5-63 見守り続ける勇気

 日没から数時間が経過した頃、ヴィズルはなじみの酒場兼宿屋の部屋から抜け出した。酒場の営業が始まったので、一階ははや多くの客で満席になりつつある。

 ヴィズルは裏口から外に出た。宵闇に染まる建物の間を悠々と歩き、ロワールハイネス号が繋がれている波止場を目指した。


 シャインの奴、ちゃんと宮殿に帰っただろうな。

 ヴィズルは建物の影に隠れたまま、係留されているロワールハイネス号の様子をうかがった。昼間いたリュニス兵の姿が見えない。


 ヴィズルは僅かに唇を歪めた。

 さてはシャインの奴、のこのこ船までやってきて、リュニス兵に捕まったか。


 そう思った時、ヴィズルはロワールハイネス号の甲板に、ちらちらと灯りが揺れていることに気付いた。誰かが船に乗っている。


 まさか、シャインか?

 その時、ヴィズルが潜む路地の前を、馬に乗った黒い影が通り過ぎた。

 乗り手は係留されているロワールハイネス号の前で馬を止め、重いマントを翻してそこから降りた。


「バーミリオン様」


 ヴィズルは馬の乗り手が、ロワールハイネス号の甲板に向かって呼びかけるのを聞いた。ゆらゆらと灯りが揺れて、ロワールハイネス号の丁度中間部分にあたる舷門げんもんに人が現れた。

 肩を超す程度の長い金髪に、額環サークレットを戴いた青年。

 リュニスでは世継しか使用できない、紫色のマントを身にまとっている。


「どうした、サセッティ」


 ヴィズルはロワールハイネス号から目と鼻の先の建物の影――正確には、路地の前に放置されている大きな樽が三つ程並べられているので、その影に膝をついて身を潜ませていた。


 サセッティと呼ばれた、馬に乗ってここにやってきた大柄な黒衣の男が口を開く。彼が話している相手はまぎれもなく、昼間遠方からだったが、見かけたバーミリオン皇子その人だ。


「ご報告を、皇子。リースフェルトですが、先程兵舎に戻り、直接陛下へ今日の外出許可の礼を申し上げたそうです。私も奴が宮殿に戻ってくる姿をこの目で見ました」

「……そうか」


 ふんと鼻で笑いながら、半ば不満そうにバーミリオンは眉をひそめた。


「中々、勘が鋭い奴なのかもしれん。船の監視に兵士をたてていたことが警戒されたか」


「そうかもしれませぬ。今朝、奴に外出許可が出たことを伝えましたら、あからさまに喜んでおりましたから、必ず自分の船の様子を見に来ると思っていたのですが」


 バーミリオンは手にしていたランプを舷側に置き腕を組んだ。

 ヴィズルは聞き耳を立てた。先程よりずっと抑えた声でバーミリオンが話しだしたからだ。


「……リースフェルトがエルシーアの間者であることは間違いない。必要な情報は与えてやったからな。奴が自分の船に乗った所でそれを取り押さえ、国外逃亡の疑いで牢に放りこんでやろうと思ったが……」


「折角陛下が手紙まで書いて下さったというのに、残念です」


「まあいい。奴のことはどうとでもなる。取りあえず、気取られぬよう監視は続けろ。では、宮殿に戻るぞ」


「はっ。すぐに馬をお持ちします」

「ああ」



 やっぱり罠だったな。

 樽の影に背中を預け、ヴィズルは安堵の息を吐いた。

 バーミリオンとサセッティは馬に乗って港から立ち去った。船に残っていた数名の兵士達は、ここから少し先に突き出た岬のふもとに錨を下している<ドロモン>と呼ばれる大型船へ戻って行った。


 仮にロワールハイネス号に見張りの兵士がいるとしても、ヴィズル一人でなんとかなる人数しか残っていないだろう。

 人の気配が周囲から消えたことを確認して、ヴィズルはロワールハイネス号へと乗り込んだ。

 甲板には一つも灯りがついておらず、人の気配すらしない。

 いや――。


「ヴィズル?」


 囁く様に聞こえたそれはか細い女性の声。


「ようロワール。元気だったか?」


 ヴィズルは船尾の最後尾のマストに向かって甲板を歩いた。

 そこにはうっすらと青い微光に小柄な体をふちどられて佇む少女の姿があったからだ。


「――シャインは? 一緒じゃないの?」


 ありありと漂う失望感。この船に宿る<船の精霊>ロワールは、自分の魂の半身を求めて、狂おしくその存在を探している。


「俺だってあんたに会うのは久しぶりなんだけどな」


 内心それを残念に思いながら、ヴィズルはゆっくりと首を横に振った。


「シャインは無事? 昼間、彼の気配を近くで感じたの。でもここに来たのはあなたとリュニス人の騒がしい人達ばかり。知ってるんでしょ? シャインが今どこにいるのか!」


 ロワールの水色の目がヴィズルを射抜くように鋭さを増した。

 再びロワールに自分の存在を無視されて、ヴィズルは苦笑を浮かべながら彼女の問いに答えた。


「……え、ああ。奴は無事だ。でも、まだ当分ここには来れそうにない」

「どうして? どうして、どうして――!」


 間髪置かず、ロワールの絶叫が辺りに響く。これが人間の少女だったらヴィズルは慌てるが、相手は普段人の目で見ることができない<船の精霊>なのだ。その声が聞こえる人間は恐らくこの周囲にはいない。


