5‐49 動き出す陰謀


 ◇



 私が覚えているのは、息苦しい闇と青白く光る雷鳴。

 激しく降りしきる雨の中、荒々しい足音と共に船室の扉が開け放たれた。


 一緒に部屋にいた女官のメリッサを、黒い軍服のようなものを纏った背の高い男が壁につき飛ばした。

 男は耳慣れない異国の言葉を声高に喋りながら、私の腕を掴み、ものすごい力で引っ張った。


 腕が引き千切れてしまいそう。

 痛みと恐怖で私は思わず悲鳴を上げてしまった。


 でもそばにいるはずの衛兵が来る気配はなく、男は私の腕を掴んだまま甲板へと引きずっていく。

 

 船を飲み込んでしまうのではないか。

 そう思ってしまうほどの高い波が、船縁を乗り越え甲板の中へと次々に襲いかかってくる。夜空に閃く雷鳴が、不気味なほど静まり返ったダールベルク伯爵の船を照らしていた。


 私は半ば意識が朦朧とした状態で、男に腕を掴まれたまま辺りを見回した。

 誰も……いない。

 誰も。


 揃いの緑の式服を纏ったダールベルク伯爵の私兵たちはどこに?

 船を動かしていた水夫の姿すら見当たらない。

 まるで彼らをすべて嵐の海が飲み込んでしまったかのように。


 未だ私の腕を掴む黒い軍服の男がいなければ、私もたやすく甲板から振り落とされ波に飲まれてしまうだろう。


 けれど私の記憶は唐突にそこで途切れる。

 男が私の体を自分の方へ引きよせたかと思うと、強烈な薔薇の香りが押し寄せた。


 眩暈がする。

 香りが強すぎて、息ができない。

 一体私はどうなってしまうのだろう。


 助けて。誰か。

 誰か……。




 ◇◇◇




「……それほど具合が悪いのか」


「はい。時折目を覚まされますが、水以外の飲み物は体が受け付けず、食べ物もほとんど召し上がれない状態です」


「アモルファスはなんといっている?」


「先生は、この地の暑い気候に体が慣れないせいと――」


「どうしたメリージュ。気になることはなんでも言うのだ。あの者は大切な人質なのだからな」


 メリージュは視線を床に落としたままゆっくりと頭を下げた。


「はい、皇帝陛下。アモルファス先生が仰るには、あの方が快復されるには、精神的な心の支えが必要だと」


「心の支え?」


 メリージュはおずおずと顔を上げた。玉座にはバーミリオン皇子の兄であるリュニス皇帝アルベリヒが、竜顔をしかめて座している。


 十二才年が離れている弟皇子バーミリオンは興奮すると、彼らの父親で、今は亡き先代皇帝ロードのように気性が激しい一面を見せるが、兄皇帝アルベリヒは臣下へ表立って感情の起伏を見せる事がない。いや、大人しいのではなく、彼は言葉ではなくその眼光で自らの感情を表すのだ。


 言いたいことがあるのだろう。遠慮なく言ったらどうだ。

 アルベリヒの新緑の瞳はメリージュを威圧しながらそう語りかけている。


 メリージュは彼の視線を逃げずに真向から受け止めた。

 確かに――言わねばならない事がある。


「恐れながら皇帝陛下。あの方はお体もですが、心の方も大変弱っていると、お世話をする私にもみえます。そこでがございます」


「申してみよ」


「はい。アモルファス先生が仰る通り、あの方には精神的なが必要です。例えば……あの方と同郷の人間――例えば、リースフェルト様にお願いして、あの方と会わせてみてはいかがでしょうか」



 メリージュは皇帝が一瞬息を飲むのを冷ややかに見つめた。

 どうやら自分の提案が最良とは思われなかったらしい。

 けれど皇帝は再びメリージュに訊ねた。


「その理由は?」


「はい。あの方にとってリュニスは異国です。言葉も通じませんし、何より何故ここに連れてこられたのかも知らされておりません。自分がこれからどうなるのか。私はあの方のお顔に不安の影がまとわりついているのが見えます。


