血を啜る馬
@heyheyhey
第1話 梅雨明け
恵みは幼かった。
水面の照りも柔らかい。初雪に消える知人の姿が脳裏に過ぎる。このままでは、大勢の人間が餓死してしまう。今の内に対策をしなければなるまい。
武平は千樹寺に向かった。堀に掛かった木橋を渡って境内に入る。僧房と本堂を探したが、円照和尚の姿はなかった。
「どうした、円房」
岩厳がその巨躯を揺らしながら近づいてきた。
「武平と呼んでください」
岩厳は顔をしかめた。
「今更無理だ。その変な話し方に慣れないのと同じでな」
「もう三月も経ちます。そろそろ慣れてください」
「無茶を言うな。それより寺に来るのは久しぶりだな、何の用だ」
「和尚はどこにいるんですか」
「お町の方に行ってる。そろそろ帰ってくる筈だ」
「そうですか」
「おそらく、だけどな。で、円房、今年の夏は戦に行かないのか」
「いえ、子も出来た事なので、前回を最後に止めました」
「そういえば、そうだったな。なら、今回は俺が行くかな」
獰猛に笑い、岩厳は僧房に消えていった。
武平は本堂の縁で待った。そう時を置かず、円照が千樹寺に帰ってくる。
「お前さんが寺にいるとは、最近では珍しいな」
「お話しがありまして」
円照は骨ばった手で招きながら本堂に上がった。武平が着いて行くと、本尊の十一面観音立像の前に腰を下ろす。
「座りなさい」
武平は円照の後ろに着座した。
「そうだな、十句観音経にしようか」
一呼吸置いて、円照が十句観音経を唱える。武平も声を合わせた。僅か四十二文字の経は直ぐに唱え終わり、円照がおもむろに向き直る。
「どうだ」
問いの意味は理解している。心配しているのだ。しかし、武平は平静を崩さずに恍けた。
「特に何も」
微かに、円照は息を漏らした。
「そうか。それで、用件はなんだ」
「早稲の登熟不良についてです」
「今年の梅雨は長かったからな。雨勢は例年と変わらなかったが、二月近くも続いたか。隣国の大弥川などは、水害で酷い事になっていると聞く」
「幸い、この近くで大規模な決壊は起こりませんでしたが、日照不足が心配です。中稲は勿論の事、晩稲にも影響が出るでしょう」
「間違いなく、飢饉になるな」
武平は頷いた。
「昨年の米と今年の麦は比較的豊作でしたから、直ぐに影響は出ないでしょう。ですが、年が明けてからは悲惨な事になります。ですので、今の内から減免の願いをして頂けないかと」
円照は枯れ枝のような腕を組んだ。
「実は、その話は依然から聞いていてな。興田殿に願い出るには流石に早いかと思っていたが、お前さんまで言うようなら願い出るべきか。進言程度なら感謝こそあれ、文句は言わないだろう」
「よろしくお願いします」
「うむ。今日中にでも行ってこよう」
武平は立ち上がる。瞬間、円照が手で制した。
「まあ、待て。この時期、朝とはいえ急ぐ用もないだろう。どうだ、調子は」
再び、武平は腰を下ろす。
「特に悪いところはありません」
「妻や息子はどうだ」
「どちらも健康です。どうしたんですか、惣左衛門殿から聞いているでしょうに」
「お前さんの口から聞く事に意味があるのだ。息子は今まで病にかかった事はなかったようだが、本当なのか」
「はい。少し体調を崩す事もありましたが、最近はそれすらありません」
円照の皺だらけの顔が綻んだ。
「それは良い事だ。父であるお前さんに良く似たな」
「恵まれているだけでしょう」
「父親がそう言うものではない」
「生きる時は何をしても生き延びます。死ぬ時は何もしなくても死にます。人生とは、そういうものでしょう」
円照は深く息を吐いた。
「たまには顔を見せに来い」
「同じ村内です。会おうとしなくても会えるでしょう」
武平は千樹寺を後にして、自宅に戻った。
今年の春に生まれたばかりの息子が、一人で寝かされていた。嫁の玉の姿はない。ふと、息子が目を開けた。じっと見つめてくる。
「止めろ」
