第2話 早生の収穫
陽射しは強くなってきたが、稲の成長は遅かった。例年より五日ほど遅れ、早稲の収穫は始まった。
「駄目だな」
惣左衛門がため息交じりに言った。
試しに取った稲穂は未熟粒が多く、その粒重も少ない。味もお世辞にも良いとは言えなかった。武平は地を覆う黄金色に眼を向ける。
「見た目は見事なんですが」
「登熟不良は外見だけでは分からない事もある。それだけにもしやと思っていたが、やはり駄目だったな」
惣左衛門は手に握る稲をじっと見つめている。その隣で作業する男が、手を止めずに声を掛けた。
「旦那、早いとこ収穫して干しちまいましょう。文句言ったって収穫量は増えませんよ。精々、鳥に食われるのが落ちだ」
「そう、だな」
惣左衛門は稲を脇に置き、他の稲と合わせて束ねていく。武平も作業を再開した。
早稲田の稲を半分ほど刈り終えた頃、鎌を手にした円照がやって来た。
「どうだ、調子は」
「作業だけは順調です」
武平は答えながらももっこに稲の束を積んでいく。
「やはり、か。つい先程まで他のところを見ていたが、どこも同じような状況だ。噂によると、京に至るまで似たような有様だとか」
「西国全域にまで影響が出ているんですか」
「噂ではそのようだ。東国までは分からないがな。盗みも増えているらしい。世が荒れてきているな」
「皆、慣れたものでしょう。それより和尚、暇なら手伝ってください」
「おお、分かった」
稲の乗ったもっこを二人で持ち、惣左衛門の家の前に運んでいく。
「ところで和尚、減免の話はどうなっていますか」
「一応、折を見て口にしてはいる。結果は似たようなものだ。中稲の収穫まで大きな動きはないだろう」
「興田殿は、事態をどのように認識しているんですか」
「深刻には受け止めているが、どう対応するかまでは分からない。ここに来て間もない者ならいざ知らず、興田殿はこの地を治めて数百年も経つ。良いようにしてくれるとは思うがな」
「私もそう思いますが、何事にも限度はあります。早稲分に限れば全免されてようやく息を吐ける程度です。小柳の最前線に立たされる興田殿からすれば、減収の痛手は他の比ではないでしょう。一刻も歩けば大領である小柳に着くこの土地で、どこまで減免が認められるか」
「この調子であれば、小柳からの稲薙ぎもあるな。どさくさ紛れの乱取りも横行するだろう。備えが必要だな」
「はい。興田殿のお膝元であるこの村にまで被害が及ぶとは思えませんが、万が一という事もあります。楽観はできないでしょう」
「小柳領の面した多身の村など、戦々恐々としているだろうな」
「あそこはそう悲観してはいないでしょう。いざとなれば小柳領に忍び込んで、食料なりを盗んでくる筈です。伊十郎殿など扇動する名目が出来て喜んでいるでしょう。むしろ、そちらを心配した方が良いかと」
円照は微笑んだ。
「かもしれないな」
惣左衛門の家に着くと、傍に作られた稲架に稲を掛けていく。
「これは和尚、協力感謝します」
惣左衛門がやってきた。
「いや、いつもの事だ。それより、一先ず盂蘭盆会には間に合ったな」
「仕方なく間に合わせた、といった感が強いですが。悪いなりに順調に事が運んでいるのも、全て和尚のお蔭です。それで減免の話ですが、あれからどうなっていますか」
「それについては先程武平からも話があった。私も出来得る限りはやっておく。だから、短慮な手段は控えるようにな」
惣左衛門は苦笑した。
「心配は無用です。そこまでするのは来年の種蒔の時期になっても、自体が解決していない場合だけです」
「逃散など百害あって一利なし、とまでは言わないが、元々の力の差が違うのだ。少なくとも死人の一人や二人は出る。そうなってはお主の立場や命も危ういだろう。しないに越した事はないのだ」
「儂も、そう願っています」
稲が十分に乾くと脱穀を行い、籾を餞別していく。
工程が進むほどに、収穫量の少なさは明白になっていった。試しに剥いた米はどれも白い濁りを残し、緑色のものすらいくつもある。明らかに、登熟不良の米ばかりだ。
「今年はどうなるのかしら」
扱き箸を手にした玉が、吐息混じりに呟いた。その背中では、息子が穏やかな寝息を立てている。武平は脱穀作業に集中しながら言った。
「なるようにしかならない」
「そんな」
玉が悲痛の表情で見てくる。重過ぎる視線だ。武平は視線を手元に戻した。
「そんな眼で、俺を見るな」
「でも」
「ならどうするつもりだ。躰でも売るのか」
「その覚悟は、この子が生まれた時から出来ています。ただ、そういうことを言っているるわけでは」
「分かってる。最悪の事態になれば俺も動く」
扱き箸を置いて、玉は武平に向き直った。
