1-20 譲れないもの
艦長室に戻ったシャインは長椅子に腰を下ろした。
「お茶をお持ちします」
「いやいい。もう大丈夫だ」
厨房に行きかけたジャーヴィスをシャインは呼び止めた。
彼は副長だ。そんな従者のような扱いをするわけにはいかない。
「寒いのでしょう? 体を温めた方がよろしいかと」
シャインは両手をすり合わせていた。手だけではない。ジャーヴィスの言う通り、体中から体温が消えたみたいだった。
「甲板で風に当たりすぎてしまったみたいだ」
ジャーヴィスの眉間の縦ジワが深くなった。
「いろいろ報告することがありますが、まずはお茶を作ってきます」
シャインはジャーヴィスの言う事に従った。
彼の人となりはまだよくわからないが、命名式でシャインが狙撃された時、真っ先に駆け付けたのは彼だったし、副長としての業務も率先して行ってくれている。
シャインは少しでも暖を取ろうと頬に手を当て目を閉じた。
それからしばらくして、ジャーヴィスが艦長室に戻ってきた。
銀の盆に白いティーポットと揃いのティーカップを載せて。
ジャーヴィスは慣れた手つきで温めていたティーカップに黄金色の茶を注いだ。
リンゴを思わせる爽やかな香りが部屋の中に漂っていく。
ジャーヴィスの動作は自然で洗練されていた。船乗りにしては。
ひょっとして彼は自炊をよくするのだろうか。
「どうぞ」
「ああ……ありがとう」
シャインは頷きジャーヴィスの淹れてくれたお茶を口にした。
これはシャインが自分用に持ち込んだ『シルヴァンティー』という紅茶だ。
リンゴの皮と茶葉が程よくブレンドされたお茶で、朝飲めば頭をすっきりさせてくれるし、蜂蜜やスパイスを入れれば体を芯から温めてくれる。
シャインはほっと一息ついた。
「やっと人心地がついたよ。ありがとう」
「いえ……」
シャインはジャーヴィスがまだ対面の椅子の前で立っていることに気付いた。
「座ってくれ」
「はい」
ジャーヴィスが椅子に腰かけた所で、シャインは空になったカップを卓上に置いた。やっと血の気が通ってきた両手をすり合わせてジャーヴィスの顔をうかがう。
「じゃ、お互いに報告会といこう」
「そうですね」
ジャーヴィスが口元を引き締めてうなずいた。
シャインは立ち上がり、執務机まで行くと、時計の鎖に繋いだ鍵を手にして、施錠していた一番下の引き出しを開けた。
そこからしまっていた物を取り出し、ジャーヴィスと対面の長椅子へ腰を下ろした。
「どう思う?」
シャインは机の上に鎖の輪を一つ置いた。大きさは女性の拳ぐらい。
鉄の輪は一直線に切れ目が入っており、何か大きな力がかかったのかその形はいびつに歪んでいる。
「これは……」
ジャーヴィスが喘ぐようにため息をもらした。
シャインは卓上のランプを手元に引き寄せた。
「錨鎖庫の床に落ちていたのを見つけて拾っておいた。ロワールハイネス号の錨鎖はご覧の通り、誰かがヤスリで切れ込みを入れていたせいで外れやすくなっていた」
「きっと投錨の衝撃で切れるように、誰かが細工したんですね」
「ああ」
シャインは静かに頷いた。
「そして曳航用ロープの方はどうだった?」
シャインに促されてジャーヴィスが軍服のポケットを探った。
その手には鋭利な刃物で切った形跡のあるロープの端が握られている。
「一体誰がこんなことを」
ぎりとジャーヴィスが奥歯を噛みしめる音が聞こえた。
冴え冴えとした青い瞳が忌々しげに細められ、ロープを握る手が小刻みに震えている。シャインは嘆息して目を伏せた。
「ジャーヴィス副長、すまない。きっと俺のせいだ」
「艦長」
シャインは自嘲気味に唇を歪めた。
「命名式でも狙撃されたしね。ついでに祝酒のビンも割り損ねた。だから、君達乗組員と船を危険に巻き込んでしまったという認識はある。本当に申し訳なく思う」
シャインはジャーヴィスに頭を下げた。
「艦長、やめて下さい」
ジャーヴィスの声が鋭く響いた。
「あなたへの悪意を持って、この船の乗組員の誰かが破壊工作をしているのは明白です」
「今後の対策はどうしたらいいと思う?」
ジャーヴィスは眉間にしわを寄せため息をついた。
シャインはジャーヴィスの顔が急に浮かない様子なのに気付いた。
「どうしたんだ?」
ジャーヴィスは肩をすくめ、シャインを半ば憐れむように瞳を伏せた。
「今後の対策を話し合う前に――こういってはなんですが、船内が異様に静かだと思いませんか?」
「えっ」
ジャーヴィスに言われてシャインははっとした。
そういわれれば人の気配が全くしない。
まるで命名式の日の夕方に戻ったみたいに。
その原因に気付いてシャインは息を詰めた。
「みんなは――どこへ行ったんだ?」
ジャーヴィスが肩をすくめる。
