4-106 祈りの先に待つ者
◇◇◇
シャインはふと目を開けた。
周囲は圧迫感を伴った闇が壁のように取り巻いている。
そこで何度も瞬きした。
自分が本当に目を開いているのかわからなかったからだ。
気を鎮め、シャインは再度はっきりと目を見開いた。
ここは日が暮れて薄暗くなった『大聖堂』の中で、闇だと思ったのは、およそ二百はあるおびただしい数の黒百合の花だった。
「……」
シャインは両膝をついたまま、しばし黒百合を見つめていた。
けれど花は何も答えず沈黙を守るのみ――。
物言わぬ死者と同じように。
シャインは再び頭を垂れた。
赦しを乞うつもりではなく。
今はただ、犠牲となった人々の魂の安息しか祈れない。
けれどその祈りすら、まともに口にすることができなかった。
自分にはその行為すらおこがましく思えたのだ。
多くの人達を海に沈めた自分が、彼等の安息を祈る、だなんて。
「グラヴェール艦長」
背後で柔らかな声が呼びかけてきた。
シャインは左手を床について体の安定をとりながら振り返った。
そこには緋色の長衣を纏った総髪の神官が立っていた。
このアルヴィーズの大聖堂を管理している年輩の神官長だ。
神官長は肩掛けの緋衣を手で押さえながら、シャインが膝をついている聖堂内で最も神聖な場所へ、しずしずと歩いてきた。
「長い間祈られていましたが、お心は鎮まりましたか」
神官長が物腰柔らかな口調で話しかけてきた。
「……」
シャインは口元をひきしめ、首を小さく横に振った。
生きている限り、心が鎮まることなどない。
贖罪の日々はこれからずっと続いていくのだ。
「いえ……けれど、どうしてもちゃんと献花をしたかったので、神官長さまには感謝しています。遅くまで聖堂を使わせて下さって、ありがとうございました」
シャインはゆっくりと立ち上がり、白い髪を滝のように背に流した神官長へ一礼した。立ち上がって足を伸ばした拍子に、膝に鈍い痛みが広がった。
なるほど。思っていたより長い間、自分はここで跪いていたらしい。
それに相応しい時間、祈る事ができればなおよかったのだが。
「アルヴィーズは自ら悔い改める者に救いの御手を差し伸べる。あなたの祈りは神の身許まできっと届いておりましょう」
「……ありがとうございます」
白い総髪の神官長の目の中には暖かな光があった。
明らかにシャインを気遣う優しさが、その口調からも感じられた。
これだけの大規模な献花をする理由をシャインは神官長に話していた。
アストリッド号はともかく、ファスガード号とエルガード号が沈んだ本当の理由は、一月以上経った今も口外することを海軍省から禁じられている。
けれど『すべてを見通す正義の象徴』でもあるアルヴィーズ神の前にまで、口をつぐんでいられる程シャインの神経は図太くない。
「……また、来ます」
「夜も更けてきました。お気をつけて」
シャインは夜まで聖堂を開けてくれた神官長に頭を垂れ、見送りを受けながら建物の外へ出た。陽が落ちて真っ暗な空には、金と銀の兄弟月が釣り針のようにか細い姿で昇っている。
シャインは思い出したかのように、白い海軍の礼服へ視線を落とした。
日が暮れて本当によかった。
この格好で出歩くにはちょっと目立ち過ぎる。
疲れたように息を吐き、シャインは金糸の縫い取りが入った上着のポケットを探って、銀の懐中時計を引っ張り出した。
「19時……か」
時刻を確認し、シャインは取りあえず大聖堂の門扉をくぐって、石畳の大通りへと歩き出した。
聖堂で献花をすれば、気持ちの整理がつくと思われた。
けれどそれは反対に、自分が犯した罪の大きさを再認識することになった。
死者の数だけ供えられるおびただしい数の黒百合。
それは沈黙を守ったままじっとシャインを見つめていた。
「……」
シャインは近くに立っている街灯へ左手を伸ばした。
いつしか額には冷たい汗が浮き、どきどきと鼓動が早くなっている。
沈黙がこれほど恐ろしいとは思わなかった。
まだ罵倒されたり殴られた方がいい。
そうやって被害者の受けた心の痛みをぶつけてくれるほうがいい。
『沈黙』は肯定も否定もしない。
シャインの祈りも届いているのかいないのかわからない。
シャインは街灯に寄りかかったまま目を閉じた。
この罪を抱えて、俺は生きていけるのだろうか。
『お待ちしていますから、今日は必ず船にお戻り下さい』
「ジャーヴィス?」
シャインは目を開き、暗い街灯が石畳の上に丸く落とす明かりを凝視した。
通りに人影は見当たらなかったが、シャインはふと思い出した。
ジャーヴィスが聖堂に来た事を。
何故だ。
何故、君はあそこに来た?
