【第2話・後日談】 奇跡の赤(5)
「908年のアメリゴベスの赤? いや、ないね」
「今から20年も前のワインですよ旦那。うちにはそんな高価なものは置いてないです」
「お目にかかったことはあるが、10年も前のことでね。それ以来、うちで扱ったのはそれ一本きりさ」
酒場回りは何軒も続いた。
だがどの酒場もそんなものは置いていない、見た事がないの一点張り。
「……やっぱり、幻だもんな。その辺の店に都合良くあるわけないか」
二十二軒目の酒場を後にして、流石に疲れを意識し始めたその時。
「……」
シャインはあるうすぐらい通路の前で足を止めた。何かに呼ばれたかのように、気配を感じて。
ぎいっ。ぎぎーっ。
見上げれば灯一つ着いていない古びた窓の鎧戸が、風にあおられ右に左に首を振っている。
そこは建物と建物がくっつきあうほど密接に立ち並んでおり、人が三人ほど並んで通れるぐらいの狭い石畳の通路が奥へと続いている。
なんとなく、船底にいるような気がした。船の底に溜まっている汚水の臭いと良く似たそれが前方から漂ってきたからだ。それは確かにここで人が生活している証拠でもある。
「ああそうか。ここはルシータ通りだ……」
シャインは他の通りと比べて遥かに異質なその通路の名前を思い出した。
ルシータ通りは通称『盗人通り』と言われるジェミナ・クラスでも五つ星クラスの危険地帯。
追い剥ぎ、強盗、スリに人さらい。そして海賊に人殺し。
向こう傷を持つ者達が、迷路みたいな小道であることを利用して、いつしか住み着いたジェミナ・クラスの街の暗部。
シャインは再び小道を覗き込んだ。
『引き返せ』
青味を帯びた空に黒い建物の影がシャインを警告するように見下ろしている。
まっとうな人間なら決してこの通りに足は踏み入れない。
昼間は勿論、日が落ちた夜に、しかも、海軍の軍服を着た人間がこの通りに足を踏み入れたらどうなるか。
数歩と歩かないうちに襲われて、身ぐるみ剥がされた挙げ句、商港の海に死体となって浮かぶことになるだろう。
だが、ルシータ通りはジェミナ・クラスで唯一闇市が立つ場所でもある。
908年のワインはとても希少だ。よって盗品が闇市に流れている可能性もある。
そしてルシータ通りはジェミナ・クラスの街で一番の歓楽街カンパルシータとも繋がっている。花街の酒場なら――あるいは。
そんな危険な考えがシャインの脳裏をかすめた。
「……」
カツン。
一歩、ルシータ通りへ足を踏み出す。
ランプの灯に誘われて、吸い寄せられる蛾のように。
また一歩。足を前に踏み出す。
けれど。
ちょっと待て。
シャインは通りの半ばで立ち止まった。
908年のワインは確かに手に入れたい。
せめて情報だけでも欲しいと思う。
しかし――。
シャインは再び辺りをみまわした。
古びた建物の窓はすべてひび割れている。何かの咆哮混じりに通りを渡る風は相変わらず不快な空気を運び、ペンキが剥げてまだら模様になった鎧戸をひっきりなしに叩いている。
足元を痩せ細った溝鼠が走り回り、石畳は野菜くずや建物の窓から投げ捨てられた汚物でぬかるんでいる。
ここには秩序などない。
ここはシャインとは相容れない、闇の世界に生きる人間達の住処。
運良くここの酒場で908年のワインをみつけることができたとしても、ただでさえ数が少ないワインなのだから、まがい物をつかまされる可能性の方が高い。
本物だったとしてもそれは間違いなく盗品だ。
そしていきなり店を訪ねたシャインにすんなりと譲ってくれるだろうか。
高貴なる紺碧の軍服を纏った自分に。
「ありえないな」
シャインは自戒を込めて、左手でそっと頬を打った。
第一、ルシータ通りで手に入れた品だとジャーヴィスに知れたら。
あの真面目で潔癖な彼は、決してワインに手を触れないだろう。
むしろ危険な区域でワインを探したシャインの事を説教するかもしれない。
シャインはかぶりを振って苦笑した。
