5-102 和解

 翌日、ロワールハイネス号とアマランス号はアスラトルへ帰るため、アノリア港を出航した。

 アドビスはジャーヴィスと打ち合わせをしなくてはならないということで、アマランス号に乗っている。


 ロワールはすっかりディアナと仲良くなっていた。彼女達はロワール号の艦長室で寝起きし、療養中のシャインの世話を交代で看てくれていた。

 ヴィズルはロワールハイネス号の舵輪を握っていた。

 そう。実に恐ろしい話だが、ロワールハイネス号に『船の精霊レイディ』はいないのだ。

 つまり彼女は、普通の縦帆船スクーナーになってしまったのだ。

 だから操船の為に水兵を乗せなければならなかった。

 アマランス号の水兵十五名と、ディアナの警護のために海兵隊が八名乗り込んできた。

 二隻は一週間という通常ふつうの航海日数でアスラトルへ帰港したのだった。



 ◇



 それから一週間が更に過ぎた。

 シャインはグラヴェール屋敷で療養を続けていた。ロワールももちろん一緒だ。

 シャインは端的にロワールの事情をアドビスに話した。

 元・人間で『船の精霊』となり、再び長い時を経て、人間に戻ることができたことを。


 アドビスが普通の人間ならシャインの妄想だと一笑されただろう。

 けれどアドビスは母・リュイーシャとの数奇な出会いの話をしてくれた。

(※スピンオフ小説「エルシーアの金鷹と碧海の乙女」参照)


「親子で海神と縁があるとは、海から離れられない定めかもしれぬな」


 アドビスがシャインを見ながらしみじみと言った。そしてロワールハイネス号にあった『船鐘シップベル』も、五十年前に王家専用船「エクセントリオン」が建造されて、実際に鐘のブルーエイジが暴走したせいで、ずっと海軍本部の金庫にしまわれていたということを話してくれた。代々の参謀司令官が申し送りでこの秘密を守ってきたという。


「あの娘――ロワールはうちで保護する。彼女さえよければ、ずっといてくれてもいいから心配するな。それからお前の事だが、まだ世間には生きているという事実を伏せたい」


 アドビスは詳細を話さなかったが、シャインの身を心から案じているのが口調でわかった。深く刻まれた皺が少し増え、鋭い青灰色の瞳に一瞬暗い影が宿った。万が一にでもシャインの身に危険が及べば、気も狂わんと言わんばかりに。


 シャインは黙ってうなずいた。この件に関しては時期を待つしかないだろう。

 どのみちまだ傷が癒えないシャインにグラヴェール屋敷から出るという選択はなかった。けれど寝床から起き上がれる時間も長くなり、毎日一時間程度、ロワールと屋敷の庭を歩くことができるようになった。



