5-70 メリージュの過去

「本当に……ありがとうございます。メリージュさん」


 シャインは心からの礼をメリージュに述べた。

 普段から不規則な食事をしているので空腹は感じていなかったが、口の中が乾いて喉がひりつき、声が出せなくなるかと思うほどであった。


「いいえ。お気になさらないで下さい。私にできることがあれば、何でもいたしますから」


 海水は徐々に引き始め、小柄なメリージュの胸の下まであったそれは、太腿の付け根ぐらいまでの所まで水位が下がっている。

 シャインは周囲の気配を探るため、全神経を耳にするようにして尖らせていた。

 誰かがここにやって来たら、メリージュの身は勿論、命も危ない。


 現に一度、日没前だっただろうか。洞窟の岩壁が紅に染まった頃、サセッティ近衛兵隊長がここにやってきたのだ。予告通りエルシーアの情報を引き出すつもりだったらしいが、シャインはあくまでも同じ言葉を繰り返した。


 元々サセッティに話すことなど何もないのだ。特にエルシーア海軍の海軍統括将がアリスティドからノイエ・ダールベルクに代わったこともあり、シャインにもエルシーアの動向が読めなかった。


 今思えば適当な事を言ってリュニス側を混乱させてやれば、時間かせぎができたかもしれないと密かに後悔している。

 それよりも。

 早くメリージュにここから立ち去るようにと言うつもりだったが、シャインは別の言葉を口走っていた。


「メリージュさん。あなたは俺がエルシーアの間者であることをご存知のはず。それなのに、どうして俺を助けようとして下さるのです?」


 シャインははや乾き始めた唇を舌で湿らせた。

 薄暗い角灯の投げかける弱々しい光の中で、少し寂しそうな、それでいて怒りを感じる様な、複雑な表情をメリージュは浮かべていた。


「……リース様、『クレスタ』という島をご存知ですか?」


 どこかで聞いたことのある言葉。シャインは先日女官のアリサに頼まれて、茶会用の茶器を一緒に倉庫へ取りに行った時のことを思い出した。


「アリサさんからおききしました。メリージュさんも、俺の母と同じ――クレスタ島の出身だと」

「そう」


 言葉少なくメリージュは答えた。


「十六才の時まで私はクレスタにおりました。クレスタが私の本当の故郷です。リース様……あなたのお母様、リュイーシャ様は島長の娘で、私はお屋敷で女中として働いていたのです」

「それは……本当ですか?」


 シャインは自分の声が震えていることも気付かぬまま問いを口にした。

 メリージュは何もかも悟ったようにただにっこりと微笑んでいる。


「ええ。リュイーシャ様と私は年が近いこともあって、何でも話せる友達だったんです。ですが事情があって、私はクレスタを離れてしまいましたから、二十年以上も経った今、リース様のお顔を見て驚いてしまったんです。どこかで見覚えのある――でも忘れることのできないあの方の眼差し。あの時は取り乱してしまい、本当に申し訳ありませんでした。私もすぐに、リース様がリュイーシャ様のお子さんだと、すぐに確信が持てなかったものでありますから……」


「そうだったんですか。いえ、驚かれるのは無理もないと思います。俺もこんな異国で母の名を聞くとは思ってもみませんでしたから。でも……」


 シャインは疑問を口にした。


「どこで、俺がリュイーシャの息子だと確信されたのです?」


 でなければメリージュが命の危険を冒してまでここに来るとは思えない。

 メリージュはじっとシャインをみつめている。その視線がふと真剣味を帯びて鋭くなった。


「リース様、右手の人差し指にはめている――リュイーシャ様のものではありませんか?」


 シャインはうなずいた。


「そうですが……どうしてそれを」


 メリージュは一瞬戸惑ったようにシャインから視線を逸らした。

 ゆらゆらと揺れる水面を見つめたまま口を開く。


「クレスタ島は別名「風の生まれる島」といわれておりまして、海で発生した嵐は必ずクレスタ島を通ります。島民はその嵐を鎮める力を海神に願い、それをきき入れた青の女王は、島で一人だけ、風を制することができる力を与えます。それが『巫女』です。


