【第3話・後日談】 兄と妹

 古都アスラトルの<東区>。

 街を縦断するように流れる大河、エルドロイン河岸東側の呼称。


 そこは海軍施設が立ち並び、商港とはまた違ったにぎわいをみせる区画。

 石畳で鋪装された大通りの一角に、その古びた建物はあった。


 一風教会を思わせる尖塔を持ち、長細い形の窓が並んでいる。窓枠には聖人を模した彫像がいくつも飾られている。


 積み上げられた石は元は白かったのだろうが、風雨にさらされてその表面はざらざらしている。


 背の低い植え込みと鈍く光る鉄の柵で、その建物の周囲はぐるりと取り囲まれているが、陰鬱な雰囲気は全く感じられない。


 むしろ年代を経たせいで厳かな空気が漂っている。

 鉄の門扉は開いていて、そこに掲げられている真鍮のプレートには、建物の名が刻まれていた。


 ‡ エルシーア王立海軍療養院 ‡


 がらがらと轍を石畳に響かせて、療養院の前に一台の馬車が止まった。

 馬をなだめて御者は座席のドアを開いた。


「足元にお気をつけ下さい、ファルーナ様」


 先に降り立った若いメイドは、淡いグリーンのドレスの裾をつまみ、そっと出てきた同い年の女主人へ声をかけた。


「大丈夫よ。さ、ライラ、行きましょう」


 ファルーナは肩を覆う、軽く内巻きにした明るい栗色の髪をゆすって微笑んだ。

 彼女は先月二十才になったばかりだが、その笑みにはまだ少女のような純真さがあふれている。


「ファルーナ様、ケープを」


 ライラに言われてファルーナは、はっとして白いレースの透かしが施されたケープを羽織り直した。馬車から下りる際に肩から滑り落ちたことに気付かなかったのだ。


 そのケープの白にほんのり赤みを差したような淡い色の肌に、透明感のある空を模した青い瞳。通った鼻筋。薄い唇。典型的な王都ミレンディルアの出自だとわかる容貌の彼女は、細い眉を八の字に寄せていそいそと歩き出した。


「あっ、お待ち下さい」


 その後をファルーナの世話をしているメイド、ライラがあわてて追いかけた。


 両開きの扉を開けるとそこは、療養院のロビーになっていた。

 天井が丸いドームになっていて、南側の細長い窓からいくつも明るい陽の光が差し込んでいる。


 待合室を兼ねているこの場所は、がっしりした木の長椅子が並べられており、任務中に負傷したり病気になった海軍の人間が何人も座っていた。

 ファルーナは困ったように部屋の入口で周囲を見回した。


「ファルーナ様、こちらです」


 ライラがそっとファルーナの手をとった。

 部屋の左手に通路があって、その前に白い布の帽子を被り、灰色のシンプルな長衣を来た修道女が立っている。


 ここは海軍の療養院という名がついているが、実は誰でも利用する事ができた。看護の人員に海軍の人間も多く勤めているが、病人の世話等、エルシーア教会の修道女も修行の一環として手伝いに来ている。