「ねえ、本当に良いの」
「何がだ」
玉は躊躇うような仕草をして、口を開いた。
「その、今まで聞けなかったけど」
「武平、少し良いか」
惣左衛門が無遠慮に家に入って来た。
「間の悪いこと」
玉ははっきり言い、惣左衛門に背を向ける。武平は手を止めて顔を上げた。
「どうしました」
「話があってな。玉はどうした」
「別に。父さんには関係ないことです」
「だそうです」
惣左衛門は首を傾げ、息を吐いた。
「まあ良い。早稲の収穫量について少し話があってな」
「上がってください」
武平と惣左衛門は向かい合って座った。玉は無言で脱穀作業を進めている。
「早稲の収穫量について、大よその見当は付けられているな、武平」
「はい。昨年と比べると五つから五つ五分、と言ったところですか」
「そう見たか。儂の推測では、村全体でも五つを下回ると思う。酷いところでは三つ五分程度のところもあるだろう」
「父上がそう見たのであれば、それが正しいのでしょう」
「いや、そこが問題なのではない。郷蔵に収める分について意見を貰えないかと思ってな。判断に困っているのだ」
重い。肩が重くなってくる。
「何故、それを私に聞くんですか。今まで十数年もやってきた事でしょう。ほとんど部外者の私の意見が必要ですか」
惣左衛門の眉尻が下がった。
「流石にここまで酷いのは初めてでな。元々の量が少ない事もあって、儂一人ではどうにも決めかねる。それにお前と話し合ったと言えば、若衆も文句は言わないだろう」
「本当に、そう思いますか」
「思う。特に頭株の源市など、お前に心酔していると言っても良いぐらいだろう。とにかく話だけでも聞いてくれ」
武平は頷いた。
「分かりました。父上はどうするつもりなんですか」
「一先ず、不作分は免除して郷蔵に収めさせようかと思っている。だがそうすると、手元に残る量が少なすぎる。元から盂蘭盆会の分しか作っていない家はまだ良いが、他の家ですら盂蘭盆会で使い切ってしまうかもしれない」
「足りないところも出てくるでしょう」
「おそらくそうなるだろうな」
「早稲の収穫量など元々大した量ではないんです。それなら、早稲分は郷蔵に納めなくても良いんではないですか」
「それも考えた。だが、中稲と晩稲がどうなるかは分からないのだ。中稲は梅雨に影響を受けている。それに加えて、晩稲と共に野分でやられるかもしれない。その結果は、早稲以下の収穫量も有り得る。それを考えると元々の量が少ないとはいえ、早稲の未納分は出したくない」
「盂蘭盆会に不足の出る家だけ後回しにするのはどうですか」
「それは、どうなるか分からない中稲と晩稲に負担を回すという点では、先程と変わらない。できるだけ早稲分は納めさせたいのだ」
「でしたら、その間を取ってはどうですか」
「無論、それも考えた。しかしそこまで減らすなら、わざわざ郷蔵に納めさせる必要があるのか、という思いもある。自分でも面倒な主張だとは分かっているのだがな、儂も不安なのだよ」
「いえ、確かに判断に迷います。では、考えを変えてはどうでしょうか。例えば、中稲を収穫する前に餓死をしては元も子もない。それなら、早稲分を収めさせずに蓄えに回した方が良い、というように。何があっても生きていればやりようはあります。死んで村に負担が掛かるよりは、こちらの方が良いでしょう」
惣左衛門は唸った
「なるほど、そう考えるか。しかし」
「父さん」
玉が、静かに言った。
「私の夫に、何を求めに来たの。結局男の人に文句を言わせないように、言質を取りに来ただけでしょう」
「そんなことはない」
言って、惣左衛門は息を吐いた。
「いや、それもあったかもしれないな。武平、協力感謝する。お蔭で道筋が見えた。後は儂一人で考える。無理を言ってすまなかったな」
「いえ、気にしないでください。父上の頼みなら断る道理はありません」
「そう言って貰えると助かる」
惣左衛門は目礼して、かっと武平を見据えた。
「ただな、儂もいい歳だ。そう長くない。その時には、お前が同じ事をするのだ。それを忘れるなよ」
重い。また、両肩が固くなっていく。
「分かっています」
頷き、惣左衛門は出て行った。武平は扱き箸を手にする。
「ねえ、さっき言おうとしたことだけど」
「その話はするな。お前が心配する事は何もない。どんな問題が起きても全て俺が解決する。だから、息子の世話を頼む」
しばらく、玉は押し黙っていた。
「分かりました」
「ああ、それで良い」
武平は扱き箸に眼を落とし、脱穀作業を再開した。
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