3-28 燃えさかる甲板で
シャインと目が合った途端、男は大きめの口をにやりとさせて微笑した。
少年を思わせるような無邪気な笑み。
沈みゆく危険な状態の船上だというのに、それを恐れている気配は全くない。
寧ろ、楽しんでいるような気さえ感じられる。
男は船尾楼の手すりに手をつくと、しなやかな体躯をひねらせて、二リール(一リール=一メートル)下の甲板へひらりと飛び下りた。
軽く片膝をついて、無駄のない動きですっと立ち上がる。
肩に流れる豪奢な銀糸の髪を、軽くゆすって顔を上げた男は、夜色の双眸を舞い上がる火の粉の光で、紅に煌かせながら口を開いた。
「シャイン……やっぱり生きていたのか。しかし、無事で良かったぜ」
「ヴィズル。もしかして、助けに来てくれたのかい?」
シャインは疲れたように、だがそうであればいいのにと願いつつ返事をした。
ヴィズルは濃紺の航海長の上着を着ていなかった。初めて出会った時と同じ、袖がない赤皮のジャケットを羽織り、白いシャツの襟を立てて、丸い飾り金具をつけたブーツの中に、細身のズボンの裾を入れこんだ格好だった。
そしてファスガード号とエルガード号が撃ち合った事で、用心のためか武装していた。腰のベルトには、使い込まれた厳めしい長剣が吊るされている。
ヴィズルは長剣を足に絡まらせることなく、こちらへ颯爽と歩いてきた。
呼吸するのと同じように……慣れた様子で。
シャインは口でああは言ったものの、ヴィズルが何故ここにいるのか分からず戸惑っていた。
ジャーヴィスが自分の代理でファスガード号へ来たのだから、当然、その代わりにヴィズルが、ロワ-ルハイネス号の面倒をみているはずなのだ。
だが肝心なロワールハイネス号自体、その姿がどこにもない。これはどういうことなのだろう。
「大丈夫か? 今にもぶっ倒れそうな顔だ。手、貸すぜ」
あと五歩ぐらいの距離まで近付いたヴィズルが、心配げに眉根を寄せてこちらを見ていた。
「いや、少し疲れただけだ。ケガはしてないから、その必要はないよ」
シャインはヴィズルに薄く笑ってみせた。
口が少し悪いが、ひょうひょうとしつつ、いつも自信に満ちているヴィズルの顔を見ただけで、肩の荷が下りたような気がした。
途端、今まで張り詰めていた気力が萎えた。
これで、やっと終わる。
後はただ、ロワールの元へ帰るだけ。たったそれだけだ。
ヴィズルがどういう経緯でここにいるのか、それはわからない。
けれどそんなこと、今更構わないとも思う。
現に彼は自分の身を案じて、危険なこの船にわざわざ乗り込んできてくれた。
ひょっとしたらロワールハイネス号は、流れ弾に当たる危険を避けるために、沖合いでファスガード号の乗組員を乗せて、待っているのかもしれない。
シャインは、ともすればぼんやりとなる頭を軽く振り、息を吐いた。
緊張感が抜けたせいで、腰に帯びたラフェールの細剣が、急にずっしりと重くなった気がする。
「さ、こんな所に長居は無用だぜ。行こう」
また一歩近付いたヴィズルは、いつものちょっとおどけた表情と声色でそう言うと、皮の手袋をはめた右手をシャインへ差し出した。
「……そうだね」
ほっとしたシャインは、右手を伸ばそうと腕を上げた。
『だめよ! 早く離れて!』
「ロワール?」
頭の中をえぐるように声が響いた。
シャインは痛む額を上げかけた右手で押さえた。
ガタがきていた足がふらついて、ラフェールの剣の重みのせいで上半身が左によろめく。
その時シャインは、自分の右脇腹の下をかすめてゆく銀の刃を目にした。
刀身と同じ、鋭い光を宿したヴィズルの瞳と共に。
シャインは右足に力を込めて、前のめりになりかけた体勢を何とか立て直すと、振り返りざまにヴィズルから離れた。
「ヴィズル!?」
「……何てことだ。この距離で“聞こえた”とはな」
ふんと鼻を鳴らし、ヴィズルは皮手袋をはめた左手で、綺麗な短剣をもてあそんでいた。それは濃紺色の柄に、銀で植物のつるを巻いたような細工が施された、東方連国風の美しい曲刀。
刃の先をつまみ、ひょいっと宙に放り上げ、落ちてきたそれをまた指でつまむ。
人の良さそうないつもの微笑が、取り繕う事の無意味さを悟ったように、ひきつって歪んでいた。
「ロワールはもう水平線の彼方だっていうのに……健気な娘だ」
「どういうことだ。彼女をどこへやった!」
シャインは無意識の内にラフェールの剣の柄に右手を添えつつ、目前のヴィズルを睨み付けた。
何が起きたのかさっぱり理解できない。
何故ヴィズルが短剣で斬りつけてきたのかも。
信じたくないけれど、これだけは確信できる。
ヴィズルは、自分を迎えに来たわけではない――。
「ロワールの事は心配ない。あんないい船を、海軍共の砲撃戦で傷つけたくなかったからな。だから大事に俺が預かっている」
涼やかな顔をしたヴィズルは、シャインの戸惑いを察するように呟いた。
短剣を再び左手に握りなおし、伏し目がちにその
「アイル号で会ったお前に『船鐘』を預けたのは、間違いじゃなかった」
「……!」
シャインは言葉を失い暫しヴィズルの瞳を見つめ返した。
「アイル号、だって?」
シャインの動揺を見たヴィズルの唇が、再び自嘲気味に引きつる。
「あの時、俺から船鐘を奪おうとしたのは……まさか」