「積み込み作業に目途がついたので、全員に十五分の休憩を命じました。その後、船倉に再び集合のはずだったのですが誰も戻ってきません。それで大船室の食堂に行ってみたら、卓上にこれが……」
ジャーヴィスは航海服の内ポケットを探り、四つに折り曲げられた紙片を取り出した。
「それは?」
ジャーヴィスは無言でシャインに紙片を手渡した。
表面に黒々としたインクで「転属願い」と書いてある。
「なんて早まったことを」
ジャーヴィスもやるせない表情で眉間を険しくさせている。
シャインは紙片を開いた。そこには連名で十五名の水兵の名前と、士官候補生クラウス、航海長シルフィードの名前も載っていた。
船からの脱走は死罪に当たる。シャインは俯き唇を噛みしめた。
本当に船から無断で(書類は提出されているが海軍省に受理されていない)脱走したら、憲兵が必ずや対象者を逮捕するだろう。
「彼らの居場所に心当たりは?」
シャインはジャーヴィスが一瞬自分から目をそらせたことに気付いていた。
彼は水兵たちの居場所を知っている。
「はい。見当はついています」
少しの沈黙の後、ジャーヴィスは小さく返事をした。
「艦長。本船で起きた錨鎖と曳航用ロープの切断は、誰かが仕組んだ破壊工作だとわかりました。よって迷信のせいではありませんが、この事実を水兵達に伝えた所で、本船は余計危うい状態になると思います」
ジャーヴィスの懸念はよくわかる。
シャインはジャーヴィスに同意見だった。
「そうだね。誰が破壊工作をしたのか。皆が皆、疑心暗鬼に駆られると、パニックが起きて航海どころではなくなる」
「はい。だから――」
ジャーヴィスがいつになく神妙な表情でこちらを見た。
「この際、彼らの転属願いを聞き遂げて下さい」
「何だって?」
「破壊工作をした水兵もろとも、全員本船から下ろすのです。そうすれば今後このようなことは起こらないでしょう」
「それはどうかな」
シャインは長椅子に背中を預けた。肘置きに右腕を載せて頬杖をつく。
「新しい破壊工作員が送り込まれるだけじゃないのか? 俺は艦長として誰を船に乗せるか決める権限はある。だが今回、本船の乗組員を決めたのは俺じゃない」
ジャーヴィスが黙り込む。
シャインは腕を組んでその顔をじっと見つめた。
「ジャーヴィス副長。君は誰に命じられて本船に来たんだ?」
ジャーヴィスの冷ややかな青い瞳が瞬時に大きく見開かれた。
「ひょっとして、私を疑っているのですか!?」
「そうじゃない」
シャインは慌てて手を振った。
「君の経歴書類を見たんだ。海軍士官学校を主席で卒業して、二度人命救助で表彰もされている。そんな優秀な君が何故「使い走り」の副長を打診されたのかが不思議なんだ」
「それは……私だって存じません。人事審査委員会から通達を受けて、ロワールハイネス号に乗ることを命じられただけです」
「断ろうとは思わなかった?」
シャインは静かな口調でジャーヴィスに尋ねた。
「仰る意味がわかりません。我々は組織に属するもの。上官の命令には従うべきでしょう?」
「それはそうだが、俺のような新米艦長の下につくことに不安がないわけじゃないだろう?」
パン! と突然ジャーヴィスが机を平手打ちにした。
シャインはその物音に驚き、口を開いたままジャーヴィスを凝視した。
彼はシャインを睨み付けている。
「自分を卑下する人間は嫌いです。謙遜も過ぎればただの嫌味。あなたがそんないい加減な気持ちで艦長を引き受けたのなら、自信がないのなら本船を潔く去るべきです」
ジャーヴィスはやおら椅子から立ち上がった。
「ジャーヴィス副長!」
ジャーヴィスは踵を返し、艦長室の扉へと歩いていく。
「待ってくれ」
ジャーヴィスの足が扉の前で止まった。
「忘れていました。私も転属願いを提出いたします」
シャインは立ち上がり、ジャーヴィスの所へ駆け寄った。
「君の言う事は尤もだ。そして君が士官としての務めを果たす姿勢を疑問視したことも謝罪する」
ジャーヴィスがちらりとシャインを凝視した。
その口は真一文字に引き締められている。近寄りがたい雰囲気だ。
だが彼まで失うわけにはいかない。
「ジャーヴィス副長。弱気になっていたことは認める。だが俺は決して中途半端な気持ちでロワールハイネス号に来たんじゃない。俺は本当に彼女に乗りたくて――彼女が設計図の頃から今日までずっと夢見ていた。やっと明後日、その願いが叶うんだ! 俺は何があっても、どんな困難が待ち構えていようと、誰にもそれを邪魔させない」
ジャーヴィスは何も言わない。
シャインはその横顔に向かって言葉を続けた。
「だが船は一人では動かせない。それぞれ皆が自分の役割を果たすことで、船は命を与えられ碧海を駆ける。俺はそれを見てみたい。何としてでもだ。だからジャーヴィス副長――」
「わかっています」