呟き、武平は眼を逸らした。息子が大声で泣き始める。
泣き止む気配はない。武平は家を出ると、壁に背を預けて座った。聞こえてくる声量に変化はない。ただ、時間だけが過ぎていく。
玉が走り帰って来た。武平に眼もくれず家に飛び込み、息子をあやし始める。それからら間もなく、息子は静かになった。
「そろそろ抱いてみない」
玉が家から出て来た。腕に抱かれた息子は、静かに眼を瞑っている。
「いや、いい」
「子供が嫌いなわけでもないんでしょう」
「子育ては、お前一人で十分だろう」
玉の表情が曇った。
「それは、そうだけど」
「お前の両親もいる。困ったらそっちを頼れ」
「そう、分かった。自分の子供なんだから遠慮する必要はないのよ。それとも」
素早く、武平は立ち上がった。
「いつかはする」
また、息子がぐずり始めた。玉が笑顔であやす。武平は足早にその場を離れた。
武平が義父の惣左衛門と共に円照に呼び出されたのは、翌日の事だった。
「直接の返答は頂けなかったが、興田次郎三郎殿より返答を頂けた」
惣左衛門が身を乗り出した。
「それで、なんと」
「進言は感謝する。その件については方々より耳に入っているが、何分時期が早い。現時点では何も言えない。との事だ」
惣左衛門は姿勢を正し、短い髭を生やした顎に触れる。
「やはり、そうなりますか」
「そう答えるしかないだろう。その時に聞いた話だが、どの国でも似たような状況らしい。今年は、大変な年になるな」
「おそらく、減免そのものには応じて頂けるでしょうが、どこまで認めてくださるか。一つ言えることは、村内でも餓死者が出ることだけですなあ。まったく、孫が生まれた年だと言うのに」
言って、惣左衛門は武平に眼をやる。
「不作は程度の軽いものであれば毎年のように起こるのですから、特別に気にする事ではないでしょう」
「そうは言ってもな、武平。やはり初孫の生まれた年に縁起の悪い事が起きるというのは、気分の良いものではない。それに、もう戦に行くのは止めたのだろう。いくら儂の義理の息子とはいえ、簡単には食っていけないぞ」
「それもまた、人生ですから」
惣左衛門は小さく吐息して、円照に頭を下げた。
「和尚、今回はありがとうございました。またの機会もお願いいたします」
「うむ、心配するな。話をするだけなら造作もないことだ」
武平と惣左衛門は千樹寺を出て、北西に広がる水田を眺めた。畦道では数人が草取りをしている。その中には、武平の父や母の姿もあった。
「今年はどうですか。一年を通して農耕に携わるのは初めてなので、私には見通しが利きません」
「一口に言えば、かなり悪い。まず、日照不足のせいで成長が遅い。この後、どれだけ天候が持ち直すか。上手くいったとしても早稲の登熟不良は明らかだ。中稲は出穂期にまで長雨の影響を受けた。晩稲は比較的問題ないだろうが、それでも野分がある。これからどうなることやらな」
「具体的にはどの程度の影響ですか」
「最悪、例年の半分以下。良くて八つを超えるどうか、といったところか。今のところ稲熱は起きていないが、もし起こった場合は。儂らにできることなどそう多くはない。後は天に任せるしかあるまいよ」
「なるようになるでしょう」
「そうだと良いがな」
惣左衛門は重い溜息を吐いた。
武平は水を抜いた中稲田に入り、株と株の間で中腰になる。それから後ろ向きに進みながら、土を掻き混ぜるように草を取っては地に埋め込んでいく。
「早稲は、酷い事になりそうだな」
隣で作業する父が話しかけてくる。泥を踏む際の粘度のある水音に遮られて、その声は聞き取り難かった。
「そのようですね」
答えながら武平は作業を進めていく。既に、太陽は全身を現していた。肌には微かな火照りがある。
稲の葉が、父の花をくすぐった。むず痒そうな顔をして盛大にくしゃみをする。
「おっと、どうにも慣れないな」
