった。


 夜は更け、誰もが寝静まっていた。息子もようやく寝つき、あやしていた玉が安堵の息を吐く。


 武平は、玉を押し倒した。


「待って、自分で脱ぐから」


 玉の服を引き千切る。始めは抵抗していたが、直ぐに大人しくなった。


 強引に挿入して腰を振った。無言で振り続け、果てる。それでも振った。玉は何も言わず、されるがままになっている。


 赤子が、啼いている。


 一向に消えてくれない。赤子は直ぐ傍で啼いている。耳にへばりついて啼いている。大声で啼いている。


 いつしか、武平は眠っていた。


 眼を覚ました時には朝になっていた。赤子の声は収まっている。しかしふとした瞬間、また蘇ってきそうな不安が襲う。


「おはよう」


 既に起きていた玉が、笑顔で言った。


「ああ、おはよう」


「もう、大丈夫?」


「何がだ」


 玉の表情に影が差した。


「あなたが良いなら、良いんだけど」


「そうか。服の変えはどこにある」


「隣に置いてます」


 武平は用意された服を掴み、家を出た。




 太郎からの報告を聞いている間、大和守はずっと無言で笑っていた。


「ついに興田領で争いが起こったか。今はまだ小火程度だが火種には違いない。これからあっと言う間に大火になるぞ」


「時期が来たようですな」


「うむ、ついに長年の企てが実を結ぶ時が来た。大戦は今年だ。今年を除いて他にない。大戦になるぞ、儂にとっても、お前にとっても、武平にとってもな」


 太郎は静かに平伏する。大和守は筆をとって一筆認め、傍に控える近習に手渡した。


「これを大中井家の島尾張守に届けよ。事を起こすのは今年を置いて他にないと、しっかり念を押すのを忘れるな」


 一礼して書状を受け取り、近習は退室していった。


「さて、これからの大中井家は御館様に任せて、儂らは儂らで動き出そうか」


「興田領への工作ですか」


「うむ、柴争いが大火に至ることを恐れて、興田は手を打ってくるだろう。まずはそのお手並みを拝見して、儂らはそれからだ」


 月明かりに濡れた大和守の瞳が、獰猛に光った。

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