 幸いリースフェルト様は元エルシーア国のご出身。エルシーアではどのような身分の方だったのか存じませんが、立ち居振る舞いには洗練されたものを感じます。きっと教養のある良家の出でしょう。どなたにもお優しいですし、女官達の間でも人気がございます。ですから、あの方の不安を取り除いて下さると……私は思います」


「ほう。リースフェルトはもう女官達の心をとらえているのか」

「い、いえ。それは……」


「そうだな。エルシーア語はバーミリオンが一番上手く話せるが、今あれには別の仕事を命じているので、病人の相手をさせることができぬ。確かに、リースフェルトなら……大丈夫かもしれぬな」


 皇帝は鋭い新緑の瞳を細めて、ほんの僅かに眉間をしかめた。


「メリージュ女官長。あのエルシーアの公女は我々にとって最後の切り札なのだ。そして、できれば、未だダールベルクに捕らわれているエティエンヌを取り戻すために……いや、彼女が戻れば、公女もエルシーアへ返してやりたい」


 皇帝アルベリヒは玉座からさっと立ちあがった。


「わかった。リースフェルトを公女の所へ案内するがいい。だがあくまでも公女の体調が回復するまでだ。そして彼が何を訊ねても、質問には答えるな。よいな、メリージュ」


「はい」


 メリージュは深く皇帝に頭を垂れた。皇帝は衣の裾を翻して、玉座の後ろから居室へ続く通路へと姿を消した。皇帝の気配がなくなってからメリージュは立ち上がり、人払いのせいで誰もいない謁見室から退出した。




 ◇◇◇




 リュニスの気候は亜熱帯で年中暖かい。今夜のように風がない日は少し蒸す。

 けれどそんな気候を快適に過ごすために、リュニスの服は風通しのよい構造と、吸水性のよい布地で作られている。


 リュニスの内情を探るとはいえ、シャインは近衛兵としての生活にはや息苦しさを感じていた。


 一番の原因は海から離れたせいである。売り飛ばされてはいないだろうが、リュニス本島のどこかの港にいるロワールハイネス号へ行くことは未だに許されていない。


 ロワールはきっと――いや、彼女はすでに怒っていた。

 シャインは拗ねたロワールの顔を思い浮かべながら小さく溜息をついた。


 『私、あなたとは口きかない』


 バーミリオンの乗る「青の女王」号に拿捕だほされた時、ロワールは一切シャインの方を向かなかった。

 もとい――甲板から彼女の姿は消えていた。ロワールを怒らせた原因はよくわかっている。


「ストレーシア……」


 バーミリオンの「青の女王」号には、見覚えのある女性の姿を模した船首像が飾られていた。

 あの像を見て「ストレーシア」という名前を何故口にしたのか、実はシャイン自身よくわからない。


「俺は多分、あの女性ひとを知っている……」


 でも思い出せない。

 口に出るのは名前と、胸に狂おしく押し寄せる感情の高まり。果てしなく続く海の底に沈みこむような深淵の青――。


 ふと思う。

 あの女性が何者なのか知ってしまった瞬間、自分はその青き闇の中に落ちてしまうのではないか、と。


「……リース様。リースフェルト様」

「えっ」


 シャインは誰かの呼びかける声で、自分の思索から意識を現実へと引き戻した。

 すでに日は落ち金と銀の兄弟月が真っ黒な天空にかかっている。一日の務めを終えたシャインは、兵舎に隣接する衛兵用の沐浴場で汗を流してきたところだった。


「あ、メリージュさん!」

「ひどいですわそんなにも驚かれるなんて。まるで幽霊でもみたような顔」


 シャインの目の前に立っていたのは、長い黒髪を一本の三つ編みにして頭上に結い上げた女官のメリージュだった。メリージュとその他の女官達には、酒や焼き菓子の差し入れ、服の繕いをしてもらったりと実は大変世話になっている。近衛兵は宮殿内の警備につくので、自然とそこで働く女官や使用人達とも顔見知りになるのだ。


「あら。沐浴場にいらしてたの?」


 シャインは近衛兵の軍服ではなく、青い部屋着に着替えていた。リュニス皇帝と謁見した時メリージュが用意してくれた華美な衣裳ではないが、形は似通っている。メリージュはこれがリュニス本島での一般的な服の形だと教えてくれた。


