(6)『九尾の猫』亭にて

 『九尾の猫』亭は、ルシータ通りの北のはずれにあった。

 看板は出ていなかったが、店の玄関から意味ありげにぶら下げられた、9本のロープが風になびいているので、ここで間違いないだろう。


 店は三階建てと高く築50年ほどの古びた洋館といったたたずまいだ。入口と思しき木の扉は、ちょっとやそっとでは壊れないくらい分厚く、しっかりとしている。おそらく樫の木だろう。


 建物の裏手には水路があり、そこには小さな桟橋がかかっていた。

 どうやら手漕ぎの小船に乗ってこれを下れば、商港へ行く事も可能なようだ。


 視線を水路からルシータ通りをさらに北の方へ転じると、ジェミナ・クラスでも有数の歓楽街『カンパルシータ』のまぶしい明かりが建物ごしに見える。


 カンパルシータにも近いこの場所は、船乗り相手の酒場でも、貴族相手の水商売でも、どちらの客も呼び込むにはうってつけの一等地のようだ。


 さてと。一体何が出てくるのだろうか。

 私は玄関の軒下にぶら下げられたランプの明かりで懐中時計を確かめた。

 時計の針は19時を指している。


 夜というにはまだ早いのか、人影は数える程しか見当たらない。

 けれど私はアマランス号へ、22時までに戻らなければならないのだ。

 あと3時間しかない。


 ロワールハイネス号の手がかりがつかめればよいのだが。

 私は重い樫の木の扉の前に立ち、それをゆっくりと開いて店の中に入った。




 客の吸うパイプタバコの吐き出す紫煙と、ランプの炎を抑えた幻想的な光のせいで、店内は少し薄暗いが、広いカウンターが目の前に見えた。

 数えきれない種類の酒が棚に所狭しと置かれ、酒樽も幾つも並んでいる。

 通りを歩く人の姿は少なかったが、この『九尾の猫』亭には多くの客が入っていた。


 背中を丸め、一人もくもくとグラスの酒をあおっている者。

 談笑に声をあげている者。

 テーブルを囲み、派手な化粧を施した女性を隣に座らせ、カード博打にうつつをぬかしている者――。

 どこの酒場でもみられる光景が、そこに広がっていた。


 強いパイプタバコの臭いで一瞬むせそうになった私は、流れてきたそれを避けるために扉から少し歩き出した。首を店内の左の方へ向けると二階の廊下が見えた。

 そこには宿泊客用の部屋なのか、三つほど扉がついている。


 二階へはどこから上がるのだろう?

 ふと疑問に思った私は階段を探した。するとそれは、カウンターの中に入った左側の壁際にあった。

 これでは二階に上がろうと思ったら、カウンターの前にいる太ったバーテンダーに声をかけて、中に入れさせてもらわないと行く事ができない。


 どうするか。

 私は思案しながら、しばし二階の部屋を眺めていた。

 すると、三つある扉の一番真ん中のそれが突然開くのが見えた。


「……」


 そのままじっと見ていると、派手な羽飾りをつけた帽子を被り、濃い茶色の髪を上品に結った白い夜会服姿の、おそらく上流階級の貴族女が二人、連れ立って出てきた。こんな酒場には似つかわしくない、身なりの良い中年の女性達だ。