「あの、すみません」


 ファルーナは修道女へ声をかけた。

 修道女は物静かな笑みをたたえ、軽くファルーナへ会釈した。


「実は海軍本部から教えてもらったのですが、兄がこちらで療養しているそうなんです。それで会いに行きたいのですが、部屋はどちらでしょうか」


「お待ち下さい。名簿を持ってきますから」


 頭を軽く下げ、修道女は背にしたドアの中へしずしずと入っていった。

 そして、手に茶色の背表紙の本を携えて再び出てきた。


「お名前を教えて下さい」


 ファルーナは絹の手袋をはめた手を、そっと胸の前で組んだ。


「ヴィラード・ジャーヴィスです。ノーブルブルーのファスガード号に乗っていたそうです」


 ファルーナには羊皮紙を繰る修道女の動作が、すごく緩慢に見えてならなかった。

 五年以上会う事もなく、音信不通な兄の名前を口に出しただけで、目頭が熱くなってきて唇が震え出す。


「大丈夫ですか? ファルーナ様」


 幼少の頃からずっと一緒にいたライラが、ファルーナの感情の高ぶりを悟ってそっと声をかけた。

 ゆっくりとうなずいたファルーナへ、修道女がようやく目差すページを見つけた。


「南館の三階ですね。ご案内いたします」




 ファルーナは初めて足を踏み入れた療養院の中を、みっともないと思いつつきょろきょろと見回していた。南館は日当たりが良く、回復期に入った患者達が主に収容されていた。


 カーテンのみで間仕切りされたベットから、いかにも海の男らしい野太い笑い声や、陽気な話し声が辺りに響いている。見舞いにきた航海服姿の士官や水兵もまばらに見える。


 その広い一階を通り抜け、修道女とファルーナ達は階段を三階まで上がった。

 廊下の右手にはずらっと六部屋程の扉が並んでいる。


「一番手前の部屋です。面会時間は後二時間程で終了しますから、鐘が鳴ったらお引き取り下さい」


 修道女は大きく表情を崩さず、冷静な面ざしのままファルーナへ言った。


「わかりました。どうもありがとうございました」


 修道女はしずしずと立ち去って行った。


「いよいよですね、ファルーナ様」


 ライラに言われてファルーナはそっと扉に近付き、軽く握った拳でノックした。

 五年ぶりに聞く兄の声を期待する。

 しかし返事はない。

 ファルーナとライラは顔を見合わせ、思いきって扉を開け中へ入った。



「あっ……」


 ファルーナは思わず足を止めた。

 兄の部屋だと教えられたそこには先客がいた。


 ファルーナはそれに驚きつつ、白いカーテンがかかった窓の右脇に置かれたベッドを見つめた。見覚えのある濃い栗毛の頭がのぞいている。

 確かに兄・ヴィラードである。それを確認してからファルーナは、先客へ視線を移した。


「どうも眠ってしまったみたいです。俺も会いに来たのですが」


 陽に透ける金髪を三つ編みにして、白いコートタイプの海軍の軍服を着た若い士官が、苦笑しながらヴィラードを見つめていた。

 その手には淡いブルーのエルシャンローズの花束を携えている。


「兄の……ご友人ですか?」


 ファルーナの言葉に、金髪の士官はゆっくりと振り向いた。

 王都ではまずみかけない青緑の瞳が、一瞬動揺するように光るのをファルーナは見た。


「あなたは?」


 アスラトル生まれらしい、ミレンディルアより気さくなエルシーア語が返る。


「ファルーナ・ジャーヴィスと申します。ヴィラードは私の兄なんです」

「そうですか……」


 年若い士官は目を伏せて、やがてファルーナの前に近付いてきた。


「さぞかしご心配だったでしょう。でも医者からあと一週間程でここを出られると言われました。もう、大丈夫ですよ」


「あの……」


 士官はちらりと手にしたエルシャンローズの花束を見た。


「約束があるので、もう行かなくてはなりません。これはうちに咲いていたものですが、もし、よろしければ……」


「是非、頂きたいわ」


 ファルーナは咄嗟に口走った。

 士官の青年が一瞬驚いたように、青緑の瞳を見開く。


「こんなに素敵で大輪の花は、王都では見られませんの!」


 ファルーナはその瞳を見つめながら頬が熱くなるのを感じた。

 士官は小さく微笑した。その動きにあわせて左右に分けた前髪が揺れた。


「本当は……ちゃんとお詫びを言うべきなのですが、時間がありません」


 ファルーナは士官の言う言葉の意味がわからず、一瞬戸惑った。

 その端正な顔によぎった暗い影の理由も。

 どういう事か問いかけようとした時、そっとエルシャンローズの花束を手渡された。


「失礼いたします。俺に時があれば、いずれまた」

「あの……!」


 白い軍服の裾をなびかせて、士官は足早に部屋を出て行った。

 ファルーナとライラは顔を見合わせ、そしてエルシャンローズに視線を落とした。


「ヴィラード様、素敵な方とお知り合いのようですね」


 ライラが頬を赤らめながらぽつりとつぶやいた。


「そうね。あんまり素敵だからお名前を聞き損ねてしまったわ」


 ファルーナはライラにつられてにっこりと微笑した。


「堅苦しい王都と違ってアスラトルって本当に素敵。温かいし、エルシャンローズは咲いているし、空気も澄んでるし……私、あの方にもう一度お会いしたいわ」


 ゴホンッ! ゴホッ!!


