(7)マダム・ポンパディエ

 私はグラヴェール船長に連れられるまま、2階への階段を上がっていった。

 この店にはストームの手下が大勢いる。

 逃げ出すのはもう少し状況を見極めてからでもいい。


 先導するグラヴェール船長が例の部屋の扉を開けて振り返った。私を確認するかのように。視線が合うと彼は薄く微笑して中に入った。私も後へと続く。


 室内は紺と白を基調とした上品な部屋で、椅子等の家具やカーテン等の調度品はどれも高価そうに、ぴかぴかとした輝きを放っている。1階の酒場とはまったく違う趣の部屋だ。


 部屋の真ん中には長椅子と応接椅子が二脚置かれている。

 テーブルは、なんと船の舵輪部分がそのまま横に設置されていて、その上にガラスの板が載せてある。いかにも船乗りが好みそうなデザインだ。


「空いてる席にかけてくれ。もっとも、俺にはあんまり時間がないんだけどね」


 そう言ってグラヴェール船長は、傍らの青緑色をした長椅子に腰を下ろして背中を預けた。金糸使いの豪勢な刺繍がまぶしいクッションを傍らに引き寄せ、物憂げに頭をのせて目を閉じる。


「ちゃんと眠ってないんですか?」


 私の問いに、彼はゆっくりと頭を動かした。目は閉じたまま。


「ああ。マダム・ポンパディエが手当りしだい客を連れてきてね。休む暇もないよ」

「……」


 私はすぐに言葉を返す事ができなかった。

 そもそも彼はこんなところで一体何をしているのだろう。


「それで、君はこんな所へ何をしに?」


 私は唇を引きつらせながら、相変わらず目を閉じている彼を睨みつけた。


「それは私の台詞です」


 そこで私は彼に話して聞かせた。

 突然ヴィズルが私の船にやってきて、あなたを探して欲しいと訴えてきたことを。

 グラヴェール船長は相変わらず頭はクッションにのせたまま、しかし目だけは開いて私を見た。


「ヴィズルには、申し訳ないと思っている」

「だったら、何で奴にそう言ってやらないのです? ここを出て!」

は出られないんだ。ちょっと個人的な理由があって……」


 ええい、理由があるからここにいることぐらい、私だって察している。


「一体何のためです? 私も心配したんですよ。あなたが『また』、行方不明になったと聞いて……!」


「おや、いつ客を入れたんだい?」


 私は突然聞こえたその声に驚き、思わず自分の口を閉じた。

 向いの長椅子に体を横たえていたグラヴェール船長が、けだるげに右手を上げて額の上にそれを置く。


「すぐ話は終わりますから……ご容赦を。マダム・ポンパディエ」

「……」


 グラヴェール船長が座っている長椅子の後ろのカーテンが、持ち上げられるように左右に引かれたと思うと、そこには背の高い白いロングドレスをまとった女が立っていた。


「マダム……?」


 私はしげしげと、『マダム・ポンパディエ』なる女を見つめた。

 彼女はくるくると綺麗に黒髪を三段に巻き、その頭には柔らかな羽毛をふんだんにあしらった小さな白い帽子を斜めにのせ、同じような素材の襟巻きを首にかけていた。


 両耳には重そうな金剛石と金のイヤリングをぶら下げ、色白な肌色をした長い指には、殴り倒せそうな大きさの宝石がついた指輪が幾つもはめられている。


 だが、そんな豪勢な装いよりも、彼女を見て一番に目に付いたのは、ぷるんとしたとてもだった。

 忘れようとしたって、忘れることができない。あの唇の主は――。


「きっ、貴様! 何が『マダム・ポンパディエ』だ! 貴様は『海賊』のストームじゃないかっ!」


 私は椅子から立ち上がって叫んだ。

 するとあの女は急に目つきを険しくさせ、ずかずかと私の席まで歩いてきた。おもむろに襟巻きを巻いた胸元へ右手を差し込み、子供の腕ぐらいある長煙管を取り出してあの分厚い唇にくわえた。


「その名前を言うんじゃないよ。あたしは『マダム・ポンパディエ』なんだから」

「そんなのどっちでも同じ事だ!」

「……」


 ストームがムッとして私を睨んだ。その刹那。

 フゥーーッ。


「うわっ……げほん! ごほん!」


 ストームの奴、私の顔にタバコの煙を吐きかけやがった!


