1-24 公爵令嬢

 水兵達は思いのほか落ち着いていた。

 酔ってはいたがシャインに対し言葉を荒げることなく、以前のようにあからさまな敵意を向ける者もいなかった。


 ジャーヴィスがどうやって彼らを説得したのか非常に興味があるが、シャインは今夜の当直をクラウスとエリックの二名に命じ、自分も不寝番をすることに決めた。

 そうして何事もなくその日の夜はすぎていった。


 翌日、シャインは仮眠をとった後、艦長室の模様替えを行った。

 ロワールハイネス号の処女航海を明日に控え、乗客として乗るディアナ・アリスティド公爵令嬢の部屋を作らなければならないからだ。


 といっても小さなロワールハイネス号には客室などない。個室を持っているのはシャインと副長のジャーヴィスだけで、他の水兵達は大船室にそれぞれハンモックを吊って寝るだけだ。


 しかもハンモックは水兵達の半数――八個しか設置されていない。

 水兵の半数が常に四時間交代で当直に就くからだ。


 シャインは必要な書類と自分の着替えを衣装箱に詰めて、フォアマスト一番前の後ろにある海図室に運んだ。ここにハンモックを吊るして仮眠用の寝床にする。ハンモックの吊り具合を確かめていると甲板が急に騒がしくなった。


「グラヴェール艦長」


 慌てて海図室に入ってきたのはジャーヴィスだ。


「どうしたんだ?」


 副長は普段よりもきっちりと軍服を着こんでいた。


「ディアナ・アリスティド公爵令嬢がお着きになりました」


 そう報告したジャーヴィスの肩越しに、白い帽子を被った小柄な女性と侍女が立っているのが見えた。シャインは海図室から出た。


「これは――ディアナ様」


 シャインと目が合った途端、ディアナは銀色の睫毛に縁どられた菫色の瞳を細めてそっと会釈した。


「随分とお早い乗船ですね。確か夕刻とうかがっていましたが」


 ロワールハイネス号は明日の早朝に出港するため、ディアナ公爵令嬢は前日――つまり今日、乗船することになっていた。


 ディアナは銀に近い長い金髪を一つの三つ編みにして、左の肩にその束を流していた。手編みのレースが袖口にふんだんにあしらわれた白いドレスに身を包んだその姿は、冬の空に輝く白銀の月のよう。


 ディアナと会ったのは二年前で、彼女は十七才だった。十代のあどけなさが表情に感じられたその時と比べて今はずっと大人びて見える。


「出港のお邪魔をしては申し訳ないと思いまして、早めに参りました。グラヴェール艦長――いえ、シャイン様」

「ありがとうございます。お気遣いいただきまして申し訳ございません」


 シャインは甲板から突堤に佇む黒塗りの馬車――アリスティド公爵家のそれをみながら、傍らに立つジャーヴィスを呼び寄せた。


「ディアナ様。まずはお部屋へご案内いたします。ご覧の通りとても小さな船ですので、航海中ご不便をおかけいたしますが、ご容赦下さい」


 ディアナは白い頬をかすかに赤く染めて首を小さく横に振った。


「私こそ我儘を申し上げました。ジェミナ・クラスへ行く用事があり、船を探していると叔父に申しましたら、ロワールハイネス号のことを教えてもらったのです。でもまさか……」


 ディアナはシャインの顔を見つめそっと穏やかな菫色の瞳を細めた。


「あなたの船にこれほど早く乗ることができるとは、思ってもみませんでしたわ」


 シャインは黙って頭を下げた。

 表情に出すことはないが、シャインの胸中は正直、いやかなり複雑だ。


 実力を認められてロワールハイネス号の艦長になったのではない。

 いや、この任務を無事に遂げることができれば、胸を張ってそう言う事ができるのだろうが。


 シャインはディアナを伴い、後部甲板まで移動した。昇降口ハッチの階段を下りて、船尾の艦長室へと案内する。艦長室はカーテンで部屋を二つに区切っている。少しでも部屋の狭さを感じさせないよう、シャインは執務机を船から下ろし、応接用の机と長椅子のみにした。


