5-66 水牢の虜

「アマランス号艦長ヴィラード・ジャーヴィス、お召しにより参上いたしました」


 ジャーヴィスはいつになく興奮を抑えながら、エルシーア海軍・参謀司令官の執務室の扉を開いた。


「ご苦労。中へ入れ」

「はっ」


 ジャーヴィスは手にしていた軍帽を小脇に抱え、感慨深げに室内を見回した。

 軍港が一望できる大きな窓の前には、黒の将官服をまとった背の高い金髪の男がジャーヴィスを待っていた。以前はその姿が発する大きな圧力感に圧倒されていたが、今はこの部屋の主が再び戻ってきたことに、喜びと安堵を感じるのだった。


「参謀司令官への復帰おめでとうございます。グラヴェール中将閣下」


 ジャーヴィスは執務席に近づいて一礼すると、祝いの言葉をアドビスに述べた。

 それを見たアドビスは大きく表情を崩すことなく、ただ――ジャーヴィスの祝辞を拒む様に目を伏せただけだった。


「……私の復帰は一時的なものだ。ジャーヴィス艦長。リュニスとのごたごたが解決したら、私は再びこの職を辞するつもりだ」

「……グラヴェール中将……」


 ジャーヴィスは自分の早合点を即、アドビスに詫びた。

 けれどアドビスはそれを以前は滅多に見せなかった笑みで受け流した。


「時間が惜しい。早速、アマランス号への命令を発する」

「はっ」


 ジャーヴィスは不動の姿勢をとった。

 アドビスは隙のない青灰色の瞳をジャーヴィスに向けた。


「リュニスと人質交換の交渉がまとまった。近く、アノリアへ艦隊を向かわせる。アマランス号もそれに随伴して欲しい。出港命令は三日以内に出る。準備を急ぐように」


「はっ」


「なお、旗艦はウインガード号。ダールベルク統括将が艦隊司令官として乗艦する。私はジャーヴィス艦長、お前のアマランス号に乗る」


「は……え、ええっ?」


 ジャーヴィスは思わず戸惑った返事を口にした。


「グラヴェール中将閣下が、私の船にお乗りになられるんですか? 私のアマランス号は砲二十門しか装備していない小型艦です」


「それでいいのだ。艦隊の指揮はダールベルク統括将が執る。私はあくまでも補佐、もしくは別行動を命じられる可能性がある。そのためにはジャーヴィス艦長。機動性の高いお前の船に乗る必要があるのだ。勿論、ダールベルク統括将が旗艦への移乗を命じてきたら、それに従わねばならんがな」


 アドビスは思案するように腕を組んだ。

 ジャーヴィスは何となく、アドビスがノイエと同じ船に乗りたくないのだという空気を察した。


「閣下が私の船にお乗りになる件、確かに了解いたしました。他に私がやるべきことは?」


 アドビスは腕を組んだままちらりと背後の窓を一瞥した。


「……いや、ない」


 ジャーヴィスはアドビスが返事をするまで、ごくわずかであったが、間があったことに顔をしかめた。

 本当は別のことをアドビスに訊ねたかったのだ。

 リュニスに行ったシャインは無事なのか。彼は未だリュニス軍にいるのか。

 彼と剣を交えることは再びあるのだろうか。


「わかりました。それではこれより船に戻り、出港準備を整えます」


 ジャーヴィスはそれだけをやっとの思いで言った。喉元まで出かかった言葉は敢えて飲み下す。


「頼む」

「はっ」


 アドビスはそれ以上何も語らず、ジャーヴィスに背中を向けて窓の外に見える軍港を眺めていた。

 それは思いこみかもしれないが、ジャーヴィスの目からみても、彼もまた遠い異国に赴いた息子の身を案じているような気がした。




 ◇◇◇




 メリージュは洗い物などを詰めた籐籠を抱え物見の塔を後にした。裏口から宮殿の中に入り、厨房に向かって廊下を歩く。自然と鼻歌を口ずさんでしまうのは、皇帝の命で、北宮殿の角に建つ物見の塔に閉じこめられている異国の令嬢――ディアナ・アリスティドの体調が目に見えて良くなってきたことが実感できたからだ。