「あたしはこの店の主『マダム・ポンパディエ』。ルシータ通りの夜の女帝。ここであたしのことを知らぬ者はいないんだよ? わかったかい? ははははは……!!」


 くそっ。

 とんだやぶへびだ。


 ストームの煙草の匂いに辟易しながら私は咳き込んだ。


「ストームの『名前』は、海賊行為をする時だけ使ってるんだ、彼女」


 淡々とした口調で相変わらず長椅子に伸びているグラヴェール船長がつぶやいた。


「坊や、あんたは黙っといで。それよりも」


 ふぅーと、ストーム――もとい、『マダム・ポンパディエ』は、あの分厚い唇から紫煙を吐いた。


「海軍のお兄さん。用が済んだら、とっとと店から出ていってくれないかい。この子はこれから仕事があるんでね」

「仕事だと――?」


 私は二の腕の毛がざわりと逆立つのを感じた。


「そうさ。坊やはちゃっちゃと仕事して――」


 マダム・ポンパディエは、にんまりと笑みを浮かべた。そしてグラヴェール船長の隣に腰掛けると、やおら彼の顎の下に長煙管を突き付けた。


した700万リュールを、あたしに返してくれなきゃね」


 どういうことだ。

 700万リュールだって――?


 頭を動かせば、火の付いた煙管が顎に当たる。

 グラヴェール船長はクッションに頭をのせたまま、身動きせずに、上目遣いでマダム・ポンパディエを見ながら口を開いた。


「マダム。正確には借金じゃなくて……情報料だろ?」

「同じことだよ! あんたはあたしに700万リュール払うって、約束したんだから」

「おいおい、それは何の話だ?」


 私にはさっぱり状況が見えない。

 マダム・ポンパディエは大きく肩を揺らしながら息を吐いた。


「この間の海戦で、あたしはヴィズルに捕まっていたこの坊やを助けてやったのさ。その時に坊やが約束したんだよ。上手く島から逃げだせた暁には、謝礼として700万リュールをあたしに支払ってくれるってね」


「なんだと? そ、それは本当なんですか!?」


 私は驚きのあまり思わず椅子から腰を浮かせた。

 

「だけど、あれからあの海戦3ヵ月が経とうっていうのに、坊やからは一切連絡がない。だから三日前、坊やのロワールハイネス号をジェミナ・クラス沖でみかけたから、あたし自ら直談判に行ったってわけなのさ」


 私は唐突に状況を理解した。

 そういうことか。

 グラヴェール船長はジェミナ・クラスに帰港する途中でストームの襲撃を受けたのだ。そして借金のカタに船を押さえられ、彼女の店に連れてこられたのだろう。


「約束を破るつもりはない。今すぐは無理だけど、金ができたら届けるつもりだった」


 いつもの穏やかな表情を、今はむすっと不機嫌そうに歪めつつ、グラヴェール船長がつぶやいた。


 しかしマダム・ポンパディエはふん! と鼻息強く笑って、ようやく彼の顎の下から煙管を離した。そして、あの分厚い唇に満面の笑みをたたえつつ、甘えるような猫なで声で彼に話しかけた。


「あんたの器量なら、700万リュールなんてはした金、すぐにでも返せるって昨日も言っただろう~? 今夜のスケジュールも全部埋まってるんだから! うちへ来る伯爵だか男爵とかの貴族女を夢中にさせれば、三日とかかりゃしないよ?」


「……悪いが、たとえ商売とわかっていても、俺は人の気持ちを傷つける行為だけはできない」

「ああそうかい!」


 マダム・ポンパディエはうんざりとした面持ちで、羽飾りの付いた帽子を揺らしながら首を左右に振った。


「気持ちは変わらないってことかい。ま、あんたの強情さは良く知ってるから無理強いはしないけど」


 しゅるっ。

 シルクのドレスの衣擦れの音を立てて、彼女は立ち上がった。


「金を払うまではここにいてもらうからね! 今の稼ぎならあと三年かかるから!」

「……」


 なんだって?

 確かに700万リュールは大金だが、グラヴェール船長はそんなに長い間、ここにいるつもりなのだろうか?

 三年もロワールハイネス号を放っておくつもりなのだろうか。


 私は腕組みをして頬を膨らませているマダム・ポンパディエと、目を閉じて無視をきめこんでいる、グラヴェール船長の青白い顔を見比べた。

 彼は動じる事なく長椅子に寝そべったままだ。

 私はそれを見ていられなくて思わず叫んだ。


「グラヴェール船長。あなたは……本気でここに居続けるつもりなんですか!? 事情はわかりましたが、ヴィズルが言ってましたよ? 荷の納期は二日後だって。それに間に合わせないと、あなたの信用はガタ落ちになり今後の仕事に障りますよ?」


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