3-27 魂が叫ぶ嘆きの声

『どうして……どうして、私達が撃ち合わなければならないの――っ!!』


 その時、風に乗って悲痛な叫び声がシャインの耳に届いた。

 悲しみという感情を遥かに超えた、恨みの籠った、女の声。

 シャインは瞬時にその声の主に気付いた。

 ファスガード号の妹……エルガード。

 

 “怒り”だ。


 理不尽な運命を呪った、エルガードの憤りを感じる……。


「……くっ!」


 シャインは身震いした。

 突然、胸に短刀で刺されたような、鋭い痛みを感じて息が詰まったのだ。

 それに耐えかね左手で胸を押さえた時、ファスガード号の上甲板の大砲が一斉に火を吹いた。


 頭蓋が割れんばかりの音と、胸の疼痛に意識が一瞬途切れかけたシャインは、右手に持ったラフェールの剣を甲板に突き立ててその場に膝を付いた。

 剣にすがりつき、目の前の光景に釘付けになりながら。


 エルガ-ド号のメインマストが真っ二つに折れて、海面を叩くのが見えた。

 白い水しぶきが上がり、エルガードを砲煙と共に包む。


『いやあああっ――――!!!』


 もはや声にならない苦悶の悲鳴が辺り一帯に響いた。

 けれど恐らくシャインだけにしか聞こえないであろうそれは、全身の毛が逆立ち、気も狂わんばかりの激しさだった。


 シャインは剣を握りしめたまま膝をつき、自分に向けられたエルガードの怒りに耐えていた。唇を噛みしめ、薄い煙を上げて浮かんでいるエルガードから、目を離さなかった。瞬きもせずに。


「……エルガード……」


 彼女の長い、長い嗚咽を聞きながら、シャインは気力が萎えて、視界が定まらない感覚に襲われた。


 白い闇の中に何かが見える。

 シャインは剣にすがりながら、萎える足に力を込めて立ち上がった。


 やらなければならない。

 そう、決めたのだから――。


 たなびいてきた煙の間から、エルガードの青い船体に開いた砲弾の穴がいくつも見えた。確かにこのファスガード号の水兵達は、砲撃の鍛練がなっているらしい。


 シャインにはさながら人間のように、エルガードがその傷跡から、無残にも血を流しているように思えた。


「エルガード。俺は君を助けられない。だがこのまま君を、海賊船として生かすわけにはいかない」


 迷う気持ちを振り切るようにシャインは息を吐いた。

 瞳をすがめ、やるせない思いでエルガードを見つめる。

 この役目は自分だ。自分がやらなくてはならない。


 シャインは甲板に突き立てた剣を引き抜き、振り返った。着火用の火を灯した棒を持つ、グレン砲手長がいる大砲へ向かい叫ぶ。


「あと一回だ! 急いで次の弾を装填してくれ!」


 ファスガード号の右舷への傾斜が、前よりひどくなった気がする。

 次の弾を早く込めるよう叫んでいたシャインは、頬に熱いものがかすめたのを感じて足を止めた。


 ヒュン! とまた、弾の飛ぶ音がする。

 潮に流されてエルガ-ド号に近付いたのか、甲板の上を動く黒い人影がいくつも見える。ファスガード号の強烈な一撃を食らって、慌てて長銃で反撃しているのだ。


「グラヴェール艦長! 用意できたぜ!」


 グレン砲手長が船尾にいるシャインへ声を張り上げた。


「よし……」


 シャインはラフェールの剣を高々と掲げた。


「エルガード……俺は忘れない。君の想いを――」


 そして、この痛みを。

 シャインは、一気に剣を振り下ろした。

 砲手長が負けじと声を張り上げる。


「撃て――っ!」


 ファスガード号の上甲板に並べられている、約15門の大砲がエルガード号の船体めがけ再び火を吹いた。


 黒光りする砲身が生き物のように前方へ突き出していくと、耳障りな音を立てて、支えている鎖がいっぱいまで伸びる。鎖のせいでひきとめられた砲身は、反動で大きく台車ごと後ろに戻される。