どうしてだかわからないが、ジャーヴィスにはいつも知られたくない事に限ってばれてしまう。
大聖堂での献花の件も一切話していないのに、彼は今宵現れた。
まるでシャインを探していたかのように。
「……本当に、どうしてだろうね?」
唇を歪ませ、シャインは引きつった笑みを浮かべた。
しかも聖堂に現れたジャーヴィスは、いつもの高飛車な彼らしくなかった。
『お待ちしていますから、今日は必ず船にお戻り下さい』だなんて。
何をどうすればあの彼からそんな言葉が出てくるのか、いよいよもって不思議だ。
「ひどいな。まるで俺が一晩中、聖堂に籠るとでも思ったのかな」
急に笑いが込み上げてきて、シャインは左手で脇腹を押さえた。
そうしなければ大声を上げて、笑い出してしまいそうになったからだ。
ひとしきり息を詰めて笑いを殺し、シャインは街灯から離れ、ふらりとよろめきながら歩き始めた。
戻れと言われたら、戻るもんかと思うのが天の邪鬼の心理だ。
けれど酒が飲めないシャインは、気を紛らわせるために盛り場には行けない。
第一、白い海軍の正装姿でそんな店には入れない。かといって、一晩中街を歩き回るのも無意味だ。
明日はアリスティド統括将と面会の予定がある。帰港後すぐ召集されなかったのは、エアリエル号の艦長を務めたブランニルが、一報をアリスティドに入れてくれたからだ。それでアリスティドはシャインの体調とアドビスの負傷を気遣い、海軍省への召集を四日間待ってくれたのだ。
アリスティドの温情には感謝しているが、シャインにはわかっていた。
ノーブルブルー襲撃事件より端を発した一連の騒動について、海軍省の調査が本格的に始まれば、自分が自由に動ける時間は今後限られてくるということを。
だからというわけではないが――。
今しかなかったのだ。
自分の為した選択がもたらした事柄とどう向き合うか。
一区切りつけるために。
これが正しかったのか間違いだったのか。
来たるべき
「……帰るか」
薄く唇に笑みを浮かべ、シャインはロワールハイネス号へ戻ることにした。
◇◇◇
軍港の突堤に係留されているロワールハイネス号には、現在シャインとジャーヴィスしか乗り込んでいない。他の水兵達には下船命令が出ていて、次の任務が決まるまで陸上待機となっていた。
シャインはアリスティド統括将の許可を得て船に残っていた。海軍省へは下宿先の方が近いが、ロワール号にいる方が居心地が良いのだ。
そしてジャーヴィスが船に残っているのは、単に書類仕事や、船の設備に異常がないか確認する作業があるためで、それも大方終わっていた。
シャインがロワールハイネス号の三本あるマストに掲げられている橙色の停泊灯を目にしたのは、午後8時頃だ。
待っていると宣言した通り、ジャーヴィスはまだ船にいるようだ。
船の中間部分には
ここは扉のように開閉できて、ここから突堤まで木の渡り板が渡してある。
部外者など勝手に乗船しないように、普段木の渡り板は船内に引き込まれているが、今夜はまるでシャインの帰りを待っているかのように、それは設置されていた。
待っているといえば、ロワールハイネス号自身でもある『船のレイディ』ことロワールもそうだ。
「お帰りなさい。シャイン」
ロワールハイネス号の舷側の手すりの前で、赤髪をゆるく巻いたロワールが、シャインの姿を見かけた途端声をかけてきた。
「ただいま、ロワール」
シャインはロワールに向かって微笑んだ。
笑顔で呼び掛けられたから、自然と笑顔で返してしまう。
いや。
やはり、外出先から帰ってきて、誰かがそれを待っていてくれると何故か安心するものだ。
「シャイン。あの人、待ってるわよ」
「えっ?」
船に乗り込んだシャインはまじまじとロワールの顔を見た。
「あの人って……」
シャインの言葉の後をロワールが続けた。
「そう。ジャーヴィス副長」
その時、ふわっと体を浮かせてロワールが舷側に腰を下ろした。
その方がシャインの顔を見上げなくて済むからだ。
「副長と何かあったの? あの人、船に戻ってきてから変なの」
シャインは視線を虚空に彷徨わせた。
左手を上げて額に添える。