 今日は葡萄と野菜のスープを召し上がっていただけた。お顔の色もだいぶよくなられたし、今朝は寝台から起き上がって、私が部屋に入るのをご覧になっていた。

 もう少し食欲があれば、体はいずれ健康を取り戻されるはず。

 後はまたリースフェルト様とお会いになれば、もっとお元気になられるに違いない。


 メリージュはディアナと対面した時のリースフェルトの顔を思い出した。

 彼女がここにいるというのがわかって、心から安堵したようだった。


 メリージュは何故彼がリュニスへ来たのか理由は知らなかったし、訊ねたこともなかった。けれど彼がディアナの身を案じていることから、ふと思った。


『まさか、リースフェルト様はあの方ディアナを探しにリュニスへ来られたのかしら』


 メリージュは朝食の支度が終わって、がらんとした厨房に入った。宮殿のいしずえにも使用されている、黒い大理石をくりぬいた流し台に食器を入れ、傍らの青銅製のポンプの柄を押す。

 これで宮殿の地下に掘られた井戸から地下水を汲み上げるのだ。

 流し台に流れ込む水は澄みきっており冷たい。火照った手を水に浸けながら、メリージュは目を閉じてしばしその気持ち良さに労働の疲れを癒していた。


「メリージュ?」

「……」


 聞き覚えのある声にメリージュは目を開けた。厨房の入口に、女官のアリサが立っている。彼女は不安げに眉間をしかめて、動揺を隠しきれない様子で辺りをきょろきょろとうかがっている。


「どうしたの?」


 声をかけるとアリサがこっちに来て、といわんばかりに黙ったまま手招きする。

 もう。

 仕方なくメリージュはアリサの所へ近づいた。


「メリージュ! どうしよう! どうしよう!」


 メリージュはあきれながら、明らかに平静ではないアリサを抱きしめた。


「落ち着きなさい。何があったの? ほら、私はここにいるから」

「うう……」


 アリサはメリージュに肩を優しく叩かれて、ようやく落ち着きを取り戻した。


「メリージュ、ここじゃ話せない。倉庫へ行きましょう」

「……わかったわ」


 アリサの動揺はただごとではない。

 メリージュはぴんときた。宮殿内で仕事をしている故に、やんごとなき方々の密談を彼女は耳にしてしまったのだろう。ここではよくあることだ。


 メリージュとアリサは人目を避けて、厨房の隣にある地下倉庫へ降りた。

 倉庫の鍵を持っているのは、衛兵隊長及び使用人頭と料理長、そして女官長のメリージュだけだ。


 扉の鍵を開けてメリージュとアリサは中に入った。

 入口の傍にはランプと発火石が備品として置かれている。それに火を灯すと、可愛らしいはずのアリサの顔は今にも泣き出しそうにぐずぐずになっている。


「どうしたの? 何か物騒な話でも耳にした?」


 メリージュの問いにアリサは小さく頷いた。


「メリージュ、私、見ちゃったの。サセッティ隊長が――リースフェルト様を肩に担いで、<水牢>へ行くのを……」


 メリージュは一瞬耳を疑った。


「え?」


「え、じゃないわよメリージュ! 私、皇子宮の前の廊下を掃除してて、ほうきを納戸へしまう所だったの。そうしたらバーミリオン皇子の部屋の扉が開いたから、納戸の中に隠れたの。ほら……最近バーミリオン皇子、機嫌が悪いじゃない。こんな朝早くから掃除してたら、うっとおしがられると思って、それで納戸に私入ってたの。そうしたら、部屋から出てきたのがサセッティ隊長で、あの人、誰かを肩に担いでた。近衛兵の黒の軍服に、月影色の淡い金髪――すぐにリース様だってわかったわ」