 突如、むせ返るような咳が部屋中に響き渡った。

 あまりにも突然だったので、ライラは驚いて思わず頬に両手を添えた。


「あら……お兄様、起きてらっしゃったの?」


 一瞬恐怖に青ざめさせたライラとは対照的に、ファルーナはにこやかな微笑をたたえて、ゆっくりと奥のベッドへ近付いた。

 顔まで引き上げられた上掛けをそっとめくる。


「……なぜここへ?」


 明らかにひきつった兄ヴィラードの、少し青ざめた顔が現れた。

 五年前に比べて年経ているが、ファルーナはそんなことに少しも頓着しなかった。


「いけない事ですわよ。せっかくお見舞いにいらして下さった方へ、寝たふりなんかするなんて! 私、そんなお兄様は嫌い」


「ファ……ファルーナ。私は寝たふりなど……」


 ファルーナはまじまじと兄の顔を見つめた。


「いやだ、お兄様ったら顔が赤いわ。きっと熱がまだ下がってないのね。ごめんなさい! 体を冷やしてしまうわ」

「ファルーナっ!?」


 ファルーナは身を起こしかけた兄の両肩をつかまえて、寝かせようとベッドへ押しこんだ。


「そこ……傷っ……」


 まだ完治していない背中を、したたかにベッドへ打ちつけた兄が、目を白黒させているとはつゆ知らず、ファルーナはその場へしゃがみ込んだ。


「手紙を書いてもお兄様からぜんぜん返事がもらえなかった。だから、来たの」


 押し殺していた気持ちが一気にファルーナの心に溢れてきた。


「お兄様は船に乗っているから、アスラトルへ来ても会えないって思ったんだけど、ひょっとしたらって考えたら、いてもたってもいられなくて……」


 ファルーナはそっと手をのばして、兄の汗(実は冷や汗)に濡れた乱れ髪を払った。自分を見つめ返す青い瞳は五年前とちっとも変わらず、いや、それ以上に優し気な光をたたえていて、それがただうれしかった。


「ファルーナ? お前……」


 とめどなく頬を伝う涙は止まりそうになかった。


「すまない、返事が書けなくて。私はどうも手紙ってやつが苦手で……」

「お兄様、お願いがあるの。聞いて下さる?」


 ファルーナは涙を払って、兄の腕をとった。


「えっ?」


「さっきお見舞いに来た士官の方に、エルシャンローズを頂いたの! やっぱりお礼をしたいから、名前を教えて下さる?」


 ヴィラードはまじまじとファルーナを見つめていた。


「でも、お前は……私を心配して、私に会いに来たのだろう?」


「ええ。お兄様にはもう会えたわ。私お礼をちゃんと言いたいの。お住まいはどちらかしら。明日にでも伺いたいのに……」


「ゴホッ! ごほんっ!」

 再びヴィラードは咳き込み出した。


「お兄様!」

「すまんな……体調がすぐれんのだ。ゴホン! またにしてくれ」


 すがるような目でヴィラードはライラに助けを求めていた。


「ファルーナ様、ヴィラード様は怪我人ですよ。無理を言ってはいけません」

「でも、ライラ……」


 ライラは軽くウインクをヴィラードに返した。


「明日、また参りましょう。お兄様を休ませてあげなければ」


 ファルーナはその大きな瞳を悲し気に伏せて、こくりとうなずいた。


「お兄様。じゃ、私は一度宿へ帰ります」

「ああ……ごほん。気をつけてな」


 ファルーナは扉を開けて、兄の方へ振り返った。


「海軍省であの方のお名前を教えてもらってから、帰りますね」


 ぱたんと閉じられた扉の後ろで、声にならないうめき声をライラは聞いたような気がした。


「お兄様がちっとも変わってなくて本当によかった。ね、ライラ?」


 ファルーナがそれに気付いていないのは、いうまでもない。





【第3話・後日談】兄と妹(完)



      ・・・第4話「碧海の彼方」へと続く。



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