「……いや。俺には心当たりないんだが」
ロワールは首を傾げて肩をすくめた。
「よくわかんないけど、何かそわそわしてて、甲板に上がって外を見てたかと思うと中に入ってを繰り返してたわ。二時間ぐらいずっと。多分シャインの帰りを待ってたんだと思うんだけど。とにかく部屋に戻ってあげて。私はまた後でお邪魔するわ~」
うふふ。
ロワールは薄く笑って、シャインの目の前から姿を消した。
「……」
シャインはしばしロワ-ルのいなくなった甲板に立ち尽くしていた。
ジャーヴィスの様子がおかしい、だなんて。
「確かにおかしいといえば、おかしいけど……」
きっと彼も疲れがたまっているのだ。
大聖堂まで自分を心配してきたジャーヴィスであるし、自分を待っているのなら、早く部屋に戻り、そして改めて礼を言って、彼の心労を取り除いてやるべきだろう。
シャインは後部甲板まで歩き、そこの昇降口から階段を降りて艦長室へと戻った。
◇◇◇
予想では部屋でジャーヴィスが待っているのではないかと思っていた。
だが艦長室には応接机とシャインの執務机の上に置かれたランプに灯がつけられているだけだった。ジャーヴィスの姿はない。
「……」
拍子抜けしたシャインは、小さく溜息をついて執務机に向かった。
どっしりとした机の上にはランプ以外に物はない。
シャインは首を傾げた。
確かここはまだ片付けた記憶がないのだ。
聖堂に向かう時間が迫っていたので、取りあえず資料の書類を積み上げたままにして出かけたのだ。
まあいい。
それらはまた明日すればいいことだ。
シャインは首に巻いた白い飾り襟を外した。
落ち着ける場所に戻ってきて安心したせいか、急に息苦しさを感じたのだ。
ついでにこの堅苦しい正装も脱いでしまおう。
そう思った時、部屋の扉を叩く音がした。
「ジャーヴィスかい?」
「……はい」
「入ってくれ」
「失礼します」
艦長室の扉が開いた時、部屋の中に林檎を思わせるシルヴァンティーの香りが流れてきた。
「ジャーヴィス?」
シャインは執務机の側で立ったまま、ジャーヴィスがシルヴァンティーの入った白いカップを応接机に置くのを見た。
余談だが、応接机の右隣にある長椅子は、いつもクッションが置かれていて、実はシャインの寝台代わりになっている場所だ。
ジャーヴィスはそちら側に茶の入ったカップを置いた。
白い湯気をあげるシルヴァンティーは、作り置きではなく、煎れたてだというのがシャインにはすぐにわかった。爽やかな林檎を思わせる香りは、煎れたてでないと周囲に広がるほどにはならないからだ。
同時に、ジャーヴィスが自分の帰りを何時になく気にしていた理由もわかった。
シャインはお気に入りの長椅子へ腰を下ろした。
「ありがとう。ちょうどこれが飲みたかった所だ。でも、よく俺が帰って来るタイミングがわかったね?」
ジャーヴィスの強ばった顔が一瞬弛んだ。
どことなく緊張していたようにも思えるその面は、シャインがカップに口をつけると安堵したように穏やかなものへと変わった。
ジャーヴィスははにかんだように目を伏せた。
「突堤を歩いて来られる姿を見ましたので。それから湯を湧かせば、丁度部屋に戻られる頃に煎れたてをお持ちできますから」
シャインはカップを机に置いた。
「……大丈夫だから。もう」
「えっ」
狼狽したジャーヴィスを見上げて、シャインは薄く笑った。
そう。
自分は思っている以上に、多くの人から支えられて生きているのだ。
生かされているのだ。
それを忘れてはならない。どんな時も。
「ねえ、ジャーヴィス副長。前からずっと不思議に思ってたんだけど、どうして俺は君に隠し事ができないんだろう? 今夜だって、君が大聖堂に現れた時は、思わず息が止まる程驚いたんだよ?」
シャインがそう訊ねると、ジャーヴィスは冴え冴えとした青い瞳に鋭利な光を灯らせて、不敵ともとれる笑みを顔に浮かべた。
「当然じゃないですか。『あなた』の副官は『わたし』なんですから。今更、寝ぼけた事を仰らないで下さい。グラヴェール艦長」
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