  ◇



 いつもの庭の散策を終えてロワールと戻ってくると、居間には客が来ていてシャインを待っていた。


「あらジャーヴィス艦長じゃない! ええと……隣の人は……」


 シャインの為に長椅子にクッションを置きながらロワールが言った。

 客は二人。一人目はロワールが言った通りジャーヴィスだ。青いケープがついた艦長服姿。

 いつも眉間にしわを寄せているはずだが、今日は珍しく笑みを口元に浮かべている。そして彼の隣にいるのは――シャインは思わずはっと息を詰めた。


 ミリアス・ルウム。ジャーヴィス同様、海軍の青いコートタイプの軍服をまとい、肩口で切りそろえた金髪を揺らして立っていた。シャインの方をじっと見つめている。


 けれど気のせいだろうか。以前はぎらぎらしていた彼の瞳が、今は思慮深く落ち着いた光を放っている。

 シャインが長椅子の前に来ると、ジャーヴィス達がそっと立ち上がった。


「大分具合がよくなったと中将閣下から伺ったので、お邪魔しました。ご回復おめでとうございます。グラヴェール艦長」


 自分もシャインと同じ艦長だが、ジャーヴィスの口調は副長時代と全く変わらない。懐かしさを覚えてシャインは、差し出された彼の右手を取り握手した。


「忙しいのに、わざわざ寄ってくれてありがとう、ジャーヴィス艦長。そして……」


 ミリアスがすっと頭を垂れて一礼した。


「グラヴェール艦長。今回はあなたにお詫びを言いに来ました」

「えっ……」


 シャインはミリアスの言葉に一瞬驚き、思わず長椅子に座り込んだ。


「シャイン、大丈夫?」


 ロワールがシャインの体を支えるように隣へ来た。

 シャインは額に手を当てた。眩暈を感じたのは気のせいだったようだ。


「なんでもない。ちょっとふらついただけ」

「ご気分が優れないなら日を改めますが」


 ジャーヴィスとミリアスはまだ椅子に座ることなく立っている。


「いや……大丈夫。こっちこそ見苦しい所を見せてしまい悪かった」


 ロワールがシャインの背中と左腕にクッションをあてがう。左胸の傷が痛むので体重を左腕にかけられないのだ。


「ありがとう、ロワール」

「私は出ていよっか、シャイン」


 シャインは首を横に振った。


「ここにいてくれ。君には俺の事を知っていて欲しい。二人共、いいだろうか?」

「構いません」


 ジャーヴィスの言葉に、ミリアスも黙ったままうなずいた。


「それにしてもレイディ……いえ、ロワールさん。本当に人に……いえ、元の自分になったんですね。事情はヴィズルからきいています」


 ようやく椅子に座ったジャーヴィスが、まだ信じられないという表情でロワールを見た。

 今日のロワールの髪型は、緩く巻いた髪をサイドに垂らし、残りは後ろへ結い上げていた。

 装いは白いレースの襟が付いた濃い深緑のシンプルなワンピースに、足首までのブーツを履いている。外見はごく普通の、アスラトルに住まう中流階級の娘である。


「うわ、なんかジャーヴィス艦長に名前で呼ばれると照れるわね。聞き慣れなくって。だけど人間って大変よね。毎日三度の食事をしなくちゃいけないし。自分の足で歩かないといけないし。覚える事沢山あるし。でも毎日がおかげさまで楽しいわ」


 ロワールが無邪気に笑った。ジャーヴィスの隣で神妙な顔をしていたミリアスさえも、彼女の笑顔につられたのか一瞬口元に笑みを浮かべた。


「それで……今日はどういった要件で? あ……」


 シャインはミリアスがお詫びを言いに来たと言っていたことを思い出した。

 左腕をクッションから下ろし、ミリアスの方を向く。


「ルウム副長。俺も君に詫びなければならない。まずはアノリアで戦った時、君の事を手荒に扱ってすまなかった」


 ミリアスは静かに首を横に振った。その瞳には陰りがあった。


「いえ……その事は気にしないで下さい。あなたがリュニスにいたのはディアナ様を助けるためだったのですから。それよりも先に、報告をさせて下さい」


 シャインはうなずいた。

 ミリアスがジャーヴィスの顔を見た。ジャーヴィスもまたうなずいた。


「グラヴェール艦長。我々は司法局へ行きました。「ノーブルブルー襲撃事件」――巷では「ノーブルブルーの悲劇」と言われる、ファスガード号とエルガード号が海賊に沈められた事件の件でです。海軍省が遺族に虚偽の報告をし、真相を知る我々に、権力でもって、それを語ることを禁じさせたことは明らかに不当です。だから私とミリアスは、事件の真実を隠ぺいする指示を出した海軍省を告発しました」


「――なっ!」


 シャインはジャーヴィスの青い瞳を信じられない思いで見つめ返した。


「……無茶だ」


 喉の奥から吐き出されたシャインの声を、ジャーヴィスは穏やかな笑顔を浮かべて聞いていた。


「仰る通りかもしれません。けれど私は勝算のない戦いをしない主義です。よってミリアスは今、あの事件の『真実』を知っています。彼が知りたかった事は、ヴィズルがすべて話してくれました。自らが『月影のスカーヴィズ』であり、あの夜、ファスガード号とエルガード号を沈めようとした事も包み隠さず教えてくれました」


「……なんだって?」


 シャインは耳を疑った。ジャーヴィスが言った事は本当なのか。

 ミリアスの顔を見ると彼は動揺することなく静かにうなずいていた。


 ヴィズルが『月影のスカーヴィズ』だった事を知ったミリアスは、どうして、ああも冷静な態度でいられるのだろう。本当はヴィズルを捕縛するように、海軍省へ報告したのではないのか。

 不安で心臓の鼓動が早くなる。


「ヴィズルは……ヴィズルは確かに過ちを犯した。でもそれは彼のせいじゃない! 彼もまた被害者なんだ」

「わかっています」


 ジャーヴィスの感情を抑えた声が響いた。


「それに『月影のスカーヴィズ』はもう世間では死んでいるのです。いいえ、この世界中どこを探しても存在しないのです。いないものを捕らえるのは時間の無駄というもの」


「しかし……」

「シャイン、落ち着いて」


 シャインはいつの間にか椅子から身を前に乗り出していた。ロワールがシャインの右腕をそっと掴む。ロワールになだめられるまま、シャインは再びクッションへと背中を預けた。


