5-69 海の洞窟

 ヴィズルは重ねられていたロワールの手のひらが離れるのを感じた。

 同時に青白い洞窟内に囚われているシャインの映像が脳裏から溶けて消え失せる。


「……ありがとう、ヴィズル。もう十分よ」


 ロワールの声はヴィズルが内心危惧していたことが馬鹿らしくなるくらいしっかりしていた。


「大丈夫か?」


 けれどヴィズルは短剣を再び懐に戻しながらロワールに声をかけた。

 気丈にふるまっていてもやはり彼女の顔は青ざめていたし、何より、ロワールハイネス号自身が――港内で大きな波のうねりがないというのに、ぐらぐらと小刻みに甲板が動いている。


「大丈夫よ。それよりも――シャインを助けに行かなくっちゃ」


 吸い込まれそうに深くて純粋なロワールの瞳がヴィズルをじっと見つめている。

 そこまで大きな期待を向けなくても十分わかってるさ。

 ヴィズルはゆっくりと頷いた。


「わかった。俺がシャインのいる洞窟まで行ってくる。だが今丁度満潮を迎えた所だ。シャインと話をしようも俺はずっと立ち泳ぎするはめになる。夜明け前ならいくらか潮が引いて、洞窟に入れるようになるはずだ」


「うん」


 ロワールは甲板に座りこんだまま、こくりと頭を動かした。


「……気をつけてね。ヴィズル」


 ヴィズルは左手を上げて困った様に銀髪の頭を掻いた。

 こんなに弱気でしおらしげなロワールは見たくない。昔みたいに勢いよくぱしっと平手打ちをかます元気な彼女の方がいい。

 ヴィズルはおもむろにロワールの茜色の髪に自分の手を置いた。


「何?」


 驚いて眉間を険しくさせたロワールの顔を見ながら、ぐりぐりと手を動かす。


「ああ見えてもシャインはから心配するな。掃除しても再び船底に湧いてくるフナクイムシみたいにな。奴は俺が知ってる限り、これまで四回死に損なってる」


「ちょっとヴィズル、なによそれ!」


 ロワールの白い頬が見る間に朱色を増していく。


「信じらんない! シャインを害虫や何かと一緒にしないで!!」


 さっと振り上げられるロワールの右手。

 それは狙いが逸れることなくヴィズルの左頬をひっぱたいていた。

 闇夜の甲板でヴィズルにしか聞こえない、けれど乾いた樽を蹴り飛ばしたように、威勢の良い音が周囲に鳴り響いた。


「ロワール」

「何よ。もう一発くらわそうかしら?」

「一言言わせろ。『フナクイムシ』は虫じゃなくて、二枚貝の仲間――うおぉ!」


 再びロワールハイネス号の甲板で、威勢の良い破裂音が響き渡った。




  ◇◇◇




 湿った弱い風。

 地下独特の重くて濁った空気。


 薄い灰色の布を頭から被って口元を隠し、周囲の様子を慎重に伺いながら、メリージュは地下牢へ通じる階段を下りていた。通常の地下牢には出入口に衛兵が詰めているが、<水牢>にはいない。もとい、衛兵を配備する必要がないのだ。


 二十年前、先・先代のリュニス皇帝が崩御した時、後継者をめぐってリュニスでは内戦が起きた。勝利した先帝ロードは、異母弟カイゼル皇子を擁護した領主やその臣下の何人かを<水牢>へ捕らえたという。


 以前は海底だったということを裏付けるように、リュニス本島の地下は珊瑚が堆積した地層がむき出しになっている。そこに身動きできないように罪人の両手を鎖で拘束し、そのまま潮が洞窟の天井まで満ちるまで放置する。


 彼らが飢えと喉の渇きを訴えて叫んでも、その声は洞窟に木霊する潮騒が消して誰の耳にも届かない。彼らが運良く長すぎる苦痛から解放された後は、潮がその体を海へとさらっていくという。


 <水牢>に通じる扉は施錠されておらず、更にそこから下へと通じる石の階段――正確には周りの白っぽい岩肌を削って作られたもの――の壁には何の明かりも灯されていない。


 さあっと生温い潮風に似たそれが、メリージュの強張った顔を隠す灰色の布をはためかせた。

 メリージュが知る限り、あの内戦以降<水牢>に入れられた者はいない。


 城下町で罪を犯した者は街の警ら隊の詰所へ連れていかれる。死罪を免れた者は、各諸島を巡る<ドロモン>の漕ぎ手として服役する。宮殿内の牢屋が使われるのは、もっぱら政治犯だ。それは勿論、他国からリュニスに侵入した間者なども含まれる。


 メリージュは手にしていた籠から小さな角灯を取り出し、かけていた黒い布を取り払った。

 過去ここに入れられた亡者のすすり泣きのような声が、地下から聞こえたような気がした。


 しっかりしなくちゃ。

 大丈夫。今はリース様しかいないんだから。


 メリージュは踵を返し、慎重に背後の扉を閉めた。暗闇の中でも珊瑚が堆積して出来た岩肌は、ぼんやりと白く光っており一瞬海底を思わせたが、その幻想的な光にメリージュは少しだけ落ち着きを取り戻した。


 角灯の弱々しい光だけを頼りに、ゆっくりと岩を削って造られた階段を降りていく。それは思ったほど長いものではなく三十段ほどしかなかった。


「……こっちから風が吹いている……」


 二手に分かれた通路に出た。メリージュはほのかに潮の香りがする風を感じた左手の通路を歩いていった。何度か選んだ方向が間違いではなかろうかと思った時、メリージュは足元の地面がてらてらと濡れていることに気付いた。そして道は緩やかに下っていた。


