5-84 一蓮托生


 話は少し前に戻る。


「シャイン、思った通りだったわね。やっぱりリュニス皇帝の艦隊は西から北上してきたわ」

「ああ」


 シャインはロワールハイネス号の舵輪を握りしめたまま、眼前の水平線に現れたその姿を暫し睨みつけた。軍用ドロモンが十隻と、三本マストを持つ大型の軍用艦が一隻。その船体は黒で塗装されているが、西日を受けて赤色に染まっていた。


「あの軍艦はバーミリオン皇子の『青の女王』号だな」

「そうね」


 リュニスでエルシーアのような帆装の軍艦はどちらかといえばあまりみかけない。それ故、リュニスに来た時に初めて遭遇した『青の女王』号のことはまだ記憶に新しい。


「ウインガード号と同じ等級ぐらいかしら。うーん、でもあの船に『船の精霊レイディ』はいないみたい」


 シャインは黙ったまま苦笑した。

 丁度それを心の中で考えていた所だったのだ。

 舵輪の前の手すりにもたれていたロワールが振り返った。猫のように弧を描いた水色の瞳が子供っぽい笑みを形作る。


「私もあなたと同じことを考えていただけよ。シャインの心を読んだわけじゃないわ」


 シャインは黙って微笑した。ロワールがシャインの心を読んでいるのは事実である。ただそれは空気を吸う様に無意識でやっていることで意図的ではない。実はシャイン自身も、ロワールが何を思っているのか、以前より自然と感じられるようになった。


 アリスティド元統括将から、長期休暇をもらったこの一年。

 表向き商船となったロワールハイネス号に乗り、シャインはほとんどの時間を彼女と共に過ごした。それがお互いの絆を深めることになったのは至極当然で間違いではないだろう。


 お陰でロワールが自らの意志で船を操る時間も随分と長くできるようになった。

 ヴィズルはそれを素晴らしいことだと讃えつつも、シャインの身を案じていたが。


 実際今もそうだが、強く自分を意識していないと、ふっと気力が萎えてその場に崩れ落ちそうになる。

 船はロワールという魂を持ち、自らの意志で動いているが、その力は船自身の生命力と、それを生み出すシャインの『想い』があってこそ初めて可能となる。


 ロワールに対する想いが枯渇すれば、船は再び『物』へと戻る。

 常に彼女を思い続けなければ、船の精霊は消失してしまうのだ。


「大丈夫。私はどこにもいかないわ」


 シャインの視界に茜色の光が踊った。黄昏に輝く水面にロワールの紅の髪が海風に舞っている。それを指先で絡め、ロワールはシャインを安心させるように首を傾けて微笑んだ。


「すまない、ロワール」


 彼女の笑みにシャインは謝罪で返した。

 シャインには謝罪の言葉しか口にすることができなかったのだ。

 やり方はいろいろあるはずなのに、一番最悪な手段を選んだ。


 ロワールハイネス号はアノリア港の西――西の港と呼ばれるそれを背にして、近づいてくるリュニス皇帝の艦隊を待ち受けようとしていた。


 刻々と近づいてくるリュニス艦隊は、ロワールハイネス号の存在に気付いているのか、針路を変更する気配がない。シャインはそれを睨みつけながら言葉を続けた。


「伝えなくてはならないことがあるんだ。でもそれは、きっと必要ではないと思う。俺が伝えなくとも、エルシーア側がアノリアを取り戻せば、リュニスは戦闘を放棄する可能性がある。しかし……」


「いいのよ、シャイン」


 ロワールはいつものように、ちょっと高飛車な態度でシャインの言葉を遮った。


「言ったでしょ? 私はあなたに従うって」

「ロワール」


「私が止めてって言ったって、あなたが止めてくれたことは一度もないんだから。だったら、もう一緒にやるしかないじゃない。なんたって私達は一蓮托生なんだから。そうでしょ?」