 首に沿って小さな襟がついており、裾は基本的に踝の所までと長め。腰の所で前身ごろと後ろ身ごろが縫い合わされていないので、飾り帯で縛る。更紗のような滑らかな布地のズボンをはき、素足にサンダルか踵の低い山羊革の靴を履く。


 だがシャインはこれだけは譲れないとばかりに、靴だけは海軍時代から愛用の膝上まであるベルト付きの長靴ブーツを履いていた。


 サセッティ近衛兵隊長が武器を返してくれたので、護身用の短剣をそこにしまうためである。とりあえず後ろ暗い目的でリュニスにいるので、用心に越したことはない。


「まあー仰ってくださったら、お背中流しましたのに~」

「い、いや! もう! メリージュさん」


 冗談とわかっていてもシャインは慌てた。メリージュは未だにシャインのことをからかう。それは彼女の年とシャインの年が十五才ほど離れているせいだろう。


「素敵ですわ。その長靴ブーツ。若い女官達が騒ぐのも無理ないですわね」

「さ、騒いでいるって……何を」


 メリージュはくすくす笑いながら首を振った。年齢的に四十前の彼女だが、その顔は若い。シャインに向ける瞳は、実の弟を思う姉のように優しかった。


「いえ、リース様がその格好で歩かれると、裾の合間からすらりとした美しい脚線が見えて気になりますの。ああ、変な意味じゃなくて、リュニスではあまり深靴ブーツを履きませんから、リース様の服の着こなしがとても新鮮に感じられるんですのよ」


 これは褒められてるのか、やはりからかわれているのか。


「……多分、ここは褒められたと思ってお礼を言うべきなんでしょうね」


 シャインは眩暈を覚えながら額に手を当てた。

 最近すれ違う人の目が気になっていた。


 単にエルシーアから亡命してリュニスの国民になった自分の存在が、珍しがられているだけだと思っていたのだが。まさかそんな理由だったとは。


「実は何人か、近衛兵の同僚に靴を貸して欲しいと言われました。勿論、即刻断りましたけど」


 メリージュはふふっと小さく笑んだ。


「なぜですの? 近衛兵の若い子は新し物好きでお洒落だから、賭けてもいいわ。女官達の気を引くために、みんなリース様のような丈の長い深靴ブーツを履き出すわよ」


「それはどうでしょう。リュニスはエルシーアより遥かに暖かいですからね。それに丈が長いのは理由があるからですよ。メリージュさん、俺がここに何を入れているかご存じでしょう?」


 シャインはメリージュの顔色をうかがうように、額に当てていた手をゆっくりと下ろした。


「そうね。リース様の足にはうっかり触れないですわ。靴を脱がせようとしたら、怪我をしてしまいますもの」


 メリージュはシャインが長靴ブーツに短剣を潜ませているのを知っている。


「できればそのことは、にしていただけるとありがたいのですが」


「わかっております。私とリース様との秘密ですわね。じゃ、口止め料に何かいただかないと」


「えっ」


「……冗談ですわよ。全く、リース様は人の言うことをまともに受け止められるんですもの。お人好しにもほどがあるというか……」


 メリージュはシャインと目を合わせてころころと笑った。


「あの。それで、メリージュさん。ひょっとして俺に何か用があったんじゃないんですか?」


 シャインとメリージュは兵舎の出入口に向かう中庭の小道を並んで歩いた。

 すれ違う者はいない。

 まもなく兵舎は消灯時間を迎える。

 シャインは夜勤ではないので、部屋に戻って点呼を受けなければならない。


「ええ。少しだけ私に付き合っていただけませんか? サセッティ隊長の許可は得ております。私はリースフェルト様をとある場所にお連れするよう、皇帝陛下から命じられているのです」


「……皇帝陛下に?」


 シャインは足を止めた。メリージュもそれにならう。月明かりの下、メリージュの顔からは普段の快活さが薄れ、救いを求めるようにシャインを潤んだ瞳で見つめている。


「はい。どうしてもリースフェルト様に会って欲しい方がいるのです」


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