笑い、父も作業を再開した。速度はあまり出ておらず、内容も雑だった。
「このままなら中稲も駄目だ。晩稲も、どうだろうな。来年の始め頃にはどれだけ死人が出てると思うよ、なあ」
「何が言いたいんですか」
「お前、戦に行くんだろう」
武平は手を止めた。父が笑い声を漏らす。
「あれは止めたと伝えた筈ですが」
「それは、前の話だろう。惣左衛門は良い奴だが、この村でも確実に餓死者が出る。それを防ぐには誰かが銭を稼いでくるしかない」
話を聞いてはいけない。武平は手を動かした。素早く草を取っていく。稲の葉が皮膚を刺した。指先には滲むような痛みがある。
「待て待て待て、話は最後まで聞け」
父が跳ねるように着いてくる。
「私はもう戦には行きません。頼るなら他の人を頼ってください」
「死にそうな奴を前にしても、同じことを言えるのか」
「それで死ぬなら、それがその人の天命だったんです。私が関知する事ではありません。不満があれば自分で行けば良いでしょう」
「俺をいくつだと思ってるんだ。戦働きなんて歳かよ。そもそもな、武平。子供が出来たからそうなったのか、戦で何かあったのかは知らないが、人間、そう簡単に変わるかよ。お前は絶対に戦場に行く。絶対にな」
「そうですか」
不意に、父は満面の笑みを浮かべた。
「ここからが本題だ。戦での取り分、ほんの少し分けてくれよ。全部分けてくれなんて言ってないんだ、別に良いだろう。お前なら結構な額を稼いでくる筈だ。その内のほんのちょっぴりで良いんだ。数日遊べる程度もあれば文句は言わない。だから、な、頼むよ」
こうなると分かり切っていた筈だ。父と話しても碌なことにならない。
「覚えては、おきます」
「それで十分だ。俺は確かに言ったからな。後々になって忘れたなんて言っても通らないからな。しっかり覚えておけよ」
「忘れません、絶対に」
「なら、良いんだ」
父は忍び笑った。武平はその列の草取りを終えて、隣の列に移動する。顎の先から大粒の汗が滴り落ちた。
突然、父を叱る男の声が飛んだ。
「茂吉っ。手を抜いて困るのはお前だぞ」
「分かってる。もうすぐ終わるさ」
言って、父は顔を下げて舌打ちし、あからさまに気怠そうに手を進めていく。それを見ながら、武平は口の中で呟いた。
「戦は起きませんよ」
「戦は起こる」
幡南大和守は、眼の前の男にはっきり告げた。
「不作は世の中を大きく動かす。程度によっては数年、十数年と尾を引く。やもすると、来年にはどこぞの領主が代替わりするかもしれん。今年に限っても戦が頻発するだろう。まさしく、これぞ好機だ」
二人のいる屋敷の一室には、静けさが漂っている。幡南大和守はその大柄の躰を投げ出して座り、向かい合って座る涼し気な男は無言で頷く。
「戦は嫌か、太郎」
「人並みには」
大和守は歯を剥いて笑った。
「世捨て人が言いよるわ。まあ良い。例の件はどうなった、良い男は見つかったか」
太郎と呼ばれた涼し気な男は俯き、しばしして顔を上げた。
「かつて円房、今は武平と名乗っている男をご存知ですか」
「ああ、篠ヶ坪には鬼がいる。その鬼の正体がその男だったな」
「はい。僧でありながら各地の戦場に赴き、大金を稼いで帰ってくる悪僧にございます。今でこそ還俗しておりますが、この男以上に適任はいないでしょう」
大和守は、扇子で膝を打った。
「何故、その男は還俗した」
「詳細までは。しかし察するに、南の戦場に加わった際に命を受けて、ある一族を滅ぼしたことが原因のようです。その中には赤子を混じっていたようですが、武平は今年の春に息子が誕生しております。おそらくこの二つに関係があるのでしょう」
「赤子殺しの鬼、己の赤子を見て正気に返る、か。果たして、それは正気か狂気か。どちらが真でどちらが偽か」
大和守は笑う。高らかな笑い声が夜に響き渡る。
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