 そしてヴィズルはロワールをなだめるつもりなどさらさらなかった。

 それができるのはシャインしかいない。

 日除けの布を巻いた頭をがしがし指で掻きながら、だから子供は苦手なんだとヴィズルは呟いた。


「何?」

「いや、何でもねぇよ。ただな、ロワール」


 ヴィズルは淡々と言葉を続けた。


「あんたが泣こうが叫ぼうが、今シャインはここに近づけねぇ。さっきまで金髪の性格悪そうなリュニスの皇子様とその下僕がいただろう? 連中はあんたを餌にして、シャインを罠にはめようとしてたんだ。聞いてたろ?」


「……でも……」


 ロワールは頬をふくらませて俯いた。

 緩やかにうねる茜色の長い髪が、風もないのに細かく揺れている。


「……ねぇ、ヴィズル」

「何だよ」


 ヴィズルは俯き、甲板に視線を落したロワールの心が、何かを恐れるように震えているのを感じた。

 思わずぞんざいな返事をしたことに少しだけ後悔する。

 俯いたまま、ロワールが口を開いた。


「どうして、シャインばかりなの?」

「……」


「私達、今まで何か悪い事をした? 私とシャインはただ航海してただけよ? なのに、久しぶりにアスラトルに帰ってきてから、シャインの様子がおかしくなったわ。岬から飛び降りたとか、それは嘘だったとか、急にリュニスに行くことになったり……ヴィズル、どうしてこんなことになったか、あなたは知ってるんでしょ?」


 ヴィズルはやりきれない想いをぶつけてくるロワールを黙ったまま見降ろした。

 ロワールはシャインが船に戻らないことに怒りや不安を抱いている。けれどそれ以上にシャインの身を案じている。


「そんなことを俺に訊くな。元々シャインは……あんな奴だからよ、他人の災難に巻き込まれやすい運命と言うしか――」


 ヴィズルは途中で口をつぐんだ。

 ロワールの水鏡のような瞳から、いくつもの涙が溢れて白い頬を伝い落ちるのを見たからだ。


「ロワール」


「……嘘でもいいから、シャインは「すぐ戻ってくる」って言ってよヴィズル! でないと私、このままここで待ち続けることに耐えられない。ううん。私の方は大丈夫。何があってもここに居続ける。でもそれはシャインが必ず私の所に帰ってくるって信じているからよ。だけど……」


 ロワールは嗚咽で声を震わせながら両手で顔を覆った。


「今回は違うの。どうしても……そう……思うことができないの。シャインは私に何も話してくれない。私だけには心を開いてくれていたのに、今は心すらも――触れる前に逃げてしまう……」


「……」


 ヴィズルは小さく溜息をついた。

 ロワールにこれまでのいきさつを話した所で、シャインがロワールハイネス号にすぐ戻れるというわけではない。

 かといってシャインがロワールに何を隠しているのか、ヴィズルにもそれはわからない。だがロワールが何を不安に思っているのかだけは理解した。


 ヴィズルは手で顔を覆ったままのロワールへ近づいた。

 片膝をついて、小さな肩に手を載せる。

 驚いたようにロワールが顔から手を放してヴィズルの目を見た。

 ヴィズルは大きめの唇を少し吊り上げて、しっかりとロワールの瞳を見返した。


「ロワール。信じるってことはな、相手が自分に心を開いているとか、いないとかってことじゃねぇと俺は思うんだ。理由はきかずとも、何があってもそいつのことを見守り続ける勇気――それがあるかどうかってことだ」


「……見守り続ける、勇気……?」

「ああ」


 ヴィズルは深く頷いた。


「あんたがシャインを心配する気持ちは嫌でもわかってるさ。でも、それは奴だってわかっている。あんたを心配させたくなくて、シャインは本音を洩らさないようにしてるだけだ。ああ、全くお前達は似過ぎてるから、わかりやすいったらありゃしねぇ!」


 未だ自信がなさそうに、眉をしかめてロワールが口を開いた。


「……私と、シャインが似てるって、どうしてそんなこと、ヴィズルにわかるの?」


 ヴィズルは立ち上がった。思わずロワールに背中を向ける。でないとこんな恥ずかしいこと、素面しらふで言えるか。


「何のために俺がここにいるんだよ? お前らを信じているからだろうが」

「ヴィズル……」

「じゃ、俺もヒマじゃないから帰るぜ。とにかく、シャインはあんたの所に必ず戻ってくる。いや、俺がひきずってでも連れて帰ってくる」


 ヴィズルは再びロワールの方に振り返った。ロワールの瞳にはすでに涙の粒が消えていた。

 まだぎこちないが、口元には小さく笑みが浮かんでいる 。それに気を良くして、ヴィズルは片手を上げて親指を立てた。


「この俺が言うんだから本当だぜ」

「……うん」


 ロワールが頷いた。


「ありがとう、ヴィズル。私、ここで待ってる。あなたたちが帰ってくるその時まで」

「ああ。じゃ、もう行くぜ」


 ヴィズルは再びロワールに背中を向けて、ロワールハイネス号の舷門から港へと降りた。

 きっと自分の背中をまっすぐな瞳で見ているであろう――ロワールの視線を感じながら、ヴィズルは路地にその姿をくらませた。


   ――何のために俺がシャインの手助けをするのか。


   理由はある。多分。

   でも俺がそれを奴に告げることはないだろう。

   誰かを助けるのに、理由をいちいち説明するなど馬鹿らしいじゃないか。


   だが、それが奴を助けるために必要なら、俺は語らなければならない。

   その時がくれば……。

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