2『お人好しとの出会い』

 ビルの隙間から満月が見えた。月は星々と共に輝き、世界に光をもたらしている。

 今日はやたらと月が大きく見える。月って、こんなに大きかったっけ。そういえば、すれ違う人達がやたら月の話をしていたような気がする。まあ、月が大きかろうが見えなくなろうが、僕には全く関係の無いことだ。

 視線を戻して再び歩み始める。もうすぐ日付が変わる時間だというのに、ネオンに光る建物の前で、人々は馬鹿みたいに騒いでいた。酒のにおいも漂ってくる。早くここから逃げたくて、自然と歩調は速くなっていた。

「君、もしかして家出? お金無いの? すぐに稼げる店、紹介してあげよっか?」

 知らない男が近寄ってくる。無視し続けても、鬱陶しいハエみたいについてきた。耳元でブンブンと……あー、うるさい。早くどこかへ行け。その意思も込めて睨んだら、男は大きな舌打ちをした。しかしすぐに表情を明るくして、僕の背後にいた男へと飛びついた。今のうちに逃げようと、僕は通りを駆け抜けた。

 通りを抜けると、一気に辺りは閑散とした。まるで別世界に来たようだ。道なりに進んでいくと、公園が見えてきた。子供はおろか、逢瀬を楽しむカップルや、身を縮めて眠る浮浪者もいない。それを良いことに、僕は公園に入った。ベンチに座り、夜空を見上げる。相変わらず月は、ちっぽけな世界を見下ろしていた。

 ―――お腹が空いた。朝から何も食べていない。どこかで食料を調達しないと、餓死してしまう。

 しかし一体、どうやって調達すればいいのだろうか。やっぱり、さっきの男についていった方がよかっただろうか? それとも、道端で誰かの恵みを求めた方が得策か? ああ、考える程に空腹感が増していく。お腹空いたなあ……。

「君、こんな夜中にどうしたの?」

 しばらくぼんやり考えていると、視界の満月が遮られた。その原因は、横から現れた男の顔―――先程の男とは違う、淡く光っているかのような橙色の短髪に、全身を包む黒いローブ。赤い瞳は僕の全身を眺め、にこりと笑った。

「そんなに服を汚して……早くお家に帰らないと、お母さんに叱られちゃうよ?」

 親切を装ったようなにこにこ顔に、何故だか無性に腹が立った。無視して顔を逸らすと、男は隣に座ってきた。

「もしかして、家出中?」

「…………」

「そっかそっか。うんうん、たまにはそういう時間も必要だもんね」

 勝手に納得しておもむろに頷く男。そして気でも狂ったのか、僕の手を取ってとんでもないことを言ってきた。

「それなら、私の家に来るといい!」


 ――――――なんだこいつ。胡散臭すぎる。


「誰が行くか。あんたの家になんか」

「えっ⁉ 来ないのかい⁉ 広いよ! 不自由はさせないよ!」

「あんた馬鹿?」

「いきなりなんだい⁉」

 驚く男を無視し、手を振り払って立ち上がった。ここにいたら、さっきのハエ以上に鬱陶しくつきまとわれるかもしれない。なら、早々に逃げるべきだ。

 公園の出口の方を見ると、フードを被った男が入ってきていた。男はこちらへ歩いてきている。僕も男へと向かっていった。すれ違う瞬間、男と目が合った。枯れ葉のような茶色の瞳が光る。



 ――――――――――――たろう。



「は?」

 思わず足が止まった。男は目を細めて僕を睨んでいる。しかしその眼には、じんわりと涙が溜まっていた。男は掠れた声で弱々しく呟く。

「たろうを……見なかったか……?」

 誰だよ、それ―――反射的にそう返してしまった。すると男は、ポケットに入れていた両手を出し、首と胸辺りの位置で手を固定した。

「このくらいの……」

「危なーい!」

 突然、背後から僕の頭上を飛び越えた人物―――それは、さっきのローブ男だった。ローブ男はフード男の後ろに着地すると、そいつの脇に背側から腕を通し、身動きをとれないようにした。当然フード男は抵抗する。

「なっ……何すんだ⁉」

「君! 今のうちに逃げるんだ!」

 じたばたと暴れるフード男を、必死に押さえこむローブ男。何が何だか分からないが、この二人から逃げられるのであればぜひそうしようと思う。

 僕は、格闘する二人の横を何食わぬ顔で通り過ぎた。静寂に響く男達の喧騒。その原因の一人にならなくてよかったと、心から思う。

 しかし―――公園から出ようとした瞬間、横のしげみから何かが飛び出してきた。

「ッ⁉」

 ソレは、僕の腕に噛み付いてきた子犬だった。赤毛の柴で、充血した真っ赤な目からは血が流れていた。小さな口からは想像出来ないほどの力で、肌に牙を食い込ませてくる。痛みと血が同時に溢れ出た。