 右舷の窓側にはディアナの侍女が休めるようにハンモックを吊っている。

 反対の左舷側はディアナのための寝室で、吊り寝台と小さな机と椅子を置いている。


 よく考えたらシャインはまだこの寝室で眠ったことがない。

 命名式が済んでから錨鎖の再艤装立会いや不寝番が続き、眠くなったら長椅子で仮眠する毎日だったからだ。


 シャインは密かに安堵した。ほぼ新品なのでディアナに気兼ねなく使ってもらうことができる。


「部屋はご自由にお使いください。戸口に水兵がいますので、何かございましたらそちらにお命じを」


 そうディアナに声をかけて部屋を出ようとした。


「あの。シャイン様」

「はい」


 ディアナに呼び止められシャインは振り返った。


「二年ぶり……ですね」

「あ、はい」


 ディアナが何を言わんとしているのかシャインはすぐに理解できなかった。

 何しろ明日出港である。準備のため段取りを整えておく必要があるし、ロワールハイネス号に破壊工作を考えている輩へその兆候がないか船内を見張らなければならない。これはあくまでも水兵達に気取られることなくだが。


 考えることが沢山ありすぎて、平時のシャインならディアナの再会を喜ぶ気持ちをすぐに察することができたのだが、今はそうではなかった。


「何か……?」


 そう尋ねるとディアナの顔は雲に隠れた月のように暗さを帯びた。

 シャインは自分が何か失敗をやらかしたことに気付いたが、詫びを言う前にディアナの方が口を開いた。


「いえ。なんでもありません。ごめんなさい。もう行って下さい」

「ディアナ様、そうだ、忘れていました」


 シャインは額に手をやりディアナに一礼した。


「今夜夕食を一緒にいかがでしょうか。その時に少しお話できる時間がとれると思います」

「本当ですか?」


 自分の感情を押し殺してしまっていたディアナの顔が喜色に輝く。


「ええ。約束いたします。こちらに料理を運ばせますので、その時に、また」

「ありがとうございます」


 ディアナに会釈してシャインは艦長室の扉を閉めた。

 思わず嘆息する。

 これでまた一つ、懸念材料が増えてしまった。


 処女航海で彼女の身に何かあったら、ロワールハイネス号の艦長を下ろされるだけではすまないだろう。だが黙ってその運命を甘受するつもりはない。


 ジャーヴィスにも言ったが、ロワールハイネス号が海原を駆ける時を彼女が設計図の頃からずっと夢見てきたのだ。

 そのささやかな望みだけは、誰にも邪魔させないしされたくない。




  ◇




「今、船に乗ったひとを知ってるか? クラウス」

「勿論知ってますよ。ディアナ様でしょ?」


 クラウスは航海長シルフィードの隣に移動した。伸ばしっぱなしの黒髪を後ろに一つに纏めたシルフィードが、後部甲板の昇降口ハッチへと消える公爵令嬢の姿を目で追っている。


「俺、初めて見たよ。公女様を」

「僕は二年前、海軍のパーティーでお見かけしましたけどね」


 クラウスがちょっと自慢げに胸を張る。

 シルフィードはそれを小憎たらしげに思ったのか、目を細め、おもむろにクラウスの金髪頭を拳で軽くこづいた。


「痛いじゃないですか!」

「いや、なんとなくだ。気にするな」


 シルフィードがしれっとつぶやく。


「気にするなって……なんか、酷いです!」


 クラウスは涙目になってシルフィードを見上げた。

 十八才のクラウスにとってシルフィードの存在は、ちょっと頼れる兄貴といった感じだ。勿論彼は士官候補生であるクラウスの部下になるのだが、立場的にはすっかり逆転している。


