【第2話・後日談】 奇跡の赤(4)
◇
「お約束していなかったのに突然お邪魔してすみません」
「いや、構いませんよ。グラヴェール艦長。その節はとんだ御無礼を」
社長であるウィルム・アバディーンは相変わらずふくよかな体型を上質な生地で織られた上着で包み、シャインを愛想良く出迎えてくれた。
さすが年商200億リュールを稼ぐ会社だ。その社長室はどこかの王宮のサロンのように広々としており華美で豪華だ。
室内は白と金を基調とした壁紙で統一され、部屋の天井には首飾りのような大粒の水晶のシャンデリアが七色の光を放っている。
港を一望できる大きな窓には金を織り込んだ赤い天鵞絨のカーテンが垂れ、その前にアバディーンの仕事用の大きな机が鎮座している。
「ききましたよ。海賊ストームめを見事捕まえたそうですな」
アバディーンにうながされ、室内に足を踏み入れたシャインは、黒蝶貝の螺鈿細工が施された応接机の上に、号外が置かれているのを目に止めた。
昨日の今日だというのに。どこからかぎつけてきたのか。
本当にジェミナ・クラスの新聞屋は情報を得るのが早い。
それに苦笑しつつシャインは頭を下げた。
「今日はどういったご用件ですかな」
「はい。アバディーンさんにはストームを捕まえるために協力頂きましたので、そのお礼と、ご報告をさせて頂きたく参りました」
「それはわざわざすみませんでしたな」
「いえ、ご迷惑をおかけしたのは、俺の方ですから」
そこでシャインはストームを捕まえた時のことをアバディーンに話した。
アバディーンは時折シャインに質問をはさみつつ、じっと報告に耳を傾けてくれた。シャインが話し終わったとき、すでに1時間が過ぎようとしていた。
その頃にはすっかりシャインとアバディーンは打ち解けて、軽い冗談を話すほど場の雰囲気は和やかになっていた。
「ずっと話していたので喉が乾きました。どうですか、よく冷えたワインでも」
「あ、いえ……ご覧の通り勤務中ですから」
するとアバディーンは水色の瞳を細めて大声で笑った。
「船乗りにとって酒は命の水と同じ。まあ、遠慮せず飲んでくだされ」
アバディーンは椅子から立ち上がると、部屋の片隅から伸びる赤い呼び鈴の紐を引っ張った。
シャインはふと思った。
アバディーン商船はワインも商っている。しかも世界中の。
そこでシャインは訊ねてみた。
「アバディーンさん、ちょっと探しているワインがあるのですが、ご存知じゃないですか? 908年のアメリゴベス産の赤なんですけど」
「ほう」
アバディーンが再びシャインの前の席に腰を下ろした。
ヒゲのない顎を右手でさすり、視線を宙に彷徨わせている。
古い記憶を呼び覚ますように。
「908年……908年はそう……。ちょうど収穫前の葡萄が季節外れの大嵐で塩害に遭った年だ」
アバディーンはふくよかな手のひらをポンと打ち合わせてうなずいた。
「本当に惜しかった。葡萄の当たり年といわれておりましたからなぁ。塩害のせいでほとんど全滅だったんですよ。収穫できたのはたった一樽分だけ」
シャインは思わず眉をひそめた。
「一樽ですか? じゃあ、この年のアメリゴベスのワインはとても希少なのですね」
「仰る通り。20年も経った今では幻といってもいいでしょう。しかし、そんなワインをご存知とは、お見それしましたぞ。グラヴェール艦長」
アバディーンの機嫌は更によくなったが、シャインの気分は坂道を転げ落ちていくように沈んでいた。
たった一樽しか作られなかった908年のワイン。誰かが樽ごと買っていればもはや現存していないだろう。瓶に詰められたとしても、恐らく百本あるかないか。そんな希少なワインが本当に今、存在するのだろうか。
ジャーヴィスがワイン通であることはよくわかった。いや、思い知らされた。
これは到底今すぐ手に入る品ではない。
そして手に入ったとしても、かなり値が張るのは確かだ。
シャインは思わず失望混じりの息を吐いた。
「まあ、そんなにがっかりなさらんでも。908年は単に数が少ないだけであって、味はそれほどでもないとききます。むしろ、今ワイン愛好家の間ではこちらが話題になっておるんですよ。まあ、艦長ならご存知やもしれませんが」
小さく社長室の扉を叩く音が聞こえた。
アバディーンが席を立つ。
「待っていたぞ」
「失礼致します」
社長室の扉が開くとそこには、黒髪の若い女性が籐籠に入った一本のワインと、銀の盆に乗せた杯を持って立っていた。
「おお……これだこれだ。ご苦労だったな、エスト」
黒髪の女性はアバディーンにワインを手渡し、銀の盆を応接机に置くと上品な顔を俯かせて会釈し、部屋から静かに出ていった。
ワインの黒いビンにはうっすらと細かな埃が積もっている。それを布で丁寧に拭き取ってから、アバディーンはコルクに刻まれている焼き印を確かめた。