 十歩も歩かないうちにメリージュは天井が低くなったことに気付いた。

 手を伸ばしたら乾いたそれに手のひらがぺったりと貼りつけるくらいに。

 そして波が岩肌に当たって砕ける潮騒の音を聴いた。


 メリージュは恐る恐る音が聞こえる方――それは下の方から聞こえていた。じりじりと崖の淵まで寄ると、メリージュは息を飲んだ。

 そこはメリージュが立っている所が丸ごと陥没したようになっていて、誰かが掘った縦穴のようにも見える。その穴の中は海水が入り込んでいて、メリージュの持つ角灯の光を受けてゆらゆらと水面が揺れている。


「リース様!」


 メリージュは思わず出かかった声を必死で抑えた。

 縦穴の岩壁には、多少潮が引いたとはいえ、腰まで海水に浸かって頭上で手首を拘束されているリースフェルトの姿があった。


 メリージュは必死で周囲を見回した。ここから下に降りる階段、もしくは縄ばしごみたいなものはないだろうか。

 あった。

 そばの細長い岩(正確には上の天井と繋がっている鍾乳石)に、最近使われたとみえる長いロープが巻き付けられている。メリージュは角灯を地面に置き、ロープを手早く腰に回して結んだ。それを右手で持ち、角灯を拾い上げる。後ろ向きに後退し、口で角灯をくわえ、籠を左腕に抱えながら、慎重にロープを張りながら両手で握る。


 飛び降りるには少し高いが、ロープのおかげでメリージュは難なく低い崖を伝い下り、腰に結んだそれを解くのももどかしいと感じながら振り解いた。

 ざぱん。

 メリージュは自分の胸元から少し下まで海水があることに慌てた。思っていたよりもまだ水が引いていない。角灯を口にくわえたままで、左腕にひっかけていた籠が濡れないようすぐに頭上に載せた。


 水は地下水ほどではないが、少し冷たい。流れてくる海水に足をとられながら、メリージュはリースフェルトの傍に近づいた。

 角灯をくわえているので呼びかけることができない。

 だがその必要はなかった。

 弱い角灯の光に気付いたのか、リースフェルトが驚いたように青緑の瞳を見開き、メリージュを凝視していたからだ。


「メリージュ……さん?」


 メリージュはうなずいた。

 それにしてもこの体勢はメリージュとしても辛い。

 第一リースフェルトと話ができない。

 メリージュは彼が繋がれている左隣に、空の鉄枷がはめられているのを見た。


 ちょっと待ってて下さいね。

 目でそう訴えて、メリージュは口にくわえていた角灯を右手で持ち、金具をつかんで鉄枷の鎖に引っ掛けた。


「リース様、ご無事でなによりです」


 角灯を引っかけるのと同時に、メリージュはリースフェルトに再びかけ寄っていた。


「どこかお怪我は?」


 大丈夫というようにリースフェルトがうなずいた。

 しかしまる一昼夜、こんな不自由な体勢で鎖に繋がれていれば疲労していないはずはない。


「どうして、メリージュさんがここに」


 掠れた声でリースフェルトが話しかけてきた。小声だがその口調はしっかりとしている。


「本当にご無事でよかった。実は……」


 メリージュは手短に自分がここにきた経緯を話した。


「アリサがバーミリオン皇子の部屋から出てくるサセッティ隊長と……肩に担がれたあなたの姿を見たのです。そしてこの水牢へ行く所を」

「アリサさん……なんて危ないことを」


 リースフェルトの青白い顔が憂いに歪むのをメリージュは見た。


「しかしメリージュさん。あなたがここに来るのもどうかしてる。誰かに見つかったら」

「ええ。勿論覚悟の上ですからご心配なく。それよりもリース様……」


 メリージュは視線をリースフェルトの手首を頭上で拘束する鉄枷へと走らせた。

 角灯を手元に持ってきて近づけてみないと暗くてよくわからないが、錆びついた太い鉄枷は鍵がかけられているのだろう。それらしき鍵穴が見える。

 鉄枷はメリージュの小指ほどの太さの鎖がついており、鉄の杭で岩壁に打ち込まれている。

 その時メリージュはリースフェルトの右手の人差し指に、きらりと何かが光るのを見た。


「申し訳ありません、リース様。この枷を外す鍵を私は今持っておりません。でも鎖なら専用の刃物を使えば切断できます。後で持ってきますわ」

「いいえ駄目です。メリージュさん!」


 叱咤する鋭い声がリースフェルトの口から発せられた。


「早くここから出て行って下さい。俺のために、あなたをこれ以上危険にさらすわけにはいきません!」

「……リース様……」


 メリージュはふっと微笑みを浮かべ、静かに頭を振った。

 急に胸が熱くなった。

 二十年以上も経って、もう忘れ去っていたと思っていたのに。

 あなたはあの方と、なんと良く似た眼差しで私をご覧になるのでしょう。


「ご心配下さってありがとうございます。でも、すぐに帰るつもりはありませんから。それよりリース様。喉が渇いていらっしゃるでしょう。水をお持ちしましたので、まずは先に喉を潤して下さい。それから少しですが、お腹の足しになるものもお持ちしました」


 メリージュは頭上に載せていた籠を下ろし、持ち手を左腕にひっかけると、水面にそれが触れないように注意しながら陶器の水差しを取り出した。取っ手のない素焼きの椀に水を注ぐ。

 椀をリースフェルトの口元に添え、飲みやすいように傾ける。

 彼に十分な水を飲ませてからメリージュは籠の中に手をやり、調理場から持って来た食糧を入れた紙袋の包みを取り出した。

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