取りあえず、ジャーヴィスの探している物ではないが、素晴らしいワインをアバディーンから貰ったのだ。
さあ、船に帰ろう。
自分の戻るべき場所へ。
そろそろパーティーも始まる時間だ。
水兵たちやジャーヴィスが、やきもきしながら待っている事だろう。
リーザも忙しい最中、わざわざロワールハイネス号まで来てくれるのだ。
でもその前に。
シャインは音もなく背後から忍び寄ってきたその一撃を、振り向きざまに躱した。実はルシータ通りに足を踏み入れてから、誰かの視線を常に感じていたのだ。
「……!」
早い。
襲撃者はすぐに体制を立て直して、向かい合ったシャインの脇腹をめがけて次の攻撃を繰り出してきた。盗賊達が好んで使いそうな短い刀身が光の軌跡を闇に描く。
ルシータ通りは入り組んだ建物のせいで、狭い所は大人が三人並んで歩けるほどの幅しかない。シャインが襲われたのもそんな場所だ。
しかも足元は汚物でぬかるみ、利き手にはワインを入れた籠を下げている。
後方に下がる事で二回目の攻撃は避けたものの、シャインは肩甲骨にぶつかる硬い感触に眉間をしかめた。
もう後がない。
そこは建物の冷たい壁だった。
「何者だ」
襲撃者は鈍色に光る短刀をシャインの喉元に突き付けていた。
「お前に用がある」
年経た、けれど明瞭な深みのある男の声。
どこかで聞いた事がある。シャインはふとそう思った。
だが、相手の息遣いも聞こえるぐらいの距離だというのに、広場の街灯の光も届かない建物の影に入っているせいで、その顔をはっきりと見る事はできない。
男はがっしりとした痩せぎすの体に、黒っぽい上着と黒いズボンとブーツという出立ちで、腰には由緒正しそうな古風な剣を帯びていた。
「どこかで会ったような気がするな」
すると襲撃者はぎりと奥歯を噛みしめ、冷たい短刀の刃を首筋に押し当ててきた。
「昨夜はお前のせいで酷い目にあった。すぐさまここで喉笛をかき切ってやりたいが、そういうわけにもいかん」
昨夜。
シャインは小さく息を吐いた。
もう終わったものだと思っていたのに。
「ああそうか。あんたはストーム一味の捕まえ損ねた海賊の一人だな。そういえば一人足りなかった。ストームの側に付き従っていた男が見当たらなかったよ」
喉の奥で襲撃者が低く笑う。
「ああ、そうだ。俺はストームの副頭領をやっていた。船同士がぶつかる前に、俺は海に飛び込んで逃げた。それにしても全く嫌な野郎だな、お前は。親父と同じように、逃した海賊を捕らえるため、こんな所までやってきたというのか?」
父アドビスは相当海賊たちから嫌われているらしい。わからなくもないが。
だがシャインはそれ以上に、アドビスと自分が同一視されたことに不快感を覚えた。目の奥が、頬が、カッと熱くなった。
冗談じゃない。
なんであんな男と。
血は繋がっているとしても、自分はあの男とは違う。絶対に。
シャインは突き放すように答えた。
「逃げた海賊なんかに興味はない。ここに来たのはただの偶然だ」
「ほう。偶然か。ならば俺はその偶然に感謝せねばなるまい」
襲撃者――もとい海賊ストームの副頭領だった年嵩の男は、壁際に追い詰められ、身動きできないシャインを見下ろしながらつぶやいた。
「言っておくが、俺は頭を見捨てたわけじゃない。まさかあの時お前の船が動くなんて誰が思う? 状況は俺達の方が不利だった。だから俺は逃げた。そしてどうやって頭を助けようか、それを思案していたらこの通りに入ってきたお前を見つけた」
スト-ムの副頭領は再び喉の奥でくぐもった笑い声をあげた。
「お前が本当にアドビス・グラヴェールの息子なら、人質として申し分ない。お前と引き換えに、うちの頭と仲間達を釈放するよう、役人どもに掛け合うには十分だ」
そうか。そういうことか。
この男の目的はわかった。
シャインは初めて男の顔を睨み付けた。
穏やかな青緑の瞳が剃刀のように鋭い光を帯びる。
シャイン自身は気付いていないが、それは皮肉にも、嫌悪する父親の眼差しと驚くほど酷似していた。