「こいつ……!」

 無理矢理引き剥がし、そこらに放る。直後、噛まれた左腕ではなく、柴を掴んだ右手に激しい痛みが走った。あまりの激痛に、その場に膝をついた。見ると、右の手のひらは、毒にでも侵されたかのように紫色に変色していた。

「なん……なんだ……こんなの―――」

 見たことがない。魔力を持つ獣がいると聞いたことがあるが、触れただけで毒されるなんて、まるで―――悪魔のような力だ。

 痛みに悶えていると、左から首に柴が噛み付いてきた。剥がしたくても、痛みで思うように動かなかった。ただ僕は叫ぶことしか出来なかった。

「ぐああああああああああ!」

「君⁉」

 雑に柴が引き抜かれる。倒れそうになった僕を、ローブ男が支えてくれた。しかし、その顔をハッキリと見ることが出来ない。視界は揺れ、寒気に体は震えていた―――たぶん。

「君! 大丈夫か⁉」

「たっ、たろう⁉」

 遠くから、フード男の声。その方では、ぼやけた誰かと犬らしきものが対峙していた。

 もしかして、「たろう」ってその犬の名前か。じゃあフード男は、ペットを探してここに来たのか―――?

「っ……! その子に触っちゃダメだ!」

 ローブ男が叫んだと同時に、柴犬が駆け出した。それを、両手を広げて待ち構えるフード男。ローブ男は必死に叫んでいるが、フード男が逃げる様子は無かった。

 愛おしいペットが、飼い主の胸の中へと飛び込んでいく―――。

「あああああああああああああああああああああああああっ!」

 悲鳴が上がる。苦痛が耳と傷に響いた。ローブ男は、惨劇を視界に入れないように目を瞑った。

 早く彼を助けないと―――僕は腕から流れる血を、毒された右手に垂らし、ぷるぷると震えながらその手を地面につけた。そこに力を込めると、一瞬光が視界を奪った。光が無くなると、地面につけた右手のちょうど前に、男が立っていた。銀色の長髪を垂らし、白い布一枚だけで全身の肌を覆っている。背中には真っ白な羽が生え、僕を見据える金色の瞳は眩しいほどに輝いていた。

「お呼びでしょうか、主様」

 透き通るテノールボイスに答える為、僕は無言で指差した。その先には、柴犬に噛み付かれているフード男がいる。天使『ニヒル』は状況を確認すると、微笑を浮かべて頷いた。

「かしこまりました。では」

 ニヒルは一礼すると、フード男の方へと歩いていった。ローブ男が戸惑ったような目でそれを追う。ニヒルが柴犬の頭に手を乗せると、穢れのない羽がばさりと動いた。

「消えなさい。闇に染まりし魂よ」

 次の瞬間、柴犬から黒い何かが飛び散った。ニヒルが柴犬を男から引き剥がすと、子犬は気を失っていた。彼を地面に置き、ニヒルはこちらに戻ってくる。フード男はその場に膝をつき、柴犬を抱き寄せると、ついに倒れた。男も子犬も動かない。

「主様。迅速な処置をお勧め致します」

 そう言ってニヒルは消えた。それを見届けると、何とか紛らわせていた痛みがぶり返してきた。それに息苦しさも加わり、思わずローブ男の服を掴んだ。

「たっ……たす………け………っ」

「大丈夫……なわけないか……! 待ってくれ! すぐに助けるから!」

 横抱きにされ、そのままローブ男は走り出した。そして僕は力尽き、ついに意識を失った。



 目が覚めると、僕はベッドの上で眠っていた。傍にはローブ男もいる。男は僕の顔を見ると、緊張していた表情が和らいだ。

「よかった……気が付いて。大丈夫? 痛いところは無い?」

 頷くと、男は安堵の息を吐いた。

「ああよかった……これも月の女神のおかげだね」

「……めがみ?」

「あ、いや。何でもないよ。それより、名前を聞いてもいいかな?」

 右手を掲げ、握ってみる。開いてみても痛みは無かった。僕は上体を起こして男を睨む。

「まず、そっちから言いなよ」

「ああ……そうだね。私はルキ。そこら辺にいる、ただの男さ」

 赤みがかった橙色の細い髪に赤い瞳、整った顔立ちながら子供のようににっこりと笑う姿は、人を惹きつけるような雰囲気を帯びていた。

 だがこいつには少なくとも、先程の毒を解毒し感知させる程の力はある、ということだ。どこが「ただの男」なんだか。

「君は?」

「…………ミヤ。暁宮」

「ミヤか。よろしくね」

 黒い手袋をはめた手を差し出される。ルキの背後に見える時計を見ると、十二時だった。反対側の窓を見ると、太陽が高く空に昇っていた。

「ミヤ? どうしたの?」

「………別に」

 差し出された手には応えず、ルキを押しのけベッドから降りる。どうやらここは誰かの部屋らしく、ベッドの他にクローゼットや本棚があった。部屋の中央にある低い丸テーブルに置かれていた服を取り、ルキを横目で見る。

