1-3 精霊の少女


 ◇◇◇



「大丈夫?」


 この場に似つかわしくない澄んだ少女の声がシャインの耳元で囁いた。

 朧げな意識の中、シャインは重く感じる瞼を開いた。


「しっかりして」


 どうやら少し気を失っていたようだ。

 誰かが自分の顔を覗き込んでいる。シャインは声が聞こえた方へ首を動かした。


「……君……は」


 緩やかにうねる長い紅髪をふわりと揺らし、透き通った水色アクアマリンの瞳がシャインの顔を心配そうに覗き込んでいた。


 年の頃は十七、八才ぐらいの少女。

 シャインは我に返った。

 『彼女』だ。


 日没前、船首で佇んでいたのを見た姿はうっすらとした光を身に纏い、淡く儚げな印象だったが、自分の顔を覗き込む彼女は、生きている人間と同じようにくっきりと見える。


「私が傷口を縛るわ。それを渡して」

「あ、ああ……」


 シャインが襟飾りを少女の方へ渡した時、彼女の手がそっと指に触れた。


『ありがとう。船鐘シップベルを守ってくれて』


 脳裏に彼女の柔らかい声が響いた。

 まぎれもなく、シャインに呼びかけてきた声と同じ少女の声だ。

 それに気付くと少女がこくりとうなずいた。


「そう。私があなたに話しかけたの」

「君は――『船の精霊レイディ』なのか?」

「船のレイディ……?」


 少女は一瞬戸惑ったように目を細めた。

 何かを思い出したのか、シャインから視線を逸らし俯く。


「あ、いや、ごめん。変なことを言ってすまない。日没前に船首で見かけた君が、まるで精霊レイディみたいに見えたから……それに」


 シャインは右手を伸ばして船鐘シップベルを自分の方へ引き寄せた。


「言い伝えだと、船の魂である『船の精霊レイディ』は、船鐘シップベルに宿るそうだから、勝手に俺がそう思い込んだ」


「いいえ。その通りよ。私は『船の精霊レイディ』」


 揺るぎない強い瞳で少女はシャインを見つめた。


「私のことは『レイディ』と呼んで」

「……本当に?」

「ええ、そうよ」

「わかった」


 彼女――レイディの澄み切った水色の瞳から、シャインは目を逸らすことができなかった。その瞳を覗き込むと、まるで自分の心と彼女の心が繋がったように感じられたからだ。その感覚に戸惑いつつシャインは口を開いた。


「俺の名前は」

「知っているわ。シャイン・グラヴェール」

「どうして俺の名を?」

「皆からそう呼ばれていたのをから」


 ああそうか、とシャインは思った。

 やはり彼女はこのアイル号の『船の精霊レイディ』なのだ。


「くっ」


 左肩に回した襟飾りを少女――レイディが結んでいる。


「ごめんなさい。痛かった?」

「大丈夫だ。ありがとう」


 息を吐きシャインはレイディに微笑した。

 彼女は眉根を寄せ不安げな顔をしていたが、シャインの笑顔に安心したのだろう。

 緊張を緩め笑い返してきた。

 彼女がいるせいなのか、不思議と心が落ち着くのを感じた。

 冷静さを取り戻したシャインは、ようやく周囲を見渡した。


「おかしい」

「どうしたの?」

「いや。この船鐘シップベルを狙っている奴らがいるはずなんだが、まだ甲板に上がってこない」

「心配する必要はないわ。彼らはもう死んでいるもの」

「なんだって?」


 シャインの隣に膝を抱え座ったレイディが、小さくため息をついて呟いた。


「あなたを撃ったあの男が殺したの。シャインが艦長室から出た直後に、入れ替わりであの男がやってきて彼らを殺した」


 レイディの瞳の中には、悲しみと僅かな怒りが込められていた。


「レイディ、君は彼らが何者か知っているのか?」


 赤い髪がさざ波のようにゆっくりと揺れた。


「ごめんなさい。私もよくわからないわ。でも安心して。もう彼らは立ち去ったから」


 立ち去った?


