5-90 青き闇の中へ(1)

 『船鐘シップベル』の中のような場所は一度覗いたことがある。

 一年前。ヴィズルが何らかの術を用いて、ロワールの意識を鐘の中に閉じ込めたのだ。

 あの時シャインは、鐘の外からロワールの意識に向かって呼びかけたのだ。

 けれどここは……。


『シャイン』


 呼びかけるロワールの声でシャインは我に返った。

 辺りをぐるりと見渡す。

 最初に感じたのは鼻をくすぐる懐かしい潮の匂い。海――それを意識すると、先程まで何も映さなかった周囲の景色が変わっていた。


 白い石で護岸された港が見える。なんとなくアスラトルの軍港に似ている。

 いや。確かにここは、エルドロイン河の河口にある港だ。

 そこには一際目を惹く一隻の大型船が係留されている。


『シャイン、あの船に近づいて』

『知っている船?』

『ええ。覚えているわ』


 突如シャインの体は宙を舞った。

 風に足元をすくわれて一気に天へと舞い上がる。


『何? 何だ!?』

『飛んで行った方が早いわ』


 ちょっと笑いが込められた声でロワールが言った。

 成程、魂というのはこんなにも開放的で自由に動けるのか。

 シャインの視界にみるみる船が近づく。

 ただの軍艦という印象だったのだが、見れば見るほど『変わって』いる。


 三本マストの横帆船。大きさはノイエ・ダールベルクが乗っているウインガード号より少し大きいかもしれない。

 大砲の数は78門。三層の砲列甲板がある。軍艦であるのは間違いない。気になったのは船体の色だった。

 鮮やかな緋色。船体全体が赤く染められ、マストや他の索具は黒と金で塗装されている華美な船だ。

 色合いからして海軍の船ではない。シャインは船尾へ視線を向けた。金色の真鍮プレートがついている。そこに刻まれた船名は――。


『エクセントリオン』

『シャイン。ロワールハイネス号の『船鐘シップベル』に、最初に刻まれていたのは、この名前よ』

『では……あの船のために作られたのか』

『そう』


 何かを思い出したのかロワールの口調は堅かった。

 子供の頃造船所を遊び場にし、家の書庫でエルシーア海軍の船について本を読み漁ったシャインだが、「エクセントリオン」という船についてはさっぱり知らなかった。一体この船は何なのだろうか。


『シャイン、甲板を見て。人の気配がする』


 ロワールの声がシャインを呼んだ。

 船尾から後部甲板へとシャインは移動した。このクラスの大きさなら、航海士が常時二名体制で、シャインの背丈ほどある大きな二重舵輪を握るものだが。

 エクセントリオンの舵輪はロワール号と同じぐらい。直径1.3リール(1.3メートル)ぐらいの小型なものが、飾りのように置かれている。


「こんな大きな船を、たったで動かすというのか?」


 男性の声がした。シャインは自分が魂だけの存在というのを忘れて、思わず舵輪の影に身を潜めた。舵輪の前には黒で塗装されたミズンマスト(最後尾)がある。


 マストの前に緩やかにうねる茶色の髪を一つに結った壮年の男が立っていた。

 光沢のある天鵞絨の青い上質な服をまとい、黒いブーツを履いている。腰には金古美色に輝く佩刀。軍人のようないで立ちだが、そうではない。


「左様でございます。国王陛下」


 国王と呼んだ声の主は年配の白髪の男で、ゆったりとした白いマントを羽織り、四角い帽子を被っている。周囲を見渡すと、同じように白いマントを羽織った人間が数人立っている。彼らも軍人ではなく、どちらかといえば民間人に近い雰囲気だ。

 

 シャインはあまり国の歴史に明るくないが、目の前に立つエルシーア国王の顔は書物の中で見たことがあった。おそらく今のコードレック王の父親に当たる人物だ。そこから察すると、どうやらここは今から五十年前のアスラトルということになる。

 

「従来の船は操船に百名の熟練水兵が必要でした。けれどこの『エクセントリオン』には、その人員が不要です。この船はただ一人で動かすことが可能です」


 白マント姿の男――口ぶりから察するにこの船の建造に携わった技術者だろう。

 彼は得意げに国王に向かって言った。


「なんと。冗談を申すでない」

「いいえ。そうではない証拠をここでお見せいたします」


 技術者の男が白いマントをなびかせながら振り返る。


「『操船者レイディ』をこちらへ」

『あれは……!』


 巫女の指輪の中にいるロワールが驚きの声を上げた。

 シャインもまたその姿に釘付けになっていた。


 二人の技術者に左右、付き添われて少女が甲板を歩いてくる。

 飾り気のない白いドレス姿。腰まである明るい茶色の長髪を結うことなく風に舞わせている。年の頃は十七、八才ぐらい。

 その顔はシャインにとって見知ったロワールと同一のものだが、瞳の色だけが違っていた。どこまでも静かで深い青――。

 なんとなくだが、右手に帯びている『巫女の指輪』の色と似ている。

 

「この少女は?」

「はい陛下。彼女がたった一人でこのエクセントリオンを動かすのです。皆様、どうぞこちらへ」


 技術者は国王を伴い、シャインが潜む舵輪の前にやってきた。咄嗟に隠れなければと思ったが、彼らはシャインの姿に当然だが気付かない。

 ただあの少女だけが、シャインの方を一瞬だけ戸惑ったように見つめた。


「マリエル、ほら。『船鐘ブルーエイジ』と接続を」


 シャインから視線を引き離した少女――マリエルは、舵輪の手前で立ち止まった。すると足元の板が左右に開き、硝子の箱に収められた銀色の船鐘が出現したのだ。


「ほう。これは……美しい鐘だな」


 うっとりと溜息を洩らし、国王がもっとよく見ようと近づく。


「陛下、『船の精霊レイディ』の伝説をご存じでしょうか?」


「知っておるぞ。伝承の類が好きだったからな。船は愛する人間の想いで命を与えられ、『船の精霊レイディ』が生まれるという……」


「左様でございます。我々はその伝承を、船のに利用できないかと考えておりました」

「なんと?」


「周囲をご覧下さい。船というのは様々な部品がございます。そして操船には多くの人数と手間、時間を要します。たった一枚の帆を上げるにしても、マストに水兵を登らせ帆を広げ、皆で上げ綱を引っ張り、風を受ける最適の角度に調整します。海上で障害物を発見した時。船というのはすぐに向きを変えることが難しい。けれどそれらが『船の精霊レイディ』の意思によって、一瞬で、しかも正確に動くとするとどうでしょうか」


 国王は大きくうなずいた。


「操船のための人員はとなるな。知識も必要ない。陸の兵士達だけで船に乗ることができる」


「仰る通りです。そして敵船との戦闘も有利です。風向きを意識しなくてよいのです。進みたい方角へ船を進ませることができます」


「けれどまさか」


 国王は少女と船鐘を交互に見つめている。信じられないという表情で。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る