二章 逃亡

10『逃走計画』

 ――――――月には女神様がいます。彼女は皆を平等に愛し、平等に祝福を与える。君達が毎日彼女に祈りを捧げていれば、彼女はきっと君達を救ってくださるだろう。


 毎週日曜の午前九時、僕は教会の礼拝堂に行き、彼の話を聞いていた。彼と会った時のことはあんまり覚えていない。気付けば僕は教会へ行くのが習慣になっていて、でもそれを億劫だとも思わなかった。そこで出来た友達もいたし、結構楽しい習慣でもあった。

 ただ、母さんは「あんまり行っちゃだめだよ」とよく言っていた。理由を訊いても、答えてくれなかった。

 どうしてなんだろう、友達とお話し出来るし、お菓子をもらえる時もある。とっても楽しいところだよ、お母さんもおいでよ。そう言っても母さんは来なかった。

 そんな日々が続いたある日、ついに母さんがついていくと言ってきたのだ。

「ほら! あのひとが『ぼくしさん』ってひとだよ!」

 僕が指差すと、母さんは牧師の元へと歩いていった。牧師ははじめ笑顔で迎えてくれたが、少し母さんと話すと、表情を歪めた。何か嫌なものでも見たかのように、母さんと共に奥の部屋へと消えていった。

 何のお話をしているんだろう―――いつもの「お話」は終わっていた為、僕は母さんが戻ってくるまで礼拝堂で待っていることにした。友達が帰ってしまっても、母さんはまだ戻ってこなかった。

 お腹空いたなあ―――僕は、母さんが行った部屋のドアを少しだけ開けて中を覗いてみた。

「――――――……?」

 ベッドの前に立つ牧師の背中、そのベッドに眠っているのは、母さんだった。なんで寝てるんだろう―――不思議に思った僕は、おそるおそる牧師を呼んだ。

「あの………ぼくしさん……」

「ん?」

 黒いクレヨンで顔をぐちゃぐちゃに塗りつぶされた牧師は振り向いた。僕を見付けると、ああ、と声を上げた。

「君のお母さんはね、月の女神様に会いに行ったよ」

「めがみさまに……?」

「ああ。でも大丈夫。必ず帰ってくるからね。帰ってきた時には、とっても綺麗な姿になっていると思うよ」

「そうなの?」

 黒の上から白のクレヨンで笑顔が描かれた。僕はベッドへ駆けていき、母さんの顔を覗き込んだ。気持ちよさそうに寝てるなあ―――思わず嬉しくなって笑った。

「おかあさんはいつかえってくるの?」

「それは彼女次第だ。だが、君が毎日お祈りしていれば、早く帰ってこれるだろう」

「わかった! ぼく、がんばるね!」

 それから僕は毎日教会へ行き、祈りを捧げた。半年くらい、その日々が続いていた。しかしある日、父さんが家に帰ってきた。父さんは出張で家を空けていたから、こちらのことなんて把握していなかった。

 だから僕は、教えてあげた。

「おとうさん! おかえり!」

「ただいま。お母さんは?」

「おかあさんはね、めがみさまにあいにいってるんだ!」

 刹那、父さんは顔をしかめた。事情を全て話すと、父さんは教会へ押しかけた。新月の夜、父さんの怒号が響いた。どうして怒っているのか分からなかった。

 牧師は必死に父さんを説得していた。しかし父さんは聞かなかった。ついには天使と悪魔まで呼び出して牧師を殺そうとした。牧師は命からがら逃げ出した。父さんは母さんの傍で泣き崩れた。

「おとうさん、なんでないてるの?」

「…………お母さんはもう死んでるんだ」

「しんでる? ちがうよ、めがみさまにあいにいってるんだよ」

 父さんは僕の手を掴むと、母さんの胸に押し当てた。意味が分からなくて、父さんを見上げた。

「お母さんの心臓……動いてないだろ」

「うん」

「だから、死んでるんだ」

「だからなに?」

 父さんは目を見開いた。何か驚くことでも言ったのかな―――僕は父さんに「お話」した。

「めがみさまにあえば、おかあさんはかえってくるんだよ。だからだいじょうぶだよ、おとうさん」

 父さんは唇を噛み締めた。僕を引きずって家に連れ帰った。

 そして―――僕を地下室に閉じ込めた。



 目が覚めると、白い天井が見えた。辺りを見回すと、窓からは眩しい光が部屋に差し込んでいる。むくりと起き上がり、ドアの上にかかる時計を見た。どうやら今は一時らしい。それを裏付けるように、お腹がぐう、と鳴った。

 ベッドから降り、素足のまま部屋を出る。階段を下りリビングに入ると、ちょうどキッチンから出てきた少女と目が合った。

「………ミヤくううううううん!」

 少女が全速力で駆けてくる。避けきれず、僕らは床に倒れた。苦しい程に抱きついてくる少女に、僕は離れるように促した。

「柊……苦しいから離れて」

「よかったよおおお! ミヤくううううん!」

「あの………苦しいから……」

「うええええええん! ミヤくうううううん!」

 ダメだ。全く聞いてない。しばらくされるがまま、柊に抱きつかれていた。やっと離れた頃には、柊はみっともないくらいに涙と鼻水を流していた。

「ミヤくうううううん」

「分かったから、その顔どうにかしなよ……」

「うん……」

 柊はテーブルのティッシュを数枚取り、思いっきり鼻をかんだ。僕は彼女と対面のソファーに座る。涙も拭うと、柊はまじまじと僕を眺めた。

「よかったよお……ミヤくん、朝になっても起きないし、うなされてたし……」

「うなされてた?」

「うん。すごく辛そうだった。悪い夢でも見ていたの?」

 悪い夢どころのものじゃない。今思えば、あの時の記憶は地獄そのものだ。幸いなのが、それ以降の記憶を見なかったことだ。不幸中の幸いとでもしておこう。

「ミヤくん。体調は大丈夫?」

 柊に体温計を渡される。素直に測ってみるが熱は無かった。それを確認すると、柊は安堵の息を吐いた。

「よかった……薬が効いたのかな」

「薬なんて飲んだ? 全然覚えてないんだけど……」

「口開けて、無理矢理流し込んだの。大変だったよ。ミヤくん、なかなか飲んでくれないんだもの」

 全く覚えてない。部屋のベッドに移動した記憶も無い。まさか柊が運んだのか? いや、それしかあり得ないか。

「…………ありがとう」

「どういたしまして。ミヤくんが元気になってよかった!」

 花が咲いたような笑顔に、ドクンと心臓が鼓動する。顔も少し熱くなった。

 なんだ? やっぱりまだ熱があるのだろうか? 安静にしていたいところだけど……。

「荷物まとめなきゃ」

「え?」

 立ち上がると、柊も一緒に立った。

「ミヤくん、どこ行くの⁉」

「ここを出ていく」

「出ていく⁉ どうして⁉」

「ばれたからだよ」

「ばれたって………誰に?」

 それには答えず、僕は自室へと向かった。後からついてくる柊は、しつこくその理由を訊いてくる。

「どうして出ていくの⁉ ばれたって昨日の人にばれたから⁉」

「そう」

「あの人は何者なの⁉ ミヤくんのこと……追いかけてる人なの⁉」

「そう」

 クローゼットを開け、洋服をスーツケースにしまっていく。それを閉じようとしたが、柊が制止してきた。

「ダメだよ! 一人でどこかへ行っちゃうなんて!」

「あんたに言われる筋合いはない」

「どうしても行くって言うなら……」

 柊はスカイブルーの瞳を輝かせた。

「私も行く!」

 ――――――何言っているんだ、こいつは。

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