「ありがとう。もういいから」

「え?」

「僕、帰るから」

「病み上がりで放っておけないよ。それに、家出中だったんじゃないの?」

「そんなのあんたに関係無いだろ」

 青い病衣のような服を脱ぎ、シャツに腕を通す。ボタンをとめていると、ルキがその手を掴んできた。

「関係無くないよ。君は私を助けてくれたから」

「助けてないけど」

「助けてくれたじゃないか。あのまま君が何もしていなかったら、私も死んでいただろう」

 手を振り払ってボタンをとめ直す。ズボンも穿きかえ、部屋から出ていく。適当に廊下を進んでいくと、慌ててルキもついてきた。

「ねえ、私の家で住まないかい? ここがそうなんだけど」

「住まない」

「自炊してもらうけど、食費も光熱費も払ってあげる。部屋ももちろんある。さっきの部屋だ。ねえ、どう?」

「あんたに何のメリットがあるの? そんなことまでして、僕に何をさせる気?」

「何もさせないよ。私はただ、困っている君を放っておけないだけだよ」

 ピタリと立ち止まった。隣で不思議そうに僕を見下ろす男を、最大限の警戒心を込めて睨み上げた。

「そんなに僕を閉じ込めたい?」



 ――――――――――――――女神などいない。それが分かるまで、お前は出られない。



「っ………!」

 思い出したくもない冷たい声。僕は拳を握り締め、再び廊下を進んでいく。一瞬めまいがして壁に手をつくと、咄嗟にルキが身を乗り出してきた。

「大丈夫⁉」

「うるさい、大丈夫……あんたの家になんか行かないからな」

「ミヤ。君に帰る場所はあるのかい?」

「…………⁉」

 僕の手首を掴んだルキは、何故だか不安そうに目を細めた。

「今の発言……もしかして君は、閉じ込められていたんじゃないのかい? だから昨日、あんな時間にあんな場所にいた。それは逃げ出したから。どう? 合っているかい?」

 反射的に手を振り払おうとしたが、力強く握り返された。ルキの顔が近付いてくる。逃げようとするが、背に壁がついて逃げられない。ルキは不敵に笑った。

「驚くことじゃないよ。君の言葉もだけど、服も汚れていた。靴も履いていなかったし、荷物も何も持っていない。何かあったのだろうと考えるのが自然だと思うよ?」

「違う……僕は……」

「うーん……あ、じゃあ……これ」

 紙とペンを取り出したかと思うと、ルキはサラサラと何かを描き、それを二つに折った。続けて財布から万札を何枚か抜き取り、メモと一緒に僕の手に掴ませた。驚いて見上げると、ルキははにかんでいた。

「それ、あげるよ。私はうちで住む為の準備資金としてあげるけど、住まないと言うなら好きなように使うといい」

「はあ……⁉ こんなの渡して脅す気か……⁉」

「脅すなんて物騒な。君が嫌がることをさせるつもりはないよ」

 ルキのその表情には、何かを企んでいるような影は見られなかった。手は離され、ルキは僕の頭を撫でてくる。それを振り払い、もらったお金を見る。メモを開いてみると、どこかの地図が描かれていた。

「最寄り駅からのルートを描いておいたよ。そこの丸で囲まれた場所がここ……私の家だ。私は君が来るのをいつでも待っているからね」

 そう言ったルキに、僕は見送られた。地図を握り締め、万札をポケットにしまう。背後の豪邸に視線を移した。

 誰がこんな家になんか住むか。たしかに僕に帰る場所は無いけれど、生きようと思えばどうにか出来るはずだ。



 ――――――本当に大丈夫?



 臆病な僕が語りかけた。大丈夫だと言っても、なかなか受け入れてくれなかった。

 ―――僕は弱い。外の世界は嘘ばかり。そんな場所で本当に、僕一人で生きていけるのだろうか?





 ――――――祈りを捧げなさい。そうすれば、彼女から救いの手が差し出されます。





「ッ……!」

 思い出したくない猫撫で声。思い出したくない姿。もう全てを否定したはずなのに、すぐ傍にいる気がしてならない。いつかまた引き込まれるのではないかと不安でならない。


 ――――――君が来るのをいつでも待っているからね。


 なんてお人好しなやつなんだ。いつか足元をすくわれるんじゃないかと思う。

 それでも、優しく撫でてくれたその手のひらに、頼りたいと思ってしまった自分がいた。

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