 彼女達は顔を見合わせ、時折くすくす笑っている。

 だが次の瞬間、私は思わず声を上げそうになった。彼女達のあとに部屋から出てきた青年の姿を見て。


 私と彼女達の間には少し距離があった。まわりではカード博打に夢中な船乗りが、大声で笑い声をあげていて実にやかましい。


 しかし私は、廊下の奥へと立ち去っていく貴族女を黙って見送る青年の横顔にしか、意識が向いていなかった。

 この場が貴族の邸宅なら、彼の存在はここまで浮いて見えはしない。

 場末の酒場だからこそ違和感を覚えた。


 ここで酒にまみれている船乗り達とはまったく異なる目の光。貴族女を見送る時に彼は軽く頭を下げたが、その動作は自然でとても洗練されていた。


 そして彼は部屋に戻らず、ふと階下の光景を眺めるようにその場に佇んだ。

 袖口こそ幾重のレースがあしらわれているが、質素な白いシャツと濃紺のベルベットのズボンに俊敏そうな体を包み、ヒールの浅い黒いブーツを履いている。


 しばし階下を見ていた彼は、うっとおしそうに顔にかかる前髪をかき上げると、肩口まで無造作に伸びた金色のそれを後ろへと払った。


 ――ああ。こんな所にいたなんて。


 私は思わず壁際に背中を預けた。

 『彼』シャインだというのは見間違いようがない。


 行方をくらましていた『グラヴェール船長』は、私に気付く事なく、再び背後の扉を開けて部屋の中へと入った。それを見届けてから、私はカウンターにいる坊主頭のバーテンダーの所へ歩いていった。


「二階へ行きたいんだが、入らせてもらえないか」

「あんた、見ない顔だが、紹介状は持ってるのか? あっちへはマダム・ポンパディエのがないと入れないきまりだが――」


 見た所四十代後半のバーテンダーは、私をうさん臭く見つめている。彼の落ち窪んだ青い目は、いわくありげな隙のない鋭い光を放っていて、やはりただ者ではない気配がそこから漂っている。


「紹介状を持っている連中は、まずこっちからんでな。お兄さん。悪いが、帰っとくれ」


 バーテンダーは私から視線をそらして、手で追っ払う仕種をした。

 私はむっとする気持ちを抑えながら、けれど冷静に口を開いた。


「黙って私を通した方が、利口だと思うがね。私はこの店が、海賊ストームのアジトだってことを

「――何だと……!」


 バーテンダーの眉間が寄せられ、その顔に暗い影が落ちた。

 私は油断なく背後に気を配った。何時の間にか数人の男達が私を取り囲んでいる。

 どうやらストームの手下らしい。


「私はただ、2階にいる友人のグラヴェール船長に会いたいだけなんだ。会わせてくれたら、ここで事を荒立てるようなまねはしない」


 じりっと背後から男達が迫ってくる。

 冷たい汗が私の背中を伝い落ちる。


「ウェッジウッドさん。彼は俺がここへ呼んだんだ。今回だけ特別に通してくれないかな?」


 落ち着いたトーンの声質。久方ぶりに聞く、彼の柔らかい声が私の耳を通り抜けていった。


 カウンターの左側にある階段から、部屋の中に入ったと思っていたグラヴェール船長がなんと下りてきたのだ。

 バーテンダーが油断なく私を睨みつけ、いまいましそうに唇をゆがめながら、彼は首をグラヴェール船長の方へ向けた。


「新入り。そいつはだめだ。マダムの言う通り、お前はさっさと2階へ行って、口さがない貴族の女どもの相手をしていろ」


 するとグラヴェール船長は、あの穏やかな表情を変える事なく、ただ一つだけ――あの意志の強い青緑の瞳を細めながら、毅然とした口調でつぶやいた。


「……だといったら?」


 ウェッジウッドと呼ばれたバーテンダーのつるりとした額に、青筋が浮くのを私は見た。


「おうおう。てめえ、いつからそんなことを言える立場になったんだ? えっ?」


 熊みたいな両手を組み合わせ、ボキボキと骨を鳴らす音がした。

 だがグラヴェール船長は肩をすくめただけだった。


「仕事はちゃんとこなしてる。それに、次の客が来るまで30分ほど空き時間があるんだ。その間少しだけ、彼と話したいだけだよ。お願いだ」


 ウェッジウッドは頭を垂れたグラヴェール船長を、しばし黙ったまま睨みつけていた。


「……今日のあがりから、この手間賃は差し引かせてもらうぜ。もちろん、マダムにはで」


「ありがとう。ウェッジウッドさん」


 バーテンダーが私に向かって、今にも噛み付きそうな形相で、カウンターの扉を開いた。


「こんな所に君が来るなんて。まったくもって驚いたよ」


 グラヴェール船長が、まるで子供みたいに無邪気な笑顔を浮かべながら、私に向かって手招きした。


「私の方こそ。あなたをこんな所で見かけるなんて、今でも信じられませんよ!」


 それは私の本心だった。


「じゃ、上で話をしようか」

 そう言って、グラヴェール船長は私の腕をつかんだ。



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