 その数秒の間、エルガ-ド号はシャインの目の前でぶるっと身震いし、横殴りされたように右舷側へぐらりと傾いた。


 そして、ぱっとオレンジの光がエルガードの船尾から溢れた。始めはかすかな灯りにも見えたそれは、徐々に大きくなり、炎となって船体をなめていく。

 やがて天をも焦がさんばかりに、火の粉を舞い上げながら。


 遠雷の様に轟く爆発音を聞きながら、シャインはエルガード号が静かに船尾から沈んでいくのを確認した。



『ああ……どうして……。姉様……どうして、私を……?』


 声がする。

 魂が叫ぶ嘆きの声が。

 未だ、自らの運命を呪う、エルガードの苦し気な声。



 ファスガード号にも時間がなかった。

 傾いているのに大砲を発射したせいで、多くの海水が開いた砲門から流れ込んでいるからだ。


 シャインはエルガード号から視線を引きはがし、ともすれば挫けそうになる自分を叱咤して、左舷側でボートを下ろしているイストリアの元へ走った。

 船縁から見下ろしてみると、はや、負傷者を乗せた大型のボートが数隻波間を漂っている。


「イストリア大尉! 全員甲板へ上がってきているか?」


 尋ねるとイストリアは大きく頭を振った。


「わかりません! こっちは退艦作業で手一杯なんでね!」


 舷側からボートを下ろしながらイストリアが声を張り上げた。


「下層部に残っている者へ、早く上がるよう言ってくる!」


 シャインを見たイストリアは大きくうなずき、再びボートを下ろす作業に戻った。


「急げ! こっちも船が沈むぞ!」

「ボートを下ろすのを手伝え!」


 左舷側だけでなく、右舷側のボートも水兵達が次々と下ろしていく。

 ファスガード号には約三百名の水兵が乗っている。退艦に間に合うだろうか。

 水兵達でごった返す甲板を船尾方向へ走る。

 そこにはジャーヴィスを寝かせてある。彼を早くボートへ乗せなければならない。

 と、横から飛び出してきた人間にシャインはぶつかりそうになった。


「おっと! これは艦長殿、申し訳ない」


 力強い手がシャインの肩をつかんだ。おかげでシャインはよろめかずに済んだ。


「すみません……急いでいたので」


 顔を上げたシャインの目の前には、水色の海兵隊の服を着た、黒ヒゲの男が立っていた。三十代後半と見えるその男は、頬と鼻の頭がすすで黒く汚れていた。

 名前まではすぐに思い出せなかったが、肩に光る階級章で、海兵隊の隊長であることをシャインは悟った。


「あの、負傷者がいるんです。手を貸してもらえないでしょうか」


 男は一瞬驚いたようにシャインを見つめたが、大きくうなずいて同意してくれた。


「どこです?」


 船尾の舵輪がある船尾楼へ上がる、左側の階段のふもと。

 シャインがジャーヴィスの冷たい額に手を当てて、血の気が引いたその顔を心配げにのぞいていたのは僅かな時間だった。


「彼は俺を庇って負傷したんです。だから、お願いです。彼をボートへ必ず乗せて下さい」

「わかりました。任せて下さい」


 シャインは微笑んだ。彼ならジャーヴィスを託しても大丈夫だろう。

 シャインは立ち上がり、下甲板へ降りる開口部へ近付いた。


「おい、どこへ行こうっていうんだ?」


 ジャーヴィスの腕を抱え上げたヒゲ面の海兵隊長は、驚いたようにシャインを凝視した。


「下にまだ誰か残っていないか……見てきます」

「ちょ……! おい、駄目だ。下はかなり浸水してるんだ!」


 慌てる海兵隊長の声は、シャインに聞こえなかった。



  ◇



 シャインは少し前に、ジャーヴィスを抱えて昇った階段を、ゆっくりと下りていった。船内は硝煙の臭いに包まれ、静まり返っている。

 いや、上の甲板を走り回る水兵達の足音は響いてくるし、ひたひたと満ちてくる浸水の音もはっきりと聞こえる。


「誰か取り残されていないか!」


 シャインは耳を澄ました。けれど応える声はない。