「――随分と難しい言葉を使うようになったんだね」


 自らの容姿や言動が子供っぽいことを苦にしていた一年前のロワールとは明らかに違う。そう思った時、ロワールの眉毛が不機嫌そうにつり上がった。


「あらひどいわシャインったら。私のこと、まだそういう風に思っていたわけ!?」

「あ、いや……それは……そうじゃないよ」

「嘘。私の事、馬鹿にしてる」

「してないよ。ロワールも成長したんだなって、そう思っただけだよ」


 シャインは再び前を向いて操船に集中した。

 けれど何故か胸には様々な想いが込み上げてきた。


 できればこのままずっと、君と一緒に海を駆けたかった。

 君と共に俺も一人の人間として、成長するのも悪くはない。

 そんなことを思うことができたのは、まぎれもなく君がいてくれたからだ。

 君がいてくれたことが俺の生だった。

 それは嘘偽りのない真実だ。


 シャインはリュニス皇帝の本隊の針路を遮るようにロワールハイネス号を走らせた。リュニス皇帝が『青の女王』号に乗っていることは間違いない。

 皇族専用艦にしか掲げることができない、黒地に黄金で刺繍された神獣シーリウスの旗が、ミズンマストに翻っていたからだ。


 シャインはロワールハイネス号を『青の女王』号に寄せ、鉤手のついたロープを甲板に投げ込んで単身乗り移るつもりだった。


 けれどロワールハイネス号の前には、二本のマストを持つ大型の軍用ドロモンが立ち塞がるようにやってきた。ロワールハイネス号を青の女王号に近づけまいとするかのように――。


「大変シャイン! 向きを変えて! ぶつかるわ!」


 ロワールの叫び声でシャインは我に返った。前方を遮る軍用ドロモンに気を取られていたせいで、左舷側から近づいてくるもう一隻の小型のドロモンの存在に気付かなかったのだ。


 舵輪を取舵一杯に回す。反応のいいロワールハイネス号はそれに応えて船首を徐々に右へと変えるが、波飛沫を上げてこちらへ突進してくるドロモンの方が早い。


「――!」


 何か大きな鉄の塊で殴られたような、凄まじい横方向への衝撃がロワールハイネス号を襲った。

 船全体が持ち上げられるようにぐらりと右舷側へ傾き、シャインの手は舵輪から離れた。


 手だけではない。まずいと思った瞬間、シャインは体ごと右舷側へ弾き飛ばされていた。辛うじて海に投げ出されはしなかったものの、舷側に背中と頭を強く打ちつけ一瞬息ができなくなった。


 けれどロワールハイネス号に突進してきたドロモンはまだ前進を続けている。

 薄暗い視界の中でシャインの耳は、ロワールハイネス号の船体が、ドロモンの船首下部につけられた銛によって、ぎしぎしと引き裂かれる鈍い音をきいていた。


 声なき悲鳴が確かに聞こえた。

 ロワール。

 彼女のことを思うのと同時に、シャインは左脇腹に焼け付くような痛みを感じた。


 恐る恐る右手を伸ばし、痛みを感じる場所を探ろうとしたが、寧ろ違和感があるのは右肩の方で、何かに押さえつけられているかのように手を動かすことができない。


 舷側にぶつかった時、肩を脱臼したのかもしれない。シャインはさらに痛みが増す左脇腹の具合を確かめるため、動く左手をそっと伸ばした。しかし外傷は感じられず、刺さっているものもない。


 これは――彼女の『痛み』だ。

 船体に傷を受けたロワールの『痛み』だ。


 シャインは唇を噛みしめ目を閉じた。

 俺が、ロワールを傷つけた。

 ロワール、君は無事なのか?

 船は今どういう状況なのか。


 左舷船体に穴を開けられたのはわかっている。この抉られるような熱を伴った痛みのせいで。

 このままだとロワールハイネス号は沈む。

 いいや。本当ならもうとっくに沈んでもおかしくない衝撃だった。

 きっとロワールが持ちこたえているせいだろう。


 シャインの脳裏を一年前――ノーブルブルーのファスガード号のことがよぎった。妹艦エルガード号の砲撃を受けながら、船の精霊ファスガードは、シャインが船を離れるまで沈没しないように長い時間持ちこたえてくれた。


 同じように、ロワールが与えてくれた時間を一秒足りとも無駄にはできない。

 だがシャインはほんのわずかな刻だが、暫し意識を失っていた。

 気が付いたのは、誰かがこちらへと近づく足音を耳に捉えた時だ。

 はっと目を開く。


「リースフェルト」


 聞き覚えのある男の声が、シャインのリュニス名で呼びかける。

 同時に首筋にちりっとした鋭利な刃物の切っ先が当てられるのを感じた。


「起きろ。間者め。我が近衛の軍服をまだまとっているとは、いい度胸をしているではないか!」

「……くっ」


 シャインはようやく朧げだった視界の霧が晴れていくのを見つめた。

 夕暮れ迫る水平線が、空が茜色に染まっており、それを背にした誰かがシャインの目の前に立っている。


 逆光で顔が影になり判別しづらいが、そのいらいらとした口調の主は、バーミリオン皇子以外にありえない。何度か瞬きを繰り返し、シャインは眉をつり上げ自分を睨みつけるバーミリオンの端整な顔を見上げた。

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