「これはとっておきなんですよ。実はこれもアメリゴベスで醸造された赤ワインですが、918年のものです。醸造家エルザリーナが最後に作った赤で、彼女の遺言で10年後の七の月になるまで飲んではならないといわれておるんです」
「10年後の七の月……って、今月じゃないですか」
「ええ、そうですとも」
アバディーンはワインのビンを赤子を抱くように大切に布で包み始めた。
そして籐籠の中にそれを入れた。
「エルザリーナの作るワインが貧困で喘ぐアメリゴベスを助け、ワインの産地としての名を上げた。908年の物より稀少価値は下がるが、通ならこの918年のワインはぜひとも味わってみたいと思う逸品です。本当は艦長と一緒にここで海賊ストームを捕まえた祝杯として開けようと思いましたが、どうやら艦長には、貴重なワインでこの度の勝利を祝いたいお相手がいるようですから……」
「えっ」
アバディーンはワインの入った籐籠をシャインに手渡した。
「どうぞお持ち下さい。これはぜひお祝いとしてあなたに差し上げたい」
シャインは籐籠を受け取ったものの、前髪を乱して首を激しく振った。
「いえ、アバディーンさん。これは頂けません! あなたには大きな損害を与えてしまいましたし、あなただってこれを開ける時が来るのをずっと待っていたはずです」
それに値も随分張るはずだ。
ワインは飲まないのでどれくらいするのかシャインには皆目見当もつかないが、こんな貴重な品ならば、三十万リュールぐらいするかもしれない。
突っ返そうと伸ばした右手をアバディーンがそっと押さえた。
「グラヴェール艦長。私はジェミナ・クラスの海運業の組合長もやっております。だから、これは私個人の気持ちだけではないのですよ。海運業に携わる我々は、常に海賊の襲撃に怯えております。そんな我々の船と積荷を、あなた方海軍の皆さんは命がけで守って下さる。本当にありがたいことだ」
「……」
黙ったままのシャインへアバディーンは静かにうなずいた。
「昨朝あなたの船でお会いした時、両手にこのような包帯はなかった。ストームを捕らえた時その部分はお話下さらんかったが、捕物には常に危険がつきまとう。あまり無茶はなさらんようにな」
シャインは籐籠をぐっと握りしめたが、手のひらに鋭利な痛みを感じて一瞬息を詰めた。忘れていた。ストームの剣を握っていたせいで負ってしまった切り傷は、まだ完全に塞がっていない。
「ありがとうございます。そのお気持ちだけで今の俺には十分すぎます。では、このワインは大切に飲ませて頂きます」
「そうしてくれるとわしも嬉しい。また機会があればいつでも寄ってくだされ。まあ、アスラトルで何か流行物の情報とか聞いたら、一番にわしに教えていただきたいですがね」
シャインは微笑んだ。
「ええ。そうさせていただきます」
商人達の横のつながりは職業や身分、果てまた国境を越えて多岐に渡る。そして彼等が運ぶ商品によって、街に新しい流行が生まれるのだ。
シャインは貴重なワインが入った籠を右手で持ち、アバディーンに暇を告げて彼の部屋を後にした。外に出てからふと気付き、航海服の内ポケットから銀鎖に繋がれた懐中時計を取り出す。
「16時か。2時間も話し込んでしまった」
アバディーンも忙しいだろうに。
昨朝、ロワールハイネス号に怒鳴り込んでこられた時は本当にどうしようかと思った。だがアバディーンはシャインの失敗を許し、今日はストームを捕らえた事をとても喜んでくれた。懐の大きな人だと思う。体型もとっても大きな人であったが。
「何かとっておきの情報を耳に出来たらいいのにな……」
そうすればアバディーンにこの恩を返すことができるのに。
勿論、そんな上手い話などそうそう転がっているものではない。
ましてや、自分はほとんどの時間を海上で過ごし、俗世との関わりを持つ事が希薄な船乗りなのだ。
シャインは頭を振って小さく溜息をつきながら、右手に持った籐籠のワインに視線を落とした。ワインのビンは産着にくるまれた赤ん坊のように、白い布で丁寧に包み込まれている。
918年。エルザリーナという女性醸造家が最後に作った遺作の赤ワイン。
ジャーヴィスはその存在を知っているだろうか。
アバディーンから聞いた限り、こちらのワインの方がどんな味なのか飲んでみたい気が個人的にはあるのだが。
シャインは籐籠を持ったまま、はや夕暮れの気配に満ちた商港の岸壁を歩いていた。そして軍港には戻らず、ぽつぽつと提灯に灯が入った屋台が立ち並び始めた広場に向かって歩を進めた。
ジェミナ・クラスの街で一番賑やかなこの場所は、老舗の料理屋『
「パーティーは18時から始まるから、まだ二時間ある」
シャインは時間が許す限りワインを探すことに決めた。
幻かもしれないが、ないとも言い切れない。
ジャーヴィスが探している908年のワインも見つけられたら、彼はとても喜んでくれるはずだ。
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