 明かりの無い第二甲板は真っ暗だった。

 だからこそ、出口がわからない人間がいるかもしれない。

 見つけなければ船と一緒に海底に沈むことになる。


 それに焦りながらも、シャインは探していた。

 取り残された人間がいないかもそうだが――。


「何をしているの。あなたも早く逃げなさい」


 シャインの目の前には、いつの間にか背の高い女性が立っていた。

 白い、艶のある長い髪は床に届かんばかりに広がり、純白のシンプルな長衣をまとっている。肌も病的に白くその中で、透き通った深い青い瞳と、ふっくらした唇の赤色だけが、とても鮮やかに見える。女自身が、銀の光を放っているようだ。


 シャインは眩しげに目を細めた。

 同時に左胸が刃物を突き立てられたように痛んだ。

 脳裏をエルガードの声が響く。

 魂が叫ぶ嘆きの声――。


「あなたにもう一度だけ、お詫びを言いたかった……ファスガード」


 女――船の精霊ファスガードは、一瞬その細い眉を憂いにひそめた。


「エルガードには私がいます。あなたがついて来る必要はありません」


 シャインは口元をわずかに歪ませてうつむいた。

 心を読む船の精霊に、口から出る言葉は不要だと感じながら。


 衣擦れの音をさらさらと立てて、精霊がこちらへ近付いてきた。

 頬にひやりとするなめらかな指が添えられて、シャインはおずおずと顔を上げた。

 深い深い海の底のような色をした、ファスガードの瞳が目の前にある。


「あなたは、他人の痛みも自分の痛みに変えてしまうのね。だけど、一緒に来る事は許さないわ。あなたには、あなたを待っている者がいる。その者のために、私はあなたに生きて欲しい」


 ロワール。


 シャインはファスガードの瞳を見つめたまま、両手をぐっとにぎりしめた。

 彼女は静かな微笑をたたえたまま、目をやんわりと細めた。


「大切な人を失う事ぐらい悲しい事はないわ。私はエルガードと共に行ける。けれど、あなたがいなくなったら、彼女は誰が守ってあげるの?」


 シャインの顔に影が落ちた。

 急に胸騒ぎがしたのだ。


 あの時、サロンに下りる前に聞いたロワ-ルの声。

 いつものわがままだと一蹴してしまったが、本当は助けを求めていたのではなかっただろうか。


「ファスガード……」


 彼女はシャインの不安を感じ取ったようだった。


「さ、早く行きなさい。最後に……船の精霊と話ができるあなたに会えて、よかったわ。シャイン」

「ファスガード!」

「……」


 白い霞が闇の中に溶けていくように、ファスガードの姿は薄らいでいった。

 一人暗い通路に残されたシャインは、はっきりと聞こえてくる浸水の音を意識した。踵を返し、上甲板へ上がる階段へと走る。


「ロワール……待っててくれ。すぐに戻るから」



 ◇◇◇



 船尾の開口部から出たシャインは、フォアマストを焼き尽くし、メインマストに向かって燃え移ろうとする紅の炎に身を固く強ばらせた。


 どうやら船首の下層部でくすぶっていた火が、ついに甲板まで達したのだろう。

 熱風が上空に昇る気流を作って、帆を焦がした小さな火の粉が天へひらひらと舞い上がっている。


 ファスガ-ド号の甲板は静まり返り、人影は見当たらなかった。

 全員、下ろしたボートへ乗る事が出来たのだろうか。


 そんなことを考えつつ、シャインは左舷側の暗い海へ視線を向けた。

 確かにそこへ、ロワールハイネス号がいたのを見たのだ。

 しかし今は、どこにもあのほっそりとした美しいスクーナーの影はない。


「……!」


 シャインはふと気配を感じて、背後を振り返った。

 舵輪のある船尾楼の手すりから、身を乗り出すようにして、長い銀髪をひるがえした男が立っていた。

 見覚えあるその姿に、シャインは心ならずもわずかな安心感を覚えた。


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