 クラウスはアスラトルで茶の売買を営む裕福な商家の出で、操船技術も知識もぎりぎり士官学校を卒業できたという駆け出しの船乗りだ。


 それに比べてシルフィードは子供の頃からはしけを操り水先案内人として生計を立ててきた。去年まで大型船の航海士として十年勤め上げたベテランだ。


「お前は俺の上官かもしれないが、船の上では俺の方が先輩だ。お前はまだまだ勉強しなければならない身だぜ?」


 これがクラウスに対するシルフィードの態度である。


「あら二人して何してるんだい?」


 砕けた口調でラティがシルフィードとクラウスに近づいてきた。

 肩口で切りそろえた金髪がさらりと揺れて、切れ長の瞳が肉食獣のように光っている。偶然を装って甲板に出てきたという感じがする。


「何って、当直だから甲板にいるだけだけど……あ、ラティ」


 クラウスは思い出した。ジャーヴィスに伝言を受けていたのだ。


「ディアナ様付きの料理人に、厨房を案内してほしいって」


 女の格好をしているからというわけではないが、ラティとティーナは料理担当でその居場所は厨房だった。


「それはお食事は私たちが作らなくていいということね?」

「そう。専属の料理人が随伴されるそうだよ。ディアナ様の食材は食糧庫に運んでいるから、勝手に持ち出ししたら駄目だからね」


 クラウスはあわてて付け加えた。

 ラティが何か想像したのか赤い舌を出して上唇を舐めたからだ。


「うわ~その誘惑にどれだけ抵抗できるかしら。公爵家の食料よ? 配給の薄いワインじゃなくて、高級ワインや上等なお肉、甘~いお菓子……想像しただけで涎が出てきそう」


「だからっ、食糧庫の鍵はジャーヴィス副長が持っているから、勝手に入ることはできないからね!」

「ジャーヴィス副長がなによ」


 ラティはふんと右手で切りそろえた金髪を払った。その横顔は劇場の壁紙に描かれた役者のように整っており美しい。


「あたしは……信じていないんだから」

「信じていないって、何を?」


 太い二の腕を胸の前で組みながらシルフィードが呟いた。


「そりゃもちろん……」


 ラティがシルフィードの隣に体を滑らせ、口を彼の耳元に寄せて小声で囁く。


「ロワールハイネス号に起きた、今までの破壊工作の事よ。あたしには副長の仕業だなんて思えないわ」


 ラティの発言にシルフィードが目を見開く。


「で、でもよ。ジャーヴィス副長が言ったんだぜ? 俺はあの人と何度か同じ船に乗っているから知ってるけどよ。あの人は嘘をつくのが何よりも嫌いでさ。それなのに、時々人を試すようなことをするんだぜ?」


 シルフィードが周囲を気にしながらひそひそ声で答える。


「けど考えてもみなよ、航海長。あたし達水兵がいなくなって一番困るのは誰だい?」

「それは……」


 シルフィードの緑のたれ目がラティを訝しげに見つめる。


「水兵がいなくちゃ出港できなくなるからな。グラヴェール艦長は大いに困っただろうぜ」

「そう。それよ!」


 ラティがシルフィードのがっしりとした肩を右手で叩く。


「副長はきっとグラヴェール艦長のために、あんなでまかせを言って、あたし達を船に呼び戻したんだ」

「なんだって?」

「あんたもそう思うよね、クラウスちゃん?」


 ラティに突然話しかけられ、クラウスは戸惑った。


「えっ、ええっ!? そ、そうなんですか?」

「だって考えてもみなよ。あたしにはあの糞真面目で堅物なジャーヴィス副長が、こそこそと錨鎖を切ったりロープを切ったりするとは思えないんだ。あんなことしなくたって、水兵の能力なんて航海に出たらすぐわかるじゃないか」


 シルフィードがむうと唸った。


「言われてみれば確かに俺もそう思う。クラウス、お前は?」


 クラウスは一生懸命自分でも考えてみた。

 ジャーヴィスは海軍士官学校を首席で卒業し、在籍した二年間のうち、一年十か月もの間その座を誰にも奪われなかったという伝説の持ち主である。だからクラウスも彼の名前を聞いたことがあった。


「確かに副長らしくない行為だとは思いますが……なら、錨鎖やロープに切れ込みを入れたのは一体誰のしわざかってことになりますよね?」

「……」

「急に黙るなよ、ラティ」


 瞳を伏せただじっとシルフィードを見つめるラティ。

 その顔は血の気が失せていて少し怖い。


「そう。問題は結局そこに戻るんだよね~」


 クラウスは急にみぞおちが冷えて重みが増すのを感じた。


「まさか……」


 ラティの水色の瞳が意味ありげに煌めいた。


「もしも本当に処女航海で、船が操船不能になるような事態が起きたらどうする? 艦長の支払ってくれる『特別危険手当』なんかじゃ、命に比べると安すぎるよ?」

「ラティ。あんた、ひょっとして」


 ラティがぶんぶんと首を横に振る。


「あらやだ。脱走は考えてないわよ。憲兵に追いかけられるのはやだし。でも、ちょっと考えていることがあるの」

「考え?」


 ラティは周囲を見渡した。メインマスト中央部付近は人の気配がない。

 ジャーヴィスとシャインはディアナ公爵令嬢への対応で忙しいのか、下の甲板に行ったきりだ。


「それじゃ二人とも、耳を貸してもらおうかしら」


 クラウスはシルフィードと共に、ラティの話に聞き耳を立てた。



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