1『先住民』

 ゴロゴロゴロゴロと、いつまでも傍でうるさく鳴くスーツケース。イラついてぐっと腕を引くと、巨体は石につまずいてバランスを崩した。倒れそうになったところを渾身の腕力で止めたが、僕の口からはため息がこぼれた。

 こいつをそこらに置いていきたい衝動に何度駆られたことか。そんなことをしたら、一番困るのは僕自身だと分かってはいるけれど。

 額から滲む汗を拭い、再びスーツケースを引っ張って歩き始める。電灯が無く暗い夜道だったからか、すれ違う人は誰もいなかった。満月の昇る生暖かい午後八時―――眠るには早い気もするが、家々は寝静まったように静寂に包まれていた。

 その中で、突如広々とした空間が現れた。青々とした芝生の庭の奥に、これまた大きな白と茶の家が建っている。周囲の建物と比べ、明らかに資金が注ぎ込まれている造りに見えた。

 僕は持っていた手描きの地図を確認し、おそるおそる敷地に侵入した。玄関ドアのインターホンを押し、応答を待つ。中から、ドタドタと足音が聞こえてきた。

「ルキー! おかえりー!」

 勢いよく開かれたドアから現れた、一人の少女。銀色のショートヘアは濡れて水滴を垂らし、スカイブルーの大きな瞳は不思議そうに瞬いている。ネイビーのルームウェアから覗ける肌は火照っていた。

「あれ? ルキじゃない………あなた誰?」

 少女は特に気にする様子も無く、警戒心も無い明るい声で言った。何も聞かされていないのか―――疑われるかもしれないが、一応説明しておこう。

「ここに住んでいいって、ルキから言われて来たんだ」

「えっ! じゃあもしかして、新しい住人さん⁉」

「まあ、そうなるね」

「よろしくね! 私、ミク! 柊未来っていうの!」

 喜々として喋りながら、柊は家の中へと入っていく。名乗らない男の言うことをすんなり信じるのか―――彼女の純粋さに感謝しながら、重たいスーツケースを持ち上げてついていく。細い廊下を経て、広いリビングに通された。食事中だったのか、黒の長ソファーに挟まれたテーブルには料理がいくつか置かれていた。スーツケースをドアの横に置き、ソファーに飛び乗って手招く柊の方へと向かう。

「これ食べる? ルキの分も作っておいたんだけど、全然帰ってこないから食べちゃってもいいよ!」

 大皿に乗っていたのは、大量のからあげだった。柊は箸でそれを一つ持ち上げ、ぱくりとひと口で食べる。彼女と向かいのソファーに座ると、柊は「あっ!」と目を見開いた。

「箸持ってくるね!」

「いや、いい」

「手で食べるの? じゃあちゃんと手、洗った方がいいよ!」

 そういうことじゃない。そもそも普通、箸で食べるとしても手は洗うだろ―――心の中でそうツッコみ、僕はしぶしぶ席を立った。リビングから出ようとすると、柊に呼び止められた。

「どこ行くのー?」

「手を洗いに行くんだよ。洗面所ってどこ?」

「え? キッチンで洗えばいいじゃん」

 キョトンとして僕を見つめる柊。ため息を吐いて、僕は言われるがままキッチンで手を洗った。ソファーに座り、彼女から受け取った箸でからあげをつまむ。サクサクな衣をひと口かじった。

「どお? おいしい?」

「………まあ」

「よかったー! ルキ以外の人に食べてもらうの初めてだから、緊張しちゃった!」

「あんたはルキと二人で暮らしているのか? 兄妹?」

 へらへらと笑う男の姿が脳裏をよぎる。自分で言っておきながら、あいつとこの子とは似ても似つかないな―――その考察通り、柊は首を横に振った。

「ううん。兄妹じゃないよ」

 柊は白米にふりかけをかけて口に含むと、美味しそうに噛みしめた。からあげを食べ進め、僕は彼女を凝視する。

「怖くないの?」

「え? 何が?」

「男と二人きりって。そもそもそんなこと、よく親が許しているよね」

「……よく分からないけれど」

 ごくりと飲み込み、柊は僕と視線を絡ませた。

「私の親、もういないから大丈夫だよ」

 軽率だったかもしれない。そこまで関わる気も無いのに、他人の過去をほじくり出したら面倒事に巻き込まれる可能性がある。これ以上聞くのはやめにしよう―――そう思って僕は控えめに謝った。