『巫女』は海神に選ばれた証として、あの海色の指輪を与えられ、身に帯びなければならないとされています。私が知っているかぎり、リュイーシャ様が最後の『巫女』です。ですがリース様、あなたがその指輪を身に帯びていらっしゃることが、私にはとても不思議なのです」


「不思議――と言われますと?」


「あの指輪は――海神・青の女王に仕えることが認められた『巫女』にしか所持することが許されないのです。長い島の歴史で、男性が『巫女』に選ばれたことはありません。まさかリース様、ひょっとして、リースフェルト将軍のように男装されているわけでは……」


 一瞬メリージュの顔が虚空を彷徨った。

 シャインはそれを傷ついたように寂しげに首を振った。


「そうじゃないことを、あなたが一番よくご存知だと思いますが」


 まさか皇帝と面会するために、シャインを素っ裸にして風呂に放り込んだ時のことを忘れてはいないだろう。ふふふ、とメリージュが失言だといわんばかりに苦笑する。


「ごめんなさい、リース様。決して悪気があったわけではないんです。お許し下さいまし」


「いえ、それは構いませんが……指輪は確かに母の形見です。どういうわけでこの指輪を身につけていられるのか……それは俺自身にもわかりません。ですが、母の妹、叔母のリオーネも、確かにこの指輪は自分が触れることができないと言っておりました」


 メリージュの目が一瞬大きく見開かれた。


「あら……あの可愛らしかったリオーネ様はお元気でいらっしゃるのね! いつもリュイーシャ様の後ろにくっついて、ちょっと天然だったお姉様をしっかり見守っていらっしゃったわ。クレスタを思い出すことはもうあまりなかったのだけど……」


 メリージュがそっと指で目元をこすった。


「あの頃は穏やかに時が流れていた。私だって結婚したばかりだったもの……」

「メリージュさん」


 シャインは表情こそよく見えなかったが、メリージュが昂った気持ちをぐっと堪える様子を感じ取った。


 クレスタ島のことはリオーネも父アドビスも話してくれない。

 きっと――おそらく今から二十年以上も前、何かがあって、クレスタ島から島民がいなくなった。


「何か辛いことがあったんですね。だから、叔母のリオーネも故郷クレスタ島のことを、俺には話してくれません」

「……」


 沈黙が流れた。メリージュはうつむき、長い間海水に体を浸しているせいで寒さを感じるのか、両腕で自らを抱き締めるようにしていた。


「――そう。とっても辛い出来事がありました。あの長い長い一夜を、私は今も忘れることができません」

「メリージュさん。あの、無理に話す必要はありません。俺は」


 メリージュは静かな微笑を口元に浮かべて首を振った。


「いいえ。私は大丈夫。むしろ、リュイーシャ様の息子であるリース様ならお話できますわ。手っ取り早い話が、クレスタもリュニス皇帝の後継者争いの内乱に巻き込まれただけなんです。


 次の皇帝として指名されたのは、リュイーシャ様のお父上でもあるカイゼル皇子。ただ、カイゼル皇子はクレスタの巫女だったルシス様(リュイーシャ様のお母様)と結ばれるために、みずから皇位継承権を十七年も前に放棄して、クレスタの住民になられていたの。


 だけど、それを良しと思わなかったのが、自分が後継者として選ばれると思っていたロード皇子。結局ロードが皇帝になったけど、あの男は商船の護衛と偽って、クレスタ島へやってきたわ。クレスタでは良質の真珠が採れるから、それが島の貴重な現金収入でもあったの。私達は島民を上げて、二百人以上の人数で島を訪れたロード一行をもてなしたわ。そしてその夜。悲劇が起きたの」

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