「それはどうかな。俺がアドビス・グラヴェールの息子だと誰が証明する? 俺は今回初めてジェミナ・クラスへ来た。俺の顔を知っているものは――」
その時シャインの右頬を熱い痛みの奔流が走った。
副頭領が拳で不意に殴りつけたのだ。
「俺は嘘が嫌いでね。お前は今日、俺の仲間達を軍の詰所まで連行したじゃないか。知らないと思っていたのか? えっ? 俺にはお前のはったりなんぞ通じないからな!」
副頭領はシャインの前髪を掴むとその顔を上向かせた。
シャインは薄い唇に笑みを浮かべた。
口の中を切ったのだろう。錆びた血の味がする。
「……そっちこそ。俺がお前の言う通りにすると思っているのか?」
「何?」
「俺がどういう人間なのか。お前はストームと一緒に昨日見たはずだ」
「……何が言いたい?」
シャインはそっと左手を上げて、依然首筋に触れる短刀の刃に指を添えた。
同じだ。昨日の夜と。
スト-ムの剣を握りしめた時と同じように、刃は指先が痺れるような切れ味で食い込んでくる。冷酷な光を宿しながら。
「俺と引き換えにあの女を釈放してもらう? そんなこと、俺自身が許さない。ストームは俺の部下が、俺がしなくてはならなかった一番嫌な事をして、そして、俺の為に捕まえてくれたんだ」
シャインは短刀の刃を強く握りしめた。
刃が包帯を、その下の皮膚を容赦なく切り裂いていく。
「ストームを俺の手で解放するくらいなら死んだ方がましだ」
鮮血に彩られた真っ赤な手で、シャインは短刀を握ったままそれを自分の方へ引っ張った。
「ま、待て!」
自ら喉を突こうとしたシャインに驚いて、副頭領は短刀を握る手に力を込めた。
ずるり。
自らの血に塗れたシャインの指は、副頭領の思惑通り、短刀の刃を握り続ける事ができずに滑って離れた。
――思惑通り。
「がっ!」
副頭領の視界は一面血色の闇に覆われた。
シャインが彼の顔めがけて血まみれの左手を押し付けたのだ。
「くっ……! 目に、血が!」
めくら一方に短刀を振り回す副頭領の背後に回り込み、シャインはそっと足元にワインの入った籠を置いた。
「やりやがったな! 小僧」
その僅かな音を頼りに副頭領は振り返ったが、視力を奪われた彼はもはやシャインの敵ではなかった。
短刀を握る右手を捕まえ、足払いをかける。よろめいて膝をついた男の背面に右腕をねじり上げると、ぽろりと手から短刀がこぼれ落ちた。
「畜生……! 人を騙すようなマネ……しやがって」
シャインは嘲笑うように声を漏らした。
もっともそれは、押さえ付けた副頭領へではなく、自らに向けた嘲笑だった。
――卑怯者と罵られるのは一時です。でも、命は一度失えばそれでお終いです。あなたがこの船の艦長でいる限り、すべてを終わらせてもいいなど……軽々しく言わないで下さい。あなたが我々の事を思って下さるように、我々もあなたを失いたくないのですから。
そうして生きろ、というのか。
この俺に君は。
きっと俺は、君よりいくらでも汚く生きることができるだろう。
俺はそれを知っている。
そしてそんな自分が、時々嫌になるんだ。
「騙してはいないさ。あの女を俺の手で解き放つぐらいなら俺は死ぬ。だが俺の命は、今は俺だけのものじゃないんでね」
「ケッ。お前のような上流階級のガキが、どこでそんな手を覚えた? 畜生……目が痛ぇ……」
どうやら副頭領の視界はまだ閉ざされたままのようだ。
丁度いい。
シャインは足元に置いていた籠を引き寄せた。
そしてワインを包んでいた布をとると、老いた海賊の両手をそれで拘束した。
「前も同じことをしてうまく行ったのを思い出しただけさ。さあ、立て。お前の仲間が待つ所へ行こうじゃないか」
シャインはうっそりと笑って海賊が立つのに手を貸した。
ルシータ通りから見えた夜空には、金と銀の双子の月が昇っていた。
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