「ごめん」

「事故で死んじゃったんだ。私一人だけを残して。ひどいよね。おじいちゃんもおばあちゃんもいないから、施設に行く予定だったんだけど……」

 話を打ち切ったはずなのに、聞いてもいないことをペラペラと喋る悲劇のヒロイン。泣き出さなかっただけマシか。

「ルキが引き取ってくれたの」

「は? なんでそこでルキ?」

「ルキは私のいとこなの」

 ああ、だからこんなにも警戒心が無いのか―――それでも、僕に対しても全く疑いを持たないし、警戒心が無さすぎる気はするけれど。

「ルキは困っている子供を放っておけないんだって。だからこの家は、そういう子達が住めるように大きくしたんだって」

「ふーん。変わったやつだな」

「あなたもでしょ?」

 にこりと笑う柊。何故か彼女から目が離せなかった。スカイブルーの瞳が光る。

「困っていたから、ルキに拾われたんでしょ?」

 肯定も否定もせず、僕は再びからあげをつまんで食べた。何がおかしいのか、柊はくすくすと笑って食事を再開する。

「ルキは優しいからね。困っているあなたを放っておけなかったんだよ」

「大きなお世話だけど」

「そうなの? ところで、あなたの名前は?」

「ミヤ。暁宮」

「ミヤくんかー。よろひくね!」

 頬をパンパンに膨らませ、もぐもぐと食べる柊。その姿に不審感を覚え、僕はおそるおそる彼女に問いかけた。

「あのさ……疑ったりしないの?」

「うたはう? なにほ?」

「僕が来ること、聞いてなかったんだよね? 本当に僕がここに住むか、裏取りとかした方がいいんじゃない?」

 ごくりと飲み込み、おもむろに首を傾げる柊。理解していないアホ面に、僕は人差し指を向けた。

「僕が悪いやつだったらどうするの?」

「悪いやつ?」

「例えば、あんたを襲おうとするやつだったら、とか」

「襲う? どうして?」

 僕は箸を置き、柊の隣に座った。全く警戒心の無い少女の手を取り、顔を近付ける。

「あんた、自分が女だってこと、もっと自覚した方がいいよ」

 スカイブルーの瞳が揺れる。


 ――――――次の瞬間、胸に何かを突きつけられた。


「大丈夫。こうしろってルキから言われているから」

 にこりと笑う柊。箸を持つ右手は僕に掴まれたままだ。視線を落とすと、僕の胸には銀色に光る拳銃が突きつけられていた。その引き金に指を当てているのは、紛れもなく柊だ。

 僕はこの瞬間、ここに来て二度目の後悔をし、そして肝に銘じた。


 ――――――やはり、軽率なことはするべきではない。


「ただいまー」

「あっ! ルキだ! おかえりー!」

 パッと圧迫が無くなり、ついでに手も振りほどかれた。柊が向かった先には、橙色の髪をかく長身の男・ルキがいた。ルキは黒のローブを脱ぐと、締めていたネクタイをほどきながらこちらに歩いてくる。僕と目が合うと、疲れが吹き飛んだように表情が明るくなった。

「ミヤ! 久しぶり! よかった、ちゃんと来れたんだね! 必要なものは揃えたかい?」

「まあ……」

「よしよし。後で部屋に案内してあげよう」

 ルキは、さっきまで僕が座っていたソファーに座った。柊がキッチンの方へと消えていく。ソファーでくつろぐ家主を、僕は横目で見た。

「あのさ、僕……」

「あー、話は後で。先にお風呂にでも入ってきなさい。疲れているだろう?」

「は? いや、先に……」

「ミクー、ミヤをお風呂に案内してあげてー」

「分かったー!」

 白米がよそられた茶碗と味噌汁の入ったお椀、箸とカップをいっぺんに器用に持ってくる柊。それらをテーブルに置くと、僕の腕を引っ張って歩き出した。出る間際、慌ててスーツケースを掴む。

 リビングから連れ出され、廊下を進んでいく。脱衣所に着くと、口を挟む暇もなく、柊は素早く出ていってしまった。

「……何なんだ」

 戻っても話してくれそうにないし、仕方無いから入るか―――僕はスーツケースから着替えを引っ張り出し、汚い衣類を脱いで風呂場に入った。家が家だけに、浴場も広かった。大浴場と言っても過言ではないだろう。シャワーもいくつか設置されている。完全に複数人で入ることを想定した造りだ。

 適当に体を洗い、お風呂にゆっくりと浸かる。窓からは夜空が見えた。

「あの日」も、今夜と同じように満月が昇っていたな。そんなことを考えながら目を瞑り、火照る頭でぼんやりと思い出していた―――。

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