ジャーヴィスの声が低く部屋に響いた。
「あなたの本船にかける気持ちは……わかっています」
「ジャーヴィス副長」
ジャーヴィスはこほんと小さく咳払いしてシャインの方へ振り向いた。
そこには穏やかに光る双眸があった。
「自分の船の建造に参加する艦長というのは初めて見ました。おそらく今後もいないでしょう。だからこそ、私はあなたを認めようと思ったのです。その熱意故に。あなたは、このロワールハイネス号を誰よりも知っている。誰よりも愛している」
「ジャーヴィス副長」
シャインはゆっくりとうなずいた。
「その通りだ。だから、俺に力を貸してくれないか。本船には君が必要なんだ」
「私だけではないでしょう?」
ジャーヴィスの口調は普段のそれに戻っていた。
シャインは口元に笑みを浮かべた。
「もちろん。だから君に頼みたい。ロワールハイネス号の水兵達はどこに行ったか教えてくれ。本船に留まるよう説得する」
「あなたが説得するんですか? それは返って逆効果になるでしょう」
「どうしてだ?」
ジャーヴィスは悲しげに首を振った。
「本船に起きたトラブルが迷信であれ、誰かの破壊工作であれ、原因は『あなた』であることに変わりはない」
シャインは眉間をしかめた。
「君の核心を突く的確な発言に、きめた覚悟が揺らぐのを感じる」
「じゃあ船を降りますか? 皆喜んで戻ってきますよ」
ジャーヴィスは涼しい表情で答えた。
「ジャーヴィス副長。まだ怒っているのなら謝る。何度でも謝るから、そんな言い方をしないでくれ」
シャインはおもむろに頭を下げた。
「グラヴェール艦長。わかりました。もう、怒っていません」
ジャーヴィスに促されシャインは顔を上げた。
副長は腕を組み嘆息した。
「水兵達の説得は私がやってみます。でも……駄目かもしれません。その時は彼らから預かった転属願いを海軍本部に提出していただけますか?」
シャインは即答しなかった。
ジャーヴィスが水兵達の説得に失敗するということは、出港の中止を意味する。
元々ジェミナ・クラス港まで五日間で行ける航海ではない。水兵を新たに補充し一日遅れで出帆しても、結果は出港の中止と変わらない。
返事の代わりにシャインはジャーヴィスの左肩に右手を置いた。
正面から彼の青い瞳を見据える。
「駄目、ではなくやるんだ。ジャーヴィス副長。君の説得に……本船の運命がかかっている」
視線を返すジャーヴィスが仕方なさそうに唇を歪めた。
「大げさですね。まるで出港が遅れたらそれだけで任務失敗みたいな」
シャインは息が止まりそうになった。
けれどその動揺は両手を握りしめることで何とか回避する。
「ああそうだ! 命令書の内容を伝えておく。出港の遅れは紛れもなく非礼にあたるからね」
「どういうことですか?」
「本船はディアナ・アリスティド公爵令嬢を乗せて、ジェミナ・クラス港までお連れする大役を任じられた。俺が焦る理由もこれで納得がいくだろう?」
「――ディアナ姫をですか……確かに……」
ジャーヴィスが再び眉間をしかめ頷いた。
「そういうことだ。だから君の説得にすべてがかかっている」
ジャーヴィスがすっと背筋を正した。
「わかりました。それならば出港を遅らせるわけには参りません。首に縄をかけて、泣き叫んでも簀巻きにして全員本船へ連れ帰ります」
ジャーヴィスなら本当にやりかねないな。
今の彼には言葉通りのやる気が感じられる。
「そうだ。ジャーヴィス副長」
「なんでしょうか」
「水兵達の説得に経費が掛かる場合は俺が全額負担する。必要なら、全員に「特別危険手当」を支給する」
「特別危険手当――?」
ジャーヴィスの表情がにわかに曇る。
これはまずい傾向だ。ジャーヴィスの潔癖な性分は分かっているが。
「処女航海には危険がつきまとう。俺への悪意のため、船内で破壊工作を企てている者がいる。その人間を見つけ出さなければならないが、万一皆の身に何かあった時は俺に保障させてくれ。何も起こらなくても、一人につき1万リュールを支給する。ジェミナ・クラス港に無事についたらその場で支払う。契約書を人数分作るからその旨も伝えてくれ」
「あの……グラヴェール艦長」
「なんだい?」
シャインは内心どきどきしていた。
説得が失敗しないようにお金という保険をかけようとしている、自分の考えにジャーヴィスが賛成してくれるだろうかと。
ジャーヴィスは右手を腰に当てて呆れたようにシャインの顔を見ていた。
シャインの思惑はどうやら彼に看破されていたようだ。
「特別危険手当ですが……士官も対象でしょうか?」
シャインは頷いた。胸にじわりと安堵感が広がっていく。
「ああ。もちろんだ」
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