「ああ、俺だ。お前が邪魔しなけりゃ、ヴァイセを始末して船鐘をもらって帰るだけだった。だがあれは俺の手に余った」
「どういうことだ」
ヴィズルが短剣を持ったまま肩をすくめた。
「覚えてないのか? 俺がお前から船鐘を奪おうとした時、あん時はロワールって名前じゃなかったが、『彼女』が邪魔をした」
◇◇◇
「じゃ、こいつはいただいていくぜ。海軍の坊や」
「まて……!」
やや大きめの口を歪めて男は薄く笑うと、船鐘を拾い上げるため手を伸ばした。
鏡を思わせる銀色の船鐘に、皮手袋をはめた男の指が伸びる。
それが触れると同時に、青白い閃光が鐘からほとばしった。
「チィッ!」
男が舌打ちして伸ばした左手を引っ込める。
まるで熱した鉄に触れて火傷をしたように、男の指からは白い煙がうっすらと上がっていた。
「……そうか。そういうことか。こいつは面白い」
喉の奥を鳴らして男の唇がさらに引きつった笑みをたたえる。
「奴もきっと興味を持ちそうだな。気が変わった」
肩を踏みつけていた力がふっと消えた。
「お前にこいつを預けてみることにしよう。まあ、お前が生き残ればの話だがな」
「……なに……?」
◇◇◇
「ヴィズル。君の目的は一体……」
「一応礼は言っておく。あの鐘は二十年間ずっと眠り続けていた。俺の手で起動させようと思っていたが、お前のお蔭で手間が省けた」
「どういうことだ。説明してくれ!」
「説明? その必要はない。『船鐘』とロワールは俺の手中にある。お前はもう必要ない」
「ヴィズル!」
おもむろにヴィズルはシャインへと歩を進めた。
燃え盛る火の粉を受けて、赤く光る短剣の刃を顔の前にかざしながら。
「いや……あと一つ、役に立ってもらおうか。アドビスの野郎に、苦痛を与えるためにな!」
ヴィズルの短剣が闇の中で光の弧を描く。
確かな狙いで斬り付けられたそれを、シャインは鼻先のきわどい差で躱した。
手首を返し再びヴィズルが切り付けてくる。
シャインはさらに後退して、執拗に繰り出されるヴィズルの刃を避けた。
と、背中に固い物がぶつかった。艦長室の板壁に追い詰められたのだ。
「もう後がないぜ。抜けよ」
「ヴィズル!」
風を切る音がして、シャインは体を左にひねった。
タンッ!
短剣が背面の板壁にめりこむ。シャインはその隙にラフェールの剣を引き抜き、真横に薙ぎ払った。
「おっと!」
短剣から手を放したヴィズルは、猫のように俊敏にそれを後方へ跳ねて避けた。そして慣れた手付きで腰の長剣をすらりと抜き放つ。
炎上するファスガード号のフォアマストの火が、ついに真ん中のメインマストにも燃え移り、帆や上げ綱が散々と甲板へ舞い落ちる。
その炎を背後に銀髪を赤く染めながら、ヴィズルは今まで見せた事のない表情を浮かべていた。
口元に余裕を感じさせる笑みが消え失せ、なにかに憑かれたような熱っぽい眼差しでこちらをじっと見つめている。
微動だにしない紺色の瞳の中に、背筋が凍り付くような冷たい感情を、シャインは垣間見た気がした。
乱れる呼吸を整えつつ、シャインは剣を構えるヴィズルに尋ねた。
「君は何のために『船鐘』を手に入れようとしたんだ。そして……」
目だけが研いだ刃の様に光るヴィズルのそれを見つめながら、シャインは言葉を続けた。
「何故、アドビス・グラヴェールの名を口にする? まさか、あの人が君に何かしたのか!」
炎が巻き起こす風に銀髪を舞わせながら、ヴィズルが射ぬくような視線を向けた。
シャインは息を飲んだ。
「奴か。奴は……俺から大切な物をすべて奪い去った。だから!」
暴発しそうな感情をぎりぎりまで押さえたような、かすれ声。
「今度は俺が、奴のすべてを奪ってやるのさ!」
ヴィズルが銀髪をひるがえし、十歩の距離を三歩で詰める。
「地位! 金に、海軍!」
右から斬り下ろされたその一撃を、シャインは右手に持った剣で受け止めた。
刃と刃がぶつかり合う。
が、ヴィズルの力が強い。シャインは押されて支えきれず左手も柄に添える。
目が合った途端、ヴィズルは小さく囁いた。
「そして、お前だ」
間髪入れずヴィズルの右足がシャインの左脇腹をえぐる。
視界が一瞬真っ暗になり剣を握る力が指から抜けた。
「……!」
ヴィズルの剣に押し切られ、その剣先が肩を掠める鋭い痛みに、シャインは目を見開いた。
ヴィズルが手首を返して、下からすくい上げるように一閃するのが見える。
シャインは右手に握った剣で、反対に上から叩き付けるように振り下ろした。
渾身の力を込めたそれはヴィズルの剣を弾いた。けれどその反動で、シャインは後ろによろめき、艦長室の唐草模様の浮き彫りを施した扉に背中を預けた。
「あっ……」
寄りかかった弾みで膝から力が抜ける。
ずるずると扉に背を預けたまま、シャインはその場に座り込んでしまった。
口の中にこみ上げてきた塩辛いそれを、不快感も露わに吐き出す。
その刹那、吹き付ける炎の熱と明かりが急に失せた。
前に誰かが立っている事で、それが遮られたことに気付いたシャインは、ゆっくりと顔を上げた。
冷たい月光の光を宿した剣の切っ先が、ぴたりと喉元へ突き付けられていた。
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