 シャインはメインマスト中央部に右手を伸ばし、ゆっくりと立ち上がると、夜の闇で黒々とした海面を見つめた。少し前までアイル号を砲撃した武装船が炎上していたが、今はその影すら見えない。


「あの船は三十分前に沈んだわ。火薬庫に火がついて、そこに開いた穴から海水が一気に入り込んだから。もう一隻の縦帆船スクーナーはとっくの昔にここを立ち去った」

「……」


 シャインはよろめきながらメインマスト中央部から離れた。

 武装船が沈んだことで思い出したのだ。


「レイディ、君は大丈夫か?」

「えっ」

「アイル号は砲撃を受けたんだ。メインマストの帆桁ヤードが吹っ飛んでるし、船体にも穴が開いているはずだ」


 そう思う根拠はある。

 アイル号が右舷側に少し傾いている。波のうねりのせいではない。


「大丈夫よ。この船はまだ沈まないわ。いえ――沈ませない」


 儚げな印象の彼女が、力強くそう答えた。

 ふわりと白い花びらのようなドレスを揺らし、シャインの隣へ歩いてくる。


「シャイン。これからどうするの?」


 どうすると聞かれても――。

 シャインは荒い呼吸をしながら足を動かした。

 重い海風に乗って、ヘルム副長の呻き声が船尾甲板の方から聞こえたような気がしたのだ。


 船尾甲板に行くたった五段の階段を上るのが永遠のように思われた。

 手すりに身を預け顔を上げると、舵輪の手前で仰向けに倒れているヘルム副長の姿が見えた。


「生きているわ。でも……」


 レイディが口籠ったそのわけはすぐにわかった。

 メインマストの帆を張るための長い帆桁ヤードが、砲撃を受けて索が切れ、彼の両足の上に落ちていたからだ。


「ヘルム副長、しっかりして下さい」


 シャインは彼の傍らに膝を付き呼びかけた。


「その声は――グラヴェール、か」


 ヘルムの顔は血の気がなく蒼白だったが、顔を覗き込むシャインのことはわかったらしい。


「そうです」

「くそっ――私は見ての通りだ――ううっ」

「副長。すみません」


 シャインは膝をついたままうなだれた。

 ヘルムの足を押しつぶしている帆桁ヤードは長くて重量があり、肩の負傷がなくてもシャイン一人の力ではどうすることもできない。


「私がやってみるわ」

「レイディ?」

「多分、動かす事ができると思うの」


 レイディの言う意味がよくわからない。

 だが彼女はヘルム副長の両足の上に落ちた帆桁ヤードに近づくと、両手を広げて目を閉じた。彼女の足がふわりと床から宙に浮いた。


「すごい……」


 レイディの体の縁をなぞるように青白い微光が取り巻いていく。

 と、帆桁の円材が少しずつ上へと動き出した。それは両手を前に伸ばし、掌を下に向けた彼女に吸い付くように浮いていく。

 レイディも円材が上昇するにつれて、自分もさらに上へと上がっていく。


 ヘルム副長の足の上から円材が宙に浮いたところで、レイディは掌をさっと海の方へと向けた。ぶうんと風を切る音がして、円材は大きな水しぶきを上げながら船外へ落ちた。


「君は……本当に、この船の精霊レイディなんだ……」


 感嘆の声を思わずシャインは上げた。

 鮮やかな赤髪を揺らしてレイディが振り返る。


 シャインは呻き声すら上げなくなったヘルム副長に気付き、慌てて右手を彼の首筋に当てた。弱いが脈はある。どうやら傷のショックで気を失ったのだろう。

 だがこのまま海を漂流すれば、ヘルム副長は元より自分も死ぬ。


「港へ――母港アスラトルへ……帰らなければ……」


 少しでも帆に風を受けるため、船の向きを変えなくてはならない。

 舵輪まで歩いてその柄を掴んだ時だった。


「シャイン、待って」


 シャインの隣にレイディがふわりと飛んできた。


が船を動かすわ」

「えっ?」


 彼女を信じないわけではない。

 彼女はまぎれもなくアイル号の船の精霊レイディだろう。


「大丈夫。あなたが行きたいと思う場所に私が船を動かすわ。手を出してシャイン」


 シャインは舵輪から手を離し、黙って右手をレイディに伸ばした。

 華奢な指がシャインの掌を包み込む。


母港アスラトルまでの帰り方を、方角を、頭の中でイメージするだけでいいの。後は私がやるから」

「……わかった」


 シャインは目を閉じた。

 アスラトルを出港したのは僅か三日前だ。

 しかもずっと南西風を受けて北東寄りで来たので、帰りはその逆に進めばいい。


「私に風は。アスラトルまでのを示して!」


 レイディの手が熱い。

 まるで彼女に自分の体温をすべて奪われているみたいだ。

 悪寒がシャインを襲った。歯がかちかちと鳴った。


「最短航路は……まず西へ……エルシーア大陸が見えたら……南に転針して陸沿いに進む……エルドロイン河の河口が見えたら港はすぐだ……」


 そうレイディに言ったのは覚えている。

 だが闇の海がシャインの目前に迫り、あっという間に意識が暗闇の波へと攫われていった。

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