1-25 出港

 翌日。

 ついに迎えた出港の朝は、残念ながら、処女航海にふさわしいとは思えない曇り空だった。アスラトルの街は朝霧の白いヴェールに包まれていた。

 けれど幸いなことに海風が吹いているせいで軍港の視界は悪くない。

 しかもシャインの欲する南東の風だ。


 これをすべての帆に受けて半日でも航海することができれば、距離を稼ぐことができるし時間も短縮できる。


「錨を上げろ! 係留索を解け!」

「各マストの展帆を急げ! この風で外洋に出るぞ!」


 ジャーヴィスの鋭い号令を受けて、フォアマスト一番前メインマスト中央部ミズンマスト最後尾の各担当班の水兵達が上げ綱を引いて、ロワールハイネス号の中で一番大きな縦帆を次々と広げていく。


 ロワールハイネス号は全長約五十リール(1リール=1メートル)の中型のスクーナー船だ。一番前のフォアマストには追風を受けた時に効率がいい横帆を二枚上げることができる。


 スクーナー船の特徴はマストに対して垂直に取り付ける平行四辺形型の縦帆で構成されていることだ。


 すべての帆が横帆で構成されている大型船よりも風上に切り上がって進むことができるので、エルシーア大陸沿いに北上する今回の航海では適した船種といえる。


 風向きにも寄るが、シャインはあまり外海――東へ進みたくはなかった。


 風が目的地の北寄りに吹いてしまったら、そちらへは進めないので、東か西のどちらかへジグザグに間切りながら北上しなければならないが、東に行き過ぎてしまったら、大陸側――西へ戻ってくる時間が必要になる。


 数時間程度ならいいが一日単位となると、平均航海日数よりも短いそれでジェミナ・クラス港へ到着することを求められているロワールハイネス号では致命的な時間のロスとなる。


 だからシャインは心底感謝していた。この南東の風に。

 突堤を離れたロワールハイネス号の前方には、一本の木がぽつんと生えた岬が朝霧の中で浮かび上がっている。


『シャイン――あなたに風を贈ります』


 潮風に乗って声が聞こえる。シャインは岬に人影を見た。

いや実際に見えたわけではないが、あそこで自分を見送るがいるのを知っていた。それはシャインの『育ての母親』でもある、叔母のリオーネだ。


 彼女はエルシーア海軍でも三人しかいない、風を操ることができる『術者』の一人で、『海原のつかさ』と呼ばれている。


 戦時ではないため、リオーネは現在特定の軍艦には乗っていない。参謀司令官であるアドビスの側近的な立場で、要請がないときはアスラトルのグラヴェール屋敷にいる。


 シャインはリオーネに手紙を出していた。

 軍規に従い命令内容を書くことはできないが、今日の早朝、ジェミナ・クラス港に発つことを知らせていた。


 シャインは心の中でリオーネに感謝した。

 この南東の風はまぎれもなく彼女が呼んでくれたものだから。

 ロワールハイネス号はすべての帆に余すことなく風を受けて、アスラトル港を後にした。




「針路はどちらへ?」


 後部甲板の左舷舷側で、展帆作業を見ていたシャインの隣へジャーヴィスがやってきた。栗色の前髪が海風にあおられ靡いている。


「北だ。なるべく大陸沿いに進みたい」

「了解しました」


 ジャーヴィスは踵を返し、後方で舵輪を握るシルフィードへ叫ぶ。


「針路、北へ!」

「針路、北。了解しました」


 まるで何年も前からこの船に乗っていたといわんばかりに、慣れた所作でシルフィードが舵輪を回す。


「さあ、出港しましたよ」


 シャインはちらりとジャーヴィスを見た。

 副長はシャインと同様に船首方向を見つめていた。緊張しているのか頬の筋肉が強ばっている。


「ああ。君の懸念は察している」


 シャインは声を潜めてつぶやいた。


「あれから『船の精霊レイディ』とは会ったのですか?」


 シャインはジャーヴィスと同様、船首方向の海上を眺めながら口を開いた。


「いや。君の方は?」

「いいえ。私も……」


 シャインは軽く嘆息した。


「彼女の事を気にしすぎるのはどうかと思うよ。それよりもロワールハイネス号はなかなか豪快な走りっぷりじゃないか」


 シャインは満足げに微笑んだ。

 斜め後方からの程よい風を受けて、ロワールハイネス号の船首には白い波飛沫が弾けていた。船の仕上がりは予想通り。


「一時間ごとに速度を測ってみよう。エリックに指示を出してくれ。それから、八点鐘(午後12時)の天測が終わった時に、平均速度も出してみるつもりだ」

「了解しました」


 ジャーヴィスがシャインの指示を水兵に伝えるためその場を離れた。


 不安がないといえば嘘になる。

 出港までの二日間、当直を立てたり、シャイン自ら不寝番をしたせいか、船で大きなトラブルは発生していなかった。


 ロワールハイネス号への破壊工作が人為的なものである以上、シャインに対する悪意からという理由は間違いないだろう。


 それ故に不気味だ。

 すべてが順調に行っている。

 安心するのはまだまだ早すぎるが。


 シャインなら処女航海に出てから必ず何かを仕掛ける。

 航海に出てしまえば逃げ道はどこにもないのだ。


 しかもロワールハイネス号には、ディアナ公爵令嬢という特別な船客を乗せている。シャインが懸念しているのは、自分のせいで彼女はともかく、船や乗組員の身の安全が脅かされることだ。


 今まで生きてきた二十年間、一体誰に恨まれるようなことをしただろうか。

 シャインは頬にまとわりつく前髪を払いのけ、舷側に肘をついた。

 


 ロワールハイネス号。

 俺は君さえあれば、何も望まない。

 どうか、ここにいさせてくれないか。

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