 アリサはその時の驚きが蘇ったのか、全身の震えを抑えるために両手をギュッと握り締めた。


「……まさか、サセッティ隊長が?」

「う、嘘じゃないわよ」


 アリサがメリージュを睨みつけながら口を開いた。


「お顔はちらりとしか見えなかったけど、あれは確かにリース様でしたわ。眠ってるのか眠らされているのかはわからなかったけど、意識がない様子だったわ。それで私、納戸から出てサセッティ隊長の後をつけたの」


 メリージュは思わず両手で口元を押さえた。


「アリサ……あなた……なんて無茶を。見つかったら、あなたもただではすまないわよ!」

「それは、わかってるわ。でも……だって、気になったんですもの。リース様が一体どこに連れていかれるのか」


 メリージュは無意識のうちに声を潜めて話していた。


「……で、後をつけたら、<水牢>に行ったのね?」

「ええ……多分、あそこに違いないわ」

「……」


 メリージュはしばし口を閉ざした。

 リュニスの宮殿には地下牢がいくつかある。

 そこにはこの島の地形を利用したものがあり、<水牢>とは、海につながる洞窟に作られた牢である。

 潮の満ち引きで牢に水が入り、三週間ごとに訪れる満月の夜には、牢内はすべて海水で満たされる。

 <水牢>に入れられるということは、死罪を言い渡されることと同等である。


「どうしてリース様が<水牢>へ? 私、サセッティ隊長にこのことを、訊いてみようかし……」

「駄目よアリサ! そんなことをすればあなたも殺されるわよ」


 メリージュは再び動揺し出したアリサの両手を握りしめた。


「落ち着きなさい。とにかく、このことは誰にも言っては駄目よ。宮殿に仕える者として、長生きしたければ、見聞きしたことは知らんぷりが鉄則よ」

「でも、でも、このままじゃ、リース様が」


 メリージュは深くうなずいた。


「わかってるわ。でもアリサ焦ってはだめ」


 メリージュはアリサを諭した。

 リースフェルトの素性が怪しいのはメリージュとてわかっている。

 ただ、今まで彼を自由にさせていた皇帝やバーミリオン皇子の気が変わった事は間違いない。


「私も自分で調べてみるわ」

「メリージュ!」


 乱れた金髪を振ってアリサが目を見開いた。


「危険よ、メリージュ」

「ううん。私は大丈夫。それに――」


 メリージュはリースフェルトの顔を思い出した。

 初めて彼の顔を見た時は、きっと目の錯覚だと思った。他人の空似。

 けれど皇帝と謁見のため、月影色の金髪を背に流し『深海の青』の衣装を着てメリージュを見つめる彼の青緑の瞳は、確かに見覚えがあった。

 もう二十年以上も昔の事だけど――。


「ねえアリサ。私がしていたこと、リース様からいていて?」

「え、ええ?」


 アリサが一瞬戸惑ったように口を開けた。

 メリージュはその様子に眉間を険しくさせた。


「ほら。オリアンヌ主計府様主催のお茶会の準備のため、リース様に食器の運搬を頼んだじゃない。その時に――」

「あ、ああ、?」


 何の事かようやく理解したアリサが大きくうなずいた。


「ごめんなさい。すっかり伝えるのを忘れてたわ。そうそう。リース様のことだけど、やっぱりあなたの言う通りだったわ」


 アリサはようやく普段の口調で話し始めた。


「リース様のお母様は<クレスタ三日月の島>の出身よ。でも、リース様が赤子の時に亡くなったんですって。けれど、お母様の妹……ええと、リオーネさんって名前だったわ。そちらはご存命で、リース様を育ててくださったそうよ」


 メリージュは俯いたまま目を伏せた。


 ああ、やっぱりそうだと思った。

 私の目の前に、あなたが現れたかと思った。


 ――リュイーシャ様。

   クレスタ島最後の『海神の巫女』……。

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