5-65 アドビスの意思

 白い大理石の柱が続く回廊を歩き、皇子宮へと向かう。

 長方形をした北宮殿は、東の端に皇帝の寝所があり、反対の西端にバーミリオン皇子の部屋・皇子宮がある。シャインはここに来たことがない。けれどそれは無理もないことだ。皇帝やその一族の警備は卓抜した戦闘能力があり、誰よりも信頼された者にしか任されない。


「リースフェルトを連れて参りました」

「ご苦労」


 確か、バーミリオン皇子が自分を呼んでいるときいたはずだが。

 シャインは部屋の中にバーミリオン皇子は元より、皇帝アルベリヒがいるのを目にした。他にも文官らしき中年の男性がいて、皇子は彼と何か話をしている。


「リースフェルト、前へ」


 サセッティに促されて、シャインは長椅子に腰かける皇帝と、その隣に座るバーミリオン皇子の所へ足を進めた。

 かちりと小さな音が背後で響いた。

 サセッティが扉を閉めてその前に立っている。どうやら扉は彼が守るように言われているらしい。


 シャインはそれを一瞥して、その場に片膝を付いた。

 皇帝とシャインとの距離は椅子十個分ぐらい離れている。

 許可を与えられるまで顔はあげてはならないし、近づいてもならない。


「顔を上げていいぞ。それから、もう少し前に」


 バーミリオンの声は普段と変わらず落ち着いている。シャインは自分が何故ここに呼ばれたのかわからないため、内心その不安で一杯だった。

 顔を上げれば表情を読まれる。

 何とか落ち着くよう自分にいいきかせ、シャインは顔を上げた。


 アルベリヒは略式の小さな冠を頭に載せて、濃い紫色の長衣に身を包んだ、いささか寛いだ格好だった。バーミリオン皇子は長い金髪を後ろでひとくくりにし、近衛兵と同じように黒い軍服を着用し、世継ぎのみが許される紫苑のマントを身にまとっていた。


 それにしても、皇帝アルベリヒのは心臓に悪い――。

 ヴィズルの知らせで、シャインはエルシーア海軍を統べる『海軍統括将』に、あのノイエ・ダールベルクが就任したことを知った。


 ノイエとは最も嫌な状況で出会い、会話をする羽目になったから、そのせいで苦手意識が働いているのかもしれない。


 もっと近くへ。

 今度は皇帝に手招きをされて、シャインは数歩前に進み出た。


 皇帝アルベリヒは知っているのだろうか。

 自分の顔とよく似た人間ノイエが、あのダールベルク家にいることを。


「朝早く呼び出してすまないな」


 長椅子の肘当てに手を載せ、黒い深靴を履いた足を組んだバーミリオンが口を開いた。


「いえ」


 シャインは短く返事をした。

 エルシーアでもそうだが、下位の者は上位の者から許可、あるいは話しかけられないかぎり、こちらから発言してはならないという決まりがある。


「お前をここに呼んだのは、朗報が来たのでそれを教えてやろうと思ったのだ」

「……」


 バーミリオン皇子の顔が普段よりどことなく明るいような気がした。

 不機嫌そうに光っていた切れ長の目も、今は和む様に細められている。


「やはりダールベルク家は使者を――エティエンヌをエルシーアで拘束していたぞ。だがこちらが望むなら、我らの所にしているアリスティド公爵令嬢と人質交換を希望すると言ってきた」


 なるほど。

 人質交換の話はヴィズルの知らせですでに知っているが、バーミリオンがそれをとても喜んでいるのが傍目でもよくわかった。


「しかし、エルシーア側の態度の軟化の理由だけが解せなくてな。まあ、我々もダールベルクの息子の花嫁を押さえるという強行手段に出てしまったが……この点はリースフェルト、お前はどう思う?」


 シャインはしばし沈黙した。

 その理由を問われるだけにこの場に呼ばれたのだろうか。

 バーミリオンの意図が読めない。シャインは慎重に言葉を選んだ。


「こちらに私は亡命した身ゆえ、エルシーアの狙いが何かと問われてもわかりかねます。ですが、私の知る範囲では、ダールベルク伯爵子息ノイエ様は、ディアナ様のことを愛しておられます。やはり、婚約者の命には代えられないと判断したのでしょう」


「……なるほど」


 バーミリオンの声は表向きは納得したようだったが、何か別のことを考えているかのように声量は小さかった。


「人質交換に異論はない。だが問題は、折角我々が押さえたアノリアの地のことだ」


 バーミリオンの発言を聴いて、隣に腰かける皇帝アルベリヒが口を開いた。


「エルシーア側はアノリアのことについて、説明はおろか言及すらしていない。我々としては、今までと同じように港が使えるかどうかの確認ができない今、折角この手に戻ったアノリアを手放したくないのが本音だ」