「ルウム副長。君はヴィズルのことを……どう思っている?」


 ミリアスは両腕を胸の前で組んで、日の光が差し込むグラヴェール家の庭を――緑の芝とエルシャンローズがちらほらと咲くそれを黙って見つめていた。


「僕が知りたかったのは、船が沈められた『真実』と父の死の『真相』。ヴィズル個人へ抱く感情とはまた別のものです」


 ミリアスは小さく息を吐いてシャインへ視線を向けた。

 窓を背にしたせいか逆光でその表情は暗く見えた。


「そして真実を知った今――僕はヴィズルを憎んでいるのかと問われれば……不思議なことにそういう感情が湧いてこないのです」


 ミリアスは悲しむように、けれど戸惑うように、酷く複雑な表情で苦笑した。


「僕は知っています。彼があなたを助けるために、常にその行動を見張っていたことを。僕があなたを墓地で撃とうとした時も彼が阻止した。そしてあなたが死に瀕していた時、彼はあなたを助けるための手段を海神に訴えていた。そして要求されなくても、きっと彼は自分の命さえも海神へ捧げた。あなたの命を繋ぎとめることができるならば。それが……彼にとっての贖罪しょくざいだったのでしょう」


「贖罪?」


 ミリアスは肩口で切りそろえた金髪を右手で払いながら静かに頷いた。


「ええ。僕はそう思う。ヴィズルはあなたに借りがあると言っていた。詳しい事情は知らないけど、ヴィズルが自らの過ちに気付き、海賊をやめることができたのは、あなたのおかげだったのだと思う。いや、そうじゃなければ、あんなことはできない。だから僕は悲しみを堪えて彼をゆるす。父を殺されたとは思わない。父は軍人として死んだのです。ノーブルブルーは海賊拿捕専門艦隊。海賊と戦うのが任務で、父はその職務に殉じたのですから……」


「ルウム副長……」


シャインは身を起こした。


「ヴィズルを赦してくれて……ありがとう。それに比べて俺は……」


 シャインは項垂れた。


「真実を語るより、永遠の沈黙を選んだ」


 ジャーヴィスはゆっくりと首を横に振った。


「グラヴェール艦長、私達は真実を語ることを禁じられていました。その上あなたはミリアスに告訴されたせいで海軍省の監視が特に厳しくついて、司法局の役人を装った殺し屋を差し向けられたのです。命を懸けて戦った者へのこんな横暴、私は許すことができません!」


 シャインは顔を上げてジャーヴィスを見た。

 今にして気付いた。ジャーヴィスもあの夜、体だけではなく心にも傷を負っていたのだ。だからこそ自分の事のように、シャインの事を気遣ってくれていたのだ。


「ありがとう。ジャーヴィス艦長。俺が君の誠意に値するだけの人間だったらよかったのに。でも俺は、死よりも世間に真実を知られる方がこわかった。俺は本当に屋敷の裏の岬から……飛び降りようとしたんだ。あの人が、父が止めてくれなかったら、俺は今、ここにはいない」


「え……」


 ジャーヴィスは一瞬絶句し、深々と長椅子の背に背中を預けた。


「ジャーヴィス艦長、大丈夫ですか!?」


 ミリアスがジャーヴィスの顔を覗き込んだ。


「あ、ああ。大丈夫だ……」


 ジャーヴィスは眉間に手を当て深呼吸をした。

 シャインはそんなジャーヴィスを見ながら言葉を続けた。

 あの事件について自分の気持ちを話したのはこれが初めてだ。一度口を開けば言葉はとめどなく溢れた。


「俺が自分がやったことに対して償いをしていないのは確かだ。だから俺は……生かされたのかもしれない」


 シャインはクッションに身を沈め天井を見上げた。


「海軍省を訴えたのは君達ではなく、アドビス・グラヴェールだろう? ジャーヴィス。いや、そうとしか考えられない」


 ジャーヴィスとミリアスは黙って視線を交わした。

 ミリアスが静かにうなずく。ジャーヴィスが意を決したのか口を開いた。


「はい。仰る通りです。参謀司令官であるお父上が、我々の代わりに、海軍卿エスクィア中将、同じくトリニティ中将、オーラメンガー中将、コルム中将――<六卿>の方々を告発しました。私とミリアスは証人として、明日の午後、審議の場に参ります」

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