 シャインは新たな緊張が体を包むのを感じた。

 アルベリヒが新緑の瞳を細め、ひたとシャインの方を見たからだ。


「人質交換がエルシーア側の罠である可能性もある」

「いいえ。それはありえません!」


 シャインはそう口走った後、はっと我に返った。

 ノイエ・ダールベルクとは違う意味で鋭いアルベリヒの目が光を放つ。


「ほう。随分はっきりと言い切ったな、リースフェルト。そなたがそう思う根拠は?」

「……それは……」


 シャインは無意識のうちに皇帝から視線を逸らした。

 額にじわりと冷たい汗が浮いてくる。

 シャインが動揺しているのを、アルベリヒは勿論、バーミリオン皇子やサセッティも察しているだろう。


「それは」


 乾いてきた唇を舌で湿らせ、シャインは淡々とした口調で答えた。


「エルシーア側もおそらくリュニスとの戦争を回避したいのだろうと考えます。少なくとも、私がエルシーアを離れる前、海軍省はアノリアへ軍艦を派遣するつもりはないと、そう……きいたことがあります」

「ほう。それはどこできいた話のことだ?」


 アルベリヒは冷静にシャインに次の質問を口にする。

 これはもう尋問だ。シャインは思わず目を閉じた。


「リースフェルト、答えよ。それとも……」


 アルベリヒが周囲を目だけで見回した。


「この中で、エルシーアでのそなたの素性を知っているのは余だけだったな」


 シャインは目を開いた。


「恐れながら皇帝陛下。私は陛下の御許しを得て、リュニスの民になった身。もはやエルシーアとは何の関係もありません」

「控えよ! それは余が決める」


 皇帝アルベリヒはシャインへ鋭く一喝した。普段感情を大きく見せない皇帝が、ここまで声を荒げることはあまりないのだろう。実弟でもあるバーミリオンが、その声を聞いてびくりと肩を震わせている。


「リースフェルト。もうそなたは自らを偽る必要はない」


 アルベリヒが神託を告げる神官のように、厳かな声でそう言った。

 同時にシャインは背後に気配を感じた。

 足に力を入れて上半身を捻りながら立ち上がる――その前に。


「……つっ!」


 シャインの視界は床にあった。

 誰かに背後から物凄い力で頭と右腕を掴まれ、床に押さえつけられたのだ。


「最初からお前のことは怪しいと思っていたぞ!」


 上から降ってきた声は近衛兵隊長サセッティのそれだ。

 シャインは頭を押さえつけられたまま、右腕を背面へねじり上げられる痛みに顔をしかめた。


「皇帝……陛下。これは、どういうこと……」


 アルベリヒは再び長椅子に腰を下していた。その隣でバーミリオン皇子が静かに頭を振るのが見えた。


「リースフェルト。余はそなたに感謝している。そなたがリュニスに来てくれたおかげで、いや、そなたがエルシーアへ情報を流してくれたお陰と言おうか。今までエルシーアと一切交渉ができなかったのだが、こうして人質交換ができる運びとなった。だがこの機会を利用して、アノリアを手に入れる絶好の機会も得ることができた。本当に礼を言う」


「陛下……まさか、あなたは本気でアノリアを……くっ!」


 重しのような強い力でサセッティがシャインの頭を押さえつける。


「しゃべりたいことがあるなら、後で私がいくらでもきいてやるぞ。エルシーアの間者め」


 アルベリヒの顔には大きな感情の起伏が見受けられない。

 ただシャインを憐れむ様に、一度だけその瞼が閉じられた。


「エルシーアの艦隊が、攫ったエティエンヌを連れてアノリアへ来る。勿論彼らはアノリア奪還も考えていよう。だがそこを我らが待ち伏せしてエルシーアの艦隊を叩く。リースフェルト。いや、シャイン・グラヴェール。そなたは余にエルシーアでの素性を話すべきではなかった。


 余はそなたの父、アドビス・グラヴェールを。そなたの父は『エルシーアの金鷹』と呼ばれ、エルシーア海のみならず、このリュニス本島まで名を轟かせた軍人だ。エルシーア海軍参謀の息子が、国でどんな不祥事を起こしたのかは知らぬが、それが偽りならば、ここに来た目的は、我らが攫ったエルシーアの公女というのはすぐにわかる」


 すべてはあの謁見の時に見抜かれていた。

 今ならわかる。

 あの時、皇帝が何故シャインの来訪を『必然』だと言ったのか。

 そして、シャインのような者が来るのを、待っていたのかもしれないと言ったのも……。


 皇帝は最初からシャインがエルシーアの間者であることを知った上で、敢えて情報をエルシーアに流させたのだ。そうしなければ、ダールベルク家の妨害のせいで、バーミリオン皇子の許婚の所在を問うことができなかったのだろう。きっと。


 シャインは床の上からかろうじて見えるアルベリヒに向かって叫んだ。

 エルシーアが人質交換を求めた。

 これはの意思だ。


 リュニスがバーミリオン皇子の許婚を取り戻したがっているという、シャインの報告を聞いたアドビスが、早速動いてノイエ・ダールベルクに働きかけた結果だというのはわかっている。その行為を無駄にしたくない。


「皇帝陛下! お願いです。エルシーア側が人質交換を求めたのは、リュニスとの戦争を回避する選択をしたからです! どうか……お考えをお改め下さ……!」

「黙れ!」


 首筋に重い一撃が振り下ろされたのを感じた時、シャインの視界は一面闇に覆われていた。意識がじわりと遠のく。


 この事を、早く、ヴィズルに伝えないと。

 アノリアに来たエルシーアの艦隊は、リュニスの襲撃を受けて大打撃を被る。

 